2004,6,14から             

Welcome Sunday  休会のお知らせ

Welcome Sunday は常盤台バプテスト教会
毎月一回 日曜日の午後にもたれる分かち合いの会です

ただいま休会中

長い間親しんでいただいた Welcome Sunday
しばらく休会することになりました。
ご参加くださった方々、お祈りしてくださった方々、支えてくださった方々
心より御礼申し上げます。




Welcome Sunday の主旨
教会に最近いらした方々、バプテスマ(浸礼・洗礼)を受けて間もない方々
キリスト教や聖書・クリスチャン等についてもっと知りたい
世代をこえて交わりたい
このような方々が様々なことを自由に話し合う会です

[教会員の証し][日本文学とキリスト教][映画会]などを織り混ぜたプログラムです
新来者・求道者をとくに歓迎しています




これまでのWelcome Sunday の歩みと報告(クリックしてね)

2011年からの報告

2011年1月(文学とキリスト教・湯浅半月)  2月27日(証し)H.K.さん(パウロの足跡をたどる旅行に参加して)  
3月27日(証し)HKさん【私はどうして基督教徒になったか】  8月21日(証し)原爆と原発   11月20日(証し)MKさん(青年会)
12月4日合同クリスマス会   2012年2月19日(証し)KNさん(壮年会)  2012年3月11日(証し)SOさん(壮年会)




2012年3月11日のWelcome Sunday
証し【不良少年から立ち直って】S.O.さん(壮年会)


イエスは再び言われた。
「わたしは世の光である。
わたしに従う者は暗闇の光の中を歩かず、命の光を持つ。」
ヨハネによる福音書8章12節
 
今日は3月11日……
人間が努力をしても限界があり、自然の力に立ち向かう事など難しく、神の存在を強く感じた日からちょうど1年になります。
震災の時に感じた事を証させて頂こうかとも思いましたが、ちょっと難しかったので別の証とさせて頂きました。
 
 今回、証をさせて頂く事となり、何を話したら良いのか考えてしまいました。
 なぜなら日々の生活の中でイエス様が共に歩いていて下さる事を感じることが多いですが、「これだ!」という大きな奇跡のような体験は残念ながら殆ど無いからです。
 日常の中でごく普通に居て下さる主に感謝しております。
 しかしこれでは証と言えないので、改めて自分自身の過去を振り返ってみました。
 
 自分がバプテスマを受けたのは1990年のイースター、K教会で受けました。
 当時この教会は会員数が約30人の小さな家庭的な教会でした。
 ある事件をきっかけに牧師が変わり、新しく来て下さった牧師の信仰について行けず、M教会へ転会。
 その後 I 教会へ移り、昨年こちらの教会へ転会してまいりました。
 ご存じの方も多いと思いますが、牧師が変わる事で信仰の方向性が大きく変わる事が多々あります。
 
 バプテスマを受けるまでの自分は神様を無視した生活……
 いや、神様を自分の願いを叶えてくれる便利な存在とする生活だったように感じます。
 小学校を卒業するまでは比較的順調に過ごしていたように思います。
 しかし中学に入ってからはそれが一変しました。
 中学では学区域の外れに住んでいた自分は小学校の友人も殆ど別の中学に行き、友達作りを一から始めなくてはなりませんでした。
 そんな状況のなかで様々な理由があったのだと思いますがイジメの対象となってしまい自分を守る手段を考えた事を覚えています。
 その手段は……
 信仰を持っている状況なら考えない事です。
 「不良になる」という短絡的なものでした。
 
 不良といっても運動神経や腕力にまったく自信が無いので、数人の仲間を従え集団で恐喝や万引きをやったり、盗んだ原付を乗り回すという悪さを行うたちの悪い不良でした。
 中学時代何度か停学処分を受け、警察のお世話にもなり、当時池袋にあった家庭裁判所に送られ「次は少年院」と言われた事もありました。
 「少年院に行かずに済むように……」等と自分の都合を天の神様に願った事もありましたが、自分自身の行動が変わる事はありませんでした。
 ここでなぜ神様だったかというと、幼少期に母親が歌手をやっていた関係で、時間外保育をやっているキリスト教系の保育園に預けられていたらしく、そこで「願い事は天の神様に……」と覚えたようです。ここでの記憶は天井の高い木の部屋に十字架があり、歌を歌ったりお姉さん達が本を読んでくれた事は覚えていますが、内容的な事で覚えているのは食事の時の祈り方くらいだと思います。
 
 中学を卒業後、高校に入り、「リセット出来る」という考えは数日でむなしく終わり、入学式の翌日に寄りかかった窓を割ってしまった事で職員室に呼ばれ、担任から「ここではおとなしくしてくれ」と言われ、別の中学出身の一人が自分の中学時代の事を知っていたらしく「悪」というレッテルはしっかり高校にも伝わり「あいつには近寄らない方が良い」と言われ、授業にも出ずフラフラとする日々もありました。
 当然のように出席が足りず単位不足で卒業出来ず一年留年する事になりました。
 
 この頃には自分勝手な願いを叶えてくれない神様の事は忘れていましたが、
イエス様はちゃんと覚えていてくれたようです。
 留年したクラスで仲の良い友人が出来、卒業後も日常的に会っていました。
 自分は就職しましたが、この友人は予備校に通い、彼はそこでクリスチャンの女性とつきあっていたのです。
 彼らに誘われ半年以上拒みましたが一回くらい付き合ってやるか……と日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教会に足を運びました。
 その教会の牧師から一冊の聖書を渡され「ヨハネによる福音書」から読むように言われ、何となく読んでいくうちに先程の箇所に辿り着きました。
 
 「わたしに従う者……」
 
 神や仏を「自分の願いを叶えてくれるアラジンの魔法のランプ」のように考えていた自分には衝撃でした。
 従わずに歩いていたから暗闇だったのか……と感じ、従って歩く事を決めバプテスマを決意したのでした。
 
 その後は順調に信仰生活を送ったと言いたいのですが、生活の変化を機に一度は信仰を捨てる事を決意し別のものを信じようと努力した日もありました。
 そこは人間によって、人間の思いで作られた世界でした。
 そこの集会に出ている時、心の中で「神様 ここから助け出してください。
あなたを裏切ろうとした事をお許し下さい」と祈った事もありました。
 イエス様はつなぎとめていて下さり現在に至っています。
 
 この経験からかも知れませんが日本人の宗教観は無宗教どころか「困った時の神頼み」という言葉からもわかるように自分勝手に生きていて自分の力では解決出来ない事柄に対して祈り、叶えてもらうという、人間にとって都合の良い存在にしているのではないかと思うようになりました。
 従うべき存在を教えてくれ、幼少期にイエス様と出会っていたのにも関わらず無視していた自分を見捨てずに、時を待っていて下さった主に感謝したいと思います。
 
【祈り】
主イエスキリストの父なる神様。
御名を誉め称えます。
 
 今日この場で自分の経験をもとに、あなたについて話すことが出来ました。
 一人一人にそれぞれ違った形ではたらいて下さる事を感謝いたします。
 私達は物事を白や黒、明や暗で判断する事が多々あります。
 その様な暗闇の中で、本当の光を示して下さり、従うべき物をハッキリとあらわして下さっている事、感謝致します。
 あなたが常に共に居て下さり光の中を歩ませて下さる事を感じ、日々の生活をしております。
どうかこれからも、あなたの存在を感じ、従い、暗闇の中を歩まずにすみますようお守りください。
 
 東日本大震災からちょうど一年。
 いまだに復興も進まず不自由な生活を強いられている方々を覚えます。
 そのような暗闇の中で、一人でも多くの方にあなたの光を届けるため、光を持つ我々があなたの福音を正しく伝える事が出来るようにお導き下さい。
 この祈り、主イエスキリストの御名を通し御前にお捧げ致します。
                            アーメン
【分かち合い】
・不良の道から不思議な形で救い出してくださる神さまの働きを感じました。
・また、別の物を信じようとする道からも免れていることにも感心しました。
・3月11日ということで教会では追悼の鐘を鳴らし、みなさんで祈りました。

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2012年2月19日 Welcome Sunday の報告
証し【東日本大震災を乗り越えて】K.N.さん(壮年会)


    

本日は貴重なお時間を頂き誠に有り難う御座います。またSさんや常盤台教会員の方々に先日気仙沼にということでご支援頂いたことに対し深く感謝します。
 
さて、あの忌まわしい東日本大震災からもう早いもので1年になろうとしております。
この1年を振り返ると被災地の有り様等々3月11日以降色々な事が走馬燈に映し出された絵のように浮かんでは消えてというようにまるで昨日の出来事のように思い出されます。
 
あの日私は職場の6階で東京震度5強という揺れに襲われました。まるで大波に浮かぶ小舟に乗っているような長く激しい横揺れでした。もう立っているのがやっとというのでしょうか。正直もうダメかとも思いました。この建物は40年以上経ていることであのニュージーランド地震のことが頭に浮かび、このまま崩落するのかと強い恐怖に襲われたことを今でも記憶しております。長い横揺れも治まり各病室の患者さんに大丈夫ですかと声を掛け回り、そこで病室のテレビに映し出されていたものは私の郷里、否、関東から東北以北にかけて大津波警報が発令されていました。
 
画面を横目で観て今度は1960年に発生したチリ地震大津波のことが頭に浮かびました。私が小学校3年の時の出来事です。日本の反対側で起きたあの忌まわしい津波は22時間半という時間をかけて私の郷里に来襲しました。その結果、三陸沿岸において人的被害として142名の死者を出しました。幸い私の家族もいち早く高台に避難することが出来ましたが、床上まで海水で浸水したことを記憶しております。死者の数で解釈することは出来ないのですが、このときは地球の反対側で起きたということもあり、地震発生から津波が襲来するまでの時間的な余裕があったことでほとんどの市民は過去からの経験もあって避難、そして津波に対処することが出来ました。
 
あれから50年以上も経っているというのに、高台の避難所から気仙沼港に押し寄せてくる黒い津波を今でも記憶しております。あれから51年、またこのような忌まわしい出来事が起きるとは、夢であって欲しいと何度も思いました。
 
それから職場においてはあれほど大きな揺れにもかかわらず病院の煙突が屋上に崩落したことだけで、人的および物的な大きな被害はありませんでした。職場のテレビにて三陸沿岸そして気仙沼港に押し寄せる津波の映像を見て、これはもうチリ地震津波の比ではないなあと直感しました。それから石油コンビナートの貯蔵タンクがまるでダンボールで出来た容器のごとく流され、そして流れ出した重油に引火して気仙沼港のおよそ半分が火の海となりました。燃える大型漁船、そしてその火は遠慮することなく町へと延焼していく有り様を観て、もうダメだと感じました。
何度も携帯からまた固定電話から実家へプッシュしても繋がることはありませんでした。帰宅においても交通は全てストップして、川越街道を歩いて何とか帰宅することが出来ました。帰宅の足を奪われた人達で全ての道はまるで何か集団でオリエンテーリングでもしているかのように、人人で歩くのもままならない光景でした。帰宅後も郷里に何とか安否情報だけでもと色々と試みましたが全く情報を得ることは出来ませんでした。これだけハイテクが進み情報化社会であるのに「何故」というのが実感でした。
 
それから数日が経ってからでしょうか。日本テレビのミヤネ屋という番組で被災者がテレビで安否を伝えている中で、私の兄夫婦が無事で居ることが判明しました。着の身着のままで市役所の一時避難所に居るということでした。しかしながらその時は97歳になる老いた母親の詳しい安否は分かりませんでした。
それから数日が経ち、やっと母親が無事で居る情報を得ることが出来ました。内陸部の介護老人施設に居るはずが、やはり津波が押し寄せ入居者100名、デイサービス利用者33名が当時いたなかで、半分の50名以上が津波で亡くなりました。その中に私の母親も居りました。2階で生活していたにも関わらず容赦なく津波は押し寄せましたが、奇跡的に助かることが出来ました。冷たい海水に首まで浸かるなかで、救助に来た自衛隊のヘリに救助されたとのことでした。しかしながら低体温症に陥り一時病院に搬送されるも、強い生命力というのでしょうか? 回復し中学校の体育館に移送されたとのことでした。
 
私の病院においても震災5日後に独自の医療支援チームを被災地に派遣する話が起きて、私の部署でも希望者を募りました。その時は何処へ行くかも決まっておらず、福島から岩手までと全く派遣地は分かりませんでした。原子炉事故の福島との話も錯綜しておりましたが、こんな時こそ若い者より被曝の危険があっても影響のリスクが小さい自分が行った方が良いと決断しチームに加わることにしました。それからまもなくして救命センター長より、派遣地として気仙沼へ行くことが決定したので準備するようとの指示がありました。しかしながら全てスタンバイしていたとき、独自のチームとしては今回は派遣しないとのことでした。東京都の医療派遣団として加わることになり薬剤師はその中に入っていないとのことでした。1日も早く現地に行きたいという思いが一瞬にして消え失せました。失望というかまたしても「何故」という言葉でした。
 
それから数ヶ月が過ぎ、実際に気仙沼に行くことが出来たのはやっと東北新幹線や高速道の一般の交通が許可されて5月に入ってからでした。知人の自家用車で深夜に被災地に向かい翌朝4時半頃に到着し、沿岸部および市内の有り様を観るに付けて言葉を失いました。自然に涙が止まらなくなりました。やっと来られたとの思いとまるでこの世のものとは思えない変わり果てた郷里の風景に言葉が出ませんでした。
また「何故」との言葉でした。テレビの映像や新聞での写真では観て理解していたものの、この目で現状を見てそして何とも言えない臭いが漂う空気に触れて、どのように表現して良いのか分かりませんでした。目を覆うばかりの光景が延々と続く街並み、築70年を経た私の生家もかろうじて建っているものの津波でぐじゃぐじゃの破壊された状態でした。まあ周りの家々がほとんど跡形もない状態であるのによく頑張ったなあと思い涙が止まらなくなりました。
 
戦争という人間同士が行う愚かな行いでもこれほどの破壊をもたらすことは、原子力という神の火での破壊以外はないだろうと感じました。この時私の脳裏に、神は一体どうされたのだろうとの深い失望でした。人をそしてそのほかの動物を死に至らしめ、そして人間や動物が血と汗で一生懸命に造りたもうた家や財産を一瞬にして奪い去り、そして原子炉事故という目に見えない恐怖を私達人間また自然界の生きうる者全てが背負って行かなければならない事象に向かい遭うことになっております。
あれから何度か現地に足を運び、微力ではありますが自分で出来ることを実践しております。出来ることなら毎週でも被災地に行き力になってあげたいと考えるも、実際にはなかなか後ろから背中を押してくれるような現実ではないようです。
 
現地に行き感じたことは、昨年の夏頃までは自衛隊の方々の大いなる力には本当に敬服しました。被災者への炊き出しの光景を実際に見て、彼らは寒くても暑くても屋外のテントでの生活等々本当に大変だったろうと感じました。また全国から来られるボランティアの有志達の力にも敬服しました。瓦礫の撤去や重油混じりの泥のかき出しを行う様を観るに付け有り難いとの思いでした。また兄夫婦から聞いた話ですが、気仙沼湾の大火災においていち早く駆けつけて消火にあたった東京消防庁の面々には言葉で表すことが出来ないほどのありがたさを感じているそうです。そしてまた全国から派遣された警察の方達にも治安維持という観点から感謝いたします。そしてもう一つの力は芸能人の力です。色々な方面:音楽、お笑い、演劇等々の著名人の方々の力も大きいなあと感じました。そんな力が一つのとなり復興に向けての大きな励みとなっているものと考えます。
 
しかしながらあれから日が経つに連れ、被災地に来られるボランティアの方々も次第に少なくなり必要な支援物資等の調達が難しくなっているのが現状のようです。被災地は復興へ向けて動いていることは間違いないのですが、被災者一人一人の生活は体育館や一時避難所から手狭な仮設住宅に移っただけでまだまだ色々な問題が残されております。被災者出身の一人としてこれからも微力ながら支援していきたいと考えております。もう一度あの美しい活気のある気仙沼そして三陸沿岸を多くの人達に観て貰いたいと思います。もう一つの力を忘れていました。それは今回の震災にてともだちオペレーションという名のもとにいち早く支援してくれた米軍の力も忘れてはいけないことと思います。それ以外にも各国からの援助隊の面々
 
最後にもう一度神を信じ、祈りを捧げたいと思います。
私の好きな一節です。

【神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられない試練に遭わせることはなさいません。
 むしろ耐えられるように、試練と共に脱出の道をも備えてくださいます。】
                                                        
新約聖書 コリント信徒への手紙一 10章13節

2月18日現在  死者15,850人  行方不明3,287人
    気仙沼      死者 1,031人  行方不明 327人
 
【分かち合い】
・Nさんの持参された気仙沼の災害を記録したビデオを、いっしょに見ました。
・Nさんのお話のあと、みなさんと地震や原発の事故について話し合いをしました。
・困難にめけずに復興を目指す方々や、助けてくださる方々に感謝を捧げました。
・神さまに、これからも救いの手をさしのべてくださるようにみなさんと祈りました。
・Nさんも久しぶりに教会に来て、みなさんとお話しできたとおっしゃっていました。
・おかげさまでみなさんの募金も集まり、被災地にお送りすることができました。
・さらに募金をご希望の方がいらしたら、Sさんまでお届けください。
 
教会でも引き続き支援のための募金・献金を受けております。ご協力よろしくお願いいたします。

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2011年12月4日 クリスマス会の報告
2011年最後のウェルカム・サンデーは上板橋北地区と中台地区との合同でクリスマス会をしました。
写真でご報告いたしましょう。会場は教育館(幼稚園)です。


 
Kさんの証し
Kさんは東日本大震災の後、教会からのボランティア活動に何度も参加され、
その体験をお話して下さいました。

恒例となったクリスマスミニコンサートは
 ホルン奏者 竹内修さん をお迎えしました。
       
Kさんのユーフォ、Oさんのピアノと竹内さんで華々しく開幕。    協力牧師渡部先生のピアノソロ。
パーセル作曲 トランペットチューン               ショパン作曲 ノクターン 他


ホルン奏者 竹内修氏
プロの演奏家なのにこんな小さな会で演奏してくださって感謝です。
親しみやすいクリスマスソングメドレーやシューベルトのアヴェマリアなど数曲演奏してくださいました。


     
Yさんによる「ケセン語聖書」の朗読          恒例のクリスマス川柳大会・発表


今年のグランプリ獲得はこんな可愛い少女でした。おめでとう!

クリスマス会の川柳

〜 ホルン合奏に寄せて

聖夜に似て 心やすらぐ ホルンの音
アヴェマリア 心にしみる ホルンの音
ホルン聞き 心も丸く 人想う
トナカイと ホルンの合奏 サンタさん
クリスマス 金管楽器 高らかに!
クリスマス 天使のラッパ 教会に
復活の勝利のラッパ かくならむ
ベルの音が ラッパに変わったクリスマス
ホルンニュー 松の心にひびくクリスマス


〜 世相を想い

期待する 災害のない来る年を
クリスマス 気仙語のなまりもあたたかく
商いのためにお祭り クリスマス
おもちゃ売りは にわかに活気づくクリスマス
このときは ちまたも祝う クリスマス
クリスチャン 人口わずか でも宣教
くりすます ともだちさそう ちゃんすだよ


〜 そしてイエスさまに

聖夜の意 まさかおのれの為にとは
御心の 真似を一つも出来ぬのに
あたたかい クリスマスのひ 心にも
イエス様 来られありがとう かんしゃいたします


お気に召した川柳がありましたでしょうか。
2012年が皆さまにとって佳いお年となりますようお祈りいたします。



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2011年11月20日のWelcome Sunday
証し:MKさん(青年会)
【バプテスマまでのこと】


私は三年ほど前、いろいろな理由から仕事に通えなくなり実家へもどりました。ひとまず体調や精神状態を整えなくてはと休養しはじめて数カ月たったところで、さらにネットストーカー被害に遭ってしまい、精神的にかなり苦しい状態になりました。家のPCをつけてネットを見ると、盗聴しているかのようなことを書かれていて家にいられないと感じ、昨年6月に母のすすめで祖母の家へ住むことになりました。先に結論から言ってしまうと、今もネットストーカーのつきまといは続いているようです。しかし何を書かれても気にならなくなりました。深刻な実害があった場合はすぐにしかるべきところへ相談に行くべきですが、そうでなかったら気にしないことが一番よいとわかったからです。

 

それを気づかせてくれたのは、家族と教会の皆さんによるところが大きいと思います。

教会には、好奇の目であれこれ聞いてきたり、勝手に決め付けるような態度をとってくる人がいませんでした。また、これはダメそれも良くないというアプローチでなく、ただ笑顔で明るく接してくださったことをよく覚えています。母や祖母が、みなさんに私の状態を打ち明け、みなさんが祈ってくださっていたからだということはごく最近になって知りました。心から感謝の気持ちです。それと同時に「祈りのもつ力」を心から確信しました。自分自身が、心身ともに前よりずっと強くなったと実感しているからです。

 

元気になってからも教会へ継続して通っていた理由は、教会生活を続けるうちに、自分が何をしたいのか気づくかもしれないと思ったためです。物ごころついた頃から私には「したいこと」が特にありませんでした。せいぜい雑貨や洋服がほしいから仕事して貯金する、という短期的な目標くらいで、大学の志望校さえ決めるのが面倒で、母に決めてもらったくらい主義主張に欠けていました。それでは社会に出て大変だろうと思われそうですが、幸か不幸か「派遣社員」という時間でスキルを切り売りする働き方が主張のない私には合っていたようで、とくに不自由は感じていませんでした。しかし生活の不自由と心の不自由はまったく別のもので、ずっと「こんなにやりたいことがないままで可もなく不可もなく生きていて、いつか後悔するのだろうな」という漠然とした感覚に包まれていました。

そんな私には教会生活を通して見つかったことは沢山あります。

まず「それなりに健康に産んでもらい時間もあるのだから、人の為になにかしたいとは思うけれど、信用できると言いきれる組織はこの時代存在しないからボランティアは行けないのだ」と長年思いつづけていたのがあっさりと解決しました。母も祖母も通っている教会からの派遣ならば気持の上ですべておまかせして奉仕だけに専念できると感じたし、実際にその通りになりました。個人的には何百回も堂々巡りになっていたことで、しかも数少ない本当に自分のしたかったことで、それを実現できたことは私のような性格の人間にはまさに奇跡、聖霊の働きでした。教会でそんな希望をだしたって信用して許可してはもらえないかもしれない、奉仕が至らなかったり事故を起こしたらどうしよう、思いがけないことで誰かに責められるかもなぁとあれこれ抱えていた不安も、聖書を学び賛美歌を歌ううちに、なぜかどんどん薄くなっていきました。

 

いま一番好きなみことばは

御名の栄光を、主に帰せよ。詩篇29:2です。

無理にやりたいことを創造する必要はない、ただ神様の喜ぶことをしましょうという意味に解釈しています。解釈はこれから変わることもあると思いますが、私は悪いことをしていないくらいしか取りえのない、向上心のない怠惰な人間だと無意識に感じていたのがなくなり、少し自信がもてるようになりました。

 

最近は周りへの伝道ということについてよく考えます。教会にも、私くらいの年代のお子さんに伝道を試みているがうまくいかない、という方が多くいるそうです。そこで図々しいと思いつつも子としての立場からみたアドバイスを言います。とくに幼いうちから親がクリスチャンだった場合、意識的無意識的に“原罪”の概念が根付いています。おばあちゃんに「神社に入るとバチがあたる」と言われたことを大人になっても忘れない人が大勢いるように、幼児期に見聞きした何気ない「罪」や「罰」という言葉は、本来聞いたはずの聖書にある文脈は無視されて、子供なりの勝手な解釈で印象にのこってしまいます。だから教会へいくと今すぐ罪を改めろとせまられたり、皆の前で告白させられるという印象がある若者は多いと思います。これは映画によく出てくるカトリックの罪の告白のシーンの影響もあると思っていますが、もちろん大方のノンクリスチャンはそこまで深く考えないので自覚がないかもしれません。

 

私が母から聞いてよい印象をもったのは「お祈りには本当に力がある」という言葉と「教会の人は無駄に怒ったりしないし詮索もしない」という言葉でした。それを聞くまでは、笑顔で接してくれてもある日牧師と偉い人にかこまれて「さあ罪を懺悔したまえ!」なんて言われてしまうんだと勝手に思っていたのです。誤解のないように言わせていただくと、警察のお世話になるようなことはしたことはありません。ただ単に「大勢の前で言いたくないことを言うなら元気にもならないし行く必要もない」という感覚ですが、行かないきっかけとしては十分理由になりえてしまうので、とにかく先入観にうまくアプローチしていくことが二代目伝道のポイントなのかなあと個人的には思っています。差し出がましいまとめになってしまいましたが、伝道やアウトリーチはみんなで協力して行うことが肝心だということは、私が身をもって感じたことなので、この場をかりてお伝えさせていただきました。

 

これからも教会に呼び寄せられた一人として、与えられる使命や奉仕に取り組んでいけたらと思っています。忙しくなるとつい集中して、足元も見ないようなところがありますが、こんなふうに交わりを持ってくださる兄弟姉妹が与えられているということを嬉しく思っています。何かありましたら、また何もなくても、気軽にお声をかけてください。どうぞよろしくお願いいたします


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2011年8月21日のWelcome Sunday

証し:谷本久美子さん(女性会)
【原爆と原発】

 今年も広島、長崎に多くの無辜の民間人の殺戮をもたらした原子爆弾が落とされた日が巡って来ました。あの日から66回目の夏を迎えたのですね。そして同じ原子力による災害、つまり原子力発電の事故による未曾有の災害、今日はこの二つの事、「原爆と原発」について、その事実と、私なりに考えました事をお話しさせていただきます。

 当時広島には大本営(軍の最高機関)があって、私が1945年2月に大学受験の為に熊本から上京した際に広島を通過する際は汽車のブラインドを降ろす様に言われました。その広島市に原子爆弾(リトル・ボーイと言うそうですが、とんでもない、リトルどころか、ビッグ・ボーイです)が落ちたその日、つまり8月6日の午前8時15分の事ですが、夫の三人の妹の一番上は、文子といいますが学校へ行く為に8時頃家を出ました。満16歳の時のことです。でもいったん家を出たあと、暑い盛りですから、着替えを取りに家に帰り、再び家を出た後、被爆しました。母達家族も家が傾く程の衝撃を受けました。家にはその下の妹二人、二人とも現在は牧師の妻になっていますが、その他の弟達、夫も含めて召集を受け、夫は通訳として南方戦線に出、他の二人は兵隊として軍務に付いていました。当時空襲警報がいったんは発令されましたが、程なく解除になっています。しかしB29(エノラ・ゲイ)が一機広島上空を目指していた事を警戒することはありませんでした。8時15分に一発の原子爆弾が落とされました。母達は物凄い光と熱に襲われてとっさに物陰に隠れましたが、幸いにも怪我を受ける事がありません。母は家を出たまま帰って来ない娘の事が気がかりになり、一面焼け野原になった広島市内の心当たりを探そうと決意しましたが、その日は熱風もあり、その犠牲になった人が町中に溢れて、被災した町を歩くのには制限もあり、じりじりしながらその消息を待ったと言います。

 明くる日、つまり7日ですが、歩きに歩いて探しあぐねた母のもとに、「娘さんの着ているモンペ(作業服。当時は女性は皆、着物をほどいて作った)の柄を見つけた」という知らせが若い男性から告げられました。彼は広島文理大(現広島大学)の大学生で、妹とは電車(広島には路面電車が走っていました。今でも走っています)登校時に乗り場で待ち合わせをする仲だったそうです。

 その知らせを聞いた母はその場にかけつけました。歩道には他の多くの無残に負傷している人々と一緒ですから、必死で探した、と言いました。中には息絶えている人もおられて、その惨憺たる状況の中からやっと見覚えのある娘の着ているモンペを見つけ、「文ちゃん?」(文子という名前)声を掛けると、かすかに答えが返って来たそうです。見ただけでも重傷で「水が飲みたい」と言いました。でも水を飲ませると命を落とすので、母はためらいましたが、到底助かることは不可能と見て、望みを叶えてやりました。その娘の死をわずかながら看取ることが出来た事を母は後々感謝していました。

 この淡いロマンスの相手の学生の方とはその後私達とお交わりがあり、私も谷本に付き添って、3年前、姪の夫が牧会しています長崎の諫早キリスト教会落成のお祝いに出席する途中、郷里の広島へ寄り、この方の所へもお訪ねしました。この方も原爆後遺症のせいでしょうか、ずっとお体がお弱く、とうとう昨年お亡くなりになりました。

 このような状況の中で母は妹の葬儀も出せずに、そのまま軍の命令で町の中の空き地で他の犠牲になった方々と一緒に火葬をされる事になりました。それは大変物凄い衝撃的なシーンでした。うずたかく積まれた死体が焼かれるにつれ、内臓、特に大腸が天に向かって躍り上がるのだそうです。到底想像出来ない、恐ろしくも悲しい情景です。母はよく耐えました。母は東京に居を移したあとも8月6日が近付くと、広島で行なわれる原爆投下の式典に参列するために広島を訪れていました。赤い夾竹桃の花数が増す頃になると、旅支度を始めた母の姿を思い出します。同じ時代を過ごした私にとっても大変につらい想い出です。

 広島に原子爆弾が落とされた当時はアメリカの厳しい規制もあってそれがどんなものか、そして将来にどんな影響を与えるのか、全く分かりませんでした。被爆した乙女達はアメリカへ渡り、整形や治療を受けました。外見には人道的に見られましたが、それはあくまで政治的、戦略的な行為であって、実際はそんなものではありませんでした。そしてこの広島に落とされた原子爆弾についての報道は一般の市民には全く知らされていませんでした。当時私達は大型爆弾とか、新型爆弾という名称で知らされました。私の記憶では40年間もの間広島には草も木も生えない、と言われました。今の広島は、私の伯父も設計に携わった原爆記念館のある平和公園は緑豊かでほっとしていますが、民間人をターゲットにした事はどんな理由をつけても許される事ではありません。

 そして私は家族に被爆者を持つ者として、去る3月11日の午後2時46分に三陸沖に起きた未曾有の地震と津波について深く考えねばならない、と思っています。日本は地震国と言われ、歴史の中でも多くの地震や津波に見舞われました。ついこの前、小学校の孫から借りた本の中から私は様々な情報を得ることが出来、これまで世界の中でも地形上有数な地震国である日本の現在の状況を知ることが出来ました。小学生の読む理科の本と言ってもかなり高度で、私など到底その用語、内容など理解は出来ませんでしたが、阪神淡路の地震の時と様相が異なるのが原子力発電所が地震の影響で故障し、住民が被曝する、という事です。その被害は想像を遙かに越えています。1986年4月26日に起きたチェルノブイリ原子力発電所(ウクライナ、旧ソ連邦)の被曝者の状況が最近のテレビで報道されました。その日から25年経った今でも、健康診査の結果、親よりも高い放射線が発見された幼な子を持った家族の打ちひしがれた姿が今も目に焼き付いています。チェルノブイリと福島とは地形も状況も違いますが、でも原子力発電所が故障し住民が被曝し続けている様子は同じです。次世代を受け継ぐ幼な子の将来を考える時、絶望的になりますね。

 日本は資源の乏しい国と言われます。この国の発展には原子力発電所に依らねばならない、と言われて来ました。事実私達はその恩恵に預かっています。でも今回の地震による福島原子力発電所のメルトダウンから放出される放射線による被曝は目に見えないだけに恐ろしいものがあります。先ほども言いましたが、特に子供に及ぼす被害は大きいと言われています。

 私は青春時代(満14歳、女学校2年の時)に起こされた第二次世界大戦を経験し、食糧の欠乏や敗戦間近に近海に来たアメリカの航空母艦から飛来するグラマン機の機銃掃射におびえる日々でした。市街地に急降下して操縦している兵士の顔も見えるぐらい接近して機銃掃射を受けました。

 それから66年、私自身、近代化を急ぐ日本の姿に喝采こそすれ、それがどこから来るものか、あまりにも無知であったと思います。日本には私が調べた所(ウィキペデア)によると、原子力発電所は事故以前には全国に54ヶ所もありました。その中には現在運転を中止しているものもあります。建設中のもあります。

 作家の小松左京氏が先月26日に亡くなられました。かの有名な『日本沈没』、その2部などを書かれた、サイエンス・フィクション作家と言われた方です。題名を見ただけでも読むのがいやで、私は読みませんでした。でもこのままでは日本は確かに沈没するのではなないか、という恐怖心に襲われました。また一方で歴史小説家でもある、半藤一利という作家は、日本のこれからを憂えて、次世代を考えて、原子力に頼らず、ライフスタイルを変えてゆくべきだと言っています。

 今私達は節電中ですね。TVやPCで今日の使用電力の現在値が映し出されます。大体70%から80%程度で推移しているようてすね。最近は猛暑が続いて一時は90%代まで逼迫して、他の電力会社から融通してもらわねばならなくなった事もありました。しかし明るい町を見慣れている身には、薄暗く不景気だなあ、と思わされます。(事実不景気ですが)でも今こそ、私達はよく考えねばならない、と思います。豊かさ、とは何か、という事を今一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。シーベルトとかベクレルなど、それがどんな影響があるのか、日常食べる食物に表されるので、その可否を考えます。「がんばろう! 東日本!」と至る所にこのスローガンが掲げられているのを見る度に、何をがんばるのか、今一度一人一人、政府はもちろんのこと足元から見つめ直す、よく知る、その上で一人一人が自分の利益のみを考えるのではなく、日本の、そして世界の、この小さくなった世界のこれからを考えてゆく時、と思います。

 主は知識より、知恵を祝されました。

 本日は貴重なお時間を頂きましてありがとうございました。妹の死を無駄にしたくありませんでしたし、日本の経済発展にからむ原子力利用について考える所がありましたので、お話をさせて頂きました。


【分かち合い】
・谷本姉のお話を受けて、原発に対する賛否について参加者の間でさまざまな論議がありました。
・脱原発にもいろいろと問題や困難があるようで、エネルギーと社会の在り方について話し合いました。
・原爆も原発も、同じような過ちを繰り返さないように
未来の世代に語り継いでいくべきことを確認しました。
                           文責:大田
 

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2011年3月27日の Welcome Sunday

HKさん(壮年会)の証し【私はどうしてキリスト教徒になったか】

 前回2月は証し前半部として「パウロの足跡をたどる」旅行に参加したお話をさせていただきました。今日は証し後半部として何故バプテスマを受けたかの理由を説明するということになっています。今日の会の幹事役大田兄が本日の題名を「私はどうしてキリスト教徒になったか」とつけてくださいました。恐れ多いことに内村鑑三さんの著書に「余は如何にして基督教徒となりし乎」があります。この中で内村さんは「何故」ではなく「如何に」なのであり「頭」の問題ではないということを言っております。私の話はまだ頭が勝っていると思い反省しております。また内村さんは同書で「一日にして回心したのではない、漸次である」とも言っており、私はこれには安心いたしました。

1)聖書 
 17年前、聖書を手に取ったことが私の出発点です。キリスト教の大きな強みの一つは聖書が有ることと思います。2000以上の言語に翻訳され又新共同訳のように統一内容になっています。聖書は世界中の人が読みます。古いデータで恐縮ですが1980年4億冊以上/年間が世界の聖書協会分だけで売れているそうです。昨年秋ハイデルベルク大学のタイセン元教授が日本聖書研究所の主催で講演されました。近年の研究でイエスは歴史的に実在したことがほぼ証明出来るようになったそうです。私のような凡人にとってはこの世に実際現れてくださったイエスによる救済というのはやはり力が有ると思います。聖書は若い頃にも読んだことはありました。しかし求める心がなければ響かない、悲しい出来事があったからこそイエスの言葉がその時心に沁みたと思います。

2)愛による救済と思い煩いからの離脱
 私の人生前半はむしろ仏教や神道により近かったと思います。しかし聖書やキリスト教の本に触れるうちにキリスト教が救済により強い力を持っていることに気づきました。それで娘の件で悲しみを救えるのはイエスキリストをおいて他なしと思って常盤台教会に家内を伴って来ました。キリストの愛は十字架にかかって犠牲となっていただいた愛ですね。最も低い所からの愛と思います。イエスが横に来てくれ、共にいてくれるという思いです。聖書にも色んなところに出てきます。(マルコ5:25−34)それに比すと仏教の慈悲は施しでもあり上からと言う感じがしないでもありません。隣人愛、困った隣人がいても愛する、敵でも愛する、なかなか難しいことですが具体的と思います。
 キリスト教の大きな働きは「愛による救済」の他に「思い煩いからの離脱」であると関田寛雄先生(青山学院大名誉教授他)は言われます。キリスト教においては逆説、転換、聖化により思い煩いを取り去るように思います。聖書は逆説に満ちていますね。お客様が増えてブドウ酒が足りないと案じていたら瓶の水がブドウ酒に変わったりしますね。(ヨハネ2:7―9)
第二コリント6:10でパウロは
「悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。(文春新書・新共同訳聖書・佐藤優解説)」と言います。仏教にもこの働きがありますが方法が違うように感じます。仏教は「色即是空」の如く「空」、「無」により執着を取り除きます。一切は空であるとして達観する、小欲知足つまり欲望を小さくして足ることを知ると言うことでしょうか。一方キリスト教の場合、自己を内省するのではなく、イエスを仰ぎ見てゆだねることにより「思い煩い」の転換、聖化がなされるように思います。放蕩息子の譬え(ルカ15:11−32)に似た話が「法華経」にもあります。簡単に紹介しますと「父は帰って来た息子を下男として使い修養を積ませたのち、一人前として扱った」ということで仏教では修行が大事ということで違いがあるかと思います。

3)キリスト教と西欧文化
 キリスト教は西欧文化と切っても切れない関係にあります。この事でキリスト教に関心を持っていたことも間接的要因かと思います。世界三大宗教の信徒数はキリスト教20億人、イスラム教11億人、仏教4億人と言われます。キリスト教は世界の宗教の中でいまだ主流です。西欧の思想が世界の主流となったのはルネッサンス以降と言われますが、以来見ますとルネッサンスに対応するルター他の宗教改革、フランス革命を生んだ啓蒙思想に対応するシュライマッハーの自由主義神学、それの反省から生まれたバルトの弁証法神学など、その時代の社会思想をキリスト教思想が支えています。明治以来日本人は和魂洋才といって西欧の技術のみ取り入れその基盤である思想は除外しようとしてきました。和魂洋才はしばらく成功したようでありましたがバブル崩壊後、日本の政治経済はその文化の根っこの問題にぶつかっているのではないかと言われています。それなら「洋魂」を輸入出来るか?「西欧でも洋魂に大いに疑問が出てきている、和魂でも洋魂でもなく宇宙の‘宇魂’ではないか」と古屋安雄さん(ICU牧師・宗務部長、聖学院大教授他)は言われています。
 絵画や彫刻、建築など芸術はキリスト教と密接な関係にありますが、クラシック音楽も教会の典礼音楽から生まれ、中世まで教会とともに発展して来ました。18世紀にはミサ曲、レクイエムなど宗教曲に素晴らしいものが沢山出来ましたし、また偉大な音楽家には敬虔なクリスチャンが多く、特にJ.S.バッハはそうでした。バッハの生まれはドイツのアイゼナッハですが、ここはマルチン・ルターの生誕地でもあります。これは偶然かと思いましたが、調べてみるとバッハの祖先はハンガリーにいたころ宗教迫害にあい、ルターを慕ってアイゼナッハに一族で移住したそうです。バッハはライプチッヒで4つの教会の音楽監督&オルガン奏者でしたが敬虔なキリスト者でもあり教会カンタータを多数作曲しました。マタイ受難曲は音楽史上に輝く作品です。私も少年時代にクラシックに触れて以来、縁が有りますが、バッハの音楽は「祈り」に思えます。

4)他文化との調和
 2年ほど前、政界の重鎮と言われるO氏が「キリスト教は独善排他である」と言うコメントを仏教団体の前でして報道され少し問題になったことがあります。曽野綾子さんが素早く反応され「聖書を読んで欲しい、キリスト教の教えは排他ではなく愛他です。」とあるコラムに書かれました。しかしこの政界の重鎮氏だけでなく日本の知識人には同じような非難をキリスト教に対し言う人がいます。佐藤優さん(元外務省主任分析官)は「キリスト教徒は他宗教に無関心である」と言っております。我々は仏教などの長い歴史、文化を知っている訳ですから無関心ではなくむしろ相互理解の触媒で有って欲しいと思います。
 この重鎮氏もキリスト教を知らないだけだと思います。無知が傲慢を生み、傲慢から憎悪の応酬が始まる、そんな世界が始まるのを危惧します。「その宗教を本当に信仰しながらなお且つその壁を超えてお互い学びあうことは真に成熟した信仰者にしか出来ない」関田寛雄先生の言葉です。   

5)科学の限界と科学との調和
 私の高校時代のクラスメイトに佐藤勝彦さんという宇宙物理学者(東大名誉教授)がおり時折クラス会で会います。佐藤さんは宇宙論の最先端を解説する本を何冊も(「宇宙論入門」「ホーキング宇宙と人間を語る」訳)出しておりますが、今また宇宙論は混迷していることを認めています。宇宙はビッグバンに始まるが、終わりはビッグリップと言って人間も含めて全てが原子レベル以下にバラバラになって霧消する、宇宙は多次元で無数にあり4次元(3次元+時間)のこの世は5次元宇宙の壁にくっついている、現在人類が判明した物質は宇宙全体の4〜5%のみで残りはダークマター、ダークエネルギーで正体不明と言っています。科学には限界があり、来世の有無や神の存在も(不在も)科学では証明出来ません。科学で証明出来ないことは信じない人もいますが、科学では証明できない、科学は万能ではない、だからこそ宗教や神学が必要であると私は思っています。
 現代人は電気や自動車他、科学技術の恩恵を受けずには生活出来ませんので、科学が証明したことを認めないことは自己矛盾になります。科学の恩恵で生きている限り科学が証明出来た範囲は少なくとも認めねばならないと思います。内村鑑三氏は「吾は宗教を考究するに科学的方法を応用するを恐れざるのみならず、普通の科学的常識にかなわざる宗教的思想は棄却して採用せず」(「一日一生」)と言い切っています。科学の証明するところは受け入れ且つ科学の限界も認識するというバランスが良いかと私は思っています。

6)社会貢献
 キリスト教系大学は日本に約40あると言われます。仏教系は20だそうです。キリスト教信徒が日本人口の1%に満たないことを考えると大変多いです。このような社会貢献活動は直接成果だけでなく、社会に対し間接的にしかし深く広い影響を与える働きをすると思います。常盤台教会もますます地域社会に働く活動が多くなってゆくことを期待しています。

7)「信仰即行為
 
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」マタイ福音書7章21節この事がバプテスマを受ける最後の決心になりました。山を見ているだけではダメで登ることが必要ということでしょうか。みこころにより歩めればと思います。
                          
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2011年2月27日の Welcome Sunday

HKさん(壮年会)の証し【パウロの足跡をたどる旅行に参加して】

1/23バプテスマを受けましたが、その要因のひとつに昨夏のパウロの足跡を辿る聖地旅行があると思っています。今日は聖地旅行の概要と感想をお話します。今回の聖地旅行に際し私自身も何かテーマを持って旅行しようと少し勉強しました。パウロは西欧がキリスト教化された出発点になった方ですね。ある人によるとイエスキリストはキリスト教の教祖ですが、パウロはキリスト教の開祖と言っています。キリスト教は西欧文化を作りました。過去からの歴史において、西欧の思想が世界を支配し、現在もまだ世界をリードしています。つまり中間抜きで極言しますとパウロが現在の世界を作ったとも言えるかと思います。そのパウロは大変な苦労をしていわゆる異邦人にキリスト教を伝道しました。パウロの伝道を動機つけたもの、推進させたものは何であったかというテーマを持って今回聖地旅行に臨みました。

パウロの年表をおさらいしておきます。―(年表の説明)―

今回撮った写真を見ながら旅行を振り返りたいと思います。―(スライドによる写真の説明)―

  
エフェソの古代都市の図書館跡              ローマの聖パウロ教会
左の階段でパウロが説教したと言われている。

<聖地旅行の感想>

1.ダマスコの回心

遠藤周作さんによると「ユダヤ教の律法主義に行き詰まったパウロが急激にイエスの愛の教えに転向したことを象徴的に文学表現したレトリックではないか?」と言っています。(「私にとって神とは」)しかし同じカトリック作家の曽野綾子さんは「もしレトリックなら三度も使徒言行録(使徒9・1−19、22・6−16、26・12−18)に情景が具体的に書かれることはない筈。外見的事実がどうあろうとも内面も含めたパウロの真実の体験と思う」と言っています。(「心に迫るパウロの言葉」)
聖書を読みますと使徒行伝やパウロ自身の手紙の中で自分は「主の啓示によりこのような伝道をしている」と数回言っていますね。パウロの本を何冊か書いておられる山谷省吾さん(「パウロ」)も曽野さんと同意見のようです。
今回パウロを勉強し、現地を訪れて見て、自分の決心程度のことではこのような苦難の連続する伝道をすることは出来ない、パウロが神から召命されたその使命感によるものと小生も感じることが出来ました。

「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度(注:ローマ兵から)、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」(Uコリント11・24―28)

手紙の中でパウロは
「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2・19−20)
と言っています。
神がパウロを召命したということは神がユダヤ教の律法の時代(父の時代)からキリスト教の愛の時代(子の時代)へ移行を導いたとも言える訳で歴史における神の導きということとも受け取れます。千年王国と言うこと(ヨハネの黙示録20)にも関係するものがあるのかも知れません。人類の歴史において神の導きというものが有るのかもしれない、イエスの愛の教えだけでなく旧約も含めてもっと理解を深くせねばならないと思いました。今は子の時代から聖霊の時代(神の働き)に移っているとも言いますしキリスト教にとって3千年紀に入った21世紀がどのようなものになるのかよくわかりませんが、今後の勉強の課題が出来たように思います。

2.パックスロマーナ(ローマの平和)

ローマの建国はBC753と言われていますが、北アフリカ、ギリシャ、小アジア(現トルコ)、シリヤ、エジプトを切り従えて初代皇帝アウグスツスによるいわゆるローマ帝国になったのがBC27年です。それまで地中海地方は各国間の戦争の連続であった訳ですが、ローマ帝国が統一したことによるパックスロマーナと呼ばれる地中海を取り巻く地方の平和と繁栄の時代が始まりました。

ローマへ行きますと円形劇場コロッセオ、水道橋、アッピア街道などローマ帝国のインフラ遺跡が未だ残っています。ローマ帝国の立派なところはそれらの都市インフラを首都ローマだけでなく全帝国内に広げたことだそうで、周辺の国々は平和と繁栄をもたらしたローマ帝国の統治を喜んだと言います。今回も帝国内アテネやエフェソなど至る所に円形劇場やローマ街道跡が残っているのを見ることが出来ました。ローマ帝国最大版図時の人口は5千万人、当時の世界人口が2億人であったそうですから世界の4分の1を占めていたことになります。人類が一番幸せな時代であったとも言います。
このパックスロマーナがパウロの伝道(第一回伝道旅行AD48〜)の成就にも大きく影響していると言われます。(佐竹明「使徒パウロ」)ローマに通じる道と宿が整備され盗賊、追剥も非常に減ったそうです。
またギリシャ語がローマ帝国内どこでも通じました。パウロはギリシャ語も堪能でした。このように周りの環境が整ったことも大きいのだそうですが、それもこのような時期をまさに選んでイエスをこの世に送り、パウロを召命した神の働きかも知れませんね。
パウロは異邦人伝道の目的地としていたであろう帝都ローマに辿りつきました。(AD59年頃)その後、パウロはネロ皇帝によって処刑されましたが、キリスト教徒の迫害の時代を経て、392年キリスト教はローマ帝国の国教になりました。その後西ローマ帝国は476年に滅亡しますが、ローマ教会が後を引き継ぐ役割を果たします。また東ローマ帝国は16世紀まで続きギリシャ正教として引き継がれました。パウロは世界宗教となったキリスト教の礎を築いたと言えるかと思います。

3結び

「世を去る時が近づきました。わたしは戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。」(Uテモテ4・6―8)

聖地旅行の最終日にローマの聖パウロ教会を訪れました。中ではミサが取り行われていました。柔らかいオルガンの音色のもと、苦難を終えたパウロが今は安らかに眠っているように感じられほっとする思いがしました。                

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詩人シリーズ 湯浅半月「十二の石塚」

2011年1月のウェルカム・サンデーの報告です。  

明治15年に日本で初めての詩集「新体詩抄」が発表された。
そのわずか三年後の明治18年に、湯浅半月(本名吉郎)は同志社英学校神学科の卒業式の席上、全編688行からなる一大長編叙事詩「十二の石塚」を本人が朗読して発表した。 並み居る参加者はこの卒業作品に一様に驚き、感銘したという。

落合直文が「孝女白菊の歌」を発表したのはこの三年後、また北村透谷が「楚囚之詩」を発表したのは更にその一年後のことであった。
島崎藤村が日本近代詩の幕開けとなったといわれる「若菜集」を発表したのがこの12年後の明治30年であることを思えば、半月の詩作がいかに先駆的な意味を持つかが理解できよう。
(五回までありますが、一部を紹介します)
 ――――――――――――――――――――――――――――――――――     
一回  緒言・荒野
  
   和歌の浦の磯崎こゆる  しら浪のしらぬむかしを
    松陰の真砂にふして   もとむともかひやなからん 玉津島姫
  久方の天つみそのに    むれ遊ぶ聖霊の鳩の
    錦翼にのらしめたまへ   我神よいざ行きてみむ  ユダヤの国原
  岩はしるヨルダン川の   柳かけ高かや隠れ
    風立ててさざなみ涼し  千尋の青淵
  朝日さすエリコの城の   高楼もうづもるばかり
    椰子の葉のしげるも深し  七里の白壁
  千早ぶる神の記念と     ギルガルの岡べにさける
    百合花の立てるも高し   十二の石塚       (以下略)  

和歌浦の砂浜に伏せて昔のことを偲んでも甲斐ないことだ。空に飛ぶ鳩の翼に乗って、玉津島姫よ、ユダヤの国に行きたいものだ。

その国の、ヨルダン川の柳の陰にある家は涼しく、エリコ城の周囲には椰子が茂り、ギルガルの岡には百合の花に囲まれて十二の石塚が立っている。
池の畔の涼しさを求めて母子が休んでいる。十二の石塚を指して「これは何か」と問う子供に、母親はほほえみながら話し始めた。

「アブラハム、イサク、ヤコブの昔からイスラエル人は住み慣れた土地を離れて、エジプトでエジプト人の奴隷になって暮らしていました。モーゼは神の導きでエジプトを逃れ、カナンの地を目指して四十年も苦しい荒れ野の旅を続けました。」
――――――――――――――――――――――――――――――――――
     二回  古塚

   なつかしきカナンの国の  山のすえ水の行くえを
      はるばるとうちながむれば  帰り来て敵の本城も
  その路もしられにけりな  唐錦旌旗ひるがへし
     雲なして槍と槍とは  朝日さす林のごとく
  くろがねの楯と楯とは  岩垣のかたくつらねて
     武士のますら武男は  大将ヨシュアのあとに
  したがいて水際に下がる  おりしもあれ百雷の
     落つるごときひびきし滝の 音もたえ千尋の淵の
  底みえてひだりみぎに   しらなみの立分れ川に
      一筋の道ぞいで来ぬ      (以下略)

「ヨシュアに率いられたイスラエル軍は、懐かしいカナンの国を目前にしてヨルダン川にさしかかりました。ヨシュアが進むと滝のように音を立てて流れていた川の水が右左にかれ、一筋の道が現れたのです。このようにしてユダヤ軍は戦ってカナンの地を得たのですが、その記念に十二の部族から選ばれた人たちの立てた石塚がこれなのです。……」
「花と詩と音楽とTAD http://homepage3.nifty.com/TAD/index.htm より  

――――――――――――――――――――――――――――――――――

ヨシュア記 4章 1〜9節 

◆ 記念の十二の石

民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、主はヨシュアに言われた。
「民の中から部族ごとに一人ずつ、計十二人を選び出し、彼らに命じて、ヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から、石を十二個拾わせ、それを携えて行き、今夜野営する場所に据えさせなさい。」
ヨシュアはイスラエルの各部族から一人ずつ、かねて決めておいた十二人を呼び寄せて、言った。
「ヨルダン川の真ん中の、あなたたちの神、主の箱の前に行き、イスラエルの人々の部族の数に合わせて、石を一つずつ肩に担いで来い。
それはあなたたちの間でしるしとなるであろう。後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねるときには、こう答えなさい。
『ヨルダン川の流れは、主の契約の箱の前でせき止められた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の流れはせき止められた。これらの石は、永久にイスラエルの人々の記念となる』と。」
イスラエルの人々はヨシュアの命じたとおりにした。主がヨシュアに告げられたように、イスラエルの人々の部族の数に合わせて、十二の石をヨルダン川の真ん中から拾い、それらを携えて行き、野営する場所に据えた。
ヨシュアはまた、契約の箱を担いだ祭司たちが川の真ん中で足をとどめた跡に十二の石を立てたが、それは今日までそこにある。


【解説】                        
お正月らしく、古雅な文語調の詩をみなさんとお読みしました。

◎「長歌」という形式  
日本には伝統的に「短歌」に対して「長歌」という形式がありました。  
「五・七/五・七/五・七/五・七……」と好きなだけ続けていき、最後を「五・七・七」と結ぶ。繰り返しが一度で終わるのが「五・七/五・七・七」の「短歌」でした。ところがその後、この短い歌がポピュラーとなり、「和歌」といえば「短歌」を指すようになりました。
「長歌」は万葉集時代には盛んに読まれたのに、その後は廃れます。中世の「連歌」と近世の「発句〈俳句〉」の関係もそうで、日本人はどうも短い詩が好みのようです。

◎「新体詩」の試み  
「長歌」はイーリアスや長恨歌のように、雄大な叙事詩として歴史的な事件など豊かな内容を詠み込むことができます。明治の近代化の中で、西洋の詩を取り入れて「新体詩」という新しい詩を創ろうとした試みがありました。
今までみなさんと読んできたクリスチャン詩人の中でも、島崎藤村の「若菜集」「落梅集」などの諸作、北村透谷の長編「蓬莱曲」など佳作も創られたのですが、結局、主流とはなりえず廃れてしまったのが残念です。

◎旧約の物語性
旧約聖書は物語性に満ちています。今年度の聖書クラスではこの「物語」ということをテーマに読み続けています。これは新約の福音書や使徒行伝についても言えることですが、福音を単なる無味乾燥な神学や金科玉条の律法としてではなく、人々がどのように生きたか、その喜怒哀楽の物語を通じて、私たちも生き方を具体的に、血の通った教えとして学ぶことは大切です。  
だから、物語を長詩の形で取り入れていくことは大きな可能性を持つのです。「十二の石塚」は旧約の「ヨシュア記」「士師記」に基づいています。

◎信仰の継承  
では、私たちはこの物語から何を学ぶべきでしょうか。  
旧約はイスラエル民族の物語です。そこには周辺の諸民族との戦いの歴史も描かれています。ここを現在のイスラエルとパレスチナ諸国の争いに重ねてゆくような読み方がされています。しかしそのような読み方では、私たちはつまずきかねないのではないでしょうか。  
この「十二の石塚」から学ぶことは、〈信仰の継承〉ということです。  
「お母さん、この石はどういう意味なの」「ぼうや、それはね……」
神さまの恵みを、そのように親から子へ、そして孫へと伝えてゆくこと。  
ちょうど、今回のウェルカム・サンデーの参加者の中に、母・娘・孫の三代のご家族がいらっしゃいました。  
私たちも、信仰を次の世代へと伝え続けてゆきましょう。                                       
                 
              
              
お話と文責:大田雅一兄

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