ヨハネによる福音書

私の行っている教会の早朝礼拝では2004年度一年かけて「ヨハネによる福音書」を読んでまいりました
新約聖書にある四つの福音書の中でも少し違った視点・表現をもつヨハネ伝
五人の先生方により語られた『私が聴いたメッセージ』を皆さまとお分かちしたいと思います

早朝礼拝は日曜日朝9時30分〜10時15分まで
新来者クラスとして
常盤台教会3階・小礼拝堂にて行っています
【2011年度は「ルカによる福音書」を学んでいます】

讃美と祈りで始まる朝のひととき
ご一緒にメッセージを聴きましょう
お待ちしています




以下は2004年度のメッセージ集です
4月18日 1章 1-18 言葉が肉となった 8月 8日 7章25-31 この人はメシアか
4月25日 1章19-34 洗礼者ヨハネの証し 8月15日 7章37-39 生きた水の流れ
5月 2日 1章35-51 最初の弟子たち 8月22日 8章 1-11 わたしもあなたを罪に定めない
5月 9日 2章 1-12 カナでの婚礼 8月29日 8章12-20 イエスは世の光
5月16日 2章13-25 神殿から商人を追い出す 9月 5日 8章31-38 真理はあなたたちを自由にする
5月23日 3章 1-15 イエスとニコデモ 9月12日 9章 1-12 生まれつきの盲人をいやす
5月30日 3章22-30 イエスと洗礼者ヨハネ 9月19日 9章13-41 ファリサイ派の人々、事情を調べる
6月 6日 4章 1-30 イエスとサマリアの女 9月26日 10章 1ー18 イエスは良い羊飼い
6月13日 4章43-54 役人の息子をいやす 10月 3日 10章22-30 ユダヤ人、イエスを拒絶する
6月20日 5章 1-18 ベトザタの池で病人をいやす 10月10日 11章 1-16 ラザロの死・イエスは復活と命
6月27日 5章19-24 御子の権威 10月17日 11章45-57 イエスを殺す計画
7月 4日 6章 1-15 五千人に食べ物を与える 10月24日 12章 1−8 ベタニアで香油を注がれる
7月11日 6章16-21 湖の上を歩く 10月31日 12章12-19 エルサレムに迎えられる
7月18日 6章22-59 イエスは命のパン 11月 7日 12章20-26 ギリシャ人、イエスに会いに来る
7月25日 6章60-71 永遠の命の言葉 11月14日 12章36-50 イエスを信じない者たち
8月 1日 7章 1ー9 イエスの兄弟たちの不信仰 11月21日 13章 1-20 弟子の足を洗う

2005年

1月 2日 13章21-30 裏切りの予告
1月 9日 13章36-38 ペテロの離反を予告する
1月16日 14章 1-11 イエスは父に至る道
1月23日 14章15-31 聖霊を与える約束
1月30日 15章 1-17 イエスは真のぶどうの木
2月 6日 15章18-16章4 迫害の予告 3月 6日 18章12-25 大祭司の元への連行と尋問・ペトロの否認
2月13日 16章16-24 悲しみが喜びに変わる 3月13日 18章28-38 ピラトから尋問される
2月20日 17章1-5,20-26 イエスの祈り 3月20日 19章16-30 十字架につけられる
2月27日 18章 1-11 裏切られ逮捕される 3月27日 20章 1-18 復活する



これらのメッセージは「常盤台バプテスト教会・早朝礼拝」で語られたオリジナルメッセージです
許可なく引用することを禁じます


2004,6,14から





第45回「復活する」(ヨハネ第20章1節〜18節)2005年3月27日
聖書

復活する
1   週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。
   そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
2   そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。
   「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
3   そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
4   二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
5   身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。
   しかし、彼は中には入らなかった。
6   続いて、シモン・ペトロも着いた。
   彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
7   イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
8   それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入ってきて、見て、信じた。
9   イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
10  それから、この弟子たちは家に帰って行った。

イエス、マグダラのマリアに現れる
11  マリアは墓の外に立って泣いていた。
   泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
12  イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。
   一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
13  天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。
   「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
14  こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。
   しかし、それがイエスだとは分からなかった。
15  イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」
   マリアは園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、
   どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります。」
16  イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。
   「先生」という意味である。
17  イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。
   わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。
   『わたしの父であり、あなた方の父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
18  マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。




今日は一年間学んでまいりましたヨハネの福音書の最後の学びとなります。そして、福音書の最後は、どの福音書もすべて、イエス・キリストの復活の出来事をもって最後となります。福音書は4つありますけれども、イエスキリストの誕生、クリスマスの出来事を、書き記さないで始まる福音書はありますけれども、復活を書き記さないで終わる福音書ないんですね。すべての福音書は復活をもって終わる。つまり、実は、クリスマスの出来事よりも、むしろ復活祭、イースターの方が重要なこととして、欠けてはならないこととして、福音書が告げていることを、まず、心に留めておきたいと思います。

そして、4つの福音書のそれぞれの復活の出来事を見比べますと、微妙にその内容が違っております。
今日のヨハネの福音書では、マグダラのマリアが墓にいって、そして墓石が取りのけてあるのをみて、ペテロともう一人の弟子に告げて、二人が墓に駆けつけたと記されていますけれども、他の福音書では、数人の婦人達が墓にやってきて、殻の墓で、天使から復活のメッセージを告げられて、恐れて逃げ去ったとなっていたり、いろいろ細かいところが違っております。
そして、ある人は、そういう違いを、矛盾だと考えて、だから復活ということはないのだと考えます。しかし、それでは、逆に四つの福音書が、まるで判でおしたように、同じことを書いていたら、それは真実になるのかというなら、その方が、証言としては疑わしい。

たとえて言うなら、もうすぐ入学式ですけれども、入学式の出来事を作文に書きなさいといったなら、子どもが40人いれば、40通りの違った作文ができるわけであります。おなじ出来事でも、書く人の立場、視点が違えば、全く違ったものになる。もし、まったく同じ文章を書いてきたとしたら、誰かのを見て書いただろうと、そういうことになるわけですね。証言というものは、そういうものであって、微妙に違っていて当たり前であって、全く同じであるなら、かえって作り話ではないかと疑わしくなるわけであります。

福音書に記されている、復活の出来事が、それぞれに微妙に違っているからこそ、それが、作られたお話をコピーしているのではなく、本当にその出来事に遭遇した人々の、証言として、ここに記されているのだと、そう言えるのであります。
キリストの復活とは、なにか科学的に証拠を挙げて、論証するようなことではなくて、この福音書が語る、復活の証言を、私たちがどのように受け止めるのか、というそういうことに尽きるのですね。

このキリストの復活を証言し、福音書に書き記した最初の教会の人々は、このキリストが復活したという証言を、人々に語り続けたゆえに、ローマを惑わすものとして、迫害され、多くの命が失われたわけでした。
キリストの弟子たちはそのほとんどが殉教いたしますけれども、彼らはキリストの復活を証言したがゆえに、自分の命を危険にさらしたわけであります。その命がけの復活の証言が、ここに記されているわけであります。わざわざ自分の命を危険にさらすような作り話を書き記すほど、彼らは愚かではないでしょう。本当でもない、まったくの嘘の話を、命がけで証言するほど、彼らは愚かではない。そう思います。

ですから、この復活の出来事を読む私たちも、これは、初代教会の真剣なる、そして命がかかっていた証言の言葉であったことを覚えつつ、この復活の物語を読みたいと思っています。

けれども、限られた時間ですから、今日は特に11節からの、マグダラのマリアにイエス様が現れた出来事を読んでいきたいと思います。

11節を見ますと、「マリアは墓の外に立って泣いていた」とあります。

せめてイエス様のご遺体に、香料を塗って差し上げたいと墓に行ったのでしょう。他の福音書をみると数名の女性が香油を塗りに墓に行ったと記されていますけれども、それがせめてもの愛の行為として、最後にイエス様にして差し上げられることでありましたのに、墓にいってみると遺体がなかったわけであります。そして、急いで弟子たちのところに戻り、遺体が取り去られてしまったと、彼女は告げます。彼女は、墓の殻を見た瞬間に、誰かが遺体を持ち去ったのだと、そう思ったわけです。マリアはまさか復活したとは思わなかった。おそらく、私たちもそう考えるように、これは、誰かが遺体を持ち去ったのだと考えた。

ペテロともう一人の弟子が墓に入ると、そこには、遺体に巻いてあった亜麻布がおいてあったと記されています。しかもずいぶん細かく書いてあるのであります。

20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。

何気なく読み過ごしてしまうところですが、この細かい描写が意味していることが一つあるのであります。
それは、マリアの思いこみが、間違っていたということであります。マリアは「主が墓から取り去られました」といいました。殻の墓を見たマリアはとっさにこれは誰かが持ち去ったに違いないと思いこんだ。
しかし、誰かが持ち去ったというのなら、遺体をぐるぐる巻きにいしていた亜麻布もないはずなのであります。しかし、亜麻布はそこにあった。ということは、誰かが遺体を取り去ったと思ったマリアの思いこみは、間違っていたということであります。しかし、彼女はそのことに気がついていない。

気がついていませんから、マリアは墓の外に立って、泣き続ける。そして、泣きながら墓の中をのぞき込むと、天使が見えたとあります。しかし、マリアは驚くことも、恐れることもなく、状況がよくわかっていないような、そんな応答をいたします。
ただ天使に向かって「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と、弟子たちに語ったのと同じ言葉を、うわごとのように語るのであります。

さらに、後ろを振り向くと、そこにイエス様が立っておられたというのに、それがイエス様だとはわからなかったと、そう記されています。イエス様がそこにいるというのに、気づかずに泣き続けるマリア。

今日の出来事は、この泣きつづけるマリアの姿が、大変印象深く響いて参ります。もう、泣くことしかできない。泣く以外、どうすることもできないマリア。イエス様が十字架につけられ、苦しみのなかにいたときも、きっと遠くから見て、泣くことしかできなかったマリア。イエス様が死んで葬られるときにも、なにもしてあげられなかったマリア。そして、せめてその遺体に香油を塗りたいと墓にやってきたというのに、その遺体さえも目の前から消え失せてしまった。もはや、なにもできない。ただ、ただ、立ちつくして、泣くことしかできないマリア。

そして、それはまた、私たちの姿でもあるのではないでしょうか。私たちもまた、ただ、泣くことしかできない時がくる。愛する人を失う、その死と向き合わなければならないときが、例外なく、すべての人にやってきます。そして私たちは、その時になって、このマリアのように、自分はなにもしてあげられない、なにもできない、ただ泣くしかないという、そんな自分のふがいなさ、無力さ、むなしさ、悲しみを、このマリアの涙を、知らされるのでありましょう。
 
涙にくれるマリアには、天使の姿も、愛するイエス様の姿さえも見えません。見えているのに見えていない。イエス様が、すでに、すぐそばにいてくださるのに、気がつかない。悲しみの思いに心つぶされて、すでにそばにいてくださっているイエス様に気がつかない。そういうことが人生には起こります。

イエス様はマリアに語りかけます。「なぜ泣いているのか
このイエス様の問いかけは、もう泣かなくてもよいのだ、という、そういう語りかけでありましょう。もう泣く必要はない。なぜなら、イエス様はすでにそこにおられるからであります。マリアはそのことに気づいていないだけ。ただそれだけであります。

マリアはイエス様を園丁だと誤解して、泣きながら言います。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

マリアは涙で目が曇らされて、何も見えていないのでありましょうか?。悲しみの涙は、見えていたはずの目を曇らせるのでありましょうか。
突然、本当に突然、癌の宣告を受ける。そういうことが人生には起こる。そして、見えていたと思っていた未来が、悲しみの涙によって、見えなくなってしまうことがある。しかし、私たちにとって、涙で目が曇らされるということは、必ずしも悪いことではない。いや、涙によって目が曇らされなければ、聞こえてこなかった声がある。悲しみと無力さゆえに涙で目が曇らされなければ、聞こえてこなかった、御声があるのであります。それがまさに、マリアに語りかける、イエス様の声であった。

イエス様はひとこと、「マリア」と声をかけられます。「マリア」。この懐かしい、イエス様の、そのたった一言の語りかけ、その呼びかけだけで、マリアには十分でありました。マリアはこの一言の呼びかけですべてわかった。悟った。そして、彼女は振り向き、いつも親しくお呼びしていたように、一言「ラボニ」、先生と呼んだ。

復活のイエス様との出会い。それは、イエス様に呼ばれ、そして、イエス様を呼ぶ、そういう出会いであります。それは、なにか、自分の目で確認なければならないとか、自分の頭で納得しなければ出会えないと言うような、そういう出会いではありません。
そうではなく、そんな物事がよく見えているつもりだった目が、涙で曇らされたときに、どうしようもない自分の無力さに、そして罪深さに、悲しみの涙を流すときに、初めて聞こえ始める声に、聖書の御言葉を通して語りかけている、イエス様の語りかけに、耳を傾け、そして、主よと祈りの中で呼びかけていく。それこそが、確かにそばにいてくださる、いや、すでに、ずっとそばにいてくださっていた、イエス様との出会いなのであります。

イエス様に気がついたマリアに、イエス様は、言います。
わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。

今、マリアはイエス様にすがりついているのであります。愛するお方が、今、目の前にいてくださる。そのお方に、マリアは、泣きはらした顔をきっとこすりつけるようにして、すがりついている。しかし、そんなマリアに、イエス様は「すがりつくのはよしなさい」といわれる。なぜなら「まだ父もとへ上っていないのだから」といわれる。
そう、イエス様は、父なる神のもとに上られる。そして、見えざるお方となられる。復活された主は、もはや、目で見ることも、手で触ることもできない方となって、しかし、いつも、いつまでも、私たちと共にいてくださるお方となられる。

マリアはそのことを受け入れなければなりませんでした。それが、「すがりつくのはやめなさい」というイエス様の語りかけの意味であります。

そして、最後にイエス様はマリアにこういわれます。

わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。

わたしの兄弟達とは、ご自分を裏切り捨て去った弟子たちのことであります。
主は、ご自分を捨て去った弟子たちを、わたしの兄弟と呼んでくださる。そして、天の父は、わたしの父であり、そして、わたしを裏切り逃げ去った、あなた方、弟子たちの父でもいてくださるのだ、と、神の計り知れない愛と、赦しを伝えるようにと、イエス様はマリアに語るのであります。

イエスキリストの復活。それは、十字架の後に、とってつけた作り話ではありません。復活によって、神の愛と赦しが完成するのであります。私たちの罪を背負って死んだキリストを、神は復活させてくださったからこそ、罪の赦しは完成するのであります。もし、復活がなく、十字架でキリストが死んだままであるなら、キリストの弟子たちは、一生涯、イエス様を裏切った罪に苦しみつづけなければならないでしょう。そして、私たちの罪も、赦されることはない。復活こそが罪の赦しの完成であります。そして、死のもたらす孤独を恐れ、悲しみの涙を流す私たちを、慰め、癒し、そして、いつも、いつまでも共にいてくださる神の愛の約束も、復活によって、現実の希望となりました。

マリアはその喜びの証人となります。

20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

福音書とは、まさにその喜びの証、復活の証言集であります。いくたび迫害されようとも、キリストの復活を証し、証言し続けた人々はいなくなりませんでした。そして、2000年以上たった今日、この日も、この場所において、イエスキリストの復活の証言が語られているのであります。

ぜひ、今日の御言葉の語りかけに耳を澄まして、イエス様の呼びかけに耳を澄ましていただきたいと、そう願っております。
そして、ご自分に問いかけていただきたいのです。この2000年に渡って証言されてきた復活のこの証言を、この私は、どのように受け止めるべきなのか。そのことを、どうぞ思いめぐらしつつ、このイースターの時を過ごしていただきたいと、そう願うものであります。(お話:藤井秀一牧師)
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第44回「十字架につけられる」(ヨハネ第19章16〜30節)2005年3月20日

聖書
【十字架につけられる】
16  そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
   こうして、彼らはイエスを引き取った。
17  イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へむかわれた。
18  そこで、彼らはイエスを十字架につけた。
   また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
19  ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。
   それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
20  イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。
   それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていた。
21  ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
22  しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
23  兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。
   下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
24  そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、
    「彼らはわたしの服を分け合い、
     わたしの衣服のことでくじを引いた」
   という聖書の言葉が実現するためであった。
   兵士たちはこのとおりにしたのである。
25  イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロバの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
26  イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
27  それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」
   そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

【イエスの死】
28  この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。
   こうして、聖書の言葉が実現した。
29  そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。
   人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
30  イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。


少しずつ春らしくなってまいりましたて、桜便りも聞かれるようになりました。そして日本では、この季節は、卒業式や入学式と重なりますので、桜の花と共に春の訪れが、一層楽しいものになっております。

そして欧米では、春の訪れといえばイースターです。4年程前に、戸上先生と幾人かの友達と一緒に、ちょうどイースターのときに、フランス、ドイツを旅しましたが、街全体がイースター色でおおわれている感じで、やはりキリスト教が歴史の中にしみこんでいるんだなぁと思いました。
あちらでは、イースターはむしろクリスマスより楽しいお祝いのようでございまして、家族で教会に行き、子供たちは模様の画かれた卵をもらって、それを楽しみ、そして女性たちはこの日から、帽子を夏の帽子に衣替えするそうで、春の訪れとイースターは切り離せない喜びのようでございます。私共日本人は、イースターとそして美しい桜を両方楽しむことが出来て、幸せなことでございますね。

来週の日曜日、3月27日はそのイースターでございまして、世界中の教会では、イエスさまが復活なさった喜びの礼拝を捧げます。
しかし、喜びの日曜日を迎える3日前、金曜日にはイエスさまが、人間すべての罪を一身に背負って十字架にかかるという出来事があったことは、皆さまよくご存じの通りです。そして本日、私に与えられているテーマは「十字架」でありまして、来週イースターを祝う前に、イエスさまがかかられた十字架の意味を考えてみたいと思います。

以前、ここで中田先生がイエスさまのエルサレム入城のことをお話しになりました。その中で「群衆はホサナ、ホサナと叫んでイエスさまを大歓迎したが、その時イエスさまは、どれほど孤独でいらっしゃったか」とおっしゃったことが思い出されます。
イエスさまがエルサレムに上ってこられたということは、即ち、いよいよご自分の果たすべき使命、十字架に向かって歩み進んでおられるわけでありまして、エルサレム入城から十字架に至る6日間のイエスさまの負われた苦難は、筆舌に尽くしがたいものがございます。
ですから、キリスト教会は、今日からはじまる一週間を受難週と呼びまして、イエスさまが負われた苦難を覚えて祈るのであります。私共の教会でも、明日より金曜日に至るまで、毎朝6時半から受難週の早天祈祷会がもたれます。

この、イエスさまがエルサレムに上ってこられてから、十字架におかかりになるまでの経過は、四つの福音書のすべてに記されておりまして、そして、どの福音書も一番多くの頁をこの出来事のためにさいております。何故でしょうか。弟子たちにとって、それはどれ程衝撃的な出来事であったでしょう。
のちに復活なさったイエスさまとの出会いと共に、イエスさまを信じ、愛し、従う原点であり、どうしても語らずにはいられない、是非人々に伝えずにはいられない出来事だったのではないでしょうか。そして2000年を経た今日も、このことは、変わらずすべてのキリスト者の信仰の原点なのであります。

“キリストの十字架”という出来事は、キリストの信仰をもたない人にとっても、強烈な印象としてよく知られていることですので、古今東西、絵にかかれ、音楽になり、文学に登場してまいりました。

串田孫一という作家は「映画でキリストの受難物語をみたあと、人々は皆すすり泣いていた。自分もクリスチャンでもないのに涙を流していた。この涙は一体何なのだろうか?」というふうに書いています。たとえイエスさまの救いを信じない人でも、人々のために祈って、十字架に死んだキリストに感動したのでありましょう。

しかし私共は、そのように模糊もことした涙や感動だけでこの出来事をみることは出来ません。
今朝は聖書を、まさにイエスさまが十字架におかかりになったところから読みましたが、先程もお話し申し上げました通り、イエスさまがエルサレムにお入りになってから十字架におかかりになるまでの6日間は、衝撃的な出来事の連続でありまして、まずイエスさまは、ベタニヤの、かねて親しくしていた家庭におよりになり、食事をなさいましたが、そこでマリアという娘が高価な香油をイエスさまの足にぬって、自らの髪の毛でぬぐってさし上げるという美しい出来事がありました。
そのあとが、弟子たちとの最後の晩餐、ここで弟子の1人、イスカリオテのユダがイエスさまを裏切るために席を立って去ってゆきます。そして、十字架を目前にされてのゲッセマネというところの、およそ3時間に及ぶ祈り、ルカの福音書には、血の汗がしたたったと記されており、それがどんなに壮絶な祈りであったかが偲ばれます。
ここで人間的迷いを完全に克服して、神よりの使命に立たれたイエスさまに、ユダの手引きによる逮捕、宗教裁判と、読んでいて胸痛む苦難の時が経過いたします。
イエスさまが逮捕された段階で、弟子たちは無様な姿でみな逃げたと聖書は記します。
中で「一緒に死にます」とまで誓ったペテロは、かろうじて宗教裁判の行われる官邸の庭まで行くのですが、周囲の人たちに「あなたはあの人の弟子だろう」と問われたとき「知らない」と強く否定し「3度、わたしを知らないというだろう、その時鶏が鳴く」とイエスさまが予言なさった通り、ペテロが「知らない」と3度否定したとき鶏は鳴き、ペテロは号泣したと記されています。

裁判においては、さまざまな偽証が立てられますが、イエスさまを死刑にする確かな証拠にはなり得ず、大層長引きます。
その間イエスさまは肝心ないくつかの質問にははっきりと答えられましたが、おおむね沈黙を守られ、ローマの総督ピラトが不思議に思う程でした。イエスさまに罰すべき理由のないことを知っている総督ピラトは、何とかイエスさまを死刑にすることを避けようとしますが、結局は「十字架につけろ」と叫ぶ群衆に負けて、イエスさまを死刑にすることをゆるし、ユダヤ人達の手に引き渡してしまいます。

イエスさまはむち打たれ、人々から耐えられない程の侮蔑を受けつつ、今でも「悲しみの道」と名付けられて残っている道、エルサレムの街を通って、ゴルゴダの刑場へと向かわれ、今日の聖書の個所となるのです。

イエスさまご受難の出来事の中に登場するさまざまな人物、イエスさまが逮捕されたとたんに逃げ出してしまった弟子たち、イエスさまを裏切ってユダヤ教指導者たちに売ったユダ、イエスさまをむち打ち、侮辱する兵士たち、何とかイエスさまを殺そうと偽証を言い立てるユダヤ教指導者、真理から目をそむけてついにユダヤ人たちの言いなりになった総督ピラト、イエスさまがエルサレムに入られたときにはホサナ、ホサナと叫んでイエスさまを大歓迎したのに、たちまち豹変して「十字架につけよ」と叫びたてる群衆、みんな何と罪深い姿かと思いますが、しかし、それらの人のしたことは、もし、私共がそこにいたら、多分そのいくつかは同じことをしたでありましょうと思われることで、同じように、過ちを犯しやすい私共一人ひとりの罪も合わせ、イエスさまは人間の犯す罪のすべてを十字架と共に一身に背負ってゴルゴダの刑場へと歩みゆかれたと思えば、まことに胸迫るものがあります。

ここに、イエスさまが十字架上でおっしゃった七つの言を記してまいりました。

1)「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)
2)「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:43)
3)「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です
  「ごらんなさい。これはあなたの母です」(ヨハネ19:26〜27)
4)「エリ、エリ、レマ(エロイ、エロイ、ラマ)、サバクタニ
  「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」の意
   (マタイ27:46、マルコ15:34、詩篇22:1)
5)「わたしは、かわく」(ヨハネ19:28)
6)「すべてが終わった」(ヨハネ19:30)
7)「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46、詩篇31:5)


この七つの言は、四つの福音書すべてから集めて記されております。先程読みました、ヨハネの福音書の中には、この中の三つが記されております。


七つの言ひとつひとつ、人類すべての人を救わんと、十字架にかかったイエスさまが、最後に残された言であり、私共人間では、到底口にすることの不可能な、誰一人語ったことのない言であり、他の書物では、決して見ることの出来ない言であります。
一つひとつ深く味わってみたいのですが、時間が許しません。今日の個所に記されている三つの言から、十字架の意味を考えてみたいと思います。

26節「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた」とありますが、これは当時の養子縁組をするときのきまり文句だったようであります。
ここに「愛する弟子を見て」とある愛する弟子は誰かということがよく論議されますが、多分ヨハネ自身だろうというのが定説です。
いずれにしましても、イエスさまは自分の死後の母の世話を兄弟に頼まずに、弟子に託したのであります。肉親の絆より信仰の絆を選ばれたことに注目したいと思います。
血縁より、信仰に立った信頼によって母を弟子に託されたことは、今、私共が「神の家族」と呼ぶ信仰の交わりの原型でありましょうか、いずれにいたしましても、すさまじい十字架の苦しみの中からなお、自分の亡きあとの母上のことを心にかけられたことは、すさまじい十字架の出来事の中の、人間としてのイエスさまのあたたかさが通った一こまを見る思いがいたします。

28節には「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。
この後」とありますので、イエスさまがお母さんのマリヤを愛弟子ヨハネに託してのち、すぐにこのようにおっしゃったように思いがちですが、しかし、マタイ、マルコの福音書によりますと、十字架上の時間は3時間という長い時間であったようであります。どんなにつらい重苦しい時間の流れであったことでしょう。
そして「私は渇く」とおっしゃった。これは肉体的な渇きばかりでなく、魂の渇きも訴えておられるというのが定説でありまして、その意味では、第四の言「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言と同じ境地におられるのではないかとも思われ、即ち、イエスさまが罪深い私共と同じ最低のところまで降りて下さって、そのどん底の罪を背負いつづけていて下さったイエスさまの姿です。想像すると、息詰まるようなゴルゴダの丘の光景ではありませんか。

そして第六の言「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」と記されております。私共が若い頃読みました文語体の聖書では「事おわりぬ」となっていますが、しかしここでは「成し遂げられた」となっています。
たんに事は終わったのではありません。「成し遂げられた」のです。この「成し遂げられた」と訳されている元になる言は、目的、ゴール、目標を意味する言葉なそうで、イエスさまは今、すべての人々の罪の救いのために十字架上にご自分を捧げてあがなうという、父なる神さまから与えられていた使命を成し遂げられたのであります。
ヨハネ福音書中の、黄金のことばと言われている3:16の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というみ言が、ここに成就したのであります。
また、13章を学んだとき「イエスは、この世を去って、父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にある自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」というみ言を読みましたけれど、裁判から十字架に至るこの苦難を経て、イエスさまはまさに「世にある自分の者たちを愛して、最後まで愛し通された」のであります。
そして、私共一人ひとりもまた、その筆舌に尽くしがたい苦しみの中で、愛して、愛し通して下さった中の一人であることを改めて自覚したいと思います。

すべてを成し遂げられたイエスさまの最後のお言はルカ23章の「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」でありまして、すべてを父なる神にゆだねてご一生を終えられました。
初代教会の迫害の中で殉教の死を遂げたステパノが、このイエスさまのお言と同じ言葉を叫んで息絶えたと記されてあり、またそのあとの多くの信仰者たちも、死の間際にはこのように祈っています。


一見、外面的には惨めで敗北のように見える十字架の出来事ですが、第六の救いの成就の言、第七の父なる神のもとへお帰りになる言が、実は十字架が、誰かに強いられて、止むなく引きずられるようになされたことではなく、イエスさまがご自分の使命を果たすために、自ら歩まれた道であり、神のご計画の中の出来事であったことを象徴しています。

かくして、長い長い旧約の時代を貫いて神の約束は成就し、黎明のように新約の時代が到来したのです。
マルコ福音書15:38「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つにさけた」と記されているのは、旧約時代が終わって、新約時代の到来を象徴しているといわれております。


イエスさまの十字架における、神さまへのとりなしによって、人間はすべての罪から解放され、ただイエスさまのもたらして下さった恵みによってのみ生きる新約の時代の幕開けです。

ヨハネはこのように、イエスさまの十字架のとりなしにより救いが完成したことを、更に次に起こるイエスさまの復活という出来事に、しっかりとつなげております。

この十字架という壮絶な愛の出来事は、3日後に起こるイエスさまの復活によって、神のみわざであることが確実となり、そこから教会の福音宣教のわざが起こるのです。
来週の日曜日には、その喜びのイースター(復活祭)を迎えます。聖書の個所も、美しくも鮮やかな復活の記事となります。教会学校の子供たちには、きれいな絵を描いた卵が配られることでしょう。お帽子をおかぶりになる方は、来週からどうぞ、夏のお帽子をお召し下さい。(お話:工藤渓子さん)

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第43回「ピラトから尋問される」(ヨハネ第18章28節〜19章16節)2005年3月13日
聖書
18:28   人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。
     明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。
18:29   そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。
18:30   彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。
18:31   ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、
     「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。
18:32   それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。
18:33   そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18:34   イエスはお答えになった。
     「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18:35   ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。
     いったい何をしたのか。」
18:36   イエスはお答えになった。
     「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、
     わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。
     しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18:37   そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。
     「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、
     そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
18:38   ピラトは言った。「真理とは何か。」

 ◆死刑の判決を受ける

18:38  ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。
18:39   ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」18:40   すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

19:1   そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
19:2   兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、
19:3   そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
19:4   ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。
     そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
19:5   イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
19:6   祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。
    「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
19:7   ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。
     神の子と自称したからです。」
19:8   ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、
19:9   再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。
19:10   そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、
     このわたしにあることを知らないのか。」
19:11   イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。
     だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
19:12   そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。
    「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
19:13   ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、
     すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。
19:14   それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、
19:15   彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、
    「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、
    「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。
19:16   そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。


 

おはようございます。

一年の間、ヨハネ福音書を皆様と共に聖書のみ言葉から学ばせていただきました。また、お交わりに加えていただき、改めて信仰の成長にとって継続した聖書学びの必要性とみ言葉を聴くことにより、新たにすばらしい真理に出会えました事が私にとりましては大変に感謝な一年でした。
そのような機会を提供してくださいました早朝礼拝の皆様に心から感謝と御礼を申し上げます。

さて、今朝の聖書のみ言葉は、大祭司たち宗教指導者がイエス様を夜どうしに審問し、ついには「神を冒とくした。」と宣言してローマのユダヤ総督であるポンティオ・ピラトのもとに告発するためにイエス様を引き連れて来たところから始まります。

宗教指導者達の意図は明白です。
18:31 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。

とあるように、イエス様を慕う民衆がいることを恐れて、彼らはイエス様をローマの責任に於いて殺してしまおうとする行動に出たのです。どうして、何故、彼ら宗教指導者はイエス様を殺してしまおうとしたのでしょうか。11章でラザロの復活の話しを聞いた大祭司カイアファの言葉を思い起こしてみましょう。
11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。
11:50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」

彼らがイエス様を殺してしまおうと考えたのには二つの理由があると言われます。

第一にはカイアファの言葉です。
ユダヤは当時、ローマの属州として支配されていました。ローマは支配地域の状態によって、色んな形での統治を進めてきました。比較的に安定しており協力的な地域と不安定な状況にあり治安に問題のある地域では全く違う支配をしていたのです。
宗教指導者が恐れたのはイエス様によってユダヤの国が混乱状態となり、いままでは比較的に自由にゆるされていたユダヤの宗教家としての自らの地位が危うくなるばかりではなく、自分自身にも危害が及ぶことを最も恐れたのです。

さらに、ローマの支配権はユダヤの側に人を裁いて「死罪」にすることを許していなかったのです。ここを狡猾にも利用して混乱に陥れる大罪人を差し出したという事実においてイエス様を亡き者にし、かつ彼らの立場も有利なものとしようとしたのです。

しかし、第二の理由こそが真の理由であると思われるのです。
ここに居る大祭司カイアファを含む宗教指導者はファリサイ派・律法学者・サドカイ派に属する模範的なユダヤ教徒と言われる人々です。
イエス様はこうした人々の欺瞞性を鋭く指摘しました。

<マルコ福音書 10章17〜22節>
10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。
   「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。
    行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。
    そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

神の律法を守ることは、神様を大切にして、神様の愛と信頼に応えることを前提としている筈です。しかし、彼らは地上の地位や名誉・資産の方が神様よりも大切であったのです。
宗教的・道徳的に一見として非の打ちどころのないと思われていた生活も、本当は少しも神様が中心では無かったことをイエス様により露呈させられてしまったのです。
律法を守る事によって神の国は自分たちのものであるということは、見えない偶像礼拝に他ならないと、その偽善性を見抜かれたときに彼らはイエス様を葬り去ろうとしたのです。

イエス様は律法の中心として位置付けるものとして二つのみ言葉を要とされました。

<マルコ福音書12章28〜34節>
12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。
   「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」

12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。
   『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。
   『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。

12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、
   どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」

12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。
   もはや、あえて質問する者はなかった。

当時は、十戒をはじめ613の掟が律法としてユダヤの人の宗教生活、すなわち社会生活を律していました。
これを具体的な状況にあてはめて掟を判断して実践しようとすれば当然に色々な問題が出てきます。これを過去の事例に倣って教示するのが律法学者の仕事でした。この教えを成文化したものが「タルムード」です。

先ほどのイエス様と律法学者の語らいで示された聖書のみ言葉は次の二つであります。

<申命記6章4・5節>
6:4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

<レビ記19章18節>
19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
 

しかし、イエス様が示された律法の精神からは彼らは全く離れていたのです。当時の人々には現代の社会に蔓延する神様の存在に対する懐疑主義や虚無がすでにあったのです。
バビロンの捕囚から解放されて、今度こそは神様の言葉に立ち帰り、主体的に律法を守ろうとしたイスラエルの人々でしたが、神殿再建は果たしますが政治的・国家的な復興はならず、五百年の間、祈りを捧げ続けた彼らにとって神の沈黙・神の死が現実のかなえられない状態から問題として出てきたのです。
神殿の礼拝をいくら盛んにし、律法を守り続けても神様は祈りを聴いてくださらない。神様との生き生きとした語りかけに聴くのではなく、ただ言葉だけが一人歩きを始めたときに「律法主義」に陥ってゆくのです。
そのことをイエス様は鋭く彼らに指摘したのです。
しかし、当時の彼らには到底、受け入れることなど出来ないことでありました。イエス様に脅威を感じた彼らの自己中心性・罪がそこにあります。
神の国は自分のものだと思い込む彼らに対して、救われたいのが、ただ自己の目的ならば地上であっても天上であっても、自分の利益の追求に他ならずエゴの主張にすぎません。

今朝は時間の関係もあって、宗教指導者たちに的を絞ってお話しをさせていただきましたが、ピラトも自己中心のエゴの罪の中にあったと言わざるを得ません。イエス様がローマの法に対して何らの罪を認めることが出来ない無実と判りながら、しかも、宗教指導者達の陰謀である事も見抜いていながら裁判の席に着きました。ピラトの弱さは恐れから何とかイエス様を助けようとしますが、最後は自分の地位の安泰のためにイエス様を十字架での死刑宣告をしてしまうのです。 

イエス様を十字架につけたのは誰でしょうか。
私たちの心の内に宗教指導者や「十字架につけよ」と叫んだ群衆、ピラトが潜んではいないでしょうか。
しかし、たとえこのような心を抱く者であったとしても、「主よ、哀れんでください」と呼びかけるときにイエス様は「恐れるな、わたしである」とおっしゃって、そっと手を差し延べてくださるのだと思います。(お話:郷 秀男さん) 

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第42回「大祭司の元への連行と尋問・ペトロの否認」(ヨハネ第18章12節〜25節)2005年3月6日
聖書

 イエス、大祭司のもとに連行される

12 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、
13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
14 一人の人間が民の代わりに死ぬほうが好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。

ペトロ、イエスを知らないと言う

15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。
  この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、
16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは「違う」と言った。
18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。
  ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。

大祭司、イエスを尋問する

19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。
  わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。
21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。
  その人々がわたしの話したことを知っている。」
22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、
  「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
23 イエスは答えられた。
  「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。
  正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。

 ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う

25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、
  「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。
  「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。



みなさんお早うございます。今朝も聖書のみ言葉に聞いていきましょう。

わたしは10月17日に「イエスを殺す計画」(ヨハネ11:45-57)という所をお話させていただきました。
その時に述べたことですが、ローマ帝国は支配した国の宗教や文化に対して、治安が赦される限り寛大な政策をとっていました。
ユダヤ人議会もローマの支配下にありましたが、相当の自由と権利を認められていました。祭司長や最高法院の人たちは当時の社会の中で宗教的・政治的・社会的特権を保持していたのです。
ところが、ラザロを生き返らせるというしるしを行なったイエスを信じる人々が更に増えて、多くの人々がイエスを担いでローマに対してクーデターを起しでもしたらどうなるだろう、暴動でも起したらどうなるだろう。結果としてローマの人々が来て我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。我々は今まで与えられていた自由と特権を奪い取られてしまうであろう。彼らはそのように恐れました。
そして最高法院(サンヘドリン)という議会が開かれました。このとき大祭司カイアファは「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」とユダヤ人に助言したのです。こうしてイエスに対する殺意が公式のものとなりました。


ヨハネ福音書はその後、マリアの香油注ぎ、エルサレム入場、弟子の足を洗う所から始まるイエス様の「告別の説教」(13:1-17:26)‥新しい掟、イエスは父へ至る道、聖霊を与える約束、イエスはまことのぶどうの木、迫害の予告、聖霊の働き、イエスは既に勝っている、イエスの祈り等‥を伝えて、ユダの裏切りによるイエス様の逮捕を記します。そして今朝の箇所になります。

イエス様は捕らえられるとまずアンナスのもとへ連れて行かれたとヨハネ福音書は記します。
この人は 紀元6年シリアの総督クレニオにより任命され、15年ユダヤの総督ヴァレリウス・グラトスによって免職された大祭司です。大祭司カイアファのしゅうとに当たり、イエスの裁判の時、彼は現職ではありませんでしたが議会で重要な位置を占めていたといいます。


大祭司はイエス様に対して弟子のことや教えについて尋ねています。この質問に対するイエス様の答えは実に堂々としたものでした。
イエス様は、わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい、と答えております。
実際にイエス様はユダヤ人のたくさん集まる重要な祭りの時に多くのことを話されました。イエス様が何を語られたかを証言できる人はおおぜいいたのです。そして、ユダヤ人の律法、申命記19:15には「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない」とあります。
大祭司は、イエス様の教えを聞いた人々の中から証人を得て法廷で証言させるべきなのです。ですから、「なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい‥」とイエス様は答えておられるのです。
このイエス様の答え方に反発して権力をかさに着た下役の一人が平手で打ったのです。アンナスは結局イエスを訴える明確な証拠を見出すことができずに、縛ったまま、大祭司カイアファのもとへ送ります。


今朝の聖書箇所は二つの場面が同時進行をしていきます。
イエス様がアンナスのもとに連れて行かれて審問を受けている場面が一つですね。先ほどお話した所です。
もう一つはペトロの行動を記しております。シモン・ペトロはもう一人の弟子と一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ります。その時、門番の女中はペトロに対して「あなたも、あの人の弟子ではありませんか」と問いかけます。ペトロは「違う」と言います。第一回目の否認ですね。‥それにしてもどうでしょうか、聖書は“僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。”と伝えます。過越祭の時ですから太陽暦で言うと3月末か4月の初めの頃です。春先のこととはいえ肌寒い夜のことだったのでしょう。炭火の火が赤々と燃えて人々はその周りで暖をとっていたのです。実にリアルですね、これは実際にその場にいた者でなければ伝えることのできないことのように思われます。


さて、ヨハネによる福音書は、次のペトロの行動を、アンナスがイエス様を時の大祭司カイアファのもとに送った後のこととして伝えます。立って火にあたっていたペトロに対して、人々が「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」というと、ペトロは打ち消して、「違う」と言います。第二回目の否認です。イエス様が逮捕された時、ペトロは持っていた剣で大祭司の手下のマルコス右の耳を切り落としています。そのマルコスの身内の者が「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」とペトロに言います。ペトロは再び打ち消します。するとすぐ、鶏が鳴きました

ヨハネ福音書第13章のところで、主イエスは弟子たちに、ご自身が逮捕され殺されると告げられました。
その時、ペトロは“わたしはあなたについて行く、あなたのためなら命を捨てます”と言ったのですが、主はペトロの離反を予告し、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう、と言われました。まさに主イエスの言われたとおりになってしまったのです。
ペトロが三度主を否むと言うこの記事はマタイ、マルコ、ルカによる福音書のいずれもが記しております。共観福音書はペトロが主の言われた言葉を思い出すと外に出て激しく泣いたと伝えております。13章で語ったペトロの思い‥あなたのためなら命を捨てます‥に偽りはなかったと思います。しかし、人間は危機に直面した時にこのようにもろく崩れやすい存在なのではないでしょうか。平静な時の考えや決意も本当に危険な状況の中では、思いのほか簡単に壊れてしまう。わたしたちはペトロのことをとやかく言うことはできないのではないでしょうか。


ペトロが主を否んだこの記事はペトロにとって決して名誉なものではありません。しかし4つの福音書はいずれもこの記事を書き記します。去年わたしたちはマルコによる福音書を学びました。マルコによる福音書は、ペトロが語ったことをマルコが書き記したという人もおります。それほどペトロと関係が深いと考えられているわけですが、そのマルコによる福音書もきちんとこの記事を伝えている。ですから、これは、ペトロが、常々自らの口で語っていたことだったからではないでしょうか。ペトロにとって、その後の自分自身の行き方を形作る根源的といってよい体験だったからではないでしょうか。

話は少し先の所なのですが、ヨハネによる福音書の第21章ですが、故郷に帰り、ティベリアス湖畔(ガリラヤ湖畔)で漁師の生活をしていたペトロに復活の主が近づくのです。そして「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と三度問われるのです。三度も同じ事を問われたペトロは悲しくなるのですが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。
第13章ではペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」と主イエスに言ったのです。しかし、ここ(21章)では、主よ、わたしはあなたを愛しています。わたしはあなたのために命を捨てるとは言っていない。そうではなくて、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです、となっている。
わたしがあなたを愛していることは、主よ、あなたが知っておられる、あなたがわたしに与えてくださった、支えてくださったと言っている。あくまで主イエスが先であります。こうして復活の主と出会ったペトロは、主に従っていく者として生まれ変わって行くのです。ペトロは殉教者になったと伝えられております。今朝の箇所は13章と21章の間にあってペトロのその後の行き方を形作る本当にもっとも深い体験だったのではないでしょうか。


自分の意思の力、自分の決意をもって人を愛するということ、わたしたちはこのような生き方ができるものと考えやすいものなのかもしれません。しかし本当のところはどうでしょうか。ペトロが主を三度否んだと言う聖書の記事は他人事なのでしょうか。わたしはあなたのために命を捨てますとまで言ったペトロ、しかし彼は主イエスを裏切ってしまう。そんな深い罪を犯したペトロに対して、復活した主は、あなたはわたしを愛しているか、と近づいてくださったのです。どんなに深い罪を犯してもイエス様はわたしたちを愛してくださっている、愛し続けて下さっているのです。どこまで深く、そしてどこまで徹底した主イエスの愛なのでしょうか。

最後になりますがヨハネの手紙4:9−10をお読みしたいと思います。


「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(お話:平野一男さん)

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第41回「裏切られ逮捕される」(ヨハネ第18章1節〜11節)2005年2月27日
教会歴では、今の時期をレント、日本語では受難節と言います。イエスキリストの受難、十字架への苦しみの道を覚えて過ごすときです。
早朝礼拝でも今日から、キリストのご受難へと学びが進んでまいります。今日のところは、イエス様が、時の権力に逮捕されていくという、その出来事を通して学ぶことになります。そして、来週、再来週は裁判の出来事。そしていよいよその次の週が、十字架につけらるというそのような流れになっております。その受難の最初として、今日の御言葉の箇所を読みたいと思います。




聖書
18:1 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。
   そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。
18:2 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。
   イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
18:3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。
   松明やともし火や武器を手にしていた。
18:4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
18:5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。
   イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
18:6 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
18:7 そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。
18:8 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
18:9 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
18:10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。
   手下の名はマルコスであった。
18:11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」



さて、1節を見ますと、最初に「こう話し終えると」とありますように、ここまでイエス様は弟子たちに何かを語っておりました。それは実に13章から17章までの長きにわたって語られた告別の言葉であり、また教えでありました。主は、ご自分がいよいよ十字架につくその時が近づいたことを悟り、弟子たちの足を洗われました。それは、わたしがあなた方の罪を洗うために十字架につくのだという、そういう意味でありましょう。そして、私こそ道であり真理であり命なのだと教え、わたしが去っていっても、聖霊が、神の霊が与えられる。平安を与える。だから大丈夫だ。しばしの悲しみは、喜びに変わる。わたしはこの世に勝っている。だから勇気を出しなさいと、そのように語られ、最後に弟子たちのために、長い祈りをなさった。
それが13章から17章までの内容です。そして、それは、十字架につけられる前の晩の、つかの間ではありますけれども、まことに麗しいイエス様と弟子たちとの愛の交わりの時、温かな光に包まれたような、一時であったと言えると思います。

しかし、今日のところから、再びイエス様は外の闇の世界、十字架の死が待ちかまえている闇の世界へと、出て行かれます。

18:1 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。
18:2 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。


イエス様と弟子たちは、最後の食事の席から立ち上がって、ギドロンの谷の向こうにある園に向かわれたとあります。この園とは、他の福音書を見ると、ゲッセマネの園と呼ばれるところですけれども、ここで大切なことは、この場所はイエス様と弟子たちが良く来ていた場所だということです。
そして、2節にありますように、だびだび来ていたこの場所を、イエス様を裏切るために一時立ち去っていた弟子のユダも、知っていた。これは大切なポイントです。

つまり、ヨハネの福音書が私たちに告げているのは、イエスキリストは、たまたま偶然にここで捕らえられていくのではなく、むしろ、裏切ろうとしていたユダが知っている場所に、あえてイエス様は出むいてこられたと語っているのです。

それはつまり、ここから先に展開していく受難の出来事は、単なる偶然が度重なったとか、また、人間の悪賢い計画によって、イエス様が十字架につけられたのでもなく、イエス様が自ら、あえてこの場所にやってこられたことが示しているように、この受難の出来事の主導権は、実はイエス様にあるということを、意味しています。
人間の目には、人々の思い通りに事が運んでいるように見えます。人間の悪が、この世界の闇が、イエス様を好きかってに扱っているように見えます。しかし、実はそうではなく、この受難の出来事の主導権を握っておられるのは、イエス様ご自身なのだということを、ヨハネの福音書は告げている。

このことは、すこし前の箇所でも、イエス様が語っておられますので、開けてみたいと思います。10章18節です。

10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

ここにおいてはっきりと、イエス様はご自分から命を捨てるのだといわれていますように、すべての主導権は実はイエス様にある。神の愛をしめすために、イエス様はご自分から命を捨てようとされる。ゆえに、ご自分を捕まえに来た人々に、驚くことも、恐れることもなく、最後までイエス様は毅然とした態度で臨んでおられるのです。

それに対し、3節を見ますと、こうあります。
18:3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。

とありますように、イエス様一人を捕えにやってきたのは、ユダにつれられた一隊の兵士でありました。当時の一隊の兵士というと、通常600人、少なく見積もっても200人だといわれます。しかも、一人の人を捕まえるために、彼らは武器を手にしておりました。その用意周到な姿に、なにか、捕まえにきた人間の側の、恐れの心が現れているようです。その日はユダヤの過越の祭りの前の日で、満月の夜でありますから、夜でも、松明やともし火など必要ないほど明るかったでしょう。
しかし、彼らは人工の明かりを照らし、身を守る武器を持ち、大人数を率いてでなければ、イエス様のところに来られませんでした。 そこに恐れる人間の姿を見ます。人は常に、何かを恐れ、自分の身を守ることに躍起になる。そんな人の姿と、しかしそんな人間を愛し救うために、命を捨てることさえ恐れず歩んでいかれるイエス様の姿が、見事に対比されている、そんな箇所です。

さて、4節をみますと、こうあります。
「18:4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。」

最初の第一声を発したのは、捕まえに来た人々ではなく、イエス様でありました。このようにして、イエス様の側の主導でこの逮捕劇は進んでいく。まるでイエス様はこの出来事を前へ前へと進めてさえいるようであります。
さらに先に読み進めてまいりますと、イエス様に「誰を捜しているのか」と問われ、「ナザレのイエスだ」と答えた彼らは、イエス様に「わたしである」と言われて、おもわず後ずさりし、地に倒れたと、そのように記されております。

つまり、この「わたしである」というイエス様の言葉には、、彼らを地に倒すほど圧倒的な威厳がある言葉であったということでありましょう。

この「わたしである」という言葉は、英語では I am と訳されますけれども、原語のギリシャ語をみますと、これはエゴーエイミという言葉であります。そして、このエゴーエイミという言葉は、特別な意味を持っている言葉です。
その昔、旧約聖書の時代、モーセという人物の前に初めて神様が現れた時に、わたしは「わたしはある」という者であると自己紹介されました。英語では、I am Who I am と訳されますけれども、その「わたしはある」というI am という言葉が、ギリシャ語で言うところのエゴーエイミであります。でありますから、ここで、イエス様は、捕まえにきた人々に向かって、「わたしである」「エゴーエイミ」と言われたということは、それは、わたしはあってあるもの、すべての存在の源なる存在であると、そのように気迫を持って語られたのだと、そう受け止めることも出来ます。
まさに、私は神であるとさえ受け止められる、このような言葉を語られたその気迫に、主を捕まえに来た人々が圧倒され、地に倒れてたのだと、そのように読めるのであります。

しかしここでもっと大切なメッセージは、そのような威厳ある言葉を語ることのできるお方が、実に無力になり、人に捕えられていくという、そこにこそ、今日の聖書の告げているメッセージなのであります。

そのひと言で兵士達を地に倒れさせるほどの威厳と力をもつお方が、無力なまま人の手に落ちていく。
弟子のペテロはその無力さに耐えきれないのです。それゆえに彼は10節で、剣を抜いて、手下に斬りかかります。
弟子達には、このイエス様の無力さが理解出来ず、耐えきれない。その結果、彼らはこの後イエス様を見捨てて逃げ去るのです。
きっと、ここでイエス様が剣を抜いて戦ってくれたならば、弟子達はあるいは逃げ出さず、死ぬまで戦ったのかもしれません。
人間にとりまして、ある意味、無力であることほど耐え難いことばない。無力であるより、戦うほうがある意味楽なことであります。無抵抗であるよりは、抵抗するほうが楽なのです。それゆえに、テロというものもなくなりません。力には力を。それが人間です。弟子のペテロでさえも、人を救うためには無力ではなく、剣をぬくべきであると、斬りかかったのでありました。

しかし、そんなペテロにイエス様は、11節で「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」とそう語ります。

父がお与えになった杯とはなにか。
それは、神は人を愛するがゆえに、人の罪をキリストに背負わせ、私たちの身代わりに十字架につけようとされた。その十字架の杯のことであります。神は、ご自分の御子キリストを犠牲にしてまでも、私たちの罪を赦し救おうとされた。キリストはまさにそのために、無力な人として十字架に死ぬという杯を飲もうとしておられるのであります。

キリストは人を愛するがゆえに、あえて無力なものとなられ、捕えられた。それが今日の聖書の出来事であります。
そして忘れてはならないのは、この出来事においておいてあくまで主導権を握っておられるのは、イエス様であったのだということであります。

人間の力が強いから、キリストは捕えられていくのではない。
何百人もの兵士が武器を持ってやってきたからイエス様は捕えられていくのではない。
人が罪深く、この世の闇が深いゆえに、イエス様はその闇に負けて十字架につけられるのではないのであります。
そうではなく、神は愛であるから、そしてキリストは世の光であるから、罪深い私たちを救うために、自らすすんで十字架という杯を飲んでくださった。

ですから、今日の冒頭で、今はレント、受難節の時期だと申しましたが、このキリストの受難を覚えるということは、ただ、その苦しみの様を覚えるということではなくて、まさに、ご自分からすすんで命を捨ててくださったキリストの、その私たちに注がれた、絶大なる愛をこそ覚えるときでありたいと願うのです。

十字架、そしてキリストの苦しみの出来事とは、あえてその道を歩まれたイエス様の、絶大なる愛の証であります。そのキリストの愛を心に受け入れて、歩んでまいりたいと、そう願っています。(お話:藤井秀一牧師)

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第40回「イエスの祈り」(ヨハネ第17章1〜5節,20〜26節)2005年2月20日
聖書
1  イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。
  「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
2  あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。
  そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
3  永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
4  わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
5  父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。
  世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。


20 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。
  彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。
  そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。
  わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。
  こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、
  彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
24 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共にあらせてください。
  それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
25 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、
  この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。
26 わたしは御名を彼らに知らせました。
  また、これからも知らせます。
  わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。



昨年の春以来、ヨハネの福音書を通して、イエスさまのご生涯を辿ってまいりましたが、13章では、イエスさまが弟子たちと夕食を共にされた、いわゆる最後の晩餐の記事を読みました。その時、イスカリオテのユダが、イエスさまを敵の手に売り渡すために席を立ってゆきますが、そのあと、弟子たちに別れの説教をなさる。
いわゆる告別説教と呼ばれる教えで、それが14章から16章まで、実に聖書の6頁に及ぶものです。
心を騒がせるな。神を信じなさい」という言ではじまり、「あなたがたには世に苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」という言で終わっています。その間、イエスさまの眼差しは、この世に残してゆかなければならない愛する弟子たちに向けられていたと思いますが、すべてを語り終えたイエスさまの目は、今や、天におられる父なる神へと向けられます。
1節「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた」となっておりまして、17章全体に、その切々たるイエスさまの祈りが記されているのでございます。

この17章につづく18章では、既に見出しが「裏切られ逮捕される」となっておりますので、最後の教えを語られたあと、そして逮捕される直前という、実に切羽迫った時間の中で捧げられた祈りであると思います。

常に愛読し、また、このようにお話をさせていただきます時の参考にさせていただきます、加藤常昭先生の説教集の中で、先生はこの17章を「まるでイエスさまが神さまに電話をかけているのを、傍らで弟子たちが聞いているようだ」と表現しておられますが、イエスさまはこの時、死を目前にしながら、何を祈られたのでしょうか。
それはひたすらに、残してゆく弟子たちのこと、そして、世にあるすべての人々のことであります。他のことは祈っておられません。
私共は昨秋13章を読みましたが、その13章の冒頭の言に「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とありまして、まさに今、世にいる弟子たち(即ちご自分がこの世に残してゆく人々)を愛し、愛し抜かれる中で、こうして祈っておられるのです
。この祈りは古くから「大祭司イエスの祈り」と呼ばれますが、大祭司とは神さまに人々をとりなして下さる方のことで、この神へのとりなしの祈りもまた、告別のお言と共に、多くの信仰者を励まし、慰め、力づけて下さるものです。


では内容をみてゆきたいと思いますが、何しろ長いお祈りで、17章を全部みてゆくのは無理なように思われますので、はじめの部分1節〜5節に焦点をあてたいと思っております。

しかし、これがまたなかなか難しく、解釈するのに苦労する内容でございまして、十分なことは出来ませんが、ただ、「聖書にはこのようなすばらしいことが記されている」ということをお伝えしたいという想いの中からお話し申し上げたいと思います。

1節、祈りの最初の言は「父よ、時がきました」です。イエスさまはよく「」ということばを口にされました。「時がきた」或いは「今は、その時ではない」といったふうに。
今日の1節の言とよく似た言が12章23節で語られました。よく知られている言で、
12:23「人の子が栄光を受ける時がきた。よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」と。
これは弟子のアンデレとフィリポに語られたみ言ですが、それと同じ意味のことを父なる神に向かって語っておられるのです。
いよいよ一粒の麦として地に落ちる時がきました。やがて豊かな実を結ぶために」と。私共は今読んでいるこの1節の短い言にこめられている深い意味、この祈りが18章以下の十字架という出来事を照らし出しているということに気がつかなければなりません。

18章以下の十字架の出来事は、人間的にみるならば、醜く、無惨で、あまりにも人間の残酷さがむき出しになった、普通に読んだらとても読むに耐え難いことですが、しかしその前に、この醜さ、この残酷さを負われるイエスさまご自身が、その事柄をこのように祈っておられる。「父よ、その時がきました」と。そしてそれは「豊かに実を結ぶための栄光の時だ」と祈っておられるこの長い祈りの光に照らしてみるから、その残酷さに堪えて、読むことが出来るのではないでしょうか。
今日学ぶこのイエスさまの祈りがあるから、あの悲しい、苦しい、一見絶望的な十字架を神のみわざ、救いの象徴とみることが出来るのです。

とくに、イエスさまが、十字架の出来事を、はっきりと「栄光」としておられることに注目したいと思います。
1節から5節のこの11行の間に「栄光」という言を5回も言っておられます。うっかりすると、見落とし勝ちで重要な言が「世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」というみ言です。
ヨハネ福音書の1章が「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と書きはじめられ、この言というのは、イエス・キリストのことであり、そのあとの14節の「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」というのは、この世においで下さったイエスさまのご生涯のことを述べているのです。即ち、今日のところの5節の「世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」と関連いたします。そして、このこと“イエス・キリストは世のはじめから神と共にいた神であり、その方が、この世に肉体をもってこられたのだ、イエス・キリストは神なのだ”ということが著者ヨハネの言いたいことでありまして、ヨハネ福音書を一貫して流れているスピリットなのです。
ですからこの5節「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」の言は見落とし勝ちですが、見落としてはならない重要な言だと思います。

世の創られる前から持っている栄光を輝かせるその栄光とは、王冠をいただき、ありあまる富をもって権力をふるうことではなく、その全く反対のこと、むち打たれ、唾つばきをはきかけられつつ、十字架上に死ぬことによって輝く栄光なのです。

そのようにして、主イエスさまはこれから十字架という事をなさろうとしておられる、それはどのようなことなのでしょうか。
2節です。この訳は一寸難しい言葉ですので、いくらか分かり易い、角川文庫から出ている、松村あき子先生の訳で読んでみますと
私は、あなたから委ねられた人々のすべてに、永遠の命を授け、そうすることによって、あなたの栄光を表します。そのためにこそ、あなたは私に全人類を支配する権威をお与えになったのです」となっていまして、この言は、私共が愛誦する3:16の「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」というみ言と合わせて読むとよく分かり、納得がゆきます。

しかし、そのあとに続くみ言、3節「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とあります。
皆さま、どうでしょうか、永遠の命という言葉を私たちは時折聞き、また聖書の中でも読みますが、何か漠然として頼りなく、明確でないものをお感じになりませんか? しかし、ここに明確に記されていることは「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」であります。
私共が日常会話の中で用いる“永遠の命”という言葉は“人は死んで肉体は滅んでも、魂は永遠に残る”といった霊魂不滅説とか、或いは、地獄と極楽、そして美しく楽しい天国といったようなこととの関連の中で考えます。
それも、それぞれの信仰の中で持つ永遠の命というイメージですが、しかし、ここではそのようなことは一切語られていません。「他の個所でも、永遠の生命をイエスさまが語られるとき、天国についてくわしく語られたことはないし、霊魂の不滅の約束を私共に与えて下さってはいない」と加藤常昭先生が書いておられるのを読んで、私も成る程と、そのことに気付かされました。

イエスさまが示されていることは、もう一ぺん読みますと「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」です。これはなかなか解釈の難しい言葉で、私自身、100%納得するまでには至っていないのですが、「イエス・キリストを知ることです」と断言しておられる「知る」がキーワードではないかと思いました。


思い出していただけると幸いなのですが、かつて10章の「わたしは良い羊飼いである」という個所を読んだとき、聖書の世界では「知る」という言葉と「愛する」という言葉は語源では同じ意味の言葉だとお話し申し上げました。ここの個所の「知る」という言を「愛する」という言に置きかえて読むと少し見えてくるか、とも思いましたが、テニィという聖書学者は、この「知る」と訳されている言を、ギリシャ語からすると“単に知識において知るだけでなく、むしろ“生きた触れあい”という意味をもっている”と述べています。
永遠から永遠へと生き給う神、そしてその神からの使命を帯びてこの世においで下さったキリスト、その神とそしてキリストと生きて触れあう、愛する、それができれば、既に私共は永遠の命に生きているのです。天国がどんなところか問いただす必要もない、死んでからあとのことを詮索する必要もない。永遠から永遠につらなる中から私共の中にお立ち下さったイエスさまにより頼んで生きる私共は永遠の命をすでにいただいているということで、このことをこの3節のみ言によって信じてゆきたいと思います。

私共は、このことを信じることの出来る言を、更に読み進んだ24節に見出すことが出来ます。
24節「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」という言葉を、原文に忠実に訳すならば、「共におらせることにいたします」或いは「それをわたしは志します」というふうになるそうで、この言葉は、ご自分が世を去って、父なる神のみ許に帰るに際し、人々を、なおいつまでもイエスさまご自身の傍らに置いて下さるという決意を述べておられる言葉です。
この言葉は、これから人類すべての罪を一身に背負って、十字架にかかって神さまにとりなしをするという、救いの行為の裏付けがなくしては言えない言葉でありまして、イエスさまはこれから現実に十字架への道を歩みはじめるにあたり、人々の救いの完成の願いと決意を述べておられるのだと思います。
主イエスさまが自らの口を通して祈られたことでありまして、ここにこそ私共が永遠に生きる道があるのです。旧約の時代には、救いはイスラエル民族に限られていましたが、イエスさまが神さまに、このようにとりなしの祈りをして下さり、そのとりなしの実行として、十字架による救いを完成して下さったことによって、救いはまさに「一人も滅びないように」全世界すべての人々に及ぶことになりました。イエスさまによって、黎明のようにもたらされた新約時代の到来です。


私共の人生は、楽しいことばかりではありません。いや、むしろ苦しいことの方が多いかも知れません。
でも、主イエスさまがこのように祈って下さった、その神さまへのとりなしの祈りにすっぽりと包まれて、今、私共は生きている。
だから、その恵みの中で、周囲の人々とこの恵みを分かち合いながら、どんな情況にあっても、自由に、勇気をもって生きてゆきたいと思っております。(お話:工藤渓子さん)

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第39回「悲しみが喜びに変わる」(ヨハネ第16章16節〜24節)2005年2月13日

聖書
16:16  「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
16:17  そこで、弟子たちのある者は互いに言った。
    「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
16:18  また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
16:19  イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。 
    「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。
16:20  はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
16:21  女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。
    しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
16:22  ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。
    しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。
    その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
16:23  その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。
    はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
16:24  今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。
    願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」



おはようございます。

今朝の聖書のみ言葉はイエス様の最後の「告別の説教」とでも言えるのでしょうか。その後半にあたります。
この箇所はヨハネが他の福音書には詳しくは記述されていない最後の晩餐の後に語られたことを詳細に示したものです。
このように豊かに語られたイエス様の言葉はどのようにして記録されたのでありましょうか。
それは、この福音書の著者はイエス様の従兄弟にあたるゼベタイの子・ヨハネであると多くの聖書研究者が指摘しています。
ですからヨハネは幼い頃から顔見知りであり、さらにイエス様と伝道開始の初期から寝食を共にしていたのですから、語られるひと言ひと言、漏らさずにを心に留めていたと考えられるのです。
宗教改革を進めたマルティン・ルターもイエス様の言葉の豊富さゆえにヨハネの福音書こそ第一に大切なものであると言い切っています。

さて、最後の晩餐の後、この晩の弟子たちの脳裏にはこれから起こるであろう事態をどのように理解していたのでしょうか。

弟子たちも皆、何が起きるのか予想も出来ず、ただ当惑していたことでしょう。おそらくはイエス様を自分たちから失ってしまうであろうこと以外には何も判らなかったのではなかったでしょうか。このような弟子たちに対してイエス様は16章の5節以降からイエス様が去った後には聖霊の助けが弟子たちを含む全ての人々に顕されることを示してくださっています。

弟子たちはイエス様の言葉に戸惑います。

16:17 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
16:18 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」


ヨハネがこの福音書を書いた頃(聖暦70年ころ)には、すでに教会に対する、そしてクリスチャンに対する迫害が始っていたのです。
初代教会の人々のなかにも迫害によって信仰をやめてしまった人がいたのも事実です。このようになった人々は迫害に抵抗するほどにも強くなかったし、信仰に踏みとどまる忍耐を持っていなかったのです。イエス様はこのようなことが起こる事をよくご存知でした。ですからヨハネはイエス様の言葉を思い起こしたのでしょう。


今朝のみ言葉はイエス様が地上から去られた後に起こるであろう事に対してイエス様がユダヤの人々の伝統的な思想に根ざした考えを用いて語られたものです。

すなわち、ユダヤの人々はあらゆる時代を通じて時代は二つの時代に別けられると考えておりました。今、この時の現代とこれから来るべき時代との二つを考えておりました。
現代は全くの暗い時代であり神の裁きの下に置かれている時代です。、それに対して来るべき時代は神の祝福の中にある時代である。そして、この二つの時代の中間には新しい時代をもたらすメシアの到来に先立ち、「主の日」がある。この日は恐ろしい日、悲しみの日と考えられておりました。


<ペテロ第二>
3:10 主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。


ユダヤの人々はこの恐ろしい中間の時代を習慣的に「メシヤ時代の陣痛」と呼んでいたのです。

16:21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。
   しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。


イエス様は大きな苦難と悲しみの時から、それを克服する瞬間、そして、その後に到来する出来事に対して私たちクリスチャンに大いなる啓示をしてくださいました。

それは「悲しみは喜びに変わる」にというものであります。

クリスチャンであるがゆえに襲ってくる悲しみがあるかもしれない。しかし、これだけで終わるのではなく悲しみの後には必ず喜びが来ることを心に留めておきなさいとおっしゃっているのです。

仮に私たちが悲しみを受け入れる事を拒否したらどうでしょうか。悲しみにより傷つく事を拒否したとしたらどうでしょうか。
それは私たちがイエス様に対しても心を閉ざし、親密な関係となることを拒否してしまうことにもなるのです。
もし、私たちが悲しみをありのままに示して悲しみを受け入れるのならば、私たちの心にはなんの障壁も無くなり、イエス様が心にとどまってくださり悲しみの真ん中に臨在されるのです。


16:22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

このような悲しみのときに単純ですが効果的な祈りがあります。自分自身の内側で何が起こっているかを語るのです。

「主イエス様、ここにいてください。そしてすべてをあなたが解決してください」

このように祈り続けるときにイエス様がその場にいてくださります。悲しみや心配、煩いが小さくなり、イエス様の存在が私たちの自由を回復させてくださいます。このことが実現すれば私たちは喜びに満たされるのです。

そして、この喜びには二つの祝福があるのです。

ひとつにはイエス様が与えてくださる喜びは決して取り去られるものでは無いということです。

そして、イエス様が与えてくださる喜びは完成に至ると言う真理であります。

人が人の力のみで喜びを完成させようとしても、それはたとえ最大のものであったとしても尚、不十分・不完全な要素があり、何かが欠けていると想いに捕らわれてしまいます。そして、今の喜びは永くは続くまいと予感してしまうものなのです。

私たちにとってイエス様の祝福の中にある喜びは、過ぎ去った過去の苦しみ・悲しみを全く忘れさせてしまう程の大きな恵みだと言えるのです。

16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。

16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

そのようになったときには私たちは信頼する父としての神様の存在に気付くのです。そして、父なる神様は私たちと会う事を喜んでくださることを。また、そのような父なる神様には何でも話すことができると信じている子供のような私たちであることを知ることになるのです。

けれども、私たちは愛して信頼してくださる父なる神様が私たちの求めに対して時には「待ちなさい」あるいは「否」とおっしゃる事もあることを自覚しておかなければなりません。親が子供を見抜いているように神様もそれ以上に私たちの必要と将来のあるべき姿へと導いてくださる力があるのですから私たちはどのような願いをしたとしても最後に「御心のままに」と言わざるを得ないのです。

この神様と私たちの新しい関係はイエス様によってのみ実現するものであることが今朝の聖書のみ言葉から示されるのです。(お話:郷 秀男さん)

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第38回「迫害の予告」(ヨハネ第15章18節〜第16章4節)2005年2月6日
聖書
第15章
18 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。
19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。
  だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなた方を世から選び出した。
  だから、世はあなたがたを憎むのである。
20 『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。
  人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。
  わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
21 しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。
  わたしをお遣わしになった方を知らないからである。
22 わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。
23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。
24 だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。
  だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。
25 しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
26 わたしが父のもとからあなたがたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、
  その方がわたしについて証しをなさるはずである。
27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

第16章
1 これらのことを話したのは、あなた方をつまずかせないためである。
2 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。
3 彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。
4 しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」



みなさんお早うございます。今朝も聖書のみ言葉から聞いてまいりましょう。

今、みなさんとヨハネによる福音書15:18〜16:4を読みました。
前回「イエスはまことのぶどうの木」という箇所からみ言葉を聞いたことと思いますが、そこからの続きのところであります。
今朝の箇所で、イエス様は何度も「あなたがた」と言っておられます。ここで呼びかけられている「あなたがた」とは言うまでもなくお弟子さんたちであります。イエス様はお弟子さんである、「あなたがた」をどのように呼んでいたでしょうか。イエス様は「友」と呼んでおられます。どのような「友」なのでしょうか。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である。もはやわたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ11:15−16)

前回の聖書箇所を大分長くお読みしたのですが、ここには実に大切な主イエス様の教えが込められていると思うのです。
あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだのだと言われます。
互いに愛し合いなさい、これがわたしの命令である、イエス様はそのように言われるのです。
わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である、と。

イエス様がこの言葉を語られてからどのくらいの時間がたったのでしょうか。この言葉は今も生きている、そのように思います。
わたしたちキリスト者はそのように生きたいと願うのであります。
今朝の最初の聖書箇所「世があなたがたを憎むなら」(ヨハネ15:18)ということの意味は、イエス様の愛の命令によって生きる者たちをこの世が憎むと言うことであります。その時にはあなたがたを憎む前にわたし、イエス・キリストを憎んでいたことを覚えなさいと言うのです。さらに『僕は主人にまさりはしない』とわたしが言った言葉を思い出しなさいとも言われます。僕の受ける待遇は当然主人の受ける待遇に準ずる、主人と同じ運命が待ち構えていると言うことです。まさに弟子たちも世の憎しみを受けることを逃れることはできないと言っておられるのです。新共同訳聖書が小見出しとして付けた「迫害の予告」であります。

世の人々は、わたしの名のゆえに、わたしを迫害したようにあなたがたをも迫害するようになる、なぜなら、世はわたしをお遣わしになった方を知らないからである、とイエス様は言われます。
これは、もし人がイエスを神から派遣されたキリスト、神の啓示者と信じるとするならば迫害を受けると言うことであります。なぜなら、彼らはわたしをお遣わしになった方を知らないからだといいます。イエス様につながっている人々とこの世に属している人々との対立がはっきりと示されています。
イエス様は、わたしが来て彼らに話さなかったなら彼らに罪はないであろう、だれも行なったことのない業を彼らの間で行なわなかったら彼らに罪はないであろうと言われる。
イエス様はまずユダヤ人の所へ遣わされました。ですからユダヤ人はイエス様の言葉と業を自分の耳で聞き、自分の目で見たのです。それなのに彼らはイエス様を神の御子として認めようとしなかった。そうした彼らの態度は弁解の余地のないものだということでしょう。
しかし、それは『人々は理由もなく父を憎んでいる。』という彼らの律法の書に書いてある言葉(詩篇の35:19、69:4)が実現するためだというのです。


26節に弁護者という言葉が出てきます。それは父のもとから出る真理の霊であると説明されています。この弁護者はわたしについて証をするとイエス様は言われます。そして弁護者とともにあなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから証をするのだと言われる。
わたしについて証をする、これはイエス・キリストがいったいだれであるかということを証する事です。そしてその弁護者は父のもとから派遣されるのですから、これはイエス様が十字架の贖いの死を遂げられて復活して後のことになります。実際に弟子、使徒たちは復活の主イエスに出会ってから変えられ、世界中に神の子イエス・キリストのことを伝えて行く、宣教業を担っていきます。


第16章で、イエス様はわたしがこれらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためなのだと語ります。
これから弟子たちを待ち受ける困難や危機的な状況にあっても、彼らが倒れたり信仰を捨てないようにするためにあらかじめこれらのことを話しておられるのです。そして「世」に属する人々がこういうことをするのは父をもわたしをも知らないからだといわれます。


わたしは今朝の聖書箇所に耳を傾けていくうちに、ヨハネによる福音書の第3章16節〜17節のみ言葉を心に思いました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ13:16−17)

今朝の聖書箇所は「世」がイエスを神の子と認めずにこれを拒むことが記されています。そしてイエスを神の子と信じて告白する者をも拒み、迫害することが予告されています。
この後、主イエスはゲッセマネの園で汗を血の滴りのように流して祈り、十字架への道を歩んでいかれます。
迫害といいますが十字架に勝る迫害はないのではないでしょうか。
この世は主イエスを拒みました。しかし、そのような「この世」に属する人々のために主イエスは十字架につかれたのです。神様はそのひとり子であるイエス・キリストをお与えになったのです。この世はイエス・キリストを十字架によって裁きました。
しかし、神は御子を信じるものが独りも滅びないで永遠の命を得るために、その独り子イエス・キリストをお与えになったのです。

今朝の箇所ではイエス様は「あなたがた」と何度も語りかけてきます。最初に述べましたが、あなたがたとは弟子、使徒たちを指します。しかしどうでしょうか。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。互いに愛し合いなさい。わたしの命じることを行なうならば、わたしの友である。」というイエス様の言葉、それは時空を越えて、今このわたしに語りかけておられるの言葉なのではないでしょうか。(お話:平野一男さん)

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第37回「イエスは真のぶどうの木」(ヨハネ第15章1〜5)2005年1月30日

聖書
15:1  「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2  わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15:3  わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15:4  わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5  わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。



今日もご一緒に御言葉を学ぶことのできますことを、こころから感謝致します。
今日は実はこの後、主日礼拝において信仰告白がおこなわれ、来週バプテスマ式が予定されています。

信仰告白といいますのは、つまり、この私はイエスキリストの救いを信じ、キリストの言葉を信じ、その言葉に従って生きていきますと、そのように皆さんの前で、その思いを告白するということであります。
そして、信仰告白を伺うたびに、これは実に不思議なことだと思わされます。
誰も、2000年も前に生きたイエスキリストを、見たわけでもありませんのに、その方を信じると告白する人が、2000年もたった今でも、こうして起こされてくる。それは、聖書のなかの、キリストの言葉によって捉えられるからでありますけれども、しかし、それにしても、2000年も前の人の言葉が、一人の人の人生を捉えてしまう不思議さ。たった100年前の哲学者の言葉でさえも、そんな力はない。今時、マルクスの言葉に捉えられて人生変わってしまう人などいないですね。

しかし、2000年もの前に、パレスティナの片田舎に生きた一人の男性の言葉には、今も捉えられる人がいるのであります。
そして、そんなことをしてもなんの得にもならないだろうに、その人の言葉を信じ、自分の人生を委ねよう、わたしの救い主と告白しようとする人が、後を絶たない。これは本当に不思議なことだと思います。

その不思議な導きについては、先週お話し致しました。それは、自分の信心の力でも、思いこみでもない。それは私たちを助け導く、神の霊、聖霊ともいいますけれども、その聖霊が働いて、2000年前のキリストの言葉が、今のこの私への語りかけの言葉となるということを、お話し致しました。

先週の聖書の箇所で、イエス・キリストは、弟子たちに言いました。
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」 
それは、十字架に死んだあと、目には見えなくなっても、聖霊として、私たちの内に、戻ってこられる。共にいてくださる。だからあなた方をみなしごにはしないという、そういう意味であります。その聖霊の働きゆえに、それから2000年も経た今も、そして今日も、イエスキリストを告白する人が与えられているわけであります。

さて、今日の聖書の箇所は、その、今は目には見えないけれども、確かに共におられるイエス・キリストに、しっかりとつながっていなさいという、そのようなメッセージのたとえ話であります。

15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」

これはめぐみ幼稚園の子どもたちも暗唱聖句として覚えたりいたしますし、子ども達の賛美歌にもなっている、大変有名な御言葉です。
これはアレゴリー、日本語でいうところの「寓意」というものですね。つまり、一つ一つのキャラクターに意味を持たせているたとえであります。
ぶどうの木とはつまりキリストのことであり、、農夫とは父なる神のこと、そして、枝とは私たちのこと
そのように一つ一つに意味を持たせているたとえ話でありますから、大変子どもにも分かりやすい。子どもによく、ぶどうの絵を描かせて、みんなも良い実を結ぶように、イエス様につながろうね、と、そのように教えたりします。
そういう意味で、大変分かりやすすく、かつ、心に残る大変優れたたとえだと思います。

イエス・キリストにつながる。それはぶどうの木に枝がつながるようなものだというイメージ。それは言葉をかえていえば、キリストの語りかけに応答する、キリストの言葉と関わりをもつ人となるということであります。
キリストの言葉に耳を傾け、キリストの言葉に教えられ、導かれ、慰められ、罪を示され、罪を赦され、キリストの言葉によって、愛をいただくものとなる。そのようなキリストとの人格的な関わりを持つ人となる。それが、キリストにつながるということであります。
そして、それを実現させてくれるのが、先週お話しした、神の霊、聖霊の働きなのであります。

ですから、このぶどうの木のたとえ話は、なにか私たちが頑張って、イエス・キリストにつながりましょうという、そういうお話ではないのであります。そうではありませんで、聖霊がそのように導いてくださるということであります。

たとえばこういうことがある。昔は聖書を読んでも、ちっともぴんと来なかったのに、なぜか今、イエス・キリストの言葉が心に響く。
キリストの言葉を聴くとき、ああ、そうだった。そうなんだと、その言葉が心に響く。迫ってくる。
こころの扉がノックされているような、また、自分でも気づかなかった心の暗闇に、光が当たったような心の痛み、そして、同時に、赦しの言葉に、慰めが心に染みわたるような、そのようなまさに心の奥底、魂に、キリストの言葉が響くということが起こるとするなら、それはまさに聖霊の働きであり、それがキリストとつながるということであろうと思います。
キリストにつながる。それは、キリストの言葉に応答する、レスポンスする、そういう人格的な関係、交わりに生きるものとなる。それが、キリストにつながるということであります。

さて、先に進みまして、ここで一つ注目したいのは、イエス様は「わたしはぶどうの木」と言われたわけですけれども、よく読むと、
「わたしはまことのぶどうの木」と言われているという点に注目したいと思います。
ここでイエス様は、「まことの」とあえて言っています。「まこと」と言われるからには、他のぶどうの木とは違うのだということでしょう。

実は、旧約聖書に、沢山のぶどうの木のたとえがでてきます。そしてそこで言われているのは、イスラエルの民は神が植えたぶどうの木であったのに、そのブドウの木からは良い実が実らなかったと、そのようにたとえられているわけであります。
神様から離れて、良い実が結べなかったイスラエルの民。それをぶどうの木に喩えている旧約聖書をふまえ、イエス様はここで、
「わたしはまことのぶどうの木」と言われている。つまり、わたしは、そのようなブドウの木とは違う。実を結ぶようでいて、結ばないような、また偽りの実を結んでしまうようなぶどうの木ではない。わたしは、まことのぶどうの木。本当のいのちと愛が注がれる本物のブドウの木であると、そのような意味が、この「まことの」という言い方に込められている。
そして、このまことのぶどうの木、イエス・キリストにこそつながる人々の集まりを、それを教会というのであります。

ですから、教会にとって大切なのは、本当のブドウの木につながるということであります。かつてイスラエルの民が偽物のブドウの木につながって、偽りの実をむすんでしまったようにならないように、本物の、まことのブドウの木である、イエス・キリストにつながりつづける。それが実に大切なことなのです。

しかし、残念ながら皆様もご存じのとおり、教会の歴史を見るときに、いつも教会は正しい道を歩んでこれたわけではありませんでした。何度も道を踏み誤ってしまうことがありました。
有名なところでは十字軍というものがあります。また、先の戦争において、ドイツの多くの教会は、あのヒットラーを支持してしまった。そういう汚点があります。
教会なのに、なんでそんなことをしてしまうのか。そう批判されても仕方がないと思います。なんでそうなってしまうのか。それを一言でいうなら、まことのブドウの木につながるのではなく、偽りのぶどうの木につながってしまったからであります。
キリストにつながる。キリストの言葉に耳を傾けるのではなく、ヒットラーにつながる。ヒットラーの言葉に耳を傾けてしまったわけであります。まことのブドウの木ではなく、偽りのブドウの木につながり、それで自分たちは安泰だとしてしまった。そこに間違いの本質があります。

しかしそんなとき、キリストの言葉にこそ従うべきではないかと、闘い、捉えられ殺されてしまったクリスチャンもおりました。そして、後の時代になって、その人たちこそが正しかったのだと、明らかになっていく。
ですから、大切なことは、どんな時代になろうとも、移り変わりゆく人の言葉、思想ではなく、まことのぶどうの木であるキリストの言葉につながることだであります。人の言葉に右往左往されるのではなく、キリストの言葉にとどまる。そこに、本物の実を結ぶ歩みがあることを覚えたいと思います。

さて、2節にはこうあります。

「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」

キリストにつながっていながら、実を結ばない枝を父が取り除くとはどういう事なのか。
また、実をむすぶなら、手入れをするというのは、どういう事なのか、少し分かりづらい箇所です。

ある有名な神学者の妻が、15年間ものあいだ鬱病で苦しんだすえに、最後には自殺してしまうということがありました。
夫にとっては、それは非常な苦しみでありました。たとえクリスチャンであっても、そういう苦しみが襲うことがあります。
キリストを信じていても体が病気になることもあれば、こころが病気になることもある。
キリストを信じていても鬱病にもなりますし、家族に先立たれることもあります。
そんなとき、なんだキリストを信じても、なんの役にも立たないではないかと、キリストを捨ててしまえるなら、キリストとの関わりを断ってしまうことが出来るなら、神様の方からもその人との関わりを絶つでしょう。

それが、2節で言われている「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と言う一見厳しい言葉の意味ではないかと思われます。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝」とありますけれども、本当なら、キリストにつながっていれば必ず実を結ぶはずなのであります。つながっているなら実を結ぶ。実を結ばないということは、それはつながっているようでつながっていなかったのではないか。
そしてそれは人生の危機が襲ってくると明らかになってくる。何だキリストはちっとも役に立たないキリストを捨てる、関わりを断つことが出来るなら、それは初めからつながっていなかったのではないか。

しかし、本当にキリストにつながっているなら、それとは全く反対のことが起こるのであります。苦しみの中でキリストとの関わりを断とうとするのではなく、キリストとの関わりをさらに求めるようになるっていくのです。

先ほどの神学者は、妻を失う苦しみの中でなにをしたかといいますと、彼はキリストの言葉を暗記し暗唱し始めたのであります。
学問を究めた神学者が、まるで小学生が教会学校でするように、イエス様の言葉を暗記し暗唱しはじめたのであります。
彼は苦しみゆえに、キリストの言葉を捨てるのではなく、求めた。そして、そのキリストの言葉によって、彼の心は癒されていくのです。
人の言葉ではなく、キリストの言葉によって。

2節の後半には、こう続きます。
「しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」

手入れとはつまり余分なところを切り落とす剪定のことであります。
キリストにつながっているからこそ、痛く苦しいことが人生に起こってくることがある。いよいよ豊かに実を結ぶためにと、痛み苦しみを、あえて神様は許されることがある。そのようにキリストは告げるのです。
しかし、キリストにつながっているなら、人の慰めや励ましは空しく響いても、キリストの言葉は魂にとどく。キリストの慰めの言葉、赦しの言葉、愛と恵みの御言葉だけは心に響く。なぜなら、キリストにつながっているからであります。

さらにキリストは3節でこう言っています。
15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

どんなに自分のいたらなさ、弱さ、罪深さに落ち込むことがあろうとも、人の批判や、自分で自分をせめる言葉に、耳を傾け続けるのではなく、キリストの赦しの言葉に耳を傾けていく。
あなたのその罪は赦されたのだという、そのキリストの言葉に委ねていくなら、神は私たちを清くされる。神様の目に、尊く清いものと受け入れてくださる。それがまさにキリストとつながるという事であり、まことのぶどうの木につながることであります。

さて、ぶどうの実はいったいどうやって甘くなるかご存じでしょうか。
ぶどうの木というのは、その実に養分を送るために、まるで雑巾を絞るように自分をよじらせよじらせどこまでも細らせることで、豊かな実を実らせるのだそうであります。
イエス様は、そのどこまでも細くなって実に養分を注ごうとするぶどうの木に、ご自分を重ね合わせられました。まるで雑巾のようにその身を絞り、自分のいのちのすべてを注いで、豊かに実を実らせる、そのまことのぶどうの木なのだといわれます。

母は自分の子どものために、まさに命を注いで愛そうと願うように、キリストは、私たちを愛する愛ゆえに、ご自分の命をすべて十字架の上に献げて、そのすべてを私たちに注がれたのでありました。
それゆえに、イエス様は、「あなた方はすでに清くなっている」とそう言ってくださるのであります。
まさに、雑巾のようにその身を絞り、私たちを清めてくださる、ぶどうの木になられた。
キリストはそのようにして、木につながる私たちに、神の命と愛を注がれる、まことのぶどうの木なのであります。

それゆえに、キリストは、最後にこのように私たちに語りかけています。

15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。


私たちのために命を捧げ、変わらぬ愛を注いでくださるイエスキリストの、その愛の内とどまりつづけ、その言葉に耳を傾けつづけ、この新しい週も共に歩んでまいりたい。良き実を実らせるものでありたいと、そう願っております。(お話:藤井秀一牧師)
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第36回「聖霊を与える約束」(ヨハネ第14章 15〜31)2005年1月23日
聖書

14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
14:20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」



ヨハネの福音書は全部で21章ありますけれども、前半と後半に分けるとするなら、13章がその区切りになります。
13章まではイエス様の様々な宣教活動が記されていますが、13章から17章までは、弟子たちに対して語られた別れの言葉や約束の言葉となり、そして十字架、復活という流れになっています。
ですから今日の14章は、イエス様のお別れの言葉の一部となります。告別説教という言われかたもありますけれども、要するに、このあと十字架につくことを知っておられたイエス様は、弟子たちと別れるまえに、これだけは語っておかなければならないという、ある意味遺言の言葉と言えなくもありません。

普通、遺言というと、残された人々に財産を与えるという約束が語られるわけですけれども、今日の聖書の箇所において、まさにイエス様は、ご自分が十字架について死なれたあと、地上に残される弟子たちに、この上もない宝、神の霊、聖霊を与えるという、そのような約束をしておられるのが、今日の箇所であります。

聖書をもう一度みて頂きたいと思います.

14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

イエス様を愛する人に、イエス様は、天の父に願い、別の弁護者を遣わしてくださるとあります。
そして、
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

と言われています。
つまり、弁護者とは、目に見える存在のことではなく、それは、真理の霊、神の霊であって、この世の人々にはなんの興味もないものであろう。しかし、イエス様を愛する人々には、その神の霊が、私の弁護者として共にいてくださることがわかるのだと、そうイエス様は言われています。

確かに、イエス様はこの後、十字架にかかり、この世から去っていきます。
この十字架の出来事は、信仰のない人々から見るなら、ただ一人の人が死んだというだけの出来事だろうと思います。それ以上の意味はありません。ただ人が死んだというだけのことです。
それがこの世に生きる普通の人々のとらえ方だろうと思います。

しかし、同じ出来事でも信仰をもって見るとき、あのイエス様の十字架は、それはイエス様がただ死んでしまっただけのこと、それですべてが終ってしまった出来事ではない。目には見えなくなったけれども、まさにイエス様のように私たちを助け導いてくださるお方、そういう真理の霊。神の霊が与えられるようになった、新しい時代の幕開け。それこそが、あの十字架の出来事だったのだと悟ることができる。
しかし、その悟り、信仰もまた、神の霊、弁護者の助けと導きによって、与えられていくということであります。

この弁護者と訳されている言葉は、もとのギリシャ語では、パラクレイトスという言葉です。これは弁護者とか、助け主、あるいは慰め、励ます者という、そういう意味の言葉です。
ですから、神の霊というとなにか得体の知れない神秘的な力と思われるかもしれませんが、そうではなくて、弱く罪に堕ちいってしまう私たちを、弁護し、助け、慰め、励ます、そういう人格的な存在として、働きかける、そういう神の霊があると語られているわけであります。

さらに18節19節では「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」

と言われています。ですから、その霊とはイエス様のことだと考えてよろしいかと思います。

この後、イエス様は十字架のうえで死なれ、もう、見えなくなります。そしてそれは、現代に生きる私たちにとってもそうです。
誰もイエス様がどんな顔をしていたのか、どんな髪型だったのか、髭はあったのか、背丈はどのくらいか、など、全くわからない。
現代のクリスチャンも誰一人として、イエス様の姿形を見た人などいないわけであります。
姿は見えないけれども、しかし、確かにイエスキリストの人格にふれた経験。キリストの言葉が魂の奥にまで語りかけてくるような、こころの奥底をノックするような、そんな人格的な交わりをうけて、そして、キリストを信じるようになるわけであります。

たとえ目に見える人との交わりがあっても、魂の深いところに語りかけてくる言葉、人格的な交わりというのは、なかなか難しいことであります。ですから、大切なのは、姿が見えるとか見えないとかよりも、人格的な出会い、交わりがあるかどうかということでしょう。
パラクレートス、弁護者、助け主とは、今、目には見えないイエスキリストと、そして私たちとの人格的な出会い、親しい交わりへと導く霊。弁護者、助け主、慰め主であります。その神の霊、聖霊の働きがあるからこそ、人は、イエス様のことを、この「私のキリスト」この「私の救い主」と告白するように導かれていくのです。
他人の事のように、この世界をキリストは救うのだろうというのではなく、この「私のキリスト」、この「私の救い主」と告白するように導かれる。それまで、聖書などばからしい、キリストなどわたしに何の関係もないと思っていた自分が、聖書の教えに、キリストの言葉に素直に耳を聴けるようになる。

どうか知って頂きたいのは、それは、偶然でも、自分の力でそうなったのでもなく、それこそがまさにパラクレートスの働き、弁護者であり助け主である聖霊の働き、導きがそこにあるということに、ぜひ気がついて頂きたいと思うのであります。
聖書の言葉がこころに迫る、また魂に迫っているように感じるならば、それはただ、良いお話に感動しているのでも、人生訓に感心しているのでもない。聖霊によって、イエス様との人格的な出会いが起こっているのだということを、是非、ご理解頂きたいと、そう思うのであります。

ここで、私の個人的な証をさせていただくことをおゆるし願いたいと思います。

私が最初に聖書と出会ったのは、私が中学生のころだと思います。しかし、当時の私は、聖書に何の興味も沸きませんでした。ちょっとページを開いてみましたけれども、あのマタイの福音書の冒頭の、系図ですね。あのカタカナの羅列に閉口し、もう、二度と読むことはないだろうと思ったものでした。

時は流れ、私が就職して2年ほどたったある夜。寮生活をしていた私のところに母から電話がきて、今、家から飛び出して友人の家にいるというのですね。あわてて会いに行くと、父に殴られ醜く顔が腫れ上がった母がいまして、母はもう家には戻らないといいました。それからしばらくの間、長男であった私は、父と母の間に板挟みになって、お互い罵り合いの言葉、聞きたくもない言葉を聞かされ、辛い思いをしましたが、とりなしの甲斐なく、二人は別れてしまいました。

その出来事をきっかけにしまして、わたしは、心にぽっかり穴が開いたような状態になり、なにをしても、またどんな言葉もむなしく響く、そんな日々を生きていました。
そんなある日、クリスチャンの三浦綾子姉のエッセーに出会いまして、そこにつづられている言葉の一つ一つが、私の心の中に、なにか暖かいものを注いでくる体験をいたしました。それまで、どんな言葉もむなしかった私にとって、その体験は大きな出来事でした。それ以来、わたしは、三浦さんの言葉をあさり、やがて、もう二度と読まないと思っていたあの聖書を開き、イエスキリストの言葉をむさぼるようになったのであります。

そして、キリストの言葉は、私が思いもしなかった自分の罪をあらわにし始めました。当時職場にどうしても受け入れられない同僚がいまして、しかもいつも自分の隣に座り、いやでも一緒に仕事をしなければならず、彼と顔を合わせるのが本当に憂鬱でした。
彼さえいなければと思っていたそんな私を、イエスキリストの言葉が責めてきたのであす。
キリストは「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と語りました。ああ、なんという言葉だろうかと心が痛む。でも、聖書を読まないではいられない。そんな葛藤のなかで、キリストの言葉によって、自分の罪が示され、そして、その罪のためにキリストが十字架にかかったことがよく分かり、やがて、バプテスマを受けることになりました。

ささやかな証ですが、それでも、聖書になど全く興味なかったわたしが、聖書を読まずにはいられなくなった。聖書の言葉がこころに迫って仕方なくなったのは、それは、自分がなにか信心深かったからではなくて、聖霊の導きであったと、そう信じるわけであります。もし、そのような導きがないならば、間違いなくわたしは聖書を再び開くということはなかったと思います。

それまで、聖書やイエスキリストはわたしには何の関係もないと思っていたのに、いつの間にか聖書の教えに、そしてキリストの言葉に捕らえられ、その言葉に素直に耳を聴けるようになっていった。それはまさに聖霊の働きであります。聖霊、パラクレイトス。弁護者なる霊の働きがなければそういうことは起こりえないのであります。

そして、そうであるならば、今まさに、この場において、聖書の御言葉に耳を傾けようとお集いになっているお一人お一人もまた、その聖霊の導きをいただいているから、ここに来ておられる。その聖霊の導きにこころを開いていただけたらと、そう思っております。

さて、キリストは18節で弟子たちに言いました。
14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。

弟子たちを捨て去りはしない。十字架に死に、肉体的には目に見えなくなろうとも、しかし必ず戻ってくる。弟子たちを、そして私たちをみなしごにするような、捨ててしまうようなことはしない。それがキリストの約束であります。

確かに、キリストは、今、目に見ることはできません。当然、その体にさわることもできませんし、逆にキリストにしっかり抱きしめられるというようなこともないでしょう。
2000年前、イエス様と一緒に寝食を共にした弟子たちのようには、私たちはイエスキリストを知ることはできません。それは確かに寂しい気もいたします。最初の弟子たちのようにイエス様に直接ふれてみたい、その声を聴いてみたい。そうしたら、もっとイエス様のことがわかるのではないか。もっとイエス様のことを信じることができるのではないか。愛することができるのではないか。そう思わなくもない。しかし、イエス様はそうは言われませんでした。

16章7節8節
「しかし、実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去っていかなければ、弁護者はあなた方のところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなた方のところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」

私たちのためには、イエス様は去っていった方が良いのだ。なぜなら、そうしなければ弁護者が来ないからだと言います。
そして、弁護者がこなければ、自分の罪がわからないからだと言います。そして、この弁護者が来なければ、人はなにが正しいことなのか、なにが誤りなのかわからないからだと言います。
だから、去っていった方が良いのだとイエス様は言うのです。

確かに、イエス様と三年間も寝食をともにしていた弟子たちは、ちっとも自分の罪がわかりませんでした。弟子たちは、自分は正しさを信じ、自分の力を信じ、誰が弟子の中で一番だろうかと、競っていました。そして、抜け駆けをしたり、ねたんだり。弟子同士で責めあい裁きあい、互いに愛し合うにはほど遠い姿であったのであります。
毎日のようにイエス様と接していながら、その教えにふれていながら、彼らはちっともわかっていなかったのであります。イエス様の教えを知ることと、「わかる」こととは違うのであります。わかるというとき、必ず、そこで自分が変わっていくからであります。頭で理解する、知識として聖書の言葉を知るということだけでは、「わかった」ことにはならない。聖書の言葉が「わかる」ということは、つまり、「わかった」自分が変わっていくということなのであります。しかし、それはこの弁護者が来なければ、助け主が来なければ、つまり神の霊がやってこなければ、実現しない。神の霊によらなければ、人は自分の罪は「わから」ない。罪の赦しが「わから」ない。だから、自分はちっとも変わらないし変われないのであります。そして、あいも変わらず、互いに裁きあい、愛しあえない苦しみの中を生き続けていく。

それゆえに、人間は、決定的に、神の霊を必要とする存在なのであります。神の霊、パラクレイトス。この弁護者、助け主なる聖霊が必要なのであります。その聖霊に導かれ、自分の罪の赦しを知るとき、初めて、人間は、互いにゆるしあい、愛し合あっていこうとするからであります。

今日の聖書の箇所の冒頭で、イエス様は言います。
14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」
わたしの掟。それはなんでしょうか。それは13章34節にあります。

13章34節
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

愛し合うこと。それがキリストが与えた掟であります。つまり、人は、だれも自然に素直に愛し合えるような存在ではないということであります。まさにキリストが言うように、人間は、愛し合うことさえ、掟として頂かなければならない存在なのであります。互いに愛し合えず、受け入れられず、理解し合えず、自分の力ではそれをどうにもできないそんな人間の原罪のあることを、知らされるのであります。

しかし、その人間にはどうにもできない罪があるからこそ、その罪の裁きから弁護する聖霊が必要なのであります。そして、愛せない人間を憐れみ、互いに愛するように助けてくださる助け主。聖霊が必要なのであります。その聖霊が与えられる、新しい時代がやってくる。やがて主の十字架によって、父なる神が、聖霊を私たちに送ってくださるという新しい時代がやってくる。それをイエス様は約束してくださった。

そして、その約束は真実であることが、2000年の教会の歩みを通して、また、数え切れないほどの変えられた人々をとおして、また、互いに愛し合う人々の存在をとおして、聖霊の働きが、証されてきました。

この弁護者、助け主である聖霊の導きに、こころ開いていきたいのであります。イエス様との人格的な出会いを与えてくださる聖霊の働きを通して、ほかのだれでもない、イエスキリストこそは、この「わたしのキリスト」です。この「わたしの救い主」ですと告白し、イエス様が共に歩んでくださる祝福の人生を、共に生きてまいりたいとそう願っております。
(お話:藤井秀一牧師)
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第35回「イエスは父に至る道」(ヨハネ第14章 1-11)2005年1月16日
聖書
1  「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
2  わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
3  行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいるところに、あなたがたもいることになる。
4  わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
5  トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
6  「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
7  あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
8  フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、
9  イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
10  わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
11  わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。


 先々週、先週とヨハネの福音書も13章に入り、ユダの裏切り、ペテロの離反の予告の記事も読み、いよいよ十字架は目前に迫っております。
そして、今日読みます14章から16章までは、イエスさまがいよいよファリサイ派や祭司たちによって捕えられる前に、弟子たちに残された、この聖書にして5頁に亘る、長い告別の説教となります。

そして、只今読みました部分は、その弟子たちに別れを告げる説教の冒頭の部分で、その中の6節「わたしは道であり、真理であり、命である」は、よくみ言の栞とか絵はがきなどにも記されてありまして、みなさまもよく知っておられるみ言ですが、しかしながら、よく知っているわりには、十分理解できているとはいえず、14章全体、解釈の難しい個所のように思われます。
私にとっても、読むのに苦労する個所でございますが、イエスさまを理解するのに大切な個所ですし、また、すばらしい個所ですので、しばらくご一緒に読んでまいりましょう。
なにが“すばらしい”かといいますと、ここでイエスさまは父なる神さまとご自分との関係を明確にして語っておられるということです。

そして、そのことを示すために1節からの語りかけがはじまるわけです。
はじめに1節「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とありますが、こうおっしゃるからには、弟子たちは心騒いでいたことがうかがわれます。
今、弟子たちは、主イエスさまがいよいよ自分たちをおいていなくなってしまう時が来たということで、不安にかられ、すっかり気落ちしていた、或いは精神的パニックの状態だったかも知れません。

この「心を騒がせるな」というみ言は、別れの説教の冒頭に呼びかけられた言で、今、不安にかられ、これからもさまざまな苦難に遭遇するであろう弟子たちに対し、最後に残す言葉として、大切な、重要な言だったろうと思いますが、この言は、弟子たちばかりでなく、その後につづくキリスト教徒たちが信仰を守りつづける上に、主イエスさまの残された言として、どれだけ強く働きかけたことかと思わされます。
また、私共の生活においても、心乱れることの多い中で、折々に、まことに力強い、また慰めと励ましにみちた有難いみ言だと思っております。不安や焦燥にかられたとき、この主イエスさまの言をつぶやいてみて下さい。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。きっと心静まり、落ち着いて物事に対処できるのではないでしょうか。

そして、何故、心を騒がせなくてもよいのか、このみ言の根拠が、次に述べられています。

2節・3節「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」とあります。
これは比喩でありまして、イエスさまが一軒一軒、家や部屋を用意して下さるということではないことは言うまでもありません。
居場所と申しますか、迎え入れて下さる広い意味の場がある、そしてイエスさまが用意しに行くとあります。よく読んで下さい。
もともと無いのにイエスさまが行って用意するのではなく、神さまが私共を迎え入れて下さる場は、もともとあるのです。イエスさまはそこに私共を迎え入れる用意をしに行くとおおせられるのです。これは十字架におけるとりなしによって、でありましょう。

この個所は、死んでから後のことを示していると解釈するのが普通です。もちろん死後の行方を示しているという解釈が優先しますが、私は前後の関係からして“自分として解釈”をした場合は、果たして死後のことだけを示されているのだろうかという疑問をもっております。
私はどちらかというと、聖書を広い意味で解釈する方ですので「それは工藤の考えだ」と思って聞き流していただいても結構なのですが、私は「父の家にはすまいがたくさんある」というすまいは死後のことだけでなく、現世でも“神さまは恵みの場を広く、大きく持っておられて、誰でも受け入れて下さる。イエスさまの十字架のおとりなしによって私共すべての人はその恵みの場に招き入れていただける”というふうに解釈をしております。
私たちは、自分の居場所が分からなくなる時、一番不安になります。でも、イエスさまがその居場所をいつも用意していて下さる。
「わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と言って下さっております。これ以上の平安な私たちの居場所は他にはないのです。だから、私共は心騒がせたりしなくていいのです。
ただ1節「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」のこの言にゆだねて、アーメンと従ってゆけばいいのであって、ゆだねてゆけるかどうかが課題です。


宗教改革者マルチン・ルターは「大胆に生きる」という言葉をよく語ったそうですが、ルターが大胆に生きて勇敢に闘うことの出来たのは、ヨハネ10章の“主は羊飼いであって、羊にいつも声をかけて下さる”という信仰と、この「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」というみ言だったといわれております。
このことからしても、今日、私たちはほんとうにすばらしい、力強いイエスさまのみ言を学んでいるのであります。


そして、イエスさまはご自分の存在を明確に示される段階へと進められます。神とご自分との一体論です。それも面白いことに、トマスのちょっと愚問ともみえる質問に答えることによって、この大変大切なことを語られるのであります。

4節「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」のようにイエスさまがおっしゃいます。かねがね、ご自分の十字架の使命を語っておられたのでしょう、だからこのようにおっしゃった。
ところがトマスは5節「主よ、どこへ行かれるのか、わたしには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」のように質問します。ちょっと一見愚問のようにみえますが、トマスはこう尋ねずにいられなかった。私たちもそこにいたらやっぱりこのような問いかけをしたでしょう。
みんな、なかなかイエスさまの言動は簡単には理解できないのです。或いは6節のイエスさまのみ言を語る前にトマスとイエスさまとの間に何らかの会話があったのではないかとも考えますが、聖書はいつも簡潔すぎるほど簡潔に大切なことだけを記します。

6節「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」のこのことば、先程も申しましたが、クリスチャンなら誰でも知っているすばらしいみ言です。私共はよく栞やカードなどでみたりいたしまして、私は今までこのみ言を道・真理・命と三つのことを同じレベルで横並びに考えてまいりましたが、この度、この中で「道」という言葉が主役であることを教えられました。
加藤常昭先生の説教集に書かれているのですが、即ち、わたし・イエスさまによらなければ、誰も父のみもとにゆくことは出来ない。イエスさまという方を通らなければ、父なる神を知ることも見ることも出来ないのです。ですから、イエスさまは神さまにたどりつく道であります。そして、その結果として真理をさとり、命をいただくのです。

ここで、是非注目したいのは、イエスさまは「道を教えてあげる」とか「道を与える」とおっしゃっているのではなく、「わたしこそ道だ」「わたし自身が道である」と言われたことです。
もし「道を教えてあげる」とか「道を与えよう」といわれるのなら、それは私たちの外側に立っておられることになる。そうではなくて「わたし自身が道だ」「わたし自身を道として父のみもとにゆけ」ということは、私たちの中に、道そのもののイエスさまがおられるということです。

そして7節のように、いよいよ神とご自分の一体論に入りかけたとき、今度はフィリポがイエスさまに申し出ます。
8節「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」です。
これもちょっと一見愚問のようにみえますが、この言葉も、私たちもそこにいたら当然もつ考えです。いや実は、私共は、信仰を言いあらわしてクリスチャンになったとはいえ、このフィリポの言ったような問いを、いつも心のどこかに持っているのではないでしょうか。
「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」

13章からずーっとみて来ますと、弟子たちに対してイエスさまは別れに際して語るべきことを、実に懇切に丁寧に語って下さっています。
これも加藤先生の説教集の中に登場するカトリックの神父さまの言葉なのですが、
「イエスさまはもったいない程一人ひとりの弟子たちに関わって下さって、そのお答も、またお叱りも、何と情のこもったものか」と言って感じ入っておられますが、そのように、あたたかく、情をこめて語りつつも、イエスさまはどうしても語り残しておかなければならないことは、ご自分のペースでどんどん話を進めてゆかれる、ご自分の霊的な次元まで弟子たちをひき上げようひき上げようと、一所懸命になっておられるようにもみえます。
でも弟子たちは、なかなかそのイエスさまのペースに追いつけない。イエスさまのおっしゃることをなかなか理解できないでいるようです。

しかし、その弟子たちの弱さ、愚かさの中に、イエスさまはみ言の光をさし込まれるのです。
9節〜11節「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ『私たちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」。
まさに神とご自分が一体であることを弟子たちに明確に示されるのです。これが、イエスさまが、弟子たちを残して世を去るに際し、どうしても言っておかなければならない大切なことだったのです。

だから、イエスさまと神さまは一体なのですから、もう一遍1節に戻って口語訳の聖書では「心騒がせなくていいのです。神を信じ、わたしを信じなさい」となっていますが、新共同訳では「心を騒がせるな、神を信じなさい。(一遍切っている)そしてわたしを信じなさい」となっています。
さらに「神を信じなさい」は、原文のギリシャ語で読むと「神を信じている」となるそうで、そうすると「心を騒がせるな。あなた方は神を信じている。そうならばわたしをも信じたらよい」となるそうです。
どうしてこういう言い方をするかというと、当時、イスラエル民族は、出エジプト以来、もう当たり前のこととして、神は伝統的に信じていたのです。問題はイエスさまをその神と一体なものとして信じることが出来るかです。

ここでイエスさまは、人間の肉体をもってこの世に来たその使命は終わって、弟子たちの前からいなくなるが、神とご自分は一体なのだ、10節の言でいうなら「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい」9節では「わたしを見たものは、父を見たのだ」と強調なさって「神を信じている、それならわたしを信じなさい」神とわたしは一体なのだから「心を騒がせるな」と仰せられるわけです。


十字架にかかって死ぬということは、人間的にみるならば、それは敗北の姿であり、絶望の姿であります。
今まで、病人をいやし、僅かなパンと魚から5,000人の人に食事を提供し、海の嵐を鎮め、数々の名セリフでファリサイ派や律法学者と対決なさるすばらしい方、弟子たちがこの人こそと頼りにしていた方が、事もあろうに、十字架にかかって死ぬと予告なさる。
弟子たちはいよいよその実現の時が来て、もう明日、明後日にはこの方は自分たちをとり残していっておしまいになると考えても、なかなかその現実に直面出来得なかったのではないかと思われますが、一方、イエスさまもまた、愛する弟子たちを残して行かれることに、神のわざを担うとはいえ、人間的には、深い悲しみを抱かれていたのではないかと思われます。


そのような中でお語りになる告別の言葉、今の個所はその冒頭のみで、これからなお、16章の終わりまでつづく教えの中で、戸惑っている弟子たちを愛して、それ故に、彼らの心を霊的に高めよう、深めようと心をくだいて語っておられるようにみえます。

さて、それから2,000年を経た現代に生きる私共です。科学がめざましい進歩をとげ、経済からみたら、雲泥の差というべき発展を遂げ、私共はその恩恵の中で、当時とは比べものにならない豊かさ、便利さを享受しています。
しかし、この豊かさ、便利さの中に暮らす私共は、平安で、心騒がせることなく暮らしているかというと、戦争飢餓、差別など、さらに複雑に深刻になったのではないでしょうか。
そして、このような情況の中で、人々は「神は居ない」と言い、「神は要らない」というのが現代の、とくに日本の社会の風潮であります。2,000年前、イエスさまが1節「あなたたちは神を信じている」とおっしゃったのとは大違いの現代社会の中で暮らす私共です。


しかし、人生は楽しいことばかりではありません。長い人生の中で、さまざまなことが起こってくる。社会の仕組みも、人間関係も単純ではないだけ、私共のかかえる問題も複雑であり、人間の力ではどうすることも出来ないことも起こってきます。その最たるものが「死」であります。又、誰にでも老いも訪れます。災害も起こります。その時、私共はどう対処するのか、そんな時、今日学んだみ言をどうぞ思い出して下さい。心を騒がせないで神を信じる、信じるとき、人はひざまずいて祈ります。
信じて祈る、ここから自分のなすべきことが見えてくるのです。困難にぶつかった時、逃げて努力を放棄するのではありません。
信じて祈り、心の騒ぎ、思い煩いから解放されて、自由な心、勇気をもってとり組むことが出来るのです。80年を生きてきて、今、辿りついた心境をお話しいたしました。(お話:工藤渓子さん)

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第34回「ペテロの離反を予告する」(ヨハネ13章 36-38)2005年1月9日

聖書
◆ペトロの離反を予告する

13:36  シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」

13:37  ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」

13:38  イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

おはようございます。

新しい年をどのようにお迎えになられたでしょうか。
昨年は本当に災害の多い年でした。くり返しに上陸した台風による風水害や中越地震、そして年末のスマトラ沖の大震災と津波では未曾有の自然大災害となってしまいました。
私の家の近くのマンションにお住まいの方もタイで被害に遭われたとお聞きしました。
新潟にも仕事の関係の方が被災されておりましてお見舞いを申し上げました。


さらにはドン・キホーテの放火事件や奈良の女児誘拐殺人も起こりました。幸いにも奈良の事件は年末に犯人逮捕により解決をみましたが社会に残した課題は多くありました。

今年こそは、平和に穏やかに暮らせる年であったらと心からそう願います。

さて、一月は再びヨハネの福音書に戻り、ご一緒にみ言葉に聴いてまいりたいと思います。
今朝に与えられました聖書の箇所はヨハネによる福音書13章36節〜38節です。

ヨハネによる福音書では、他の共観福音書が取り上げています「ゲッセマネの園の祈り」の場面は出てまいりませんが最後の晩餐の場所から園へと至る間にイエス様が弟子たちに語られた場面が詳細に描かれています。(下記参照)

本日の聖書の箇所である「ペトロの離反の予告」の場面はイエス様と弟子たちにとって、また私たちにとってある意味での「死ぬこと」と「生きること」の大きな転換点の箇所であると私は思っています。

聖書の呼びかけます「生きる」と「死」について旧約のエゼキエル書の18章30節〜32節の言葉を聴いてみましょう。
18:30  それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。
18:31  お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
18:32  わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。


ここで語られていますことは、神様と人との関係が壊れている状態を「死んだ状態」または「罪に陥った状態」といい、
壊れた神様との関係を取り戻し、信頼の回復をすることが「生きる」という内容で呼びかけられているのだと思います。


先週のお話しであったかと思いますが、この過越しの食事を弟子たちとされた時、すなわち最後の晩餐の前にイエス様は弟子の一人ひとりの足をあらう「洗足」をなさいました。

イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。(ヨハネ13:7)

イエス様が足を洗われたのは謙遜に人に仕えるといった倫理的なことではなく、十字架の贖罪によって罪の泥足を洗い落とすという象徴の意味があります。ですから、ペトロはイエス様に直接に足を洗っていただけなければならなかったのです。
このように弟子の一人ひとりがイエス様の贖罪を自分自身のものとして受け止めることがなければ本当の意味でイエス様を理解したことにならないということです。

さらにあたらしい掟を与えてくださいました。


あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34〜35)


互いに愛し合いなさいという言葉は単に人間同士の次元での隣人愛ではなく、人の罪のゆえに本当には隣り人を愛することが出来なくなっている人間同士を十字架の贖罪によってもう一度、人間同士が愛し合えるように回復することを意味しています。
このように重大な教えを弟子たちにされましたが、その時には完全に理解することはが難しかったのではないかと思わされます。最も近くに最初から一緒であったこの福音書の著者と言われるヨハネでさえイエス様のお心の一端を理解するのには長い年月が必要であったことでしょう。


シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」(ヨハネ13:36)

イエス様と弟子たちの関係は、イエス様の招きに応えて職を捨て、家族を置き、財産も捨てて従った愛と信頼の関係のなかにおいて神の国の到来を告げました。
寝食を共にして、病んでいる人々、貧しい人々、社会から疎外されていた人々に対して「罪びと」と考えているのではなく神様との信頼の回復を努めるようにと献身的に支えあい働いた関係であったのです。
ペトロはまさにその中心的な人物でした。そのような人物でさえイエス様を否認するという罪のなかに落ち込んでいったのです。


過越しの祭り近くなりエルサレムで語られたイエス様の言葉や福音書で弟子たちとのやりとりを観てみますと、弟子のイスカリオテのユダは銀貨30枚でイエス様を大祭司たち宗教指導者に裏切って引き渡しました。

ペトロについては

ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」(ヨハネ13:37)
シモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ 22-33)

とまで言い切りますが、祭司たちがイエス様を逮捕しに来たときには多少の抵抗はするものの蜘蛛の子を散らすように暗闇の中に逃げ去ったのです。

ペトロはさすがに気がとがめたとでもいえるのでしょうか、大祭司宅へ潜り込み様子をうかがいましたが、家の者に見咎められて「彼を誰だか知らない」と鶏が鳴く前に三度にわたりイエス様との関係を否定したのです。
「ペトロはイエス様の言葉を思い起こし泣いた」と聖書にはあります。


イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(ヨハネ13:38)
イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」


ペトロはイエス様と一緒に働いていた者だと言いたかったのかもしれません。
しかし、ペトロの口からはその言葉は出せませんでした。
イエス様へのペトロの否認は追及を受けて咄嗟に出てしまったものであり、そのように言おうとは思っても見なかったのでしょう。
しかし、差し迫った状態での意志の弱さがありました。それでも彼はイエス様にとって正しい人であったのです。計画的にイエス様を裏切ったユダとはここが決定的に違うのです。
神様は正しい人のあるがままの姿には寛容でおられるのです。イエス様はペトロがイエス様を愛していることを知っておられたのです。


それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。(マタイ 16-24

そう言われていた弟子たちも本当にそのつもりでいた筈なのです。
しかし、身に差し迫った危険が降りかかったときに弟子たちでさえ、ましてや私たちにはギリギリのところで弱さを露呈してしまうのではないでしょうか。
自分の命が危険にさらされれば自分自身のようには隣人を愛することなどとても出来ない。
ユダの行為は計画的であり人は自分の利益のためには自分を愛して信頼してくれた人さえも裏切ることを示しています。

私たちとユダとどこが違うと言うのでしょうか。自分自身のように隣人を愛することができないとき、それは結局にはギブアンドテイクの関係でしかないのです。この関係では自分が死んでしまえば元も子もないことになるのです。
思わず否認してしまったイエス様とペトロの関係もペトロの心の内はギブアンドテイクの関係であったとも言えるのです。もちろん他の弟子たちも同様です。


それはルカ福音書には弟子たちがいちばんに偉い者は誰かと論争したことが語られていますが、それを象徴しています。(下記参照)

この関係のなかから抜け出すことが出来ないでイエス様を裏切り、見捨て、見殺しにしたペトロや弟子たちの苦悩の姿があります。裁かれて、憎まれて当然な筈なのです。弟子たちは「罪」のなかに死んだ者となったのです。

しかし、イエス様は「復活」されて再び弟子たちの前に姿を現して下さったのです。

イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ルカ 24-34)

このときこそペトロや弟子たちは一瞬にして悟ったのです。
イエス様の示された神様は裁かれる神でもなく、滅ぼす神でもなくて、そうではなく私たちの罪を赦し、救う神として私たちと共にいてくださるのであることを。


こうして弟子たちは今度こそ「あなたを愛し、あなたを遣わされた神を愛し、あなたが愛されたように私たちの隣人も愛します」と告白することができたのです。
一度、イエス様を否認するという罪に死んだ者が新しい命に生きることが赦されたのですからどのような迫害を受けても決して屈しない信仰が弟子たちの心に与えられたのです。


ペトロの離反は罪の中にある人には当然に起こりうる事柄であるに違いありません。従って私たちにも当てはまることであります。
私たちはペトロでしょうか、それともユダでしょうか。


もちろんペトロのように純粋にイエス様を信頼して生きていきたいと願うのです。イエス様の偉大さは私が現在どうあるかを知っておられ、また、将来にどのように変えられていくかを見通しておられ、私をそこに導く力を持っておられるということです。ペトロの離反の予告はこのような力をお持ちになるイエス様だからこそ出来るのです。(下記参照)(お話:郷 秀男さん)



【参考】
◆主の晩餐
22:14 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。
22:15 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。
22:16 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」
22:17 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。
22:18 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
22:19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
22:20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。
22:21 しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。
22:22 人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」
22:23 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。


◆いちばん偉い者
22:24 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。
22:25 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。
22:26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。
22:27 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。
22:28 あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。
22:29 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。
22:30 あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」


◆ペトロの離反を予告する
22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。

                            

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第33回「裏切りの予告」(ヨハネ13章 21-30)2005年1月2日

聖書
21  イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
22  弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。
23  イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人でイエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。
24  シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。
25  その弟子がイエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、
26  イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。
27  ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。
28  座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。
29  ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。
30  ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。



みなさん、お早うございます。今朝もヨハネによる福音書からご一緒に学んで参りましょう。

今朝の箇所は前回の続きのところになります。
私は10月にヨハネによる福音書11:47〜57の「イエスを殺す計画」という箇所をお話させていただきました。
ラザロを生き返らせるというしるしは大きな反響をユダヤ人に与えました。そして、イエス様のなさった多くのしるしを目撃したユダヤ人の多くがイエスを信じました。

当時エルサレムで祭司長やファリサイ派の人たちは宗教的、政治的、社会的特権を保持していましたが、彼らは多くのユダヤの人々がイエス様を担いでクーデターでも起こしたら自分たちが与えられていた自由や特権がローマによって奪い取られてしまうと恐れました。
祭司長たちやファリサイ派の人々は最高法院を招集し、イエスを殺すことが決定されたのです。
これらの出来事のあったのは過越祭の時ですが、ヨセフォス「ユダヤ戦役」は、当時のエルサレムの城壁は800メートル四方ほどの狭い市街を囲んでいた、そして『270万200人』もの巡礼者が殺到するこの過越祭の混雑は大変なものであったと伝えています。
この過越祭の雰囲気は、常に一触即発の状態にあった。ローマ政府の司令部はカイザリアにあり、ふつうエルサレムには小さな分隊が駐屯しているだけであった。
ところが、過越祭には多くの分遣隊が送り込まれた。そこでユダヤの官憲が直面した問題は、どうしたら暴動を挑発せずにイエスを逮捕できるかにあったといいます(バークレー註解書)。
ユダの裏切りはこのような状況の中で行われたのです。

この13章はイエス様と12弟子の過越祭前の夕食の時のことですが、ユダヤ人の食事の時の様子について、バークレーの註解書により説明します。
ユダヤ人は椅子に座って食事をしなかったそうです。彼らは食卓にもたれかかって食事をしました。
テーブルは低く頑丈な台盤でそのまわりに長いすがついていました。それはU字型をしており、栄誉ある席、つまり主人の席は一方の側の中心にありました。
彼らは左ひじをついて左側を下にして横になり、右手は食物を取るために自由にしていました。そのようにして席に着くと、人の頭は文字通り彼の左に横たわっている人の胸もとに位置しました。
イエスはおそらく、その低いテーブルの一方の中央に、つまり主人の席に着いておられた。ここで出てくるイエスの愛しておられた弟子は、イエスの右側に横たわっていたはずということになります。
もうひとつのことですが、主人が客人に皿から特別のごちそうの小片を取って与えることも、特別な友情のしるしであった。
ボアズがいかに自分がルツを重んじているかを示そうとしたとき、彼は自分のそばに来て、食べ物をぶどう酒に浸すようにルツを招いたと言うことがルツ記2:14にあります。


さて今朝の最初の箇所は“イエスはこう話し終えられると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなた方のうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」”と始まります。
文語訳聖書は「まことに汝らに告ぐ、汝らの中の一人我を売らん」と訳します。
「はっきり」と訳されている言葉ですが、ギリシア語ではアーメンといって語り始められたということですから、実に重い言葉であります。

弟子たちの間には重苦しい空気が流れたと思います。だれのことだろうか、お互いに顔を見合わせていたのだと思います。
この食事の時、イエス様のすぐ隣にはイエス様の愛する弟子が席に着いていました。
先ほどお話したようにU字型のテーブルですからこの弟子はイエス様の右側に席を取っていたものと思われます。
ペトロに合図されたこの弟子は寄りかかったままの格好で「主よ、それはだれのことですか」と尋ねます。イエスは「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」といって、ユダにお与えになり、ユダがパン切れを受け取るとサタンが彼の中に入ったと聖書は記します。
主は「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」とユダに言われます。
ここで聖書は、座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言ったのか分からなかったというのです。
弟子たちががやがやしていて、イエス様が「わたしがパン切れを浸して与える人だ」と言ったのが聞こえなかったのでしょうか。他の弟子たちは、ユダが金入れを預かっていたので「祭りに必要なものを買いに行きなさい」とか貧しい人に施すようにとイエス様が言われたのだと思っていたのです。
このところを読むと、ユダはこれと分かるような“悪者”ではなかった。弟子たちの間でこの男はどうもよろしくないと言うようなことをいわれることはなかったのではなかろうか。
金入れを預かる、すなわち会計係なのだから皆から信用がなければそのような役割を与えられることはなかったのではないかと思われるのです。弟子たちは最後までユダが裏切るとは思っていないのです。

私はまだ教会に来て間もない頃にイエス様はユダが裏切るのを分かっていながら、なぜ「しようとしていることを、今すぐしなさい」と言ったのだろうか疑問に思って仕方がありませんでした。
イエス様がユダが裏切ろうとしていることを、この席で、弟子のみんなにはっきりと分かるように話していれば、おそらく他の弟子たちはユダのしようとしていることを止めたに違いないと思ったのです。
また主イエスを裏切ったユダはイエス様に有罪の判決の下ったのを知って後悔して首をつって死んでしまうのです。なぜイエス様はユダの裏切りの行為を止めようとなさらなかったのだろうか。このことは今もってはっきりとこういう理由だからだと言うことはできないのです。私がバプテスマを受けた前牧師の戸上先生は「今分かっただけのイエス様に従いなさい」と言われました。この言葉は私がバプテスマを受ける支えの言葉になったのですが、私たちは聖書のことをすべて分かったというようなことはできないと思います。
神様の御心はとても図り知ることなどできないからです。
ただ今回私は、今朝の聖書箇所でイエス様がパン切れをユダにお与えになった所を読んで…先ほどお話しましたようにユダヤ人の食事の時、主人が皿から食物を与えることは愛のしぐさなのですから、イエス様は最後までユダに悔い改めの機会を与えたのではないかという思いを抱かされました。
そして、もしイエス様がユダの心を無理にでも自分の思うように仕向けたらどうだろうか。ユダはイエス様のロボットになってしまうのではないでしょうか。
主イエスはあくまでユダの自由意志を重んじたのではないでしょうか。ですから、そうした中でイエス様を裏切ったユダの責任は重いということもできるとも思わされます。

「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」(ヨハネ13:30)
…夜であったと言う言葉、これは外の世界の夜を表しているばかりでないように思います。ユダの心を支配している闇をも表しているように思われます。イエス様と他の弟子たちが食事を共にしている光の世界とユダが出て行った闇の世界が対比されている。
イエス様に背を向けて歩み始めた時、ユダを包み込む闇はまことに暗く深かったのです。

前回「弟子の足を洗う」と言うところをお話させていただきましたが、その時自分を裏切ることが分かっていても主イエスはユダの足を洗われたのだろうか、そして、主はやはりユダの足を洗われたのだとお話しました。
今回の箇所ではパン切れを受け取ったユダが外に出て行くという場面でした。夜の中に消えていったユダはやがて、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを連れてやってきます(ヨハネ18:3)。主イエスは彼らに引き渡されます。
このようにイエスを引き渡したユダですが、イエスに有罪の判決が下ると「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」といって自殺するのです。
みなさんはどのように思われるでしょうか。わたしはこのような最後を遂げるユダも主イエスの愛のまなざしの中に、主イエスの大きくて広く深い愛のみ手の中にあると思うのです。この第13章の第一節をもう一度見てみたいのです。

「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた。」(新共同訳13:1)

「過越しのまつりの前に、イエスこの世を去りて父に往くべき己が時の来れるを知り、世に在る己の者を愛して、極みまでこれを愛し給へり」(文語訳聖書13:1) (お話:平野一男さん)

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第32回「弟子の足を洗う」(ヨハネ13章 1-20)2004年11月21日
聖書

1  さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
2  夕食の時であった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
3  イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
4  食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5  それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
6  シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
7  イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
8  ペトロが「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
9  そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
18 わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べているものが、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。
19 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。
20 はっきり言っておく。わたしを遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」



皆さんお早うございます。今朝も聖書から学んで参りましょう。

ヨハネによる福音書の第13章は、「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた。」と始まります。この第一節の言葉を第二節以下の文章と切り離して第13章全体の序文とみなすこともできるとする注解書もありますが、実に味わいの深い始まりの言葉だとおもいます。


この印象深い第一節の「弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた」と新共同訳が訳しているところを、口語訳聖書は「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。」と訳します。同じところを新改訳聖書は「世にいる自分の者を愛されたイエスは、その愛を残すところなく示された」と訳し、文語訳聖書は「世にある己の者を愛して、極みまで之を愛し給へり」と訳しています。このように4つの訳を読んでみますと、イエス様の愛が最後まで、徹底していたことが実に良く分かると思うのであります。そしてこの始まりの言葉はまっすぐにイエス様の十字架を指し示しているように思われるのです。世にいる自分の者たちを愛して愛し抜かれ、十字架にまで歩みを進められ、神様の愛の目的を成し遂げられるのです。

さて、イエス様は食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、てぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水を汲み弟子たちの足を洗い始められました。洗い終わると腰にまとった手ぬぐいで弟子の足をふいていったのです。食事に招かれたお客様の汚れた足を洗うということ、洗足は古代では一般に奴隷の勤めとされていましたが、イスラエルでは異邦人の奴隷にしかさせられなかったほどの仕事であったといいます。
主イエスはこの時、まさに奴隷の低さにまで身を低くして、愛の行為をなさったのです。主イエスがまずわたしたちを愛し、つかえてくださったのです。しかしイエス様がペトロのところに来た時彼は「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言い、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うのです。

ペテロは弟子である自分が先生であるお方に足を洗ってもらうなど考えられないと思ったのでしょう。「主であるあなた様がわたしの足を洗うなどということはもったいなくて」という気持ちだと思います。イエス様は“わたしのしていることは、今、あなたには分かるまいが後で分かるようになります。もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりも持たないことになります”と答えられるのです。ここでペトロがイエス様の「わたしの足など洗わないでください」と言ったことは人間的な目でみればけなげなことに見えることですが、神様の目からすれば自分自身の力に頼った傲慢な姿になるのだと思うのです。

足はわたしたちの体の一番下にあって直接地面に接しています。一番汚れるところです。足を洗うということは、わたしたち人間の体で一番汚れたところを洗うことです。イエス様がお弟子さんたちの汚れた足を洗うという行為を通して示されたことは、ただ肉体の汚れを洗うということだけではなくて、わたしたち人間の罪を洗い清めるということを象徴していると思われます。わたしたち人間は自分の力で自分の罪を清める力などどこにもないのです。主イエスがまずわたしたちを愛し、仕えてくださったのです。そのイエス様の愛を拒むのではなく受け入れることによってしかわたしたちの罪が清められる道はないのです。


この章の前、第12章のところですが、驚くべき多くのしるしをなさったイエス様がエルサレムに入城したとき、大勢の群集に歓呼の声で迎えられました。群衆はイエス様がローマの軍隊を打ち破り、イスラエルを独立した強大な国にしてローマ人から開放してくれると思っていたのです。ペトロや弟子たちもそのような救世主としてのイエス様を考えていたのではないでしょうか。しかしこの時イエス様が示されたのは最大の謙遜の道・愛の道を歩きぬいていくという姿でした。群集にとってはもちろん、主に従ってきた弟子たちにとってもこのような道を歩まれようとする主の姿は分かりにくかったのではないでしょうか。しかし主イエスは世にいる自分の者であるわたしたち一人一人を愛するがゆえに、この上なく愛するがゆえに十字架への歩みを進めていかれるのです。


ところでイエス様は、あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではないと言っております。すでに悪魔はイスカリオテのシモンの子ユダにイエスを裏切る考えを抱かせていたのです。イエス様はユダが裏切るということを知っておられた。わたしはずいぶん前に聖書を読んだ時、果たして自分を裏切ることが分かっていてもイエス・キリストはユダの足を洗ったのだろうか考えたことがあります。聖書を読んでみてユダの足を洗わなかったということは出てこない、逆に10節にある「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなた方は清いが皆が清いわけではない」という言葉は弟子たちすべての足を洗ったことをいっていることになるわけです。ユダの裏切りのことはずいぶんと難しくてよく分からないことがありますが、主はユダの足をあらわれたのです。やはりユダも他の弟子たちと同じようにイエス様の愛の中にいたことは間違いないと思うのであります。主イエスの愛は徹底したもの、この世で御自分の弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた、そのような愛であったと思うのであります。

12節以下になりますが弟子たちの足を洗い終わったイエス様は上着を着て再び御自分の席に座り話し始められます。とても分かりやすい言葉で語っておられます。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」‥わたしがあなた方にしたことが分かるか、という主の言葉には弟子たちに分かってほしいという気持ちが込められているように思われます。主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならないとイエス様は言われます。イエス様は御自分の弟子たちに愛を示されたのですが、同時に自ら模範を示されたのです。

他の人の足を洗うということはどういうことでしょうか。それは自分を一番低いところにおいて相手に仕えていく、他の人の一番汚れたところを自分の持っているてぬぐいでふくことです。主イエスの愛の中にある者たちはお互いに足を洗い合うことが求められているのです。互いに仕えあうことが求められているのです。そして主は、僕は主人にまさらず、使わされた者は遣わした者にまさりはしない、このことが分かり、そのとおりに実行するならば幸いであるとも言っておられるのです。実際の生活の中で言葉や口先だけでなくて、行いをもって互いに仕えあっていくことを言っておられます。

わたしはこのような互いに足を洗い合わなければならない、互いに仕えあわなければならないというイエス様の言葉は、律法的意味で受け止めるのでなく、喜びを持って受け止めるべきものではないかと思うのであります。イエス様が低くへりくだられて、わたしたちを罪から解き放ってくださった愛のわざが十字架と復活において完成されました。そのイエス様を信じるものは救われているのです。ですから、日々感謝を持って、喜びを持って互いに仕えあうことができるのです。

過越祭の前、イエス様はこの世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、この上なく愛し抜かれました。フィリピ書は語ります。
「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2:6−9)(お話:平野一男さん)

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第31回「イエスを信じない者たち」(ヨハネ12章 36-50)2004年11月14日

聖書

◆イエスを信じない者たち
12:36 イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。
12:37 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。
12:38 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」
12:39 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
12:40 「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」
12:41 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。
12:42 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。
12:43 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

◆イエスの言葉による裁き
12:44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。
12:45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。
12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。
12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。
12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」


おはようございます。

今朝の聖書のみ言葉は、ヨハネの福音書ではイエス様が多くの民衆の前で語られた最後の場面であります。ガリラヤのナザレの町から神の国の宣教を始められ、ガリラヤ地方、ユダヤ地方、祭りで多くの人々が集まるところ、エルサレムの神殿、さらにはサマリヤと巡り歩かれてユダヤの人々に対して神の御子として語り、多くのしるしをなさいました。この驚くべき神の現実になさった出来事を体験した多くの人々はイエス様を信じて従ったのではあります。しかし、多くは伝統的なユダヤのメシアの到来かと熱狂した人や、ローマの圧制から解放してくれる指導者と期待した人もおりました。弟子たちでさえイエス様のお言葉を深く理解できないこともまた事実でした。

先週のお話しにありましたようにユダヤの過越しの祭りにイエス様が再びエルサレムにお出でになるかが人々の関心の的でありましたが、イエス様はロバに乗ってエルサレムに入城されたのです。これは「メシア」であるというご自身の主張と「イスラエルの王は平和の証しとしてロバに乗る。」と言う旧約聖書にあるメッセージを言葉ではなく行動で示されたのです。しかし、このようなメッセージをこめてもなお、多くのユダヤ人には「メシアは永遠に私たちの元におられる筈だ。」「何故に地上からメシアが上げられなければならないのか。」「氏素性の知れた人が本当にメシアか」と、そのような疑念をいだき多くの人々がイエス様を信じることができませんでした。

この福音書の著者であるヨハネはこのようにイエス様の語られるみ言葉を信じることが出来ない人々に対して旧約の預言者イザヤの言葉を用いています。

「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」

み言葉はイザヤ書53章1〜2節からの引用です。53章は「苦難のしもべの歌」、メシアは何故死ななければならないか、を説明しています。冒頭の言葉を引用し「誰かイエスの言うことを信じた者がいたか。イエスに顕された神の力を認めた者がいたのか。」と問いかけます。P1148)

53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。

53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。


「彼が刺し貫かれたのは私の背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは私の咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって私に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私はいやされた。」
5節をこのように読み替えたなら私たち自身の人生は当てはまるでしょうか。この大いる事実を思い起こし受け入れることが、信じない者たちを神の子とするのです。

さらに、人々が信じない理由を語ります。
「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」

イザヤ書6章の9節〜13節までの「滅亡の言葉」の前半の引用です。この言葉はマタイ、マルコ、ルカ福音書にもイエス様によって引用されています。この言葉をそのまま聞けば、人の不信仰も神様の意志であるかのように聞こえます。つまり、ある人たちがイエス様を信じることが出来ないのは、それも神様が心を閉ざし、心をかたくなになさるためであると。それはまた、ある人々は神様を信じることがないようにせよ、と神様がお命じになっているかのようです。これは断じて不可解な言葉です。

しかし、イザヤ書の6章に立ち帰ってみるならば信じることが出来ない人々に対してこの聖書の箇所が引用される意味が明らかにされるのです。この聖書のみ言葉は、預言者イザヤがエルサレム神殿において祈りのなかで示されたものです。P1069)

6:8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
6:9 主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。

6:10 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」

6:11 わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。」 

6:12 主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。

6:13 なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。


旧約の預言者イザヤは南ユダ王国のウジヤ王の亡くなる紀元前742年ころから活動を始めて紀元前701年のアッシリアの王センナケリブのエルサレム包囲の後まもなく世をさったと言われています。
この聖書の箇所はウジヤ王が死んだ年にエルサレムの神殿にいたイザヤが幻の中で神様との交わした対話であります。神様が「我々に代わって誰を遣わそうか」と提案すると、使命に燃えたイザヤが「わたしを遣わしてください」と名乗り出ます。そこで神様がイザヤに託された言葉が9〜10節の言葉です。これは私たちには理解を超える不可解な言葉です。預言者の使命というものは民の心を開いて、神様の理解を高め、悔い改めをもたらすということである筈です。イザヤの受けた言葉はこれと全く反対の言葉です。


この言葉は理解しにくい言葉です。しかし、民の前に出たイザヤはそのとおりに告げたりはしませんでした。決して心をかたくなにするような事は語らなかったのです。そのことから、神様のこの言葉はイザヤの活動は決して民に受け入れられず、聞かれないことを予告したものと考えられるのです。イザヤは民の悔い改めを妨げるのではなく、それを助けるために活動するのですが、かえって民の心をかたくなにする結果に終わってしまったのです。

それほどまでに、神様に創造された人の自由意志と言うものは、神様の意志から離れて心がかたくなになり、人に与えられた自由をもって生命の道から逃れる道を歩んでしまうものであることを示されているのです。ここに人に自由意志を与えて創造した神様の苦悩が示されています。

イザヤ書の冒頭には「イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない」と神の苦悩が示されますが、それでも最後に神様は「聖なる種子」を残すと言われました。この種子が新しいイスラエルを作り出すことを示され、このような不信仰な時代で終わりではなく新たな始まりがあることを告げているのです。

イザヤの時代はユダヤの民にとって神様の意思よりも人の自由意志というものを推し進めてしまった結果、国は散らされ、民は捕囚されて異国の地に移らねばならなかったという辛酸を舐めた時代なのです。P1108)

30:15 まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。
30:16 お前たちは言った。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに/あなたたちを追う者は速いであろう。

イザヤは人には自由意志だけにたよらず静かに神様の言葉を聴き、信頼を寄せる中での行動が出来なければ、それはどのように自分の意思で激しく行動したとしても神様からの逃避となり事態はますます悪化してゆくことを示しています


言うまでもなく、イエス様の時代の人々にとっての聖書というものは今日の旧約聖書であります。家庭での信仰の継承を大切にしてきた人々にとってイエス様の引用される聖書の箇所はその冒頭の言葉だけでいま述べましたような背景も含めた多くの神様から示されている事柄が理解できたとのだと思います。そのためにこれらの箇所を引用したのでしょう。

イエス様を信じることの出来ない人々に対して、ヨハネはイザヤの言葉を思い起こし、「立ち帰り、静かに、安らかに神様の言葉に信頼の中で」行動する。その事を訴えているのです。
これは、紀元前のユダヤの人々やイエス様の時代だけの話しではありません。

今、私たちにも神様からはいつでも必要なことを語りかけてくださっています。常に私たちを招いてくださっています。神様からのメッセージのチャンネルはいつでも私たちに繋がっているのです。しかし、私たちは与えられた自由によりその心のチャンネルのスイッチを切ったり、入れたりしているのは実は自分自身であることを聖書のみ言葉から気づくのです。それは自由意志というスイッチです。

私たちは平和に自由に生きる事を望みますが自分自身の限界を感じたり、無力を感じたりして、自分の不甲斐なさに絶望の淵にまで追い込まれるような時もあります。孤独であり、つらいです。理解してくれる人は誰もいないと決め込みたくなります。しかし、私たちは一人ではありません。一人、心を静かに神様の語りかけに耳を傾けて祈るときに心のスイッチが意識の外(神様の見えない力により)で入ります。そのとき「はい、私はここにおります」「信じることのできない私を信じる者としてください」と、祈る自分をきっと見るのです。

最後に44節以下のイエス様の「イエスの言葉による裁き」について、少しお話しをさせていただきます。

ここでイエス様の主張されたことは、イエス様によって人は神様と直面するということであります。

イエス様に聴くことは、神様に聴くことであり、イエス様を見ることは、神様を見ることであります。
すなわち、イエス様において神様は人と出会い、人は神様に出会う。しかし、人はこの出会いの経験をどんなにしたとしても、その自由意志のゆえに「イエス様との出会い」や「神様の愛の経験」そのものに無限の魅力を見出さない場合があるかもしれない、だとしたら神様から的外れの方向を向いていることになると述べているのです。


イエス様の主張された言葉を、ここでも先に述べました「立ち帰り、静かに、安らかに神様の言葉に信頼の中で」という預言者イザヤの言葉を思い起こして心に留めてゆきたいと思うのです。(お話:郷 秀男さん)

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第30回「ギリシャ人、イエスに会いに来る」(ヨハネ12章 20-26)2004年11月7日
聖書
12:20  さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
12:21  彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12:22  フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
12:23  イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
12:24  はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
12:25  自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
12:26  わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」



一年間かけて、ヨハネの福音書を学んでいます。今日は12章で、後半に入ったわけですが、これから学ぶ後半は、実はたった一週間の出来事です。先週、イエス様がエルサレムにやってこられた出来事を学ばれたかと思いますけれども、それが日曜日の出来事で、その週の金曜日には、イエス様は十字架につく。この一週間を受難週といいますけれども、この受難週の出来事を語るために、ヨハネの福音書は後半のすべてを使います。それほど受難週の出来事は大切なメッセージであることを、ぜひ心に留めて学んでいきたいと思います。

さて、今日の箇所は、表題に、「ギリシャ人、イエスに会いに来る」とありますように、福音書の中では珍しく、ギリシャ人が登場してくるところです。

聖書の舞台はパレスチナ。そして、神様は最初イスラエルの民を選び、ご自分の民として祝福されます。そのイスラエルの民からすれば、ギリシャ人は外国人であり異邦人であります。日本人も同じく異邦人。そして、異邦人は、聖書の神様とは無関係。神の祝福や約束とも無関係であった。それが旧約聖書の異邦人に対する扱いでありますけれども、その聖書の神とは関係ないとされていた異邦人の、そのギリシャ人のなかから、イスラエルの神殿に礼拝をしにやってきた人たちがいたと、今日のところに記されているわけであります。しかも、彼らは、直接神殿にいくのではなく、ここでイエス様に会いたいとやってきました。つまり、イエス様を礼拝したいとやってきたわけでありましょう。

来月はいよいよクリスマスでありますけれども、クリスマスの時期に必ず読まれる聖書の物語に、三人の博士が遠く異邦の地からイスラエルにやってきて、生まれたばかりのみどり子イエスを礼拝し、贈り物を献げたという出来事があります。彼らはおそらく、今でいえばイラクやイランあたりから、イスラエルまでの危険な長旅を、ラクダに乗ってやってきたのだろうといわれます。異邦人である彼らは、ただ一つのことをするためにやってきた。それは、幼な子イエスを礼拝するということでした。イエス様が生まれた、その一番最初のクリスマスに、異邦人による礼拝という出来事が起こったのです。

そして今日の聖書の箇所では、あと数日後に十字架に付けられこの世を去るというとき、また同じように異邦人による礼拝ということが起こる。これはまさに、今まで神の祝福も約束にも関係なかった異邦人にも、神の救いが広げられていくということを示しているのでありましょう。そのために、イエス様はこの世に生まれ、そして十字架のうえで死んでくださったのです。

日本の神道は日本人のためにあり、ユダヤ教はユダヤ人のためにあるとするなら、キリスト教は、人間のためにあるといえるでしょう。イエス・キリストは、ある特定の民族のために十字架にかかったのではなく、人間のために十字架にかかられるのだということが、この異邦人による礼拝が指し示していることであろうと思います。

イエス様は、このギリシャ人がやってきたという知らせを受け、「人の子が栄光を受けるときが来た」といわれます。人の子とはイエス様ご自身のことですけれども、イエス様が栄光を受けるときが来たという、その栄光とは、一粒の麦が死んで、豊かに実を結ぶことだと言われます。つまり、神を愛さない人の罪。その罪を背負われて十字架に死ぬことで、人々がまことの神を愛し、まことの神を礼拝する喜びの人生を生きていく、そういう実を結んでいく。まさにそのときが来たのだと、そういうことであります。

さて、聖書は「罪」ということを言います。聖書の語っている罪を言い換えていうなら、神を愛さないことだといえるでしょう。神を愛さない生き方。それが、聖書のいう罪だといえます。
それでは神を愛さない私たちは、何を愛しているのかと言うなら、25節を見ますと、「自分の命を愛するものは、それを失う」とありますように、自分の命を愛しているのであります。つまり神よりも自分の命を愛するものとなった。その命を与えてくださった神よりも、自分の命そのものを愛してしまう。それが罪だと言うことであります。

うちの子ども達はよくおもちゃの取り合いをしますけれども、「これは私の」って言い張って聞かないときに、こう聞いてみるんですね。美香ちゃん、あなたそのおもちゃはもらったものでしょう。あなたは生まれたとき、なーんにも持ってこなかったんだよ。今、あなたが持っているものは、みーんな、もらったもの。何一つ、自分のものなんかないんだよ。だからこれは自分のものなんて言わないで、感謝しようね。そして、すこし貸してあげなさい。そう言って聞かせることがたまにあるんですね。その言葉の意味を、三歳の子どもでも理解してくれるんですけれども、これが大人になるとそうは行かなくなるわけで、これは自分のもの、自分が頑張って手に入れたものと、しがみつくようになる。自分が裸で生まれ、裸で死んでいくことなどすっかり忘れて、これは、物や学歴や仕事や地位、そして何よりも、自分で創ったわけでもない、自分の命さえ、これは自分のものだと思ってしまう。命を創り与えた神よりも、自分の命を愛するとは、そういうことであります。自分の命は自分の物と自分勝手に生きていってしまう。それが、自分の命を愛するということであります。

最近集団で自殺するような若者達が増えてしまっていますけれども、なんで自殺するのかといえば、自分の命を愛しているからなのです。逆説的なのですけれども、自分の命を愛しているからこそ、人は自殺するのです。命を与えてくださった神よりも、自分の命を愛するからこそ、つまり、自分の命は自分の物だと思うからこそ、自殺出来る。まさに、25節で言われていますように、自分の命を愛するものは、それを失ってしまうわけであります。

自分の命は自分のものだ。自分の人生は自分のものだと思って生きるなら、結局は、それを失っていく。

それに対して、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命にいたると言われていますけれども、それはつまり、自分のために生きるだけの、そんな空しい人生を憎む。自分の命は自分のものだ、この世で手に入れたものは、みんな自分のものだと、死んだら持っていけないようなものに執着するような空しい人生を憎む。嫌悪する。そんないつかは無くなる物に縛られて生きる人生ではなく、命を与えてくださった神を愛し、神のために、自分の命や与えられたものを生かして生きる。それこそ、永遠の命。永遠の価値をもつ人生への道であると、そのように教えておられるのであります。

自分の命を愛してそれを失う人生、つまり、罪の人生から解放されて、神を愛し、神を礼拝して、与えられた自分の命を、豊かな実りあるものとする。そのために、イエス様は一粒の麦となってくだり、神よりも自分を愛してしまうような、人の罪を背負われて、十字架に死んでくださったのだと、聖書は語るのです。


第二次大戦中。ナチスの強制収容所の監視兵たちは、恐るべき権力を行使することができたわけであります。それこそ、なんでも強制して行わせることができた。収容されているユダヤ人に対して、信じる神を捨てさせることも、家族を呪わせることも、強制労働させることも、親しい友人や息子を殺させて埋めさせることさえ出来たわけです。戦争という異常事態の中で、彼らは恐ろしい権力を手にしていました。

しかし、そんな彼らでさえ、ただ一つだけ出来ないことがあったわけであります。どんな権力をもってしても、力をもってしても出来なかったこと。それは、自分たちを愛させることであった。彼らは、どんな力をもってしても、自分たちを愛するようにだけは、強いることが出来なかったのですね。

愛は強制や力では手に入らない。愛は愛によってしか手に入らない。愛国心が強制された瞬間に愛国心ではなくなってしまうように、愛は決して強制からは生まれない。愛は愛されることからしか生み出されてこない。

それゆえに、神は一人子イエスキリストを与えてくださった。神を愛するように強制することなど一切ないどころか、神自らがまず、人に対する圧倒的な愛を示してくださった。その神の愛のあかしが、キリストの十字架なのであります。そして、その一粒の麦は、2000年の時を経て、今や世界中に何十億ものイエスキリストを愛する人々という実を実らせているのであります。

そして、愛するということは、仕えるということであります。
今日の聖書の26節以下でイエス様は、こう言います。

12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

わたしのいるところに、わたしに仕える者もいる。つまり、イエス様の愛を知った人々、その愛を心に受け入れて、生き始めた人々は、イエス様に仕えて生きる新しい人生を生き始めていく。愛は人を仕えるものと変えていくのです。

西郷隆盛が西南の役の戦いに敗れたとき、せめて残った兵を国に返そうと軍を解散したわけですが、その時、増田という隊長は「自分は残る」と言い出しました。彼は、こう言います。「西郷という人はまことに妙である。一日、かの人に接すれば、一日の愛が生まれ、三日かの人に接すれば、三日の愛が生まれる。しかし、私は接する日を重ねて、もはや去ることはできず、いまは、かの人と生死を共にするほかはない」

伝道者のパウロという人は、イエスキリストの愛を知って、自分がどれほど強烈にその愛に引きつけられたかを、その手紙の中で表現していますけれども、彼は、キリストのことを人々に伝えることで、迫害を受け、地位も名誉も、すべて失ってしまったけれども、キリストの愛を知る素晴らしさゆえに、それら一切のものは塵芥であると言いました。そして、だれがこのキリストの愛から私たちを引き離すことが出来るのだろうか。この世界が提供するどんなものも、あの十字架によって示された神の愛から、私たちを引き離すことは出来ないのですと、そう語りました。

人は愛されるとき、その方に従って生きてくことを願います。もし、今、私たちが、誰にも従って生きようとしない。仕えるべき方などいない。自分は自分の勝手に生きていくだけだとするなら、それは、つまり、自分は誰にも愛されていないのだと告白してるのではないでしょうか。愛されるとき人は、仕えて生きるものとなる。聖書は、妻は夫に従うようにと告げますが、同時に、夫に対して、妻を命を捨てるほど愛しなさいと説くのです。人は愛されなければ心から仕えることもできない。逆を言えば、心から仕えるお方を持っている人は、愛されていることを知っている幸いな人であります。

イエス様は私たちを愛し、一粒の麦となって、その命を捨ててくださった。

この愛を心に受け入れて、自分の命を愛してそれを失う空しい人生ではなく、自分に命を与えた神様を愛して豊かな命を生きる人生。この私を愛してくださった、イエス様にお仕えしていきる永遠に価値ある人生を、ご一緒に歩んでまいりたいと、そう願うのであります。(お話:藤井秀一牧師)

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第29回「エルサレムに迎えられる」(ヨハネ12章 12-19)2004年10月31日
聖書
12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群集は、イエスがエルサレムに来られると聞き、
13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。
  「ホサナ。
  主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」
14 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
15 「シオンの娘よ、恐れるな。
  見よ、お前の王がおいでになる、
  ろばの子に乗って。」
16 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。
17 イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき、一緒にいた群集は、その証しをしていた。
18 群集がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。
19 そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」


今日の聖書箇所はイエスさまがエルサレムの町に入って行かれた時の様子が記されています。

聖書の中には「福音書」とよばれるものが四つあります。
マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ・がありますが、マタイ・マルコ・ルカの三つは色々な面で共通点があることから「共観福音書」と呼ばれています。共通の視点で観るという意味です。マタイ・マルコ・ルカの三つは並べてみると起こった出来事に対する視点が同じなのです。
ところが、ヨハネはこの三つとは随分違うところがあります。
例えばイエスさまが「私は福音をのべ伝える」と言ってガリラヤを出て活動を始められてから十字架にかかるまで、共観福音書は多分その記述だと一年なのです。ところがヨハネ福音書では三年なのです。共観福音書ではイエスさまがガリラヤを出てエルサレムに入ったのは記録としては一回だけということになります。その他にも行かれたかも知れませんが、記録としては一回であります。ヨハネ福音書ですとイエスさまは今日の箇所で三回目なのです。エルサレムの町に三年の間に三回行っているということは年一回のお祭りの時に出かけているということで、今回三回目にやってきたと思われます。そういうところで見方が随分違っている所があります。そういった違いがどうしてなのかということは色々な理由がある訳ですが、その事は今日は触れないでおこうと思います。

エルサレム入城ですが「入る城」と書きます。何故エルサレム入城と言うかといいますと、、エルサレムの町と言うのは城壁に囲まれているのです。町がお城の中にすっぽり入る形ですね。日本の城とヨーロッパの中世の城の感覚は大分違います。ヨーロッパの町は城壁に囲まれていますが日本の町というのは城壁の外にあり民衆が城壁を守り城を守るという感じです。

とに角お城の中ですから入って行く。ですからエルサレム入城という。今回三回目の入城はそれまでの二回とは全く違うのです。といいますのは、この三回目の時にイエスさまは捕らえられて不正な裁判にかけられ、十字架につけられてしまったのです。
民衆はイエスさまのことを褒め称え、「イエスさまは素晴らしい」と言いながら迎え入れたのですが、それから4〜5日の間に豹変していくのですね。「ホサナ(万歳)」と言ったその人たちが木曜日には「十字架につけろ」と叫んでいるのです。そのような群集の心が大きく変わる、この最後の一週間の出来事がここから始まっていくのです。

ちょっと横道にそれますけれども、先ほど聖書には福音書が四つあると言いましたが福音書というのは一つのジャンルなのですね。といいますのはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、の福音書と言うのは、イエスさまの何が書かれているかというと生涯が書かれている。では伝記でしょうか。ところがそのように見ますと不備が多いのです。イエスさまの誕生についてはマルコとヨハネの福音書には書かれていません。どの福音書も生まれてから30歳くらいまでの事は(12歳の時のことがちょっと書かれていますが)殆ど書かれていないのですね。
つまり福音書が、伝記というような生涯を追っていくものならば、これは非常に不備が多いのです。ですから伝記というジャンルに入りませんし、それどころかこのヨハネ福音書は全22章の内12章から最後の一週間が始まっています。前半の11章まででほぼ30年のことが記されているのです。ですから非常にバランスが悪い。そしてこのバランスの悪さはすべての福音書に共通しています。どれも最後の一週間に非常に集中しているのです。そういう独特の書き方の中で何を伝えようとしているのかということから、福音書という新しいジャンルとして2000年前に確立したんですね。
これは伝記じゃない、記録でもない。そしてここにはイエスさまを神さまを通して伝えたいということが強調されています。それが福音ですね。そしてその福音というのはイエスさまの生涯の中にも語られていますが、まさに最後の一週間に集中して書かれているのです。ヨハネ福音書の一つの特徴は、またあとで学ぶと思いますが、イエスさまが十字架にかかられる前の長い「告別の説教」が記されていることですが、この一週間で人々の心は全く変わっていくのです。

イエスさまのことをはじめは「なんとあなたは素晴らしい人なんだ」「素晴らしい」「ホサナ」と叫んだその人たちが何故か一週間後に心変わりをして「イエスさまを十字架につけろ」と叫ぶようになるのですね。何故そんなに大きな変化が心の中におこったのでしょうか。
実はイエスさまを十字架につけろという群集の叫び、その時の人々の心というのが実は人々の本音だったのですね。イエスさまをバンザイと迎え入れたその時、人々や弟子たちはイエスさまの事をきちんと理解していなかったのです。イエス様のことをきちんと理解せずに「イエスさまは素晴らしい」「ラザロを復活させた」」「いろんな奇跡をおこした」そのような目に見える奇跡やイエスさまの力強いわざというものに人々は心を引かれていったのです。そして「イエスさまバンザイ」と言って彼らは迎え入れ、そしてその姿を見て祭司長や律法学者たちも恐れたし、弟子たちもここに「このことが分からなかった」とありますようにイエスさまの真意をきちんと理解していなかったのです。

イエスさまは告別説教の中で「互いに愛し合いなさい」と繰り返し仰いました。互いに愛し合いなさい、許し合いなさいと。そしてイエスさまの教えの中で最も特徴的なものの一つとしてあるのは「敵を愛しなさい。敵を許しなさい」そして「敵のためにも祈りなさい」ということです。
神さまが分け隔てなく人々を愛しているように、神さまから分け隔てなく愛されているあなたがたも人々のことを分け隔てなく愛するように努めなさい、ということを教えて下さるためにイエスさまは私たちのところに来てくださいました。神さまは善人の上にも悪人の上にも太陽を昇らせ雨を降らせ養ってくださり心に留めてくださる方です。ユダヤ人も異邦人も変わりなく神の大切な存在として愛していてくださるのです。

しかし、人々がイエスさまにしたことは違いました。人々はイスラエルの国を復興させるために、人々を復活させるような、病気を癒すようなそういう人知を超える奇跡の力をもって、敵であるローマを討ち滅ぼしてもらいたかったのです。自分たちを圧迫する人を排除して、そして自分たちこそがあのダビデの時代のようにこの地域や世界に君臨するようなイスラエルになるのだ、そのような国を建設するのだ、そのためにこの人は王になる力がある。どうかあなたが私たちの王になって私たちを率いてもう一度この地上の栄光をイスラエルにお与えください、人々はそれを期待していました。

ですからイエスさまは「敵をも愛しなさい、敵のためにも祈りなさい。そして私は殺される。それが神さまが定められた救いの計画だ」と言われるので人々は失望してきました。期待が大きかっただけに人々の失望も大きく、イエスさまから心が離れていったのですね。人々は愛することや愛されることよりは勝利することを栄光を受けることを選んだのです。

私たちは成功すること、何か手に入れること、この世の富に目がくらんで本当の大切なこと「愛すること」を忘れて「イエスさまバンザイ」とそう叫んでします。私たちもそのようなあやまちを犯さないようにしたいものだと思います。目に見えるもの、形あるものは失われていきます。

本当に大切なことは何だったのでしょう。私たちはこの弟子たちの失敗や人々の姿を見て振り返りながら私たちにとって大切なものは何かをみ言葉を通して学んでいきたいと思います。本当に私たちが手放してはならないもの、それは神さまの愛なのです。愛というと情緒的とか色々イメージがありますが、先日の特別集会のときに渡辺和子先生が『ご大切』と言われました。私のような罪深い者でも一人ひとりが神さまにとって『ご大切』な存在なのだということを知り信じることができたら私たちの人生どんなに変わるでしょうか。(お話:中田義直牧師)(テープから編集させていただきました)


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第28回「ベタニアで香油を注がれる」(ヨハネ12章 1-8)2004年10月24日
聖書 12章
1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。
  家は香油の香りでいっぱいになった。
4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
5 「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その
  中身をごまかしていたからである。
7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。
8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」



4月からヨハネの福音書によって、イエスさまの生涯を追っておりますが、今日の12章から、内容的には、いよいよ大詰めに入ったというべきでありましょう。

先々週、私共は11章で、ラザロが墓の中からイエスさまによって甦った出来事を読みました。「偉大な生涯の物語」という映画が昔ありまして、その中の、このイエスさまによってラザロが甦った出来事が、人から人へと波のように伝わっていって、大勢の群衆が双手をあげて、怒濤のように街の中を走ってゆく場面を思い出します。それはまさに「歓喜」という言葉がそのまま映像になったような、すごい迫力のある場面で、ローマの占領下にあって、苦しい生活にあえいでいた人々にとって、この出来事がどれほど大きな喜びと、この人がイスラエルの国を復興してくれるかも知れないという、ある種の期待をもたらしたことは想像に難くありません。

しかし一方、時の宗教の指導者や政治的指導者にとっては、この出来事は決して喜ばしいものではありませんで、むしろ自分たちの立場を危うくするようなことでした。そこで、先週「イエスを殺す計画」というテーマで学びました通り、時の宗教指導者たちは、
11:53「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」と有り、57節には「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである」とあり、現代でいう指名手配のようなものが出されていたということでした。

ですから、12章からは、イエスさまはすでにいよいよ十字架への道を歩みはじめられていたということです。(もちろん、ある意味では、イエスさまは生まれた時から人間救済の使命を負っての、十字架へ向かう人生だったといえるのですけれど……)ですから、今日これから読む、この美しくも劇的な出来事も、イエスさまが十字架への道を歩みはじめられる、大変きびしい門出で起こった出来事ととらえて下さいますように。

さて、今日の聖書の個所をみてゆきたいと思いますが、まず登場人物は、先々週の11章の登場人物、即ちイエスさまによって甦ったラザロ、その姉妹のマルタとマリア、それに弟子たちです。

場所は1・2節「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」とあり、イエスさまが時々訪問されたラザロとその姉妹の家のようであります。しかし、記述は不鮮明であります。この出来事は福音記者たちの心に深く残ったことのようでありまして、実はマタイ福音書にも、マルコ福音書にも記されているのでございますが、こちらの方では、場所は「らい病人シモンの家」というふうになっています。聖書を読む場合、これを“本当はどっちだったのだろう”ということの方に目を奪われてしまいますと読みづらくなります。場所の詮索は聖書学者にまかせることとして、私共は、聖書は何を一体私共に向かって告げようとしているのかという、その、聖書の語りかけを聴いてゆきたいと思います。

実は、昨年一年間、マルコの福音書をこの早朝礼拝で学びました折にも、わたしは14章を担当することになり、この香油の出来事をお話し申し上げました。今日は「見えるものと見えないもの」ということをテーマとしてお話し申し上げたいと思いますが、しかし、同じ出来事ですので、前回と重複する点もあろうかと思いますので、その点、あしからずおねがい申し上げます。

2節をみますと、よみがえったラザロが食卓について、マルタが給仕をしていたとありまして、11章にも登場してえらく現実的発言をするマルタ、またルカ10章におけるマルタとマリアの物語を彷彿とさせまして、マルタはここでもまた人々のもてなし役をしています。きっと、まわりに気を配ってお世話をよくする人柄だったのだろうと想像いたします。

多分、親しい者同志で、いつもの雰囲気で和やかな食事が進んでいたと思われますが、その普段の雰囲気を破って、思いがけないことが起こりました。

妹娘のマリアが非常に高価な純粋なナルドの香油1リトラ(口語訳聖書では1斤となっている。1斤は普通600グラム、但し食パンの1斤は、店によって異なり250グラム〜400グラム)をもってきて、イエスさまの足に塗り、自らの髪をもってそのみ足をぬぐいました。何と美しい光景でありましょう。「家は香油の香りでいっぱいになった」と記されております。

今は女性の髪の毛もファッションの一部のようになってしまいましたが、この物語の起こった当時のユダヤの社会では、髪の毛というのは大変神聖なもの、霊の宿るものとして、やたらに人にふれさせなかったと言われておりますので、自らの髪の毛をもってみ足をぬぐうということは並々ならぬ行為であり、周囲の人々に衝撃を与えるに十分な光景だったと思われます。

彼女はベタニアに住んで、イエスさまがエルサレムにお上りになる度にお寄りになる家の娘でした。11章、ラザロの復活の記事の中で、ヨハネはくり返しイエスさまがこの姉妹を愛しておられたと記しています。ルカ10章のマルタとマリアの物語の中でも、忙しく立ち働くマルタをよそに、マリアは主のひざもとに座ってみ言に耳を傾けていたとありますが、マリアは日頃からイエスさまの語るみ言に心から傾倒し、信じ、尊敬し、慕い、愛していた。だからこそ、彼女はもう数日後には十字架にかかって死ぬと宣言なさるイエスさまの心の悲しみも苦しみも理解出来たのです。愛は人の心の悲しみや痛みを感じとることが出来ます。恐らくマリアにとって、イエスさまが時の為政者たち、宗教指導者たちからにらまれているお尋ね者だなどという意識など全くなかったろうと思われます。マルコによる福音書には「壺をこわして注ぎかけた」とありまして、彼女はひたむきにイエスさまへの愛を、かくも美しく、大胆な行動によって精一杯捧げたのでした。

また一方、7節の「わたしの葬りの日のために」というイエスさまの言にもありますように、この行為を“イエスさまの葬りの先取り”とみる見方もあります。そういう観点からこの行為をみたとしても、彼女はイエスさまを愛するが故に、目前に迫っている十字架を察知することが出来たのだと思います。何べんも「十字架にかかって死ぬ」と預言なさるイエスさまを、男の弟子たちは本当の意味でなかなか理解出来なかったし、理解出来ないが故に、なかなか信じることが出来なかった弟子たちと、愛するが故の鋭い感性によって、信じたくないこと、起こりえないと思われることをも、はっきりと察知して、葬りの先取りとして香油を捧げたとみるべきでしょう。

さて、この美しくも衝撃的出来事をみて、直ちに批判の言葉を発したのが、のちにイエスさまを裏切ることになるユダであります。
4節「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。『なぜ、この香油を300デナリオンで売って貧しい人々に施さなかったのか』」とあります。300デナリオンという値は、当時のユダヤ人の1年間の給与に相当するといわれております。
この間、新聞に日本のサラリーマンの1年間の平均給与は670万円とでておりましたので、その高価なことは大体理解出来ます。ですから、ここでユダがこのことを無駄遣いだと言って非難する気持ちもよく分かります。彼は不当な、理不尽なことを言っているのではありません。むしろ、現代にも通じる合理的な発言であります。私が属していた組織などの会議でも、このような主旨の発言はよく聞かれましたし、このような合理的・効率的意見が優位を占めて採決される場合が多いのです。しかし、イエスさまはこのユダの合理的・常識的な発言をおとりにならず、一見無謀のように、無駄遣いのようにみえるマリアの行為を支持なさいました。ここには記されておりませんが、マタイの福音書には「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とイエスさまが言われたと記されてあり、これは最高のおほめのお言であるように思われます。

一方、マリアよりずうっとイエスさまと接する機会も多い弟子の一人であるユダは、一貫してイエスさまが説きつづけた愛の世界、ほんとうは一番大切な、目に見えない世界をどうしても理解出来なかった。今日のこの短く記されている出来事の中に、この、目にみえる世界しかみることの出来なかったユダと、イエスさまが示された目にみえない世界を理解することの出来た対照的な二人の姿がはっきりと浮き彫りにされています。

この12弟子の一人であるユダが、イエスさまを裏切るという行為は、何べん読んでも胸痛む、悲しい出来事であります。

どうして彼がイエスさまを裏切ったのかは、学者たちの間でもいろいろ意見がありますが、ユダはイエスさまに、当時のユダヤの国の困難な情況、ローマの圧政、貧困など、政治的・経済的苦しみから解放する救い主を求めたのだと思います。

しかし、イエスさまの救いはそのような処にはなかった。そのイエスさまの救いのあり方を理解出来なかった彼は、ついに主なるイエスさまを裏切るという痛恨事を残してしまいました。いろんな短歌を詠んだことがあります。

「見えぬものに視点をおきて生きんとし なお日常の見える物見る」

なかなかイエスさまのために1年分の給料に値するものを捧げるようなことなど出来ないのが現実でございます。しかしまた、目にみえる現実だけに終始する生き方もしたくはありません。
天野有さんという方は、この常盤台教会で青年時代を過ごし、ここから献身して、今、西南の神学校の教師をしておられる方ですが、ずいぶん前になりますが、ヨハネ11章、ラザロの復活の記事を主日礼拝で説教をなさいました。私は感動して、テープをダビングしていただき、今も持っているのですが、天野有さんはその中で「マリヤにはからし種ほどの信仰があった。そしてからし種ほどの信仰で十分だった」と語られたことが心に深く残っております。

自らかえりみてゆるぎない強い信仰など到底持つことは出来ません。でも、からし種ほどの信仰があれば十分だという天野有さんの言葉に慰められます。からし種ほどの信仰でも、イエスさまによって救われ、その恵みの中で愛していただいていることに感謝し、また周囲の人、一人ひとりもイエスさまが愛しておられるお一人おひとりとして、大切に考えてゆく人生でありたい。

からし種ほどの信仰、でもそれがほんものでありたいと願いつつ祈る毎日です。(お話:工藤渓子さん)
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第27回「イエスを殺す計画」(ヨハネ11章 45-57)2004年10月17日

聖書
イエスを殺す計画
45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。
47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行なっているが、どうすればよいか。
48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。
50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
54 それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
55 さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。
56 彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」
57 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。


みなさんお早うございます。今朝もご一緒にヨハネによる福音書から学んで参りましょう。

早朝礼拝でヨハネによる福音書を学んできておりますが、いよいよ第11章のおわりのところ、45-57節のところになりました。
ヨハネによる福音書は全部で21章から成っております。ちょうど真ん中まで読み進んできたことになります。
最高法院が召集されて主イエスを殺すことが決定され、今日で言う「逮捕状」が出されたのです。
この章が終わりますとイエス様の受難の記事になっていきます。ということは、このヨハネによる福音書はその後半部分を主イエスの十字架への歩みを記すことに費やしているのです。そして今朝の箇所はこれから始まる主イエスの十字架にいたる受難の道の始まりの部分になるということができます。


先週、郷先生からイエス様がラザロを生き返らせる箇所を学びました。
このしるしは実に大きな反響をユダヤ人の間にもたらしたのです。そしてイエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くはイエスを信じたと聖書は記します。

わたしは前回、イエス様が安息日に盲人の目を癒されたお話をしたのですが、その時ファリサイ派の人たちは盲人に目が見えるようになった理由を尋ねました。その両親にも同じように理由を尋ねました。
今回ファリサイ派の人々が事実関係を調べたというような話はどこにも出てきません。それだけ多くの人々が目撃したのでしょう。
そしてラザロの復活の出来事を通して、ユダヤ人の多くがイエスを信じたのです。
しかし、イエス様のなさったしるしの前で、すなわち同じ出来事を目撃した人々の中でイエスを快く思わない者たちもいて、彼らはファリサイ派の人々の所に行き、イエスのなさったことを告げたのです。

今朝の箇所では最高法院という言葉が出てきます。このことに少し触れておきます。

これはユダヤ人の議会のことで、ヘブル語でサンヘドリンと呼ばれます。サンヘドリンにはエルサレムの議会(大サンヘドリン)と地方の衆議所(小サンヘドリン)がありました。
エルサレムの議会は、ユダヤの最高機関また法廷であり、地方の衆議所(小サンヘドリン)はその下級機関でした。サンヘドリンは大祭司が議長を勤め、議長のほかに70人の議員で構成されていました。
当初は、サドカイ派や祭司貴族が大多数を占めていましたが、ローマ時代にはファリサイ派が台頭して勢力を二分していたと言われています。エルサレムの切り石の広間と呼ばれる部屋を議場とし、議席は半円形に配置され、安息日と祝節を除き毎日開かれ、その機能は国民の宗教生活の監督が主であったが、民事、刑事を処理し、罰金、鞭刑などに処する機能も与えられていました。
ただし、死刑はローマの統治権の元にありました。(イエスはこのサンヘドリンの裁判にかけられ死刑の判決をうけたのです。)(新約聖書神学事典(教文館)、聖書事典(新教出版))

47節をご一緒に読んで見ましょう。

「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行なっているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」」(ヨハネ11:47)

ローマ帝国は支配した国の宗教や文化に対して、治安が赦される限り寛大な政策をとっていました。
ユダヤ人議会もローマの支配化にありましたが、相当の自由と権利を認められていました。祭司長や最高法院の人たちは当時の社会の中で宗教的・政治的・社会的特権を保持していたのです。
ところが、今、ラザロを生き返らせるというしるしを行なったイエスを信じる人々が更に増えて、多くの人々がイエスを担いでローマに対してクーデターを起しでもしたらどうなるだろう、暴動でも起したらどうなるだろう。結果としてローマの人々が来て我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。彼らはそれまで与えられていた自由と特権を奪い取られてしまうであろう。彼らはそのように恐れたのあります。

49節と50節も一緒に読んでみましょう。

「彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」(ヨハネ11:49−50)

ここで一人の人間とはイエス様のことを指しています。
イエス様が死ぬことによって、自分たちの利益を守り、国民全体が滅びを免れる方が良いという意味でしょう
。一人の人間即ちイエス・キリストを犠牲にして、暴動の起こる前にその芽を摘み取ってしまったほうが良いということです。そうすることで彼らの安全が図られユダヤ全体が滅びないと言っているのです。カイアファはそのような意味で語ったのでしょう。

しかし、ヨハネ福音書の記者はそこに神様のご計画を見ているのです。表面的にはカイアファは当時の状況、ユダヤ人がエルサレムにたくさん集まってくる過越祭を前に、自分たちの利益のために語っているのですが、神様の目からみるとそうではない。カイアファはその年の大祭司であったので、神様に用いられて、本人の意図する所とは違った意味の預言をしたのだと言っているのです。
即ち、イエス・キリストが国民のために死ぬと預言したというのです。しかも国民のためばかりでなく、散らされている神の子‥これはバビロン捕囚期以降全世界に散らされているイスラエルの民のことです‥を集めるためにも死ぬと言ったというのです。

わたしも今年になって皆さんと一緒にヨハネによる福音書を学ばせてもらっておりますが、6月に「イエスとサマリアの女」のところをお話させていただきました。自分にとっても本当に良い学びでしたが、この福音書にはサマリア人やガリラヤ人が登場いたします。異邦人というものがその視野に入っている。アブラハムの子、イスラエルの子孫たちという民族的な枠を超えた「よき知らせ」、福音が語られている。ですから、カイアファは神様に用いられて、こんなふうに言ったということができるのではないか。
「キリストは国民(イスラエル)のため、そして国民(イスラエル)のためばかりでなく、ローマ人、日本人、フランス人、中国人‥世界中に散らされている神の子とされる者たちを集めるために死ぬ。」

次に参ります。

「それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。」54節

これまでもイエスに対する殺意はあったのですが、サンヘドリンというユダヤ人の最高意思決定機関による正式決定としてはなされていなかった。しかしここにおいて、公式の決定となったのです。ですから、イエス様は公然とユダヤ人の間を歩くことはなくなりました。

「さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。」(ヨハネ11:55−57)

福音書はこの時、ユダヤ人の過越祭が近づいたと記します。この福音書ではこれで3度目になるでしょうか。
過越祭とは早朝礼拝のお話の中で何度か出てきましたが、イスラエルの民が神によってエジプトから救い出されたことを祝う祭りです。エジプト人の長子と家畜の初子を滅ぼした神の使いが、イスラエル人の家を「過ぎ越し」たこと(子羊が殺されてその血がイスラエル人の家の鴨居に塗られていたからです)からその名が付きました。
ニサンの月の14日(太陽暦では3月末から4月初め頃)に子羊を屠って焼き、種無しパンとともに食して祝いました。エジプト脱出はイスラエル人の信仰の根源をなしております。この祭りはイスラエルの人々にとって非常に大切なものでありました。こうした過越祭の喧騒の中で人々はイエスを捜し神殿の境内で互いに「どう思うか。あの人はこの祭りにはこないのだろうか。」と言ったと聖書は記します。

過越祭では子羊が屠られます。子羊が自分たちの代わりに死んでくれていく。ヨハネによる福音書はこの過越祭で殺される子羊とこれから十字架への道を歩みきり殺されていく主イエス・キリストを重ね合わせて見ていると思うのであります。

ユダヤ人の議会はイエスを捕らえるために彼の居所が分かれば届出よという命令を出しました。
いよいよ人間の底知れぬ罪を背負って神の子イエスは、十字架への道を歩んでいかれます。
そして主の十字架のもとには神の義と愛があります。
それはわたしたちひとり一人を救いとらんとする神様の真実の愛なのであります。(お話:平野一男さん)

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第26回「ラザロの死・イエスは復活と命」(ヨハネ11章 1−44)2004年10月10日
聖書
ラザロの死
11:1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
11:2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
11:4 イエスは、それを聞いて言われた。
   「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11:6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
11:7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
11:8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」
11:9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
11:10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
11:12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。
11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、
   彼のところへ行こう。」
11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

 ◆イエスは復活と命
11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 ◆イエス、涙を流す
11:28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。
11:29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。
11:30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、
   墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。
11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、
   「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
11:37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 ◆イエス、ラザロを生き返らせる
11:38  イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
11:39  イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、
    「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
11:40  イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
11:41  人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
11:42  わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。
    しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。
    あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
11:43  こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
11:44  すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。
    イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。イエスは言われた。
    「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
    生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」



ユダヤのエルサレムの近郊でベタニヤという村にマルタ、マリヤの姉妹が兄弟のラザロと住んでいました。
ラザロが重い病気にかかり、死に瀕しているときに姉妹はイエス様に早く来てほしいと連絡しますが、
イエス様はなぜかラザロが病死してから到着するようになさったのです。
村に入るとマルタがイエス様を出迎え、彼女の知らせで次にマリアが同じ場所まで出迎えました。
イエス様はただ泣くばかりの彼女や同行のユダヤの人たちを見て「心に憤りを覚え」、ラザロの墓の場所を訪ねると人々が
「死後、四日もたっていますから」と疑いながらもイエス様の命令に従い、墓の入り口の石を取り除けたところ
「ラザロ、出てきなさい」というイエス様の声とともにラザロがよみがえって出てきた、という有名なラザロの復活の奇跡物語です。

ラザロの復活の奇跡物語は、信じる者にとってはイエス様こそは「よみがえりであり、命である」ことを示しています。
ラザロの復活の奇跡物語は他の福音書には出てきません。
このような驚くべき奇跡の話しであれば他の福音書にも書かれてもよい筈なのにと思ってしまいます。
はたして、ラザロの復活は史実なのか。今の私たちには知る由もありません。
しかし、マルタとイエス様との対話からキリスト教にとって最も大切なメッセージが示されているのです。
イエス様をマルタが村の入り口で出迎えたときの対話に聞いてみましょう。

11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。

最愛の兄弟を亡くした家族の悲しみが言わずに入られない言葉として語られます。
もし、イエス様がここに居てくださったなら。もっと早く来てくだされば。兄弟ラザロは死なずにすんだかもしれない。
しかし、その後にマルタの信仰の言葉が続くのです。

11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

イエス様は宣言されました。
11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

マルタは伝統的なイスラエルの信仰をここで述べたのです。
当時の人々は神により選ばれた民でありながら現実には厳しい、過酷な、敗北的な歴史を経験してきた。
それゆえに神の言う新しい世界というものは現在とは異なった命の世界があるに違いない。
これが来世に対するイスラエルの人々の確信であったようです。

11:26 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
   生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 

この言葉はイエス様が何を意味されたのかを正確にとらえることはむつかしいのですが、ひとつだけ明らかなことは
イエス様は肉体的な生命を考えていたのではないということです。肉体的な死は信じる人も信じない人にも等しく訪れます。
イエス様を信じたからといって肉体の寿命が延びるわけではありません。
ましてやこの世でいつまでも生きつづけられる訳でもありません。
ここからイエス様の言う「死ぬ」とか「生きる」ということは私たちが日常につかう生き死にとはどうやら違うということを
気付かせられるのです。

「生きる」という生命を指す言葉がギリシャ語には二つあります。
新約聖書はギリシャ語で原典が書かれています。聖書を書いた記者は当時のイスラエルとローマ社会、
つまり全世界に伝えることの出来る言葉で書かれました。
そのために日本語の訳だけでは理解が深められない言葉もあるのです。丁度、「生きる」という言葉もそれにあてはまるのです。

二つの内、一つは「ビオス」と言い、もう一つは「ゾーエー」です。
ビオスは自然の生命現象を意味し、ゾーエーは人間は人間らしく生きたいと願うような生命を意味します。
つまり、人間は他の動物とは異なり、ビオスとゾーエーの二重の命を生きていると考えているのです。
これを「生ける屍」という言葉で説明するならば、ビオスの生命には生きているがゾーエーの生命は絶たれている。
一見すると矛盾するような言葉ですが私たち日本人にもそれぞれに多少の思いの違いはあっても理解できる言葉なのです。
ですから、このような感覚は私たちも含めて全ての人間が等しく共有しているものといっても差し支えないでしょう。

そして、この言葉は、マルタの信仰にさらに新しい活力と新しい意味を与えてくださったのです。
同時に私たちにとってもキリストの信仰を理解するうえでもっとも大切な言葉でもあるのです。
イエス様は人間にとってビオスの死が全ての終わりではない事を示されたのです。私たちは死への途上にあるのではなく
イエス様という「門」をとおり、新しい命(イエス様の助けを借りて生きるゾーエー)へと導かれる希望を与えられたのです。
私たちがイエス様を信じて、み言葉に従う生活となり、すべてのことがそれに委ねるときに「神の無い」命、
すなわちビオスの特徴である死の恐れから自由にされ、私たちは真実によみがえるのです。

11:26「このことを信じるか。」

イエス様の言葉は、今、あなたは受け入れますかと問うているのです。

11:27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

これはマルタのこれまでの伝統的なイスラエルの信仰の理解からキリストの信仰へと変えられた信仰告白です。
キリスト教の持つ力を実感するのは最終的にはイエス様が何をなされるかを現実にみる事です。
言葉だけでは確信に至るのは足りないかもしれません。
マルタやマリア、そして、居合わせたイスラエルの人々は確かに死んで四日たったラザロが生き返った事実を目の当たりにしたのです。
このように現実に働かれた神に対しては議論の余地がありません。
しかしながら、くりかえし申し上げますが、はたして、ラザロの復活は史実なのか。今の私たちには知る由もありません。

それでもこの章のラザロの復活の奇跡から、真実に生きられない、神から離れている人々に
イエス様こそが復活であり、生命(いのち)であるこということが強烈なメッセージとして伝わっていったのです。
そこから数え切れない多くの人々が時代を超えて、現代においても尚、「もう一度生きる」という希望与えられ、
死の状態から新しい生命(いのち)へと導かれたという事実が起こされていることが最大の奇跡であると言えるのではないでしょか。
(お話:郷 秀男さん)

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第25回「ユダヤ人、イエスを拒絶する」(ヨハネ10章 22-30)2004年10月3日
聖書

10:22  そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。
10:23  イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。
10:24  すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
10:25  イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。
10:26  しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。
10:27  わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
10:28  わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
10:29  わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。
10:30  わたしと父とは一つである。」



おはようございます。

今日の聖書の箇所の冒頭に、そのころエルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。時は冬であった、とあります。このお祭りは、今でもユダヤで行われている祭りで、他の聖書では「宮きよめの祭り」とも訳されます。最初にこのお祭りの由来を簡単に説明します。

イエス様の活躍された時代から160年ほど前の時代。ユダヤ地方は、シリアという国に支配されておりました。そして、そのシリアの王様が、自分こそ神の現れであるといって、エルサレムにギリシャの神々の像を建てさせ、ギリシャの神を拝ませ、ユダヤ人の嫌う豚を犠牲として献げさせるようなことをしました。つまり、自分たちの宗教を持ち、なかなか治めにくいユダヤ人たちを支配するために、宗教的な弾圧をしたわけであります。
戦前、日本が、朝鮮半島を支配するために、あちこちに日本の神社をつくって、人々に無理矢理拝ませ、支配しようとしたことと似ておりますが、人間にとって思想や信仰といいますのは、人間が生きていくための、根本的なものでありますから、それを弾圧したり支配しようとすれば、必ず大きな反発を受ける。
ユダヤ人も、自分たちの神殿に、無理矢理異教の神々を建てられ、これを拝めと弾圧される中、ある祭司を中心として反乱が起こり、ユダヤ教の礼拝を回復するために、独立するのだと、戦いを始めたわけであります。そして、見事、エルサレムの神殿を奪回し、異教の神々を追い出して、宮きよめをして、新しい神殿を奉献した。そのことを、記念する祭りが、この神殿奉献記念祭なんですね。力づくで、ユダヤ民族の信仰を守った。ユダヤの民族意識がもっとも高まるお祭りでもあったわけであります。

そんなお祭りの最中に、ユダヤの人々、特に、ユダヤの指導者たちですが、彼らがイエス様を取り囲んでこう言ったわけであります。
「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」

メシアといいますのは、油注がれた者という意味ですが、やがてやってくる救い主と信じられていた存在であります。ユダヤの指導者達は、イエス様に向かって、あなたが私たちを救う救い主であるなら、はっきりとそういいなさいといっているわけであります。
それに対して、イエス様は「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。」と言われました。

ユダヤ人たちは、メシアならはっきりそう言いなさいといったのに対して、イエス様は、言ったではないかといわれるわけです。でもあなた方は信じないではないかといわれる。なにか会話がすれ違っているわけであります。

そこにはまず、ユダヤの人々が考えていたメシア、救い主というものが、かつてシリアと戦って、異教の神々から救ってくれたような存在として、つまり、軍事的な力で、今、ローマに支配されている自分たちを解放してくれるメシアがやってくると、そう思いこんでいたところに大きな問題がありました。

しかし、イエス様は、ご自分がそのような、ユダヤ民族がこの世界で一時的に繁栄するとか、解放されるとか、そのようなメシアであるとは、ひと言も語っていないのであります。だから、ユダヤ人達は、メシアならメシアだとはっきり言ってくれといったわけであります。
でも、イエス様は、言ったではないか。でも、あなた方は信じない。そういわれる。それは、私は軍事的なメシアだといってきたのではなく、永遠の命を与えるメシアであると語ってきたのに、あなた方は信じなかったではないかと、そういわれるわけであります。ここで、少し前の箇所を開けたいのですけれども、8章51節からですが、そこにはイエス様とユダヤの指導者とのやりとりがこう記されています。

8:51 はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」
8:52 ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。
8:53 わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」

こうあります。
イエス様が、わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。もちろんこれは、肉体的な命のことではなく、霊の命のことでありますけれども、その永遠の命を与えると語っても、それを聞いたユダヤの指導者達は、何を言っているんだ、人間はみんな死ぬではないか、何様だと思っているのか、と、イエス様の言葉に耳を傾けようとしませんでした。ローマに支配されていたユダヤの人々にとっては、今の目の前の現実が良くなることが救いであって、そんな自分もやがて死ななければならないことも、自分の罪も忘れて、ただ、目の前の現実を改善してくれる救い主、民族的なメシアで心いっぱいだった。でありますから、イエス様の言われていることが、聞こえてはいても、心に入らない。聞こうとしない、信じようとしないと、そういうことでありました。

そのような、目の前のことにとらわれ、永遠の事柄に対して目がふさがれている姿。それは、現代に生きる私たちもまたそうではないでしょうか。

現代人は、毎日忙しくて、宗教とか哲学とか、そのようなものに関わっていられない、宗教などではなく、すぐに目の前の問題を解決してくれる実用的なものこそが、価値あるものだと、そういう考え方で、いきてきたのではないでしょうか。
戦後日本も、生きる意味や人生の意味を求めることより、今、目の前の貧しさからのがれ、豊かになるという目先の問題を解決しようと、家庭を犠牲にしてまでがんばってきた。そして、確かに経済的には豊かになったかもしれませんが、その陰で、多くの家庭が壊れ、子どもたちの犯罪が増えてきたわけであります。
最近は、年金問題が騒がれましたけれども、年金の問題の本質は、本当にお金の額にあるのだろうかと、そう思います。本当にお金の問題なのだろうか。
厚生労働省によると、今、勉強もせず、働きもしない若者の数が、毎年何万人ものペースで増えているわけであります。最近、教会にやってきたホームレスのおじさんに聞いたのですけれども、今、新宿あたりにいくと、20代の若いホームレスの人が、大変増えているそうであります。田舎から出てきて、仕事をしてみたけど続かなくて、そうこうしているうちにホームレスになってしまう。そういう若者が増えている。そんな働けるのに働かない若者が年々増えれば、年金どころの話ではない。社会そのものが行き詰まってしまうわけであります。
問題の本質は、目先のお金の話ではない。その本質は、人間がいかに生きるべきなのか。なぜ生きていくのか、何のために生きるのかという、まさに宗教の問題。聖書が言うところの、永遠の命の問題にこそ、目が開かれなければならないのではないでしょうか?

10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。

イエス様はここで、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」といわれます。
10章でイエス様は、ご自分のことを羊飼いにたとえ、私たちを羊にたとえておられますけれども、羊飼いであるイエス様の言葉を、聞き分ける。それは、ただ無意識に聞こえていることを聞き流すのではなくて、聞き分けていく。確かにこれは、神の言葉であると、命の言葉であると、聞き分けていく。それが大切なことなのであります。

なにが本当に生きていくのに大切な言葉なのか。この世界には沢山の言葉があふれていますし、インターネットによって、ありとあらゆる言葉にアクセスできるわけですけれども、その言葉の洪水の中で、本当になにが大切な言葉なのかを聞き分ける。その大切な言葉が、聖書の言葉であることを、イエスキリストの言葉であることを、聞き分けていくことができる。それは、不思議なことであります。そこには、単なる自分の思いこみではなく、確かに、イエス様の言葉を聞き分けさせてくださる神の導きがある。

少し前の14節にこうあります。

10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。

とイエス様は言われるのであります。つまり、
すでにイエス様に知られているから、私たちはイエス様の言葉が心に響く。聖書の言葉が心に響く。
無理矢理思いこもうとしているわけでもなく、また、念仏のように押しつけられているわけでもないのに、なぜだか、イエスキリストの言葉が、心に響いてくる。
「わたしは羊のために命を捨てる」と言われ、本当にこの私の罪の身代わりに十字架についてくださったイエスキリストの言葉が心に響く。
生きることのむなしさになやむ私の心に、キリストの言葉、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われた言葉が響く。それは、私の思いこみでも、信仰の押しつけでもなく、それは、すでにイエス様に知られ、イエス様に愛されているゆえに、イエス様のその声を聞き分けることができる、心にとめることができる。そういうことなのであります。

問題を引き起こしてきた新興宗教は、大抵、無理矢理人々に信仰の教義を信じさせようと、マインドコントロールの手法などを駆使して、いわば洗脳のようなことをいたします。そのためのマニュアルが整っていて、いわば、そのマニュアルにそってするなら、どんな人間も信じさせることができると、そう考えているわけであります。
つまり言葉を変えれば、人間が人の心の中に信仰を作り出すことができる。人間の力で、人に神を信じさせることができる。そう考えるわけであります。
戦前の日本帝国が、朝鮮半島に日本の神社をたてて神社の神を信じさせることができると考えたように、人間が人間に対して信仰を与えることができると考えるとき、そこに恐ろしいことが引き起こされてきたのであります。信仰というものを、人間を支配するために利用してきた国があり、教祖がいる。

しかし、イエス・キリストは、ご自分を否むユダヤの指導者たちにこういわれたわけであります。

10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。

クリスチャンの方はおそらく誰一人として、無理矢理に脅され強制されて、イエスキリストを信じるようになったということはないと思います。そうではなく、ただ、イエス様の言葉が心に響いて、心から離れなくて、この方こそまことの救い主であるに違いないと、そのように自分で確信したのだと思います。
特に私たちのバプテスト教会は、自分の口で信仰の告白をすることを大切にしています。親がクリスチャンであるからとか、そういうことはいっさい関係なく、誰にも無理強いされないで、ただ自分自身の口で、イエスキリストを救い主と信じる告白をすることを大切にいたします。
そこに人の働きではなく神の働きを信じるのです。人間が人を支配するために、人に無理矢理信じさせるのではなく、本当の神に従うために、神が人に信仰を与えてくださる。それが聖書の信仰であり、まさにイエス様が、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」と言われたことの意味だと理解しています。

そして最後にイエス様は、
10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。
10:30 わたしと父とは一つである。」

と、救いの確かさについて明言されました。
父なる神と一つであるイエス様は、ご自分の羊を守り通してくださる。私たちの罪を赦し、死が終わりではない、永遠の命の約束をしてくださった、その約束のことばを、聞き分ける人に、その約束は必ず成就するのであります。
どんなに、私たちが弱くとも、自分には信仰など持ち続けられないと感じていてもであります。
信仰とは、私たちが神の手を握ることではなく、神が私たちの手をつかんでくださることだからであります。
子どもが親の手をつかんでいるときに、何かに躓けば、子どもは手を離して、転ぶでしょう。しかし、親が子どもの手をつかんでいるなら、こどもが何かに躓いても、転ぶことはありません。親がしっかり子どもの手をつかんっでいるからであります。

私たちの信仰とは、まさにそのように、私ではなく、神が私たちの手をつかんでくださっている。そこに平安と喜びを見いだす信仰であります。
イエス様の言葉を聞き分け、その永遠の命の約束に胸躍らせながら、どんな状況が目の前にあろうとも、躓いて倒れそうになっても、神が支えてくださることを信じて、今を感謝して歩む。そんな人生をあゆませていただく、それが、私の羊飼いであるイエス様を信じる信仰なのであります。(お話:藤井秀一牧師)

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第24回「イエスは良い羊飼い」(ヨハネ10章 1−18)2004年9月26日

聖書
『「羊の囲い」のたとえ』
1  「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
2  門から入る者が羊飼いである。
3  門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
4  自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
5  しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
6  イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

『イエスは良い羊飼い』
7  イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
8  わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
9  わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり(ほふったり)、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。ー狼は羊を奪い、また追い散らす。−
13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それをふたたび受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」


先週、私共は9章を通して、一人の盲人がファリサイ派の人々の圧力にも屈せず、イエスさまに目を開けていただいたことを主張しつづけ、会堂を追い出されたところで、イエスさまに真向かい、救われた出来事を読みました。今日のところは、その9章の出来事のあとに続くイエスさまの教えであります。

私はこの10章の教えは、目を開けていただいた盲人の出来事だけでなく、4章のサマリアの女、5章のベトザタの池の病人のいやし、5,000人の給食、カナの婚姻など、今までヨハネ福音書に記されてきた多くの出来事の集大成のような形で語られているような気がしてなりません。
もっともこれは、どなたかえらい先生がお話しされたとか、書かれたとかいうことではありませんで、あくまでも私の考えですので、そのつもりでお聞きいただきたいのですが、今まで記されてきた出来事の集大成、即ち、この個所は旧約時代は終わって、新約の時代が到来したことを言い表しているように私は思います。

旧約と新約という言葉は今更説明する必要はないと思いますが、一応もう一ぺん考えてみますと(多分、神学的に言えば難しいことなのでしょうが)私が信徒の一人として今まで学んできたところでは、旧約は古い約束、新約は新しい約束、それぞれどんな約束かといえば、旧約・古い約束は、神が選ばれた民イスラエルに与えられた律法を守り行うことによってもたらされる祝福の約束、旧約の約束のもうひとつは、これは初代牧師松村先生の夫人である松村あき子先生が特に強調されたことですが、やがてユダヤ民族に救い主が与えられるという約束です。

新約・新しい約束は、言うまでもなく、救い主、イエス・キリストを信じる信仰によってもたらされる神の恵み、救いの約束です。

聖書には神さまと人との関係を羊飼いと羊にたとえる言葉がたくさん記されています。こう申し上げますと皆さまは、私共が何かにつけて愛誦
(あいしょう)する詩篇23篇を思い出されると思います。
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことはない。主はわたしを緑の牧場にふさせ、いこいのみぎわに伴われる」
と昔々ダビデは歌いました。そして旧約の時代が終わって新約の時代の到来を
4節「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」と、また
「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」とイエスさまは宣言なさっています。

また一方、私たちは、中田先生や藤井先生を牧師先生とお呼びしますし、牧師を英語でいえば「パスター」、この言葉は、ラテン語の「羊を養う人」というのが語源なようですので、この場合はパスター「羊を養う人」を信仰の養い手、導き手として、われわれ信徒は羊の群として主イエスさまの教会を形成してゆくということになると思います。

もちろん、今日の聖書の個所では、羊飼はイエスさまで、羊はイエスさまのみ言に聞き従う人々の群です。しかし、ここに記されている内容は、牧場の広がるのどかな田園風景といったなま易しいものではありませんで、むしろ厳しい選択を私共に迫るものです。

このみ言の厳しさの例として今、二つのことをお話ししたいと思います。
マルチン・ルターの宗教改革と、もうひとつは、ナチスと闘った抵抗運動のことです。

時は1517年、ドイツのアウグスティーヌ修道会の修道士だったルターが宗教改革の運動を起こしました。その結果、われわれは今、プロテスタントの世界に生きているのですが、それは当時、強大な力をもっていたカトリックに、プロテストする、抵抗する運動だったのですから、なま易しいことではなかったと思われます。
その厳しい神学的論争を支えたのは、この10章の主イエスさまのみ言だったといわれています。とくに実際にその討論の中でルターが引用したのが、ここの9節だったということで、彼は「イエス・キリストこそが門である。この門のみが救いだ」というところに立ったのです。

もう一つは、それから400年余り経った1933年、今から60年あまり前でしょうか、ドイツの政権はヒトラーが握りました。
例の、見るも恐ろしい鍵十字の旗が国中にひるがえり、ドイツは一気にヒトラー独裁の時代に入ります。民衆はその独裁の恐ろしさも知らず、祖国が強大になるとドイツの栄光を夢み、歓呼してヒトラーを賛美します。
その時、そのような情況に危険を察知して起ち上がったキリスト者、神学者が宣言を出します。「バルメン宣言」と呼ばれますが、その第一の条項に「イエス・キリストこそ信頼し従うべき神の言であり、さまざまな出来事とか人物とかを真理と称することを却ける」という意味のことを記しています。これは神以外に真理はないと言い切って、ヒトラーに熱狂することに反対したのですから、大変なことです。今のように言論の自由な時代ではありません。そして、この声明に命をかけた牧師や信徒が捕らえられて、処刑されたり獄死した人も多かったのです。

ところで、私がお話ししたいのは、このヒトラー独裁に抵抗したバルメン宣言の冒頭に記されているのは、聖書のみ言であり、一つはヨハネ14:6の「わたしは道であり、真理であり、命である」というみ言で、もう一つが、今、私共が読んでおります
1節の「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」と、9節の「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」というみ言で、まずこのみ言を掲げ、そのあとに続けて、宣言の条項を記したとのことです。


すなわち、ルターの宗教改革も、第二次世界大戦のときのヒトラー独裁への抵抗運動も、今読んでいるみ言を基盤として行われたことを思いますとき、私共は、今日の聖書の個所から、内容的に厳しい信仰の姿勢を問われていることに気がつくのでございます。


さて、少しずつ聖書にそって学んでゆきたいと思います。日本の農村は米作と畑作が主で、農村地帯にいっても羊の群を飼う光景をみることはあまりありません。

しかし、パレスチナ地方は牧畜の盛んな地方でしたので、イエスさまはそのような羊を飼っている有り様をよくごらんになっていたのでしょう。それに先程もお話ししました通り、聖書には神と人との関係を羊飼いと羊にたとえる記述が多いこともあって、ご自分の存在をこのようなたとえ話に託して語られたのでしょう。

1節の「囲い」というのは、何らかの柵でしっかり囲まれて、羊が夜安全に眠る場所です。そして、その柵には出入りする門があって、そこに門番がいるわけです。この門番と羊飼いの区別が、はじめはっきりしませんで、文章がよく分からなかったのですが、加藤常昭先生の講解説教によりますと、門番は侵入者、人間ばかりでなく狼などの獣の侵入にそなえて目を光らせて番をするのが役目です。
そして朝になると羊飼いが羊を養うためにやってきて、自分の養う羊を牧草地へと連れ出すのです。
それから、このことが、今度分かったのですが、“ひとつの囲いの中の羊を一人の羊飼いが養っているのではなく、羊はいくつかの群れに分かれていて、それぞれの群に一人ずつ羊飼いがついているのです。”羊飼いたちは自分の養う羊をよく知っていて、それぞれ名前をつけたりして一頭一頭を愛情こめて養うし、また、羊たちは、自分の羊飼いの声をよく知っていて、自分を養ってくれる羊飼いの声のあとに従ってついてゆく。それは実に見事に聞き分けて、どんなにゴチャゴチャ、或いはバラバラになっていた大勢の羊たちも、羊飼いがひとたび呼べば、羊たちはそれぞれの羊飼いの声に従って見事に分けられて、間違いなくそのあとについてゆくそうです。
恐らくイエスさまも、羊飼いと羊の、そのような美しい光景をみておられたのでありましょう。


そのように、門番と羊飼いと羊たちとの信頼関係によって平安に過ごしているところに、1節、門からではなく、柵を乗り越えたりして入ってくる者は、盗人であり強盗であるとイエスさまはその信頼関係を邪魔する者への警告を告げておられます。

しかし6節「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」とあります。


ファリサイ派の人々は何が分からなかったのでしょうか。ファリサイ派の人々も、イエスさまと同じように、羊飼いが羊を養い、羊たちが羊飼いの声に従って行動する様子をみていたと思いますが、そのイエスさまのおっしゃる意味を理解することが出来なかったのです。何故でしょう。このたとえ話を自分と関わりのあることとは受けとめなかったからではないでしょうか。それは信仰の柔軟な感性の欠如とでも申しましょう。

ファリサイ派の人々も決して信仰のない人々ではありません。むしろ熱心な信仰者の集団でした。しかし、もし、一口でいうなら、“こういう時にはこうすべきだ、こういう時にはこうしてはいけない”と儀式の形式や日常生活の細部に亘って規定されていた律法を堅く守ることを信仰の信条としていた、それを信奉するあまり、律法にがんじがらめに縛られてしまい、主イエスさまの、真実の言、愛を基本とする生き方を呼びかけるみ言を聞き分けることが出来なかったということだと思います。
加藤常昭先生は「聞き損なった」と表現しておられますが、私共も何かにがんじがらめになってイエスさまのみ言を聞き損なわないように、6節の言を借りるなら「彼らはその話が何のことか分からなかった」というようなことにはならないように、固定観念を捨て、いつも柔軟な信仰の心をもってみ言に聴いてゆきたいと思います。

そして7節から、イエスさまは、救い主としてのご自分をはっきりと表明なさいます。とくに、先程申し上げましたが、
9節〜11節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ばしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」
更に神との関係まで言及なさって
14節〜15節「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」とも言われます。

加藤常昭先生は「わたしが本物の羊飼いだ」とある神学者が訳した言を引用なさって、イエスさまが「わたしこそが」と強調されるのは“まがいものが多いからだ”と述べておられます。

ヨハネ福音書には“わたしは世の光である”“わたしは道である”“わたしは真理である”“わたしは命である”と、主イエスさまがどのような方であるかを宣言する言を大切な個所に散りばめて記しています。
ここでの「わたしが門である」「わたしが良い羊飼いである」というみ言は、即ち、まがいものの門ではない、このわたしの門から入るがよい、この門から入ってよい羊飼いに養われるがよいと、強く、救い主としてのご自分を表明して、招いて下さるのです。

さて、次16節をみますと、ここにも驚くべき言が書いてあります。
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」
今までのところを読んでまいりまして、私共は、自分はイエスさまから招かれてこの囲いの中にいると思っています。もちろんそうなのですが、しかし、この福音書の書かれた当時では、この囲いの中に入られるのはユダヤ人だけと考えられていました。ユダヤ人のことをイスラエル民族とも呼びますが、この呼び名は“神に選ばれた特別な救いの約束を与えられた神の民”という意味であります。ですから、
16節で「この囲いにいないほかの羊」と呼ばれているのは、ユダヤ人以外の人、即ち、当時、異邦人と呼ばれた人々のことです。
ところがイエスさまは、このよき羊飼いのわざは他の国の羊、即ち異邦人にも及び、やがては一人の羊飼い、一人の主によって世界は一つにされてゆくという、これはユダヤ人の選民意識を打ち破る、これもまた新約時代の到来を告げる大変重要な発言であります。かくて今、私共もまた囲いの中へと招かれているのでございます。

17節以下で、イエスさまはご自分の十字架の死と復活にも言及されます。
17節〜18節「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」
ここでイエスさまは、自分が命を捨てるのはいやいやながら、何も分からず人に引き立てられてゆくのではなく、人類の救済という神の定め給うた道を歩みゆくのである。羊たちにまことの命を与えるために、神のみ心に従って、自ら自由に選んだ道を歩むのだと宣言しておられます。
18節bの「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」ということばが、決して人に強いられて殺されるのではないということの強調をよくあらわしています。

そして19節〜21節「この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。『彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。』ほかの者たちは言った。『悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか』」を読みますと、またこのイエスさまのみ言を聞いたユダヤ人の間でその評価がまちまちだったことが記されています。“人々にとって、イエスさまは理解に苦しむ謎の人物だった”とテニィという聖書学者がいっていますが、人々はイエスさまの新しい教えにとまどっていることが読みとれます。

私共は今朝、こうして10章のはじめの部分を読みましたけれど、ここには実に意味深いみ言がたくさん記されておりまして、戸惑いをおぼえる程ですが、その中で私は今日とくに
14節の「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」
というみ言をよく味わって心に留めておきたいと思います。これも加藤常昭先生の言葉ですが、聖書においては「知っている」という言葉は「愛する」という言葉と同じことを意味するそうです。


私共が、イエスさまによって救いの完成した新約の時代に生きているということは、言い尽くせない程すばらしいことだと思います。
イエスさまは2,000年前、実際にこの世においで下さって、現実に良き羊飼いとして私共を愛して下さっている、その恵みの中に生かされている。
4節のように、その羊飼いの声、イエスさまのみ声を聞きわけて、それに従ってゆくなどということはそう簡単に出来ることではありません。イエ、むしろ「私には到底出来ません」という思いの方が強いのですが、しかし、このイエスさまの愛の中に生かされている者として、イエスさまのみ言に常に耳を傾けて生きてゆきたいと思っております。

先週学びました、盲人の人がファリサイ派の人々の圧力に屈することなく、真実を貫き通すことの出来たのも、羊が羊飼いの声を聞きわけるように、真理に立ったからだと思います。9月はじめに学びましたみ言、8章32節「真理はあなたたちを自由にする」。私共はどんなことに遭遇しても、イエスさまのみ言にききつつ真理に立つことが、真に自由に生きることの出来る道なのです。(お話:工藤渓子さん)

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第23回「ファリサイ派の人々、事情を調べる」(ヨハネ9章 13−41)2004年9月19日
聖書
ヨハネ9章
ファリサイ派の人々、事情を調べる
13  人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。
14  イエスが土をこねてその目を開けられたのは安息日のことであった。
15  そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと見えるようになったのです。」
16  ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」という者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行なうことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。
17  そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたと言うことだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。

18  それでもユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、
19  尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったというのか。それがどうして今は目が見えるのか。」
20  両親は答えていった。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。
21  しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」
22  両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。
23  両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。

24  さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
25  彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
26  すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」
27  彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」
28  そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。
29  我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」
30  彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。
31  神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。
32  生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。
33  あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
34  彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

ファリサイ派の人々の罪
35  イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
36  彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
37  イエスは言われた。「あなたはもうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
38  彼が「主よ、信じます。」と言って、ひざまずくと、
39  イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見えるものは見えないようになる。」
40  イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
41  イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だからあなたたちの罪は残る。」


みなさんお早うございます。今朝もヨハネによる福音書から学んで参りましょう。

先週は郷先生から9章1−12節の「生まれつきの盲人をいやす」という箇所からお話があったと思います。今朝はその続きになります。今朝はこの前に盲人だった人、目を癒された人に注目してみたいと思います。

最初に(ヨハネ9:13−17)をみていきたいのですが、ここで安息日が出てきます。
ユダヤ人は安息日に働いてはならないという決まりがありました。旧約の時代、7日目の休みは、耕し時、刈り入れ時でも守ることが求められておりました。家畜にも休みが与えられなければなりませんでした。安息日の根拠は、天地創造において、神が7日目に休まれたことにあります。この日にすべての業を休むのは聖会のためでした。同時に聖所を敬うことも求められておりました。安息日の厳守はイスラエルの民が聖別されていることの印であって、この律法を破り安息日を汚すものは殺されなければならないとされていました。ファリサイ派のことはたびたび出てきていますが、彼らは律法を守ること、特に安息日や断食、施しを行う事や宗教的な清めを強調しました。
イエス様がこの盲人の目を開けたのが安息日でしたから、ファリサイ派の中では聖書が記すように意見が分かれたのです。口語訳聖書では「彼らの間に分争が生じた」と訳しています。新改訳では「分裂が起こった」と訳しています。かなり激しい意見の対立があったのでしょう。そこで彼らは盲人だった人に「あの人をどう思うか」ときいています。彼は「あの方は預言者です。」と答えております。

ここでこの男が言った預言者という言葉は、旧約聖書に出てくるモーセやエリヤといった預言者のことを思い浮かべて言っていると思われます。出エジプト記でモーセは多くのしるしを行なってイスラエルの民をエジプトから導き出しました。このときのことは、映画『十戒』等で皆さんもよくご存知だと思います。エリヤはバアルの預言者たちができないことを行なうことによって本当の神の預言者であることを証明しました。(列王記上18章)‥この前に盲人であった人は、イエス様に唾でこねられた土を目に塗られてから、イエス様の言葉に従ってシロアムの池で目を洗いました。すると目が見えるようになったのです。この時のこの男はイエスを「あの方(イエスという方、)」と言っていました。しかし、この男はファリサイ派の人たちから質問されることでイエス様を「預言者」と言っております。彼らに質問されることで、自分の目を開けてくれた「あの方(イエスという方、)」に対する認識が深まっていっているのではないでしょうか。

  次に(ヨハネ9:18―23)に参ります。

前に盲人であったこの男の目が開かれて今は見えるようになったと言う事実をどうしても信じられない彼らは今度は、この男の両親を呼び出します。呼び出したんですね、何だか裁判のようです。両親は、わが子のことですし、普段から不憫に思っていた自分の息子のことですから、その身に何が起こったか、そしてそのことを為してくれたのはイエス様であったことを知っていたと思われます。そのことは町中のうわさにもなっていたでしょうから。しかし、両親は「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、私どもはわかりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」と答えます。聖書はその理由を記します。ユダヤ人たち(ファリサイ派)が既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたからです。両親は会堂から追い出されること、すなわちユダヤ人社会から締め出されること、村八分にされる事を恐れたのです。

 次に(ヨハネ9:24−34)に進みます。

ここからのユダヤ人たちとこの男の言葉のやりとりは実に味わい深いものです。ここはご一緒に聖書を読んでみましょう。

24  さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
25  彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
26  すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」
27  彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」
28  そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。
29  我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」
30  彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。
31  神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。
32  生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。
33  あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
34  彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

ユダヤ人たちは再度盲人であった男を呼び出します。そして言います。
「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」これは明らかに裁判でしょう。彼らは前の時は「イエスをどう思うか」とこの男に言いました。しかし今度は“わたしたちは、あの男が罪ある人間だと知っている‥すなわちイエスを罪人であると認めさせようという前提での質問、いや詰問であります。


この男は「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」と答えるのです。この男には勇気が必要だったと思います。たった一人でユダヤ人たちに立ち向かっております。彼はどんなに脅迫されても、自分の身に起こったこと、すなわち目が見えるようになったという事実を曲げることはできなかった。これに対して、何としてもイエスを罪人であると認めさせようとするユダヤ人たちは、再度「あの男はお前にどんなことをしたのか‥」と同じ問いかけをするのです。この男は「もうお話したのに、聞いてくださいませんでした。‥あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」と言います。‥目を癒されたこの男はだんだんと自分の身に起こったことに対する認識を深めていっているように思われます。‥あなたがたもあの方の弟子になりたいのですかと言うこの男の言葉に憤った彼らは「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たかは知らない。」と言います。ここで新たな展開がおこります。それは前に盲人であった男の言葉にはっきりと表れております。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとからこられたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」という言葉です。

“神は罪人の言うことはお聞きにならないとわたしたちは承知しております。”まさに『わたしたち』は承知している、そしてそのことを彼らファリサイ派の人たちはイスラエルの民に普段から教えてきのです。
“神をあがめ、その御心を行う人のことは、お聞きになります”これも彼らファリサイ派が教えてきたことです。もちろん旧約聖書の語っていることです。この前に盲人であった男は、あの方が神のもとからこられたのでなかったならば、何もおできにならなかったはず‥すなわちこの男はイエス様が神のもとから来られた方であると言います。詰問されたこの男(元盲人)は厳しい状況のなかでイエス様は神様のもとから来られたのだという確信にたどり着くのです。


ユダヤ人たちは「全く罪の中に生まれたのに我々を教えようというのか」と言って、彼を外に追い出してしまいます。これは彼がユダヤ人の宗教的・社会的生活から締め出されたことを意味しています。

次に参ります。ここもご一緒にお読みいたしましょう。

35  イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
36  彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
37  イエスは言われた。「あなたはもうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
38  彼が「主よ、信じます。」と言って、ひざまずくと、
39  イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見えるものは見えないようになる。」

40  イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「われわれも見えないということか」と言った。
41  イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だからあなたたちの罪は残る。」

イエス様は、彼が外に追い出されたと聞くとすぐに彼を見出すために行動されます。
イエス様はこの男がファリサイ派の人たちから厳しく問いただされている時、いつも彼のことを心に留めておられたと思います。たとえその場におられなくても、裁きの過程がどうなっているかを弟子たちを通じて聞いておられたかもしれない。イエス様はこの男のことを祈っておられたのではないか、だからこそこの男は耐え抜くことができたのではないでしょうか。


ここで「人の子」という言葉が出てきます。この「人の子」について加藤常昭牧師は説教集のなかで次のように説明しておられます。

《ヨハネ福音書の理解で言えば、私どもと同じ人間であって、しかも神の救いをもたらしてくださっている存在、あるいは、「神の救いそのものであるような存在」、それをここで当時の人々の信仰の一つの表現、聖書に見出される表現をもって「人の子」と呼んでいるのです。》‥加藤常昭ヨハネによる福音書講解説教

「あなたは人の子を信じるか」というイエス様の問いにこの男は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と答えています。
イエス様は「あなたはもうその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です」とやさしく言われます。
わたしを見るがいい。そして信じなさい。わたしが救い主です。このイエス様の言葉に対して彼は、
「主よ、(救い主として)信じます」と言い、ひざまずくのです。
ついにこの男は主イエスを礼拝するのです。

前に盲人であったこの人は、イエス様のことを最初は
「あの方(イエスという方、)」
と言います。次には
「預言者」
と言います。そして
「神のもとから来られた方、神から遣わされた方」
と言います。さらにイエス様はこの人が外に追い出されたことを知ると自分からこの人の前に姿を現します。そして、この出会いの中で、彼は
「主よ、信じます」
と言います。真の信仰告白にまで導かれるのです。

最後になりますがご一緒にヨハネによる福音書20:30―31をお読みいたしましょう。

20:30  このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物には書かれていない。
20:31  これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
(お話:平野一男さん)

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第22回「生まれつきの盲人をいやす」(ヨハネ9章 1−12)2004年9月12日

聖書

9:1  さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
9:2  弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
9:3  イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
9:4  わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
9:5  わたしは、世にいる間、世の光である。」
9:6  こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
9:7  そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
9:8  近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9:9  「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
9:10  そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、
9:11  彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
9:12  人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。




おはようございます。

本日の聖書の箇所は、福音書の中にありましては唯一の生まれつき病んでいる者が癒されたという奇跡の話しであります。

神殿の境内から出てゆかれたイエス様と弟子たちは通りすがりに「その男」を見かけられたと聖書に書かれています。
ここで弟子たちはいつも見かけていてよく知っていたと思われる「その男」に出会い、当時のイスラエルの人々にとって、常に関心の的であり、根源的な問題をイエス様に問いかけて、一体どのような答えが帰ってくるものかと考え、問いかけました。


「その男」生まれつき目の見えない人に対して弟子たちは「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」当時においても現代であっても同じように人間の苦難や災難、社会的な悪や圧迫に対して、こうしたものをどのように解釈すれば良いのかが難しい問題でありました。

当時のイスラエルの人々には苦難と罪との関連はストレートなものでありました。罪の結果として苦難がある。
しかし、生まれつきの盲目であるからといって、どうして目の見えないことが罪の結果であると言えるのでしょうか。
親の罪を子供が自分自身で引き受けるんだということが当時は考えられていたと思われますし、人はその行いの善悪によって、この世でむくいを受けるという思想もありました。

ここでの問いかけは、自分の犯した過ちの結果としてのむくいは甘んじて受け入れるとしても、生まれついての問題について、どうして本人の罪といえるのかが関心の的でした。

これに対してイエス様はお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。『神の業』がこの人に現れるためである。」
イエス様は罪と苦難の関係を説明されようとはしないで、「その男」が生まれながらの災いを受けたのは、人の災いに対して「神はそのとき何をなし得るか」を示されるのです

次に悩み苦しむ本人を隣人が助けることにより神の業を他の人々に示す働きを隣人ができるように用いてくださる。

それは、神様はどのような方であるかを示すことに他ならないのです。
マルコによる福音書9章にも悪霊にとりつかれた子供のいやしの話しがあります。

9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

「信じます。」は信仰告白です。「信仰のないわたしをお助けください。」は祈りです。

不信仰者であった父親の必死の告白と祈りにより子供は癒されたのです。
これまでは神様が一人ひとりをこよなく愛してくださっておられることを実感として受け入れることが出来なかった父親が神様から愛されているものとして信じて告白し、祈りをささげたときに『神の業』がそこに現れたのです。


私たちは神様の愛を実感できるものとして望みますが、常に実感できるものであるならばそこに信仰は必要ないかもしれません。
実感できないからこそ信じる信仰を与えられるのです。頭だけで理解しようとすると信仰は判らなくなるかもしれません。
イエス様への必死の祈りによってのみ私たちの内に『神様の業』が実感できるのではないでしょうか。


さらにイエス様は言われた。
「9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」


これは、時の過ぎない間に思いを果たすように努めることが大切であると言われているのです。
私たちはたった一度の人生で喜びも苦しみもあるなかで大切な命を与えられた毎日の生活を送っています。
そのなかで決して先に延ばしてはならない物事にめぐり合う事があるのです。夜の来る前に、日のあるうちにしておくべきであって、もう手遅れでそれをすることが出来ないと気付くことは本当につらいことを私たちは後から知ることになるのです。


この「その男」生まれつき目の見えなかった者はイエス様により癒されます。まさに信じがたい奇跡であります。
ここにみえる『神様の業』とは見えなかった目を癒した事実以上に、イエス様をよく知らないが立派な人であろうという「イエスという方」から「あの方は預言者です」と告白し、さらに「あの方は神のもとから来られた」と宣言し、ついにはイエス様に「主よ、信じます」と信仰告白するまでに変えられてゆくすばらしい発展が「その男」にあることが示されています。
世の光であるイエス様を見続けて行くときにこの出来事は起きたのです。


私たちにも耐えがたい試練や災難があります。聖書から教えられることは日々、み言葉にきき、祈ることにより私たちをは支えられ、その祈りのなかにおいて「神はそのとき何をなし得るか」を感じとることが赦されるのではないでしょうか。(お話:郷 秀男さん)


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第21回「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8章 31−38)2004年9月5日
聖書
8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
8:34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。
8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
8:37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。
8:38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」




今日の聖書の、特に32節の「真理はあなたたちを自由にする」という言葉は、大変有名な言葉でありまして、大学の図書館や記念館に刻まれておりましたり、国立国会図書館にも書かれていると伺ったことがあります。
いわゆる格言とか座右の銘のように、クリスチャンではない人にも親しまれている言葉でありますけれども、大学とか図書館などで、この「真理はあなたたちを自由にする」と掲げられているとき、おそらくイメージされているのは、学問こそが真理への道であって、学問を究めるとき、人は本当の自由を得ていくのだという、そういうイメージで語られているのではないかと思います。

学問こそが、私たちに自由を与えるのだということは、広く信じられているのではないでしょうか。実際、戦後の日本の教育においては教育ですとか学問、特に科学技術の領域においては、大変力を入れてやってきたわけでありますけれども、そんな学問や技術の恩恵を受けて、確かに戦後の驚異的な経済復興も成し遂げられ、日本の科学技術、学問のレベルは、一応先進国に追いついたのでしょうけれども、しかし、その学問や科学というものが、本当に人を自由にしてくれたのか、ということに関しては、疑問が残るわけであります。

なぜ、オウム真理教のようなカルト宗教に、学問を究めた優秀な人間がのめり込んで、果てには人殺しまでしていったのかと思います。あえて自由を放棄して、教祖の奴隷となって罪を犯してしまう。せっかく積み上げた学問が役に立っていない。無知ゆえに、人間を絶対化して道を誤ったりしない。人間の営みを相対化する学問が、教祖を絶対化することに、なんのブレーキにもならなかったわけであります。学問が真理であり、学問こそが人に自由を与えるという考えは幻想なのだと思います。

「真理はあなたがたを自由にする」という言葉が欧米の大学などの建物に記されているように、もう一つ有名な言葉がありまして、それは、ラテン語で、ピエタス・エト・スキエンティアという言葉ですけれども、このピエタスという言葉は英語にするとpiety(パイアティ)、スキエンティアというのは、英語でscience(サイエンス)で、piety and science つまり、日本語にいたしますと、「敬虔と科学」。「信仰と科学」あるいは「宗教と科学」といってもいいかとおもいますけれども、この「信仰と科学」という言葉を、特に700年800年という歴史を持つヨーロッパの大学などの研究機関は、大切にしていると言われます。つまり、学問だけの追求ではなくて、その学問の基礎となり、内容を整え、正しい方向付けをする、パイアティー、敬虔とか信仰というものが、ヨーロッパの優れた高等教育において、大切にされている訳であります。この信仰と学問の緊張関係の中で、ヨーロッパの学問は営まれてきた。

しかし、日本においては、このパイエアティーの部分を、すっかり無視して、知識だけを切り離して学問としてきた付けが、優秀な若者をオウムへと送っていったように思えてならないわけであります。
積み重ねてきた知識が、学問が、いったい何の意味を持ち、どこを目指していくのかという、意味と方向付けを持たなければ、そのような知識は、私たちに本当の自由を与えてはくれないのではないでしょうか。
本当に私たちに自由を与えてくれるもの。それこそが「真理」なのであり、その真理とは、わたしの言葉にとどまるところにあると、イエス様は言われたのであります。この「真理」とは、人間の知的探求の先にかいま見えるものではなく、上からの啓示によって。つまり、神の御子イエスキリストの御言葉によって、そしてその言葉にとどまるとき、知ることができるのだと、イエス様は語られているわけであります。

さて、31節を見ますと、イエス様を取り囲んでいたユダヤの人たちが、イエス様を信じたと記されています。しかし、その信じるということが、口先ではなく、本当であるかどうか。それをイエス様は、32節でこういわれます。
「わたしの言葉にとどまるならば、あなた達は本当に私の弟子である」
イエス様を信じるということは、つまり、イエス様の語られた言葉にとどまることであるということであります。

体の調子が悪くて病院に行きましたときに、診断してくれたお医者さんを本当に信じるならば、医者の言葉に従って、出された薬を飲むわけであります。イエス様を信じるということは、信じていると言うだけではなくて、イエス様の語っている言葉を信じて、委ねていく。そのイエス様の語られた言葉に人生をかけていく、ということであります。
そのように、イエス様の言葉に人生をかけて、委ねていくとき、私たちは真理を知り、真理は私たちを自由にするだろうと、イエス様は言われたわけであります。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

しかし、イエス様に、真理はあなたたちを自由にするだろうと言われたユダヤ人たちは、ちょっとびっくりした。そして、
33節で「私たちはアブラハムの子孫ですが、今まで誰の奴隷になったことはありません。」とあわてて反論いたします。私たちは、誰の奴隷にもなったことなどない。私たちは自由に生きてきた。そういうのであります。
しかし、これは厳密に言うと違っているわけであります。なぜなら、この時すでにユダヤの人々はローマ帝国に支配されていましたし、それまでの歴史においても、何度もなんども、他国の支配の下に置かれて彼らは生きてきたわけであります。しかし、それでも、わたしたちは奴隷になどなったことがないと、当時の彼らが胸を張って言えた。それは、彼らはどんなに大きな国家権力の武力によって弾圧されようとも、安息日を守り、礼拝を守ってきた民族だからであります。弾圧され、公に礼拝できないときには、隠れてでもした。今時の言葉で言えば、信教の自由を守り通したのであります。だから、彼らは人間の奴隷になどなったことはない。
信仰の父であるアブラハムの子孫である私たちは、人間に支配されて心の中まで奴隷にされたことなどないと、そう言うことができたのであります。実際、紀元前には、敵と戦っているのに、安息日を守るために、敵に殺されることさえ辞さないこともあった。それくらい徹底して人間の奴隷にはならない民族でありました。

しかし、そんなユダヤの人々に、イエス様は、34節でこういわれました。
「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」

確かに、他人の奴隷にはならなかったかもしれない。心の中まで支配されるようなことはなかったかもしれない。しかし、あなた方は、自分自身の罪の奴隷ではないのか。自分の心の中に巣くっている、悪き思い、みだらな思い、憎しみ、殺意。そのような自分自身の中にある罪の奴隷ゆえに、37節で「あなたたちは私を殺そうとしている」といわれるわけであります。それは、わたしの言葉、御言葉を受け入れないからだと、そのように語られました。

ひるがえって、現代に生きる私たちはどうでしょうか。
確かにこの日本は、一人一人の自由が確保され、むやみに人に支配されたり奴隷になるようなことはないかもしれません。しかし、それでは、本当に自由を謳歌しているかと言えば、確かに人の奴隷にはなってはいないかもしれませんけれども、自分自身の奴隷になっているということはないでしょうか。それは世間体やメンツの奴隷であったり、お金の奴隷であったり、もしくは、死の恐怖の奴隷ということもあるかもしれない。とかく自分と他人との関係でありますとか自分と国との関係のようないわゆる、自分の外側からやってくる不自由にばかり目がいきますけれども、しかし、本当の不自由とは、自分の外側ではなく、自分の内側にあるのではないでしょうか。自分のなかに巣くっている、自分を縛り上げている罪。その罪からの解放と自由こそが、なによりも私たちに必要な自由であると、そのように思うわけであります。

新約聖書の中に、パウロという伝道者が出てきますけれども、彼はイエスキリストに出会ってすっかり変えられた人でありますけれども、彼はキリストを信じるまでは、一生懸命、自分の力で聖書の教えを守ろう、律法を守ろうとがんばっておりました。しかし、どうがんばっても、それは無理だったのであります。自分は聖書の教えに従って、良いことをしたいという意志はあるけれども、どうしてもそれをすることができない。自分は、自分が望んでいる良いことは行わずに、望まない悪いことを行ってしまう。それは、わたしの中に罪が潜んでいるからなのだ。ああ、私はなんと惨めな人間なのかと、パウロは嘆いたわけであります。

本当の自由は、まず自分の外側ではなく、自分の内側にこそ必要な自由。神の愛による罪の奴隷からの解放。そして神の愛に応えて、互いに愛に生きる自由にあるのではないでしょうか。

そして、その自由を、ユダヤの人々は持っているのだと、なぜなら、自分たちはアブラハムの子孫なのだからと、いったのであります。自分たちは、神の祝福も救いもすべて約束されているアブラハムの子孫なのである。だから、自分たちは自由なのだと、彼らはアブラハムの子孫という血統にすがった。しかし、そういう彼らは、イエスキリストをねたみ、殺そうという心に縛られていたわけであります。ちっとも彼らは自由ではない、愛する自由を持たず、罪の奴隷であった。

それゆえに、イエス様は、いや、罪を犯す者はだれでも、罪のどれいであると、確かにあなた方はアブラハムの子孫かもしれない。しかし、私を殺そうとしている、そういう罪の奴隷ではないかと言われるわけであります。ですから、彼らは、今や、自分たちがアブラハムの子孫であるという血統を選ぶか、イエスキリストの言葉を信じ、そこにとどまるか、どちらかなのであります。そして、罪の奴隷の前には、血統など何の力にもならない。罪からの救い、解放は、イエスキリストが、私たちの罪の身代わりとなって十字架に死に、三日目に復活された。この御言葉にとどまるときに、もたらされる神の業なのであります。この御言葉にとどまり、この御言葉に自分の人生をかけていくとき、神は私たちに真理を悟らせ、その真理は私たちを自由にするのであります。

そして、罪からの自由、自分の内側の自由をいただくとき、その自由は、自分の外側にも、つまり、人との関係にも、広げられていくのであります。良いことがわかっているのにできない自分。愛さなければならないのがわかっているのに愛せない自分。その不自由な自分、罪深い自分が、そのままで、キリストの犠牲によって、神に受け入れられた。こんな愛のない自分が、自分のことばかりに縛られている自分が、しかし、そのありのままで神に受け入れられた。その神の愛は、私たちの魂を自由にすると共に、自分の外側に向かって、その自由を広げていく。自分の家族、友人、知り合いなど、かつてはそれらの人々を受け入れられずに、人を変えようとしていた自分が、神様にそのありのままを受け入れて頂いたその恵みによって、他の人々をもそのありのままを、愛し受け入れていこうと願うようになる。人を支配して、自分の願い通りに変えようとするのではなく、そのありのままの他人を、神の愛ゆえに、愛し受け入れる自由に生きる者へと、神の力を頂いて、たとえ少しずつではあっても、変えられていく。そう信じるのであります。

その真の自由を得させる、イエスキリストの御言葉を受け入れ、日々その御言葉に委ねて生きることが出来るよう祈りながら、御言葉にとどまっていく歩みを共に歩んでまいりましょう。(お話:藤井秀一牧師)
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第20回「イエスは世の光」(ヨハネ8章 12-30) 2004年8月29日
聖書
「イエスは世の光」
12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
13 それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」
14 イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。
15 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。
16 しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。
17 あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。
18 わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」
19 彼らが、「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」
20 イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

「わたしの行く所にあなたたちは来ることができない」
21 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」
22 ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、
23 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。
24 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
25 彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。
26 あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」
27 彼らは、イエスが御父
(おんちち)について話しておられることを悟らなかった。
28 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
29 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」
30 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。



今日はヨハネ8章12〜30という長い箇所が与えられておりますが、特に最初の8章12節だけを朗読させていただきます。
12節:イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
この後の少し長い箇所ですが、それらにも触れながらイエスさまのみ言葉をご一緒に学んでいきたいと思います。

イエスさまはここで「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」とご自身のことを証しされました。すると周りにいた人たち、特にイエスさまと敵対関係にあるファリサイ派の人たちが「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」とイエスさまに反論したわけです。それは当然と言っていいかもしれません。犯罪を犯して捕らえられた人が、いくら「私は無罪です」と言っても、その人の証言というのは裁判では信憑性に欠けますし、やはり第三者の証言で決まるわけです。

確かにファリサイ派の人たちは、イエスさまが自分で「わたしはこういう者だ」と言ったとしてもそれを簡単に受け入れることが出来ませんでした。それは決してファリサイ派の人たちが理不尽なことを言っているのではありません。律法でもやはり二人以上の人たちの証言というのが必要となっっていたわけです。ですから「わたしは世の光だ」とイエスさまがご自分のことを言ったとしても「あなたが世の光だと他に証言する人はいないのか」と彼らは言っているわけです。

それに対してイエスさまはご自分はご自分のことを証しする資格があると仰っています。それは、イエスさま自身が「自分は神の子である」という自覚にたっておられるからなのです。イエスさまはわたしは自分がどこからきたのか、そしてどこに行くのか、知っている。しかしあなた方は知らない、とイエスさまは仰るわけです。

しかしそういわれても、これもイエスさまご自身の証言ですから、ファリサイ派の人たちがたやすく信じるとは思えません。しかし、イエスさまのこの言葉はとても大切な言葉です。それはイエスさまが父なる神と共にいると仰っているからです。
16節のところで「わたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」と言っています。
わたしは父なる神と一緒にいるのであって、わたしの証言は決して一人の証言ではない。そのようにイエスさまは仰るわけです。
しかし、これも誰の証言かということになればファリサイ派の人たちにとっては受け入れることのできない証言だと思います。

しかし、このときイエスさまはファリサイ派の人たちに捕らえられることはありませんでした。まだ「その時」がきていなかったと聖書に書かれています。イエスさまの証言をファリサイ派の人たちが納得したから捕らえられなかったのではない、ということです。
このイエスさまの行動、そしてイエスさまに対する人々の行いというものは、神さまのご計画の中にあったということがここに記されているのです。
これはとても大切なことだと思います。イエスさまのご自身の行動、そしてイエスさまを取り巻く人たちの行動、それもやはり神さまのご計画の中にあったということです。

イエスさまとファリサイ派の人たちのやりとりをみていますと、本当にそのやりとりを通して大切なことが示されているのに気づきます。
イエスさまに敵対する人の言葉、イエスさまに対して投げかけられる疑問の言葉、考えてみれば、イエスさまに対して投げかけられるこのような疑問の言葉というのはわたしたちも持ち得る疑問の言葉だと思います。

イエスさまが「わたしは真理である。わたしは道である。」とご自身のことを言いましたときに、私たちは二つの反応をします。(日本人は、どちらとも言えないというのが多いので三つの反応、とでも言いましょうか)
「わたしは道であり、真理である」というその言葉をきいて、
「本当だ。ご自分でそう仰っているのであれば、その真実とはなにか、その真実を知りたい」と思う人と、
「そんなこと自分で言ったとして何になるんだ。自分で自分のことを正しいといって、なんと傲慢だ」と思う人と二通りいると思います。

イエスさまに対するそのような疑問とか反論というものがこの聖書の中ではファリサイ派の人たちや律法学者を通してイエスさまにぶつけられています。そしてその事に対して、イエスさまは答えておられます。そしてその答えにたいして、そのとき、ファリサイ派の人たちや律法学者の人たちはその答えを聞いてすぐに納得したかというと、決してそうではないのです。納得した人もいるけれども、多くの人がそんな答えでは納得できないと考えていたのは確かです。

今日の12節から20節のやり取りは、そのことを表しています。誰も捕らえようとしなかった、それはまだ「その時」が来ていなかったからです。イエスさまとのやり取りで、ファリサイ派の人たちが理解して納得したからイエスさまを捕らえようとしたのではないということです。また、イエスさまに対する疑問も残っているのです。イエスさまのことを信じていなかった、受け入れていなかったけれど捕らえられなかった、そういう疑問が残ります。

聖書の言葉に対する疑問、イエスさまの言葉に対する疑問、このような疑問を持つということは、わたしたちクリスチャンにとって悪いことでしょうか?
また、聖書の言葉に疑問を持つということはいけないことでしょうか?

聖書のこのようなイエスさまとファリサイ派の人たちや律法学者の人たちとのやりとりをみていますと、決してそうではないということを思わされます。聖書はわたしたちに「疑わずに信じなさい、それができることは幸いだ」と言います。しかし、なかなか私たちはそのような幸いな状態になれないことが多いのです。
聖書の言葉に対して、何故だろう、どうしてだろう、そのような思いを抱いてしまうということがありますね。しかし聖書は決してそのことを否定していませんし、またこのようなファリサイ派とのやりとりを通してイエスさまが疑問に答えてくださっています。
それでは、イエスさまの答えを私たちはいつ納得し「イエスさまの仰るとおりだ」というふうにわたしたちが思えるのでしょうか。
それはまさに聖霊が働くとき、その中でわたしたちはイエスさまが語っておられる言葉が本当で真実であると受け止めることができるのです。
そしてさらにイエスさまが「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」ということですね。

このことが真実かどうか、このことについて、ファリサイ派の人たちは「あなたは自分について証しをしているからそれは信じられない」といっているわけですが、このファリサイ派の人たちにもイエスさまは答えておられます。
しかしファリサイ派の人たちに答えられるのはイエスさまだけではないのです。このファリサイ派の人たちの疑問に答えることが求められているのは誰でしょうか?
このファリサイ派の人たちの「あなたは自分について証しをしている、その証しは真実ではない」とイエスさまに言っているこの言葉。もちろんこれはイエスさまが問われていますから、イエスさまが答えることでありますけれども、しかしこのファリサイ派の言葉に対して答えることが出来る人が他にもいるのですね。
それがクリスチャンです。わたしたちクリスチャンです。

今この場にはクリスチャンでない方もいらっしゃいますけれども、クリスチャンであるわたしたちが、イエスさまが世の光であると仰っているけれども、本当にその通りなんですよ、という風に証しができるのです。証をすることが求められているのはわたしたちクリスチャンなのです。
わたしがイエスさまと出会い、イエスさまを信じ、イエスさまが本当に世の光であるということを体験しました、と言えるのです。
イエスさまに従うことでわたしたちは暗闇のなかを歩くことなく、命の光を得て今、喜んでいます。だからこうして毎週日曜日に礼拝にきているんです。教会にきているんです。わたしはこのことの証言者になることができます、というように、わたしたちクリスチャンは手を上げることができるのです。

聖書の中のファリサイ派や律法学者の人たちの疑問の言葉、それはイエスさまに投げかけられているのと同時にイエスさまを信じているクリスチャンであるわたしたちに投げかけられている言葉でもあるのです。
わたしたちがクリスチャンであってもそのみ言葉に対して疑問を持つということがあるわけですから、イエスさまを信じようか、信じまいか、いや、イエスキリストって何だろう?聖書って何だろう?キリスト教ってなんだろう?と思っている方たちがイエスさまの言葉や聖書の言葉やキリスト教が伝えていることに対して疑問を持つということは当然のことです。

このことに対してクリスチャンは答えていくことができるのです。答えることが求められているのです。どのようにして答えるか。それは先ずわたしたちクリスチャンが証しをもって答えるということなのです。

本当にそうなのでしょうか?
イエスさまは自分のことを世の光だと仰った。
ファリサイ派や律法学者の人たちはそんな自分の証言はダメだといった。このときこのファリサイ派の人たちの言葉に私たちクリスチャンは手を上げて答えることができるのですね。
そして私たちのそのような証しの言葉が何よりの大きな伝道の言葉になっていくわけです。

私たちは理詰めで答えることができたらいいですけれど、理詰めで答えるだけではなくて、わたしはこのようにイエスさまを「世の光」として受け入れています。
私が暗闇の中にいたときイエスさまを「世の光」だと受け入れたときに光を得ることができました。
そのように証をすることができるのですね。
イエスさまはご自分が世を去るということを知っておられました。その時はまだきていないけれども、すぐその時がくる。その言葉の中で人々は戸惑いました。「この人は自殺しようとしているのではないか」、そんな言葉でさえ聖書の中に記されているわけです。

けれども、イエスさまは自分のなすべきこと、ご自分の使命をすべて知っておられました。そして、父の許に帰るということを知っておられました。
そして、イエスさまがこの地上を離れた後、弟子たちがイエスさまを証ししました。イエスさまのことについて証しをたてる人として立てられたのです。彼らはイエスさまを証しする言葉をもってイエスさまの真実なことを伝えていったのです。

私たちクリスチャンもそのようにイエスさまを証しするために招かれているということをまず今日の聖書箇所から覚えたいと思います。そして、クリスチャンでない方には、聖書に対する疑問やキリスト教に対する疑問を大いに持っていただいていいと私は思います。そしてこの答えを求めていただきたいと思っております。
言葉尻を捕らえて揚げ足をとるような、そのような思いからおきた疑問でなければ、いや、そのような思いからであってもいいかもしれません。
疑問を持つ、投げかける、ということも大切な関わりです。
無関心でいられるよりも、疑問を持つ、問いかける、というのはとても大切なことだと思います。
無関心であるより、とてもステキなことだと思います。
キリスト教や宗教や信仰のこと全体、いろいろ疑問を持って考えていただきたいと思うんですね。

日本の中でこの宗教のことをとても否定するということがあることも事実です。
オウム真理教の事件の中で、「宗教というものは恐ろしいものだから無いほうがいい」と思う人たちもいましたけれど、わたしたちの教会ではその後に教会学校の人数が増えたということがあったと先日聞きました。
「歴史のある、そういう宗教を学んでおこう、見ておこう、そのことの方がいいんじゃないか」と思われた方が多かったようですね。そして、教会に子供たちを送ってくださいました。

人間の歴史の中で信仰を持つということ、宗教というのは途絶えたことのない大切な事柄だと思っています。
だからこそ、その大切なものを大切にするために決して信仰や宗教に無関心でいていただきたくないと思っているのです。
疑問を持つならたくさん疑問をもって、たくさん関わってそしてその中で求めていっていただきたいと願っているわけです。

 私たちの疑問や何だろうという思いをイエスさまがしっかりと受けとめてくださるということを覚えたいと思います。そして、イエス様が世の光であるということが真実であると気づくものでありたいと思うのです。(お話:中田義直牧師)(テープから編集させて頂きました)
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第19回「わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハネ8章 1〜11)2004年8月22日

聖書
1  イエスはオリーブ山へ行かれた。
2  朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
3  そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、
4  イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
5  こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
6  イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められるた。
7  しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8  そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
9  これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
10  イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
11  女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」


私共は先週7章によって、人々の間でイエスさまは果たしてメシアなのかということで論争が起こった記事を読みました。そして、今日の個所のあとには、イエスさまのお言そのもの、教えが記されておりまして、その間に、このように突如ひとつの衝撃的な出来事が記されております。また、この出来事の記事は、ごらんの通りカッコの中に入っています。
カッコの中に入っているということは(くわしくお話しすれば長くなりますが)一口に言えば、もともとの聖書の原典にはなかった記事だったが、あとになって認められた部分ということです。即ち、多くの議論の末に、ここに入れるべきものとして記された出来事であり、それだけに深い意味もあり、また人々の心に深く問いかける出来事なのだと思います。

まずこの出来事が起こった状況からみてまいりましょう。

2節「朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた」とありますので、ときは朝、場所は神殿ですが、私は一応、神殿の中ではなく、宮の庭というふうに想像いたしました。

そして3節「そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て真ん中に立たせ」とありますので、その情況を思い描いてみますと、まず、この姦淫の現場からつれ出された一人の女の人、そしてこの女の人をひっぱって来た律法学者とファリサイ派の人たち、それに向かい合ってイエスさまがいつものように孤独な、しかし毅然とした姿で立ち会っておられる。そして、この三角形の人間もようを取り囲んで大勢の群衆が見守っていたという情況だったと思われます。

そして4節をみますと、この律法学者とファリサイ派の人たちはこんなふうに言います。(ファリサイ派というのは、一口で言うなら、律法を厳格に守ることを信仰の信条としていた人たちですので、今日は律法学者たちと一緒にして話させていただきます)
4節から6節にかけて彼らの主張が記されています。
「イエスに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。』イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」と。
律法というのは、ユダヤ民族の遠き預言者モーセにたまわった神からの掟「十戒」をもとにして作られた、いわばユダヤ民族の宗教的法律とでも申しましょうか、ユダヤ教の戒律として、生活のあらゆる面で、実にこまごまと規定されていました。この律法についての学者であり実行者である律法学者やファリサイ派の彼ら、まさに旧約の時代に生きていた人々ですから、当然こうなるのでしょうが、彼らはすでにこの女の人を、律法に照らし合わせて犯罪人とみて、裁きの対象としていました。ですから4・5節のように、イエスさまに問いかけるわけです。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています」と。更に、私共が心を痛めざるを得ないのは6節a「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」このうちひしがれて人々の前に引き出されてきた悲しい一人の女を、イエスさまを陥れるための道具として使っているということです。

その時、6節bをみますと、イエスさまは地面に何か書いておられたようであります。このイエスさまが、かがんで何か書いておられた理由を、聖書学者たちはいろいろ説を立てますが、姦淫の現場から引き立てられてきた一人の女の哀れ、服装も乱れているかも知れません。人々の目にさらされる屈辱、律法に照らし合わせて石打ちの刑に処せられるであろう恐怖など、そして、この哀れな一人の女性を道具に使ってイエスさまを問い詰めている律法学者たちの姿、それらの有り様をイエスさまは見るに堪えないお気持ちだったのではないかと、私は思ってみたりいたしましたが、有名な説教者である加藤常昭先生は、見るに堪えなかった対象を、女の哀れな姿ではなく、律法学者たちの醜悪さだったとしております。

私共はよく詩篇などの中に「み顔を背けないで下さい」といったみ言をみることがあります。それは“どうぞ私をみ心にとめてあわれんで下さい”という意味でありますが、この場合イエスさまは、律法学者たちの問いに対して何分か、ある時間の間、その問いを無視する態度、詩篇のみ言を借りるなら“顔をそむけて”おられたのです。
この女への同情のかけらもなく、ただ律法にてらして裁くことにのみ熱心になり、おまけによいネタを見つけたとばかりに、勝ち誇ったようにイエスさまの言質をとろうとする魂胆をすべて見抜いて、そのあまりの醜悪さ故に「み顔をそむけ」たお姿とみるべきなのでありましょう。そして7節、律法学者が問いつづけるのでイエスさまは立ち上がりました。

そして、立ち上がったイエスさまは、実にすごいことを言われました。福音書を読んでおりますと、イエスさまのお言葉というのは、その洞察力の深さ、賢明さ、真実さ、そしてその優しさと美しさはまさに人のものではなく、神のものであることをしみじみと思わせられるのでございますが、とくに、律法学者やファリサイ人たちと対決なさるときには、更に人の心を貫く鋭さが加えられます。

イエスさまはおっしゃいました。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と。

この意表をつく言葉に律法学者たちも、またことの成りゆきを見守っていた民衆も、恐らく唖然としたのではないでしょうか。

もしイエスさまが石打ちの刑に同意するなら、それはいままで許しと愛を説きつづけて来たイエスさま自身のお言葉と矛盾しますし、また、石打ちの刑に反対すれば、律法を守らない者として糾弾することが出来、これこそ律法学者たちのつけ目だったのですが、イエスさまは全く違うところに視点をあてておられたのです。

7節b「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
このお言葉に込められたイエスさまのみ心は、私などには到底測り知れないものとは思いますが、しかし、私なりに考えて、このお言葉から二つのことが思い浮かびます。

一つは、神の前にあって罪のない者は一人もいないという前提に立っておられるということです。たまたまこの女の人は、律法で厳しく禁じられていた姦淫の罪を犯しましたが、生活の全領域に亘ってこまごまと規定されている律法をすべて守ることは誰にとっても不可能なことなのです。そのことをイエスさまはよくご存知でした。

二つめは、イエスさまは、ですから、律法に照らし合わせて人を罰しようとはなさいませんでした。姦淫の罪を犯したならば、石で撃ち殺されることを知っていても、なおその罪に溺れてゆく、人の弱さ、きびしい男性社会の中で何の権利も認められていない女性の立場、その中で負わなければならなかった女性としての悲しみや苦しみ、その悲しみや苦しみの末に犯してしまった罪のために、今このようなつらい目にあい、死刑の恐怖におののいている同情すべき女性としてご覧になっているのではないかということです。

しかし、このお言葉は大きな危険をはらんでいる言葉であって、普通に簡単にいえる言葉ではありません。イエスさまの並々ならぬ洞察力と決断力から出た言葉と思われます。

何故なら、「よし、あの人が罪のない者が石を投げろというなら、自分は罪人じゃないんだから、自分が真っ先に投げてやろう」などという考えの人が出て、それに数人がつづき、皆が煽動されるということはままあることだからです。
神の前に立っての罪の自覚がない日本の社会だったら、もしかするとそんなことになりかねません。

しかし、どうでしょう。9節「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」とあり、そこに集まっていた群衆は、このイエスさまのお言葉を聞いて、誰ひとりとして石を投げる者もなく、その場を去っていったと記されております。
このイエスさまの短い一言は、そこにいた群衆の一人ひとりの信仰の良心を貫いたのでありましょう。この名もなき市民たちの一人ひとりが自分を罪ある者と認めて去っていった、その信仰のありようにも私は深い感動を覚えます。
イエスさまの、神の前にはひとりとして罪なき者はいないというお考えは、見事に人々に伝わったのでした。

意気込んでイエスさまに詰め寄っていた律法学者たちも去っていったのでしょうか。罪を犯した女とイエスさまだけがそこに残りました。それは想像するだに胸迫る光景だと思います。罪の現場から引き立てられ、人々の前にさらされ、屈辱と不安、そして恐れとにおののいていたであろう女の人は、この事態の推移の中で、どんな思いを抱いてそこに座っていたのでしょうか。

私は昔、若い頃この個所をお話しした時、この情景を“まるで映画のシーンのように美しい”などと言ったことを思い出しては、まことに申し訳ないような、お恥ずかしいような気がいたしますが、この場面はそのような情緒的な場面ではなく、実は信仰の厳しさと許し、ある意味ではキリスト教の真髄を象徴している場面ともいえると思われます。

何故なら、この女の人は、実は群衆が一人去り二人去りしていったとき、そっと立ち上がり、その群衆にまぎれて姿を消すということも出来たのです。でも彼女は皆が立ち去ったあと、一人残りました。彼女自身の意志だったか、あるいはイエスさまのみ心が働いてそこにお残しになったのかは分かりませんが、そこに女が一人残ったということは、まさにイエスさまと真向かったということです。
私は「独り神の前に立つ」という言葉が好きですが、まさに独り神の前に立った彼女。聖書の書き方はいつも簡潔すぎる程簡潔で多くを語りませんが、イエスさまと向かい合った彼女の心の中は、後悔、安堵、感謝、尊敬、それに断ち切れない男性への想いもあったかも知れない、さまざまな想いの中ででも、イエスさまの聖らかさの前にひざまづいて自分自身をとり戻したに違いないと私は信じます。

そして、イエスさまと女の間に静かに美しい会話がかわされます。
10節の「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」というイエスさまのお言葉は、女を非難する要素の片鱗も見られませんが、しかしまっすぐに女自身に向かって問いかけておられます。そして、
11節aの「主よ、だれも」という女の答えは短いのですが、イエスさまへの敬愛の込められたていねいな言い方です。

そして11節のイエスさまの言葉「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」でこの物語は終わっています。

11節bの「あなたを罪に定めない」ということばは大切なところです。「あなたを裁かない」とはおっしゃっていません。「裁かない」と「罪に定めない」とは違うのです。この微妙な違いを見落とすと聖書を浅く読むことになってしまいます。

口語訳聖書では「わたしもあなたを罰しない」となっています。前の牧師夫人の松村あき子先生の訳された角川文庫では「私もおまえを罰するつもりはない」となっていまして、実に絶妙な訳だと思います。

イエスさまはここで「不倫の恋なんて大したことじゃないだろう、ちょっとした過ちだったネ」という意味でこのようにおっしゃったのではありません。ユダヤ教の律法で最も重大な罪は三つ。 1.偶像礼拝  即ち他の神を礼拝すること。 2.殺人。 そして3つめが姦淫の罪で、石で打って殺す死刑と定められています。(申命記22章22節以下)
当時それ程重大な罪と定められていた律法を犯したことは、やはり、神に背く行為として裁かれるべきことなのです。ですから、イエスさまは「裁かない」とはおっしゃいません。善悪をうやむやにはしない。しかし、そのことを裁いて、罰としての“罪に定めることはしない”、“罰するつもりはない”即ち「許し」です。

女は一人残って、イエスさまと真向かったとき、善も悪も、人間の罪深さも、悲しさも弱さも、すべてをご存知の方と真向かっていることを彼女は知ったに違いないと私は思っています。イエスさまは彼女の犯した罪をうやむやになさったのではありません。きちんと善悪を見極めたところから、真の許しが行われるのです。真実に裁くことの出来る方の前に立った女が、真実に許すことの出来る方の言によって許しの言を聞いたのです。この時すでにイエスさまはご自身の十字架を予知しておられ、この女の罪も共に自分ご自身に背負っておられたのだと思います。

11節bの「あなたを罪に定めない」このあたたかい深いあわれみの言の中で女は立ち去っていったのでしょうが、聖書はいつも登場人物のその後の情報については記していません。しかし、この女の人は、やがて十字架上に「父よ彼らをお許し下さい」と祈って死んでゆかれたイエスさまを見たか、聞いたとき、自分が許されたときのことを思い出し、深い想いを抱いたのではないでしょうか。

彼女がもし、群衆が一人去り二人去りしたときに、逃れるようにその群衆と共に立ち去っていたら、受けた屈辱、罪の意識はいつまでも彼女の中に残ったことでしょう。でもイエスさまの前に一人立って向かい合ったところから、ほんとうの許しを知り、過去から解放されたのです。そしてこの物語を読んだ私共もまた、イエスさまに出会って罪許され、解放され、自由にされたその恵みをしみじみと味わうことが出来るのです。

そして、愛され、許され、その恵みの中に生かされていることに感謝し、信仰の道を歩みつづけてゆくのです。(お話:工藤渓子さん)

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第18回「生きた水の流れ」(ヨハネ7章 37−52)2004年8月15日

聖書

「生きた水の流れ」
37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

「群集の間に対立が生じる」
40 この言葉を聞いて、群集の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、
41 「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う人もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。
42 メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」
43 こうして、イエスのことで群集の間に対立が生じた。
44 その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。

「ユダヤ人指導者たちの不信仰」
45 さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻ってきたとき、「どうして、あの男を連れてこなかったのか」と言った。
46 下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません。」と答えた。
47 すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。
48 議員やファリサイ派の人々の中にあの男を信じたものがいるだろうか。
49 だが、律法を知らないこの群集は、呪われている。」
50 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。
51 「われわれの律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」
52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者のでないことがわかる。」


みなさんお早うございます。今朝も聖書からみ言葉を聞いて参りましょう。

7月に入って、ヨハネによる福音書の第7章について見てきております。今朝の箇所は仮庵祭(かりいおさい)が最も盛大に祝われる終わりの日の出来事になります。この第7章は仮庵祭を背景とした時間の流れの中でイエス様の行動が記されております。この仮庵祭のことについて触れておきたいと思います。

ユダヤ教の三大祭がありますが、それは「過越祭」、「七週祭」(ペンテコステ)、「仮庵祭」です。
「過越祭」についてはこれまでも何度か触れてまいりました。イスラエルの民が神によってエジプトから救い出されたことを祝う祭りですね。エジプト人の長子と家畜の初子を滅ぼした神の使いが、イスラエル人の家を「過ぎ越し」たことからその名前が付いております。
「七週祭」は「主の過越祭」から数えて7週目、すなわち五十日目に祝われていた小麦の刈り入れの祭りです。後代、モーセがシナイ山において律法を授けられたことも記念されるようになりました。ギリシア語では「五十」を意味する「ペンテコステ」と呼ばれます。

さて「仮庵祭」ですが、当時のユダヤの人々は「祭り」というとこの仮庵祭を考えたそうです。それほどに大きな祭りだったのです。


ウィリアム・バークレーはこの祭りを次のように解説しています。文章はわたしの方で少し手を入れてあります。


“仮庵もしくは仮小屋の祭りは歴史的意義を持っていました。その名称は、祭りの間中、人々が自分の家を離れ、小さな仮小屋に住むことに由来します。それは、昔、イスラエルの人々が、頭上に屋根もなく、砂漠でさまよっていた時のことを、決して忘れないように、思い起こさせることにありました。
「わたし<神>がイスラエルの人々をエジプトの国から導き出した時、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代代の人々が知るためである」(レビ記23:43)
元来、祭りは七日間でありました。イエスの時代には、八日目が付け加えられました。そしてこの祭りは農耕的な意味を持っていました。何よりもそれは収穫感謝祭でありました。ユダヤ人にとって、それはすべての祭りの中で最も親しまれていました。人々はそれを「わが喜びの時」と呼んだのです。
晩秋に巡ってくる祭りは、他の季節の祭りよりもはるかに喜ばしいものでありました。というのは、その祭りはあらゆる収穫物の取入れの完了を表しており、この時期までに、大麦、小麦、ぶどうの取入れが無事完了していたからです。それはただ取入れに対する感謝と言う意味だけでなく、生きることを可能にし、生活を豊かにするあらゆる自然の恵みに対する喜びの感謝でありました。
                  ・・・・・・・・・・・
祭りの間、毎日人々は、なつめやしと、はこやなぎの枝をもって神殿にやってきました。彼らはそれらで、一種の壁や祭壇を形どり、大祭壇の周りを行進しました。同時に一人の祭司が、およそ六合入る金の水差しを取り、シロアムの池へ下りて行き、それに水を満たしました。人々がイザヤ書12章3節の「あなたたちは喜びのうちに救いの井戸から水をくむ」を詠唱している間に、それは泉の門を通って持ってこられるのです。
水は神殿まで運ばれ、神への供え物として祭壇の上に注がれます。これが行なわれている間ハレル、つまり詩篇113編から118編が、笛の伴奏に合わせて、レビ人の聖歌隊によってうたわれます。「主に感謝せよ」(詩篇118:1)の言葉に来て、再び「主よ、どうぞわれらをお救いください」(詩篇118:25)と歌い、最後に結びの言葉「主に感謝せよ」(詩篇118:29)が歌われると、礼拝者たちは大声をあげ、祭壇に向かって,なつめやしを振る。
この劇的な儀式全体は、神のよき賜物である水に対する生き生きとした感謝を表し、雨乞いの行為を表し、イスラエルの人々が荒れ野を旅していた時、水に困り渇ききっていた時に、神がモーセを通して岩から水を湧き出させて民の渇きを癒された出来事を記念するものでありました。」(バークレー、聖書註解シリーズ5)

聖書をご一緒に見ましょう。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37−38)

黄金の器、金の水差しに汲まれたシロアムの池の水を、祭司が神殿の祭壇に注ぐその時にイエス様の大きな声が響き渡ったのでしょうか。

祭りの時というものは、日本でもそうだと思いますが、人々は興奮して満ち足りた状態にあるように思われます。お酒が入っていることがあります。まして、ユダヤの人々のこの仮庵祭は収穫を祝う祭り、喜びの祭りであります。そういう時にイエス様は「渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい」といわれます。どうしてだろうか。
イエス様は人々が平静を装っていても、冷静なように見えても、あるいはこの祭りの時のように興奮した心理状態にある時であっても、人間の奥深くにある[渇き]と言うものをご存知であったのだと思うのです。不安を忘れようとすると人間は大騒ぎをすることがあるようにも思います。わたしたちは自分の存在の根っこにある不安や渇きというものを感じざるを得ない時がある。今も昔も変わらないのかもしれない。そうした人間のことを主はよくご存知だったのではないでしょうか。

38節に「生きた水が川となって流れ出るようになる。」とあります。この箇所はエゼキエル書を参照するとよいと思います。ご一緒に[エゼキエル書の47章]を見てみましょう。旧約聖書p1374です。少しばかり長くなりますが、47:1−12までご一緒に読んでみましょう。

「彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東へ向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は膝に達した。更に、一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。更に彼が1千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。彼はわたしに、「人の子よ、見ましたか」と言って、わたしを川岸へ連れ戻した。わたしが戻ってくると、川岸には、こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた。彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。するとその水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、すべてのものが生き返る。漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干す所とする。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海の魚のように非常に多くなる。しかし、その沢と沼はきれいにならず、塩を取ることができる。川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる」(エゼキエル書47:1−12)

これはエゼキエルがみた幻です。バビロンへ連れて行かれ、バビロン川のほとりで、遠く故郷エルサレムとその神殿をしのんだ捕囚の民はエゼキエルのこの幻と預言をどんな思いでかみしめていたのでしょうか。エゼキエルに啓示された幻は本当に豊かな祝福そのものです。

みなさんはここで語られている生命の水についてどのように感じられたでしょうか。

「聖なる神殿」から流れ出る豊かな水は東の方に向かって流れ出ていた。そして、流れ出る水はエゼキエルが1千アンマ渡らせられるとくるぶしまで、更に1千アンマ渡らせられると膝まで、次の1千アンマを渡らせられると腰まで、そして四千アンマ渡らせられるともはや渡ることのできない川となったのです。
生命の水の尽きることのない豊かさがとてもよく伝わってきます。両方の川岸には多くの木が生えていて、果樹は大きくなり、葉は枯れず、果実は絶える事がないのです。生命の水の流れていくところではそこの水はきれいになり、生き物は生き返り、魚は非常に多くなるのです。豊かな祝福と生きるに必要なものがすべて与えられる神の都です。これらの祝福と希望のすべては、他からではなく、水が『聖所』から流れ出ているからです。

エゼキエル書が描く『聖なる神殿、水の流れ出る聖所』はイエス様のことを示していると思います。前回サマリアの女のところをお話させていただきましたが、その時イエス様は言われました。
「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。‥しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
そしてイエス様はあなたと話をしているこのわたしがメシアであると言われました。主はすでに来てくださった。イエス様が来てくださったから、私たちはゲリジム山とかエルサレムとかに捕らわれる必要はなくなったのです。
主イエスこそ神の臨在を示しているのです。主イエスのあるところ神を拝むことができるのです。そして主イエスのおられる所から生命の水が流れ出てくるのです。

もう一度聖書を読みましょう

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」(ヨハネ7:37―39)

渇いている人はだれでもイエス様のところにいって生命の水を飲めるのです。イエス様からは本当に豊かな生命の水が尽きることなく流れ出ているからです。そればかりではないのです。ここでイエス様は『わたしを信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出る』と言われています。
イエス様から枯れることのない生命の水が流れ出るだけではない、イエス様を信じるものは、その人の内から生きた水が流れ出るようになるというのです。

次に聖書は“霊”について記します。ご自分を信じる人々が受けようとしている“霊”についてです。イエス様が栄光を受けると言うことは、主イエスが十字架につけられて蘇られる、十字架と復活のその時を意味します。その時にイエス様に栄光、勝利が与えられる。イエス様のすべての業が完了した時、聖霊が降ります。そして聖霊はイエス様を信じるわたしたちにも与えれる、わたしたちの内に住むものとなるのです。

主イエスを信じた常盤台教会の教会員の証を紹介したいと思います。

『本日は「ビューティフルサンデー」で証する機会を与えていただき感謝いたします。まず最初にわたしがクリスチャンになった経緯をお話し、次に会社での仕事上の悩みに聖書のみ言葉がいかに生かされているかをお話したいと思います。

私は東京に生まれ、子供の頃は「こんにゃく」と呼ばれるようなおとなしい子でしたが中学では生徒会長、高校ではテニス、そして大学では男声合唱と青春を謳歌し、卒業後は富士銀行(現みずほ銀行)に入行しました。1991年札幌支店に転勤した時、転機が訪れました。子供の通う札幌バプテスト教会付属幼稚園を通じてキリスト教と触れ合う機会を得たことです。

初めはアンチクリスチャンだった私も、仕事の悩みが聖書のみ言葉によって励まされたこと、受浸した妻の輝かしい変化、父の死の際の教会員の皆さんの篤い祈り、これらのことによって私は変えられ、1995年2月26日にクリスチャンになりました。

仕事の悩みの解決としては、愛、信仰、希望、の3つが基本で、まずキリストから頂いた無条件の愛を周りの人に与えること(愛)、困難な局面では必ず祈って平安を得ること(信仰)、そして悩んでいる人をプラス思考で励まし、力が与えられること(希望)が大切だと思います。そしてガソリンの切れた車のようにならないように、毎週日曜日に礼拝に来て神様からパワーを頂き信仰を確認することが必要なのです。』2004年8月1日 篠 松次郎さん

「渇いている者はだれでもわたしのところに来て飲みなさい」と呼びかけて下さっている主イエスの言葉が聞こえてきます。
主イエスはわたしたちのところに来てくだり、今もわたしたちの傍らにいて語りかけてくださっているのです。(お話:平野一男さん)

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第17回「この人はメシアか」(ヨハネ7章 25−31)2004年8月8日

聖書
 7:25 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。
 7:26 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。
 7:27 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」
 7:28 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。
 7:29 わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」
7:30 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。
 7:31 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。


おはようございます。

本日の話しのキーワードは「メシア」です。メシアとは当時のイスラエルの人々にとってどのように解釈されていたのでしょうか。
新共同訳聖書には巻末に用語解説の頁がありまして、そこには「メシア」とは 
『「油を注がれた者」の意味で、旧約聖書では王や祭司が就任の時に油を注がれた。後にこの「油を注がれた者」とは正しい治世をもって国を治める理想的な王、更に神の決定的な救いをもたらす「救い主」を指すようになり、イエスさまの時代にはローマの属州として苦しめられていた人々にとって政治的に解放をもたらしてくれるメシアを待ち望んでいた。』
と記してあります。


さて、ガリラヤから立ち上がり、神様のみ言葉を語り、数々のしるしを行い、民衆の共感を得てきたイエス様に対して、エルサレムの宗教指導者達は当然にこころよく思ってはいなかったのです。それは、神様のみ言葉を聖書から解き明かすことの出来る者はイエス様のように無学な者ではなく、ラビの学校で学んだものであって承認された教師の弟子や立派なラビのもとで学んだ者だけが聖書を解き明かし、律法について論じる資格があったとされる「ならわし」となっていたからです。しかも、いまだかって誰も自分の権威で発言するラビはいなかったのです。

そのイエス様が仮庵祭(かりいおさい)の時にエルサレムの神殿のなかで説教しておられるのを見て民衆は驚いたのです。

「あの人はメシアか」

そのような思いにとらわれた人々にとってすぐにその思いは掻き消えていったかもしれません。

あのイエスという男はガリラヤのナザレの出身で大工のヨセフのせがれだ。氏素性の判っている者がメシアである筈がない。
このような思いになるのは当時の人々にとってメシアは突然にどこからともなく現れる人であったからです。


当時の人のメシア感は、ちょっと前になりましたがTV映画のヒーローであるスーパーマンのようであったかもしれません。
主人公たちが悪漢たちに苦しく大変な事態に遭遇している時にどこからともなく突然やって来て、たちまち悪をやっつけて颯爽とさってゆく。本当は誰なのか、どこにいるのか全く判らないけれど誰もがスーパーマンの存在を知っている。


当時のユダヤの人々にとって突然に現れることを期待し、待ち望んでいる。そのような存在です。わかっていることはダビデの町、ベツレヘムで生まれるということだけです。
人々の信仰は全て、メシアは突然に出現するというものでありました。どこから来たのかも誰も知らない神秘的な存在としてのイメージが強くあったものと思われています。この信仰はひょっとしたら今日のユダヤ人の間でもあるのかもしれません。


イエス様はこのようなメシア感からは全く反対の立場であったのです。

イエス様が示されたキリストは突然に現れる神秘的な存在ではなく、いつも私たちの傍らにいてくださる存在なのです。
神様の存在そのものが普遍であり、神の不在という表現が全くあてはまらない、神に満ち満ちた世界を示してくださっているのです。これは今日もこれからもずっと続いて行くのです。


「足跡」というよく知られた詩をご紹介します。

FOOTPRINTS IN THE SAND

砂の上の足跡


One night a man had a dream.
ある晩、男が夢をみていた。


He dreamed he was walking along the beach with the LORD.
夢の中で彼は、神と並んで浜辺を歩いているのだった。


Across the sky flashed scenes from his life.
そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。


For each scene, he noticed two sets of footprints in the sand:
one belonging to him, and the other to the LORD.
どの場面でも、砂の上にはふたりの足跡が残されていた。
ひとつは彼自身のもの、もうひとつは神のものだった。


When the last scene of his life flashed before him, he looked back
at the footprints in the sand.
人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、彼はふりかえり、
砂の上の足跡を眺めた。


He noticed that many times along the path of his life there was only one set of footprints.
すると彼の人生の道程には、ひとりの足跡しか残っていない場所が、
いくつもあるのだった。


He also noticed that it happened at the very lowest and saddest times of his life.
しかもそれは、彼の人生の中でも、特につらく、
悲しいときに起きているのだった。


This really bothered him and he questioned the LORD about it.
すっかり悩んでしまった彼は、神にそのことをたずねてみた。


"LORD, You said that once I decided to follow you, You would walk with me all the way.
「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、
あなたはずっと私とともに歩いてくださるとおっしゃられた。


But I have noticed that during the most troublesome times of my life,
there is only one set of footprints.
しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつもひとりの足跡しか
残っていないではありませんか。


I don't understand why when I needed You most You would leave me."
私が一番にあなたを必要としたときに、
なぜあなたは私を見捨てられたのですか」


The LORD replied, "My son, My precious child, I love you and I would never leave you.
神は答えられた。
「わが子よ。 私の大切な子供よ。 私はあなたを愛している。
私はあなたを見捨てはしない。


During your times of trial and suffering, when you see only one set of footprints,
it was then that I carried you.
あなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残されていないのは、
その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ」

Author Unknown
作者不詳

エルサレムの神殿でイエス様をそのように見て取った人々や宗教指導者に対してイエス様は言われました。

「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。
わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」

ここでイエス様は重大なことを宣言されました。

第一にご自身が直接に神様から遣わされた者であることを言われた。
第二にあなたたちは神を知らないが、わたしはその方を知っていると言われた。

このイエス様の言葉から私たちは重大な選択をせまられるのです。
すなわちイエス様のおっしゃったことは真実であるか。
神の子という言葉で表現せざるを得ない方であるのか。
そのとおりに受け入れるか、又は、受け入れる事は出来ないか。

難しい選択でしょうか。

私たちは宗教や信仰というものをことさらに難しく考えすぎているのではないでしょうか。もしかしたら、そのように思い込もうとさえしているのかもしれません。
宗教は、信仰は、家族は、教会は、牧師は、奉仕は、色々なことに混乱していませんか。教会は安らぎが与えられると思っていたらストレスがたまる、悩みもある。何故だろう。
平安が与えられるはずなのに次々に試練がやってくる。何故だろう。ますます混乱がつのる。・・・・


しかし、私たちはこのどちらかを選び取らなければなりません。あなたご自身の意志で。
このようなキリスト教は複雑で面倒な宗教でしょうか。
私たちはみな兄弟姉妹であって、神様に近づく平等の権利をもっています。ご自身で神を探すことについて単純に考えてみてください。

あなたに聖書があれば学べます。心があれば祈れます。精神があれば考えられます。

単純な信仰を求めてください。最も大切なものを心から求めてください。欠くことのできないものに注意を集中してあなたの傍らにいらっしゃるイエス様の息吹を感じとってください。
あなた自身で神の真理を見つけてください。
あなた自身で神との信頼を育んでください。

マタイによる福音書 23章8節〜12節
23:8  だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
23:9  また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
23:10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
23:11  あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
23:12  だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
(お話:郷 秀男さん) 

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第16回「イエスの兄弟たちの不信仰」(ヨハネ7章 1−9)2004年8月1日
聖書
1  その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。
2  ときに、ユダヤ人の仮庵祭(かりいおさい)が近づいていた。
3  イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。
4  公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」
5  兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。
6  そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。
7  世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。
8  あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」
9  こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。


 

先週、イエスさまと周りの人達は当時いろいろな批判を受けていた、というお話をしました。とりわけ「主の晩餐」という事について誤解と偏見を受けていました。

「主の晩餐式」は、今日も礼拝の中でいたしますが、クリスチャンにとっては特別な礼典です。これは、イエスさまが私たちの罪のために十字架にかかって死んで下さったことを私たちが思い起こし、記念するためにパンとぶどう酒を頂くという儀式です。
パンはイエスさまの体を象徴し、ぶどう酒は十字架上で流されたイエスさまの血をあらわしています。当時その事について「彼ら(クリスチャンたち)は人の肉を食べ、人の血を飲んでいる。これは邪教である」という噂がたったのです。
弟子たちの中にも、それを象徴として受け取らず「人間の肉だ、血だ」というのをグロテスクだ、ひどい話だと言って、イエスさまのもとを去っていった人たちもいたということです。
そういう誤解や、当時イエスさまが「宮清め」といって、神殿のあり方を批判したというような様々なことから、イエスさまを危険視する人々が増えてきました。イエスさまがこれだけ危険視されてきたということは、当時それだけイエスさまが人々に支持されていたということでもあるのです。

当時のユダヤ人、ユダヤ地方というのはイスラエルのいわば中心地だったのです。信仰的・宗教的、また、政治的・経済的にも中心地でありました。その中心にいる人達は権力をもっていたわけです。しかし、そのユダヤの国、イスラエルの国というのは当時はローマの属国でローマの支配下にありましたから、中心地で権力をもっていたユダヤ人というのはローマの人とかなり通じていたわけです。
ローマは属国となった国には、ローマ皇帝の像を建ててローマ皇帝を礼拝することを課していました。しかし、ユダヤに対しては、ユダヤ人の中に宗教的なものが根強くあるため、混乱をさける為に皇帝礼拝を免除していました。
けれどもそこには一つの条件がありました。それは、反ローマ的活動をしない、という条件があったのです。具体的には危険な人物を排除するというようなことです。ですからパリサイ派の人たちは祭司たちに対し「あの人たちはローマの手先になっている」と批判したのです。しかし祭司たちにも言い分がありました。祭司たちは「わたしたちがうまくやっているからローマ皇帝礼拝を強要されなくていいのだ。わたしたちの唯一の神さまを礼拝する事を許されているのだ」という思いをもっていました。

そういう中でユダヤの祭司たちにとってイエスさまの行動は目に余るものがありました。
人々がイエスさまの周りに群がっていきます。
もしここでイエスさまが「これから反ローマ運動を展開するぞ。ローマに対して声を上げていこう。」と言ったとしたら一気に反ローマ運動が起こるだろう、そのくらいイエスさまの影響は大きかったのです。ローマの支配の中におかれていた人たちはイエスさまが新しい預言者ではないかと思ったのです。
かつてイスラエルがこの地方で非常に強い力を誇っていたダビデ王の時代の再来を民衆は願っていたのでしょうか。ダビデ王に率いられてイスラエルが周りの列国と互角に戦い、息子のソロモンの時代には周りのいろいろな国々の人たちがイスラエルに様々な貢ぎ物をもってきました。そんな輝かしいユダヤをもう一度作りたいという思いが民衆の中に根強くありました。
そして信仰を徹底しようとしたパリサイ派の人たちの中にもそういう思いはあったでしょう。特にローマによって税を課せられたり、いろいろなところで抑圧された人たちにとってはそういった反ローマ的な運動を起こし、ダビデ王の時代を再現するような指導者が欲しかったわけです。

そういう人が起きないだろうか、そのような期待がイエスさまと合致したのです。この人について行けばダビデ王朝のようなイスラエルを回復することが出来るのではないだろうかという期待感が民衆の中で起こってきました。
しかしそれはユダヤの信仰や政治・経済の中心にいる人たちにとっては危険なことだったのです。
サドカイ派の人たちは、何とかローマとわたりをつけて、そして神殿が守られて、皇帝礼拝をせずにこうして自分たちがユダヤ人として確立しているのは、ローマとサドカイ派の私たちがうまくやっているからなのだという思いがありました。こういう人たちにとってイエスさまのような民衆に人気があり、もしかしたら民衆を先導して反ローマ運動を起こすかも知れない、民衆の思いを爆発させるようなことが出来る力をもったイエスさまを非常に警戒していました。
そしてイエスさまのような人を排除しようという思いが当時の宗教・政治・経済の中心にいた人たちが考えたわけです。イエスさまをこのまま放置してはいけない、彼がもし何か暴動を起こしたら一気にローマは攻め込んできて鎮圧し、それと同時に皇帝礼拝を強要されるようなことになるかもしれない、という思いが強まっていました。
(現に紀元90年に第三次ユダヤ戦争があった時、ローマによってユダヤは神殿を壊されてしまうような壊滅的な打撃を受けました。)
 
ですからイエスさまはユダヤに行こうとせず生まれ育ったガリラヤ地方に行き、めぐり歩いて教えをしておられました。
ガリラヤ地方はイエスさまの地元でしたから兄弟たちがいるわけです。
この兄弟たちについてプロテスタント教会とカトリック教会では解釈が違っています。カトリック教会ではマリアを崇拝しています。マリアの処女性を非常に大切にしていますから、イエスさまの処女降誕のあとマリアからは子供は産まれないという立場に立っています。
ですからこの兄弟というのは「いとこ達」であるという解釈をしているようです。私たちはマリアをそのように神格化していませんから、ここでは「兄弟たち」というのはそのままイエスさまの兄弟たちとみていいかと思います。
いずれにせよ兄弟たちはイエスさまに反感をもっていたようです。

イエスさまはマリアとヨセフの長男でした。ヨセフの家は大工の家だということが知られています。当時は世襲の社会でした。その村で大工がなくならないように代々大工を継いでいくのです。色々な専門的な仕事が町や村からなくならないように、仕事を家の者が継いでいくというのが当然だったのです。

イエスさまはマリアとヨセフの長男でしたから、そう考えれば当然大工の後を継いでいく人でした。しかもイエスさまが故郷を訪れた時にマリアと兄弟たちが、もういいから家に帰ってきなさいというように説得しようとした場面が出てきます。そこにヨセフが出てきません。ですからヨセフがマリアより先に亡くなったのだろうという事が考えられています。
そうしますと代々大工の家で、お父さんが亡くなっていたとすれば、大工の家を継がなければならない責任はイエスさまにあったわけです。
ところがイエスさまは突然「神の国は近付いたと言わなければならない」と言って家を出ました。バプテスマのヨハネのところへ、いわば出家していったのです。そこから独自の活動を開始していったのです。

しかし、その教えがどんなに素晴らしく良いことであっても兄弟たちにしたら、父親ヨセフが亡くなった後、長男のくせに母マリアを置いてどうしてそんな勝手なことをするんだという思いが出てきて当然です。独り遺されたお母さんを助けようとしない、大工の仕事は誰が継ぐのか、私たち兄弟はどうするのだ、普通に考えれば当然そういう家の中のごたごたが起こったはずです。ですからイエスさまの兄弟たちはそのような中でイエスさまに対して悪い感情をもっていました。イエスさまに皮肉めいた事も言うわけです。
「あなたはこんな人前に出て、神の国は近付いた、というようなそんな教えをするのであれば、どこにいても堂々としなさい。こんなガリラヤの地元にいないでユダヤに行ってしなさい。本当に正当な行動をして公に知らせようとするならどうしてそんなにコソコソ隠れて密かに行動するのか」という風にイエスさまの兄弟たちはイエスさまを批判しました。それは兄弟たちもイエスさまを信じていなかったからであると書かれています。

この事にたいしてイエスさまは反論しました。「わたしの時はまだ来ていない。」とおっしゃいました。
わたしの時というのは、わたしが苦しみを受け十字架で殺される、贖いの業を完成させる、その時のことです。
今はまだその時ではない。しかしいつもその時は備えられている、神さまがこの時であると示された時には私は何も恐れずにユダヤに行きます、という思いがこの言葉には込められているのです。

「この時」というのがとても大切なことであり、今日このことをお話していこうと思います。

私たちは時の中で生きています。自分に何か願い事があって、こうあって欲しいと思うとき、私たちは時を求めます。
この時にこういうことが起きて欲しい、この時にこういう物が与えられて欲しい、というように、私たちはどこかで時と願いをセットで考えているのです。イエスさまにお祈りしても中々答えが返ってこない、まだなのか、いつだろうか、と私たちは自分たちの時の中で生きています。
しかし聖書は「神の時」があるという事を示しています。神さまがこの時が最良だ、最善なんだと示される「神の時」があるのですね。そして多くの場合私たちの願う時と神さまの計画されている時というのにはズレがあるようです。私たちが思っていたよりも早く神さまの時がくる事もあるし、また私たちがどんなに願っても神さまはまだその時がきていないと仰るときがあります。イエスさまも、ご自分が苦しみを受けるその時、そして復活してくるその時は、父なる神だけがご存知であるとおっしゃっています。

神さまを信じ、神さまに委ねるというのは、神さまに時をおまかせするということではないでしょうか。「今でしょうか?」「この時でしょうか?」と。
神さまは私たちに一番良い時に一番よいものを与えて下さいます。しかしそれが私たちにとって時には辛い事、悲しい事かもしれません。何故今この時に私がこんな目に遭わねばならないのかという疑問で心がおおい尽くされるような苦しみや災いに直面するときがあります。
しかし、神さまはそのような時でも私たちを最善の道へ導いて下さる、という信頼をもって、離れずに神さまによりすがっていくならば、やがて時がきたとき、わたしはあの時あのような経験をしていて良かった、あの時は最悪の時だった、何故あんな無意味なことが起こったのか、と思ったけれど、それは私の人生にとって深い意味のあることだった、そしてそれはいつでもないあの時にしか経験することができない神さまのみ業だったのだ、という事がわかります。

イエスさまは神さまにご自身をお委ねになっていました。委ねるということの一つは時を委ねるという事であります。何故この時なのか、という問いを私たちは持つことがあります。しかし神さまから離れず、そして「主よ、どうぞ答えをお与えください」という思いをもって祈り続けるならば、その時が良い時であるということがやがて私たちに知らされてくるでしょう。

イエスさまにお従いし、神さまにお委ねするのは「時を委ねることでもある」という事を覚えたいと思います。
イエスさまは、人の思いや言葉・計画ではなく、神さまのご計画の中でご自身の生きるべき道を、神の時を求めてその生涯を全うされたという事を覚えたいと思います。(お話:中田義直牧師)(テープから編集させていただきました)
 
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第15回「永遠の命の言葉」(ヨハネ6章 60−71)2004年7月25日
聖書
60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。
62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・・・・。
63 命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスとともに歩まなくなった。
67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
70 すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」
71 イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。



新約聖書には福音書が四つありまして、夫々少しずつ違うことが書かれてあります。特にヨハネ福音書は他の三つの福音書に比べて書かれている内容が大分違います。時折そのことで、一体どれが本当だろうか? どれが正しいのだろうか? という言われ方をする事がありますが、聖書の福音書の中にイエスさまが話された事や行った奇跡がすべて記されている訳ではないのです。と言いますのは、ヨハネ自身が福音書の最後のところで
「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」
と言っているからです。ですからヨハネ自身はイエスさまのたくさんの教えの中から大切なことを選び出したというわけです。それはヨハネだけでなくて、マタイもマルコもルカも皆ヨハネと同じように大事なところを選び出して福音書を編纂していったのです。
その時に一つの基準となっていたことがありますが、どういう視点で選んだかというと、
一つは教えが普遍的であるということ、
もう一つはその時代に必要な教え、つまりヨハネの教会(ヨハネは教会のリーダーでありました)で必要だと思われる観点から選んだのです。

今日のところはヨハネの時代を反映して書かれた箇所です。その背景をお話ししましょう。
イエスさまの教え、キリスト教の教えはシナゴーグ(ユダヤ人の会堂)を中心にしてだんだん広まっていったのです。
最初の頃はイエスさまのことをナザレ出身であったということから、ユダヤ教のナザレ派だと言われていました。キリスト教という言葉はまだ出てこなかったのです。一つのグループとして認知されていました。

ところがイエスさまの福音というのはユダヤ教の民族的な教えを超える普遍的なものをもっていましたから異邦人にも広まっていったのです。外国育ちのユダヤ人や外国語を話すユダヤ人、さらにユダヤ人以外の人達にもイエスさまの教えは広まっていったのです。
そしてヨハネ福音書の時代、紀元90〜120年くらいのその頃はユダヤ人ユダヤ教を超えて、ギリシャ人ローマ人という違う文化的背景をもった人達、そしてユダヤ人という背景をもたない人達にもイエスさまの教えが広まっていったという時代です。

そういう時代にヨハネのような人達はその事を意識して「はじめに言があった」という哲学的・抽象的な表現を用いて福音書を書き始めていますが、これは一つにはナザレ派の教えというのは、哲学をするようなギリシャ人たちにも十分通用する、普遍的なものでありましたし、抽象的な議論にも耐えられる考えだという事をヨハネは意識していたからなのです。

しかしそのような状況と時代の中で、このナザレ派に対する強い偏見がありました。それは教えに対する偏見ではなくて「礼典・儀式」に対する偏見と誤解でした。イエスさまが教えて下さった「主の晩餐」という、当時は食事を共にする交わりを大切にしていました。その頃はシナゴーグで礼拝したあと信者の家に行って信者だけで食事をしました。今の教会では教会が歴史をへて成長していく中で非常に簡潔になり、例えば私たちの教会では小さなパン一切れと小さな盃ということになってきました。

ところが、彼らは人間の血を飲んで人の肉を食べている、という噂がたったのです。
イエスさまがパンを裂いて「これはわたしの身体である。わたしの血である」と言って十字架で流した契約の血である盃をとられました。弟子たちはパンを裂きぶどう酒を飲む時、そのようなイエスさまの教えを思い出しながら食事の席で主の晩餐の礼典を守っていました。

人々は、彼らは集まって人の肉を食べ人の血を飲む、それは非常に恐ろしい邪教であると言って噂をしました。
ヨハネの教会の中にはそのような噂に耐えられない弟子たちもいました。そういう誤解や偏見の中で教会から離れていく信徒もいました。その事で彼らの中で深い悩みがあったというのがこのヨハネの教会の状況なのです。
そのような状況の中でヨハネは、イエスさまが語られた言葉、イエスさまが教えて下さったことを見出した人だと思います。

イエスさまの時代にすでに今日の
60節 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
のような言葉が交わされていました。ではこの前に何が話されていたかというと
52節 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
というように主の晩餐のことが書かれています。
これはひどい、こんなことをわたし達はしていられない、この教えは間違っている、このように思った弟子たちがイエスさまのもとを離れていったのです。

イエスさまが亡くなって50年〜60年過ぎたヨハネの時代の教会でのイエスさまの教えに対する誤解や偏見は、実はイエスさまが生きておられた頃からあったのです。教えそのものに対しても「そんな教え聞いていられない」と思った人達がいました。

「わたし達と同じじゃないか」
聖書ってそういうところがありますね。
二千年も前のことなのに聖書の言葉を読んでいると、ここに起きていることは、舞台背景や舞台設定、周りの文明文化は違うけれども、人間のやっている事って何と変わらないのだろう、何度人間は過ちを繰り返しているのだろう、ということを私達は聖書から気付かされます。

少し前ですが、ある集まりで創世記を読んでいたのです。
後半はアブラハムの子供・孫たちの話が出てくるアブラハム物語です。
アブラハムの息子イサクとリベカの家族が中々大変な家族なんです。
相続のことでゴチャゴチャが起こるのです。

聖書というと何か清らかなことが書かれていると思ってしまいますが、実は理解できないことが沢山出てきます。
こういうゴタゴタやイザコザはどこかで見たことがあると思ったら、橋田寿賀子の世界なんですね。
「渡る世間は鬼ばかり」
ああいうような人間模様が聖書の中でも展開されていくんですね。
六千年も前から変わらず人間は同じことを繰り返しているのだなぁと思います。
創世記を読んでいると「渡る世間は鬼ばかり」のドラマの中の人間模様とアブラハムの孫たちの家庭の問題と何か似ているところがあると思うのです。
わたしたち人間が神さまの言葉に対して誤解したり偏見をもったりするというのは変わらないのですね。

人間は神さまに対して過ちを犯しながら、そして神さまに赦され続けながら生きているんだなぁと思います。
憐れみと赦しを受けながら私達は遅々とした歩みの中で神さまのみ心に適うようにきっとされているだろうという期待を持ちながら、しかしどこかで同じ過ちを繰り返しながら生きているんだなと思わされます。

ヨハネの教会で、周りの人達の誤解や偏見に耐えられなくなって信者たちが教会にいずらくなり、イエスさまを信ずる信仰が揺らいでいくということが起こってきました。
その教会の群れの人達に対して、ヨハネは
「聖書を調べていったら、イエスさまの時代にも教会を離れていった人達がいた。だからわたし達は教会を離れていったり信仰が揺らいだりという、同じ間違いをしないようにしようじゃないか」
という祈りと願いをもって、ヨハネはイエスさまの沢山のみ言の中から選び取っていったのです。

そしてここでヨハネはまずイエスさまの言を取り上げます。
62節 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・。
63節 命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
64節 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」


この”霊と血と肉”の話を理解できないようであるなら、どうしてイエスさまの復活の話を理解できようか?
この話を誤解して受け取ってしまうならば、イエスさまの復活の話をきちんと受け止めることができるだろうか?
あなたたちはすでにイエスさまの復活の話を受け入れている。この復活を受け入れたその信仰をもって「主の晩餐のできごと」をもう一度とらえなおしてみなさい、という思いが込められています。
そしてイエスさまの言を紹介しています。

「命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。」

これは主の晩餐に対する一つの理解であります。
「肉は何の役にも立たない。」
肉を食べたからといって、血をのんだからといって、私達は救われる者ではない。
私たちが救われ、私たちが神の民とされているのは、これは命を与える”霊”の働きである。
表面的な目に見える肉や血のことではなくて、私たちの奥深い目に見えない霊の部分、これをしっかり捉えていかなければ、わたし達は命を得ることができない、とヨハネは言っています。

私たちに永遠の命を与えるというのは霊的な事柄だということです。
そして主の晩餐においても大切な事は、この霊的な信仰をもってパンとぶどう酒を受けることであって、肉や血というのはあくまでも象徴であるのです。
そして私達は自分の内なる霊の部分、内側から変えられていくのです。
私たちがイエスさまの言葉を本当に学び、信じ、そして心開いて受け入れていくならば、私達は内面から霊的に変えられていくのです。それは単なる納得や理解を超えるものです。

私達は頭だけで聖書の言葉を読んでいくとわからないことがいっぱいあります。
ところが頭で理解できてしまうとそこで終わってしまうことがあります。
あぁそうか、そういう事なんだ、納得した、よかった、という風に。

イエスさまの母マリアのできごとがルカの福音書に何箇所か出てきます。
まず、受胎告知のこと、誕生の後のできごと、イエスさまが12歳の時、過ぎ越しの祭りの帰りにはぐれてしまった事、そういう折々のできごとの中でマリアはイエスさまの語る言葉や天使のお告げの言葉を納得したり理解する事ができなかったのです。
しかし彼女はその時それらの言葉を心に留めておいたのです。

聖書の言葉。私達はそれを学び理解し受け留めたいと思いますけれども、しかし、わからないみ言葉に出会った時どうぞその言葉を心に留め置いていただきたいと思います。
神さまは私に何をおっしゃろうとしているんだろう。
それは言葉だけでなくて、私たちの日常生活で起こることの中で、一体これはどう受け留めたらいいんだろうというような時に、勿論早く解決すればそれにこしたことはありませんが、その事でただ心を騒がせるのではなくて、そのでき事を心の中に留めておいていただきたい、そして祈ってみ言葉に触れて神さまのみ心を求めて頂きたいと思います。
そうするとある日、本当に不思議に『あ、この事だったのか、あの納得いかなかった理不尽に思えたことは、この事の備えだったのだ』と私たちは気づくのです。
あの理解できない、解からなかったみ言葉は、こんな状態の私を支えるためのみ言葉だったんだということに気付く時が必ずきます。
私の40年程の経験の中でしか語れないことですけれども、あのイヤだったでき事はこの時のためにあったんだという事を体験するのです。

主の言葉には力がある、主の言葉には偽りがないという事を私は何度も経験してきました。
ここにいるクリスチャンの方も多分経験されてきたと思います。

聖書の言葉を私たちは出来るだけ喜んで受け留めたいと思います。
日々のでき事をできるだけ前向きに受け留めたいと思います。
しかし、身の回りで起こった事がどうしても納得できない時、受け入れられない時、どうぞ慌てて急いでその場しのぎの解決を求めるだけではなくて、その事を心に留め置き主のみ心を求めて祈っていただきたいのです。
内側から霊のめが開かれて、その大切さが解かる時が必ずきます。

イエスさまの言葉もその当時から誤解されていたんだということを覚える時に私たちは自分の理解だけで判断することなく、祈りをもってイエスさまの言葉を受け留める者でありたい、そのように心から願う者であります。(お話:中田義直牧師)(テープから編集させていただきました)
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第14回「イエスは命のパン」(ヨハネ6章 22〜29)2004年7月18日
聖書
6:22  その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。
6:23  ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。
6:24  群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
6:25  そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
6:26  イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
6:27  朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
6:28  そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
6:29  イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」




ヨハネの福音書を順に学んでおりますけれども、このヨハネの福音書によく出てくる言葉の一つに、「命」という言葉があります。
これはほかの福音書よりもヨハネの福音書に圧倒的に多いのですね。他の福音書の3倍くらい「命」という言葉が出てくるわけであります。

ただ、日本語に訳しますと命となるわけですけれども、聖書の元の言葉であるギリシャ語から言うと、命という言葉には二つの単語がありまして、
一つは「プッシュケイ」という言葉ですけれども、これは、私たちが今、こうして生きているこの肉体の命のことであります。お母さんから生まれて、毎日心臓が動きつづけているこの肉体の命です。これを「プッシュケイ」といいます。
そして、聖書はもう一つの命を表す言葉として、「ゾウエイ」というギリシャ語を使います。
これはたとえばヨハネの福音書の3章に、
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と記されていますけれども、この永遠の命という時の、命は「ゾウエイ」でありまして、これは、肉体の命とは質の違う命。神の命とでも申しましょうか、とにかく、肉体の命のように、いつか朽ちていく命ではない、朽ちない命のことをギリシャ語で「ゾウエイ」と言うわけであります。

この二つの命の違いをよく理解していただきますと、聖書が言わんとしていることが理解できてくるのではないかと思います。聖書が語っている命には、二つの命がある。一つは時がくれば朽ちていく肉体の命であり、もう一つは、時を超えて存在し続ける命。神に属する命。そして、聖書はこの神の命。「ゾウエイ」こそを手に入れなさいと、私たちに語りかけているということを、心にとめて頂きたいわけであります。

先ほど読んだ聖書の箇所にもう一度目を落として頂けたらと思いますけれども、22節から24節までは状況説明なのですね。「その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆」とは誰かといいますと、6章の最初のところで、5000人の人々がイエス様からパンと魚をいただいたという出来事がありましたけれども、そこでパンをもらった人々です。
彼らはそこで野宿をしたわけですが、その日の夕方、イエス様の弟子たちは舟で向こう岸に渡っていきましたけれども、その舟にイエス様は乗っていなかったから、イエス様は、まだ私たちと一緒にここに残っているのだろうと思っていたようです。
ところが朝になってイエス様がいないことに気がつくと、群衆たちは、おりよく近づいてきた小舟にのって、イエス様を捜し求めて、向こう岸までやってきたという、そのような状況の説明が24節までであります。

イエス様を見つけた群衆たちは25節で
6:25 「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」

ラビというのは、先生という意味ですけれども、先生、いつここにきたのですか、なんて聞いていますけれども、要するに、なんで自分たちをおいてきぼりにして、こんなところにいるんですかという、そういうことでありましょう。5000人、それ以上の人間に食べ物を与えるという、力ある先生、今風の言葉で言えば、カリスマ指導者の、追っかけのようになっていた群衆たち。

そんな群衆に向かってイエス様は、こう言われたわけであります。

6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。

イエス様は彼らの本当の動機を見抜かれます。彼らがイエス様を必死になって捜しているのは、奇跡によって5000人以上もの人を養ったのをみて、この人こそメシア、救い主であると信じて、神の救いを求めてやってきたということではない。
そうではなくて、ただ、パンをたらふく食べさせてもらって、おなかが満たされたから、あなた方はわたしを追いかけているのだろうという、そういうことであります。

奇跡を見ても信じない群衆たちということでありますけれども、私たち現代人も、奇跡などというと眉唾ものではないかと思うわけであります。
しかし、キリスト教の信仰から奇跡を排除することは出来ません。なぜなら、キリスト教では、自然の法則を神と信じているわけではなくて、その自然の法則をさえ作った、創造主なる神を信じるわけでありますから、当然その神は、自然の法則を越えて、奇跡をなす存在であると信じるわけであります。
奇跡が行えない自然法則に縛られた神を神とはいえないわけですから、聖書に奇跡が記されていることはある意味当然であるわけですけれども、ただ、反面、実は、他宗教の教典などと比べますと、いがいと聖書には、奇跡が少ないのも事実です。

ある宗教の教典は、神々の奇跡のオンパレードだといわれます。その点聖書は、実に奇跡に対して抑制的で、数が少なくて、これだけ聖書は分厚いですけれども、奇跡が記されている箇所は、点々となのであります。大切なところにだけ、意味があるところにだけ奇跡が起こる。まさに、神からの「しるし」としての意味をもって奇跡が起こるわけであります。

ですから、イエスキリストがなす奇跡は、奇跡とは呼ばれずに「しるし」といわれているわけであります。単に人々を驚かす奇跡ではなく、イエス・キリストが神の御子、救い主であるという、そのような「しるし」として、奇跡の出来事が捉えられている。

ところが、そのようなしるしをみても、人々は信じなかったということが、26節のキリストの言葉からわかるわけであります。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」
そういわれます。

彼らはイエスキリストを、神の御子、救い主と信じたわけではありませんでした。私たちにパンを与えてくれる存在として期待したわけであります。

当時イスラエルの国は、ローマ帝国に占領されて抑圧されていましたから、人々は、この抑圧から解放してくれる政治的な指導者、ローマを倒して、私たちにパンを与えてくれる改革者として、人々はイエス様に期待したわけであります。
それは15節に、人々がイエス様を王様にしようとしたとあることからも分かります。

そのような期待を胸にイエス様を探しにやってきた人々。ローマを倒し、自分たちの目の前の生活を改善してくれる指導者として期待してやってきた人々にむかって、イエス様は
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」
と言われるわけであります。

パンを食べて満腹したから。

確かに、神を信じる信仰だ、なんだかんだと言っても、人間食べられなければ生きていけないわけですから、信仰は結構だけれども、やはりパンを食べるために働くことが何よりも大切なのではないか。神を信じるのは結構だけれども、それでは食べていけない。やはり、まず誰もが毎日食べていくことができる世の中にして、その上で、神様を信じたいなら信じればいいんじゃないか。毎日のパンにも事欠きながら、神を信仰していてもしかたがない。まず、神の前に、すべての人がパンを食べて満腹できる社会を造るべきではないか。そういう考えもあるでしょう。

かつて、旧ソ連は、そのように信じた人々によって運営されたわけであります。一人も飢えることなく、すべての人がパンを食べて満腹できるパラダイスを造ろうと、政府が国民のすべての財産を管理して、平等に再分配する。そうすればすべての人にパンが行き渡る、まさにパラダイスが訪れると信じられたわけであります。
しかし、現実はそうなりませんでした。

宗教は阿片であると、人々から神を信じる信仰を取り上げ、人間は人間だけの力によって、この世界にパラダイスを作り出せると、そのようなイデオロギーを信じて、働けば働くほど、国は貧しくなり、そして、多くの人々の血が流され、犠牲となっていきました。
神抜きの人間中心主義の社会を実現しようとした壮大な実験は、失敗に終わったわけであります。
神などなくても、パンさえあれば生きていける、幸せになれるという考えは幻想であります。

さて、パンさえあれば幸せになれると信じてイエス様を捜しにやってきた人々。その人たちに向かってイエス様は、27節でこういわれます。
6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

多くの人々は、働いているのは、生活の糧を得るため、生きるためであることに、何の疑問もないでしょう。
働くということはつまりそういうことである。日々の糧を手に入れ、生活していくために、私たちは働くのだ。それが人生だ、ということを疑うこともなく、日々働き続けていく。

しかし、もし、働くということが、それだけのことでありますなら、ここでイエス様が「朽ちる食べ物のため」に働くのではなく、なくならないいのち、「ゾウエイ」ですね。そのいのちのために働きなさいと言われた言葉に、耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。

もちろん、この肉体のいのち。ギリシャ語で言うところの「プシュケー」のいのちを保つために働くことは大切であります。
人間にパンなど必要ないとイエス様は言っておられるわけではないのです。
聖書の他の箇所では、イエス様は、日ごとの糧を求めなさい、と教えておられますから、この肉体のいのち「プシュケー」のいのちを保つために働くことは大切なのであります。
しかし、同時にこの肉体のいのち、「プシュケー」のいのちというものは、いつか必ず朽ちていかなければならない一時的なもの、限りあるものでありますのし、そのようにいつか過ぎ去るものを、あたかも究極的なもの、まるで永遠の価値ある者のように錯覚して、そのために人生のすべてを費やしてしまってはならない。
一度しかない人生を、いつかは朽ちていくいのちのためにだけ働いて、食べることだけが人生であるかのように、生きてしまうのではなくて、いつまでもなくならない永遠の命、まさに神の命をいただく、そのような神の与える食べ物のために働いてほしい。まさに私があたえる食べ物とは、そのような神の命の食べ物であるのだから、と、イエス様は、そのように言われるのであります。

永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。
そのように言われた人々は、困惑いたします。永遠の命に至る食べ物のために働けと言われても、いったい何をすればいいのだろうか。そのように困惑した人々は、28節でイエス様に質問いたします。

6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」


つまり、神の命をいただく働き、業とは、なにか人間の苦行や知恵を尽くして働くことで手に入れることができるものではなく、神の命のパンであるキリストを、心にお迎えする、心にいただく。ただそれだけであります。
神がキリストを通して与えてくださる、神の命のパン。それをただ感謝して頂く。これがキリスト教信仰の核心です。毎日生きるために必死になって働いている人々には、まさに愚かなことのように思えようとも、この神の命を頂くこと、イエスキリストを信じることこそが、永遠の価値ある働きなのであると、聖書は教えているのであります。



最後に、羽鳥明という長年ラジオ伝道をしている牧師の証をして終りたいと思います。

この羽鳥牧師には、弟さんがいらして、純二さんといいますけれども、この純二さんはばりばりの共産党員でありました。
あるとき、その純二さんを、羽鳥牧師はある小さな教会につれていったそうであります。その小さな教会では、田舎弁丸出しの老牧師が
「イエスキリストは十字架について、三日目に復活したのじゃ〜」と説教をしておりました。
弟の純二さんは東大の理系出身で、共産党の幹部として活躍しているインテリで、お兄さんの羽鳥牧師も、正直言って、せっかく弟を連れてきたのだから、もう少しインテリな話をしてもらいたかったと、牧師でありながら、正直思ったそうであります。
そして、次の週もおそるおそる弟さんに、教会にいくかと尋ねたら、行くといいますので、また、その教会にいったそうであります。その教会は外部から説教者が来ることもあるので、今日はあのおじいさん牧師ではない人が良いと、正直祈る気持ちで弟さんをつれていったそうであります。
ところがまたもや前回と同じおじいさん牧師が出てきまして、
「キリストは罪人のために死んで、そして三日目に死人の中からよみがえったのじゃ〜」という調子で説教をしたのであります。

そのときお兄さんの羽鳥牧師は、こんな調子の説教ではせっかく教会にきてくれた弟の心をかたくなにするだけで、とてもキリストを信じさせることなどできないと正直思ってしまったそうであります。ところが、礼拝の最後に説教者が
「イエスキリストを信じるものは手を上げるように」と決心を募りましたときに、驚いたことに、弟の純二さんが手を上げ、涙を流してキリストを受け入れたのであります。

驚いたのは羽鳥牧師のほうで、おもわず、「純二や、どうして信じたの」といってしまったそうであります。
その問いに彼はこう答えました。

「お兄さん、僕は正義と理想の社会の実現を求めて、共産党に入って、地下にまでもぐって活動してきたんだ。それは本当に真剣だったんだよ。しかし、組織の中で、自分はだんだんその理想から離れてゆき、金と力におぼれ、とても人にはいえない罪を犯してしまったのだ」と涙ながらに語り「共産主義というイデオロギーは社会どころか、この自分ひとりさえも変えることができなかった。もしこの自分を救うことができるものがあるとしたら、それは、十字架にかかり、死んでよみがえったキリストしかいない。だから僕は信じたんだよ」と、そういったそうであります。

毎日生きるために必死になって働く、家族のため、社会のため、国のため、一生懸命に働くこと、それは尊いことであります。
しかし、それがすべてであると思うとき、人は本当に大切なものを見失っていくのではないでしょうか。
目に見えるものがすべてであると思う人には、まさに愚かさの極みである、永遠の命に至るパンであるキリスト。しかし、この神の命のパンを頂くことこそが、イエスキリストを信じていきる人生こそが、私たちが本当に生き生きと、いのちにあふれた生き方への道であると、聖書は教えているのであります。

どうでしょうか。今日、私たちは、何のために自分の力を一番に注いで生きているでしょうか。無くなる食物のためでしょうか、いつまでもなくならない食物のためでしょうか。(お話:藤井秀一牧師)

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第13回「湖の上を歩く」(ヨハネ6章 16-21)2004年7月11日

聖書
6:16  夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。
6:17  そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。
6:18  強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。
6:19  二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。
6:20  イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
6:21  そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。

(参考・・1スタディオン=約185m, 185m×25〜30=4625〜5550m) 


おはようございます。
先週の「五千人に食べ物を与える」のお話しに続いて今週の聖書の箇所となります。
少し、実際の当時の地図をもとにしてどのような場所での出来事であったかをふり返ってみたいと思います。

カペナウムから東へガリラヤ湖の北端にヨルダン川が流れ込んでいます。
その川を3キロ程さかのぼりますとヨルダン川の浅瀬があり、ユリアス・ベッサイダと呼ばれる村がありました。
その近くの湖岸の草原が驚くべき出来事の舞台となったのです。

何故人々がこんなにも集まって来たのか、それには訳があります。過越しの祭りが近くなり、エルサレムに上る巡礼者もたくさんおりました。そして、この場所はガリラヤ地方の人々がエルサレムに上る際に、あのサマリヤを迂回してゆくためには、一旦北へ上り、ユリアス・ベッサイダを通り、ガリラヤ湖の東端を下り、ベリヤ地方を通り、エリコの町近くでヨルダン川を渡って行くのが一般的な交通路であったのです。
多くの人が集まるであろう場所へイエス様は行かれたのです。

今週の聖書の箇所に戻ります。五千人の人々を養った後、群集はイエス様の驚くべき業に驚嘆して後に従おうとしたでしょう。
イエス様は弟子たちを舟でカペナウムへ先にもどるようにして、お一人で群集を解散させられたとマルコによる福音書6章45節にも書かれています。弟子たちが舟で行く間、イエス様は湖岸を歩いてカペナウムで合流されるつもりでおられたのだと思われます。

ガリラヤ湖は普段は穏やかな湖ですが、ひとたび風が起こると激しい嵐のようになることがよくあったようです。小さな手漕ぎ舟では大変です。しかし、この日は過越しの祭りに近く、満月のでていた夜でもありました。ガリラヤ湖は地形的に大変に見通しの良い湖でもあり少し湖岸の高い場所であれば遠く湖面を見通すことができたのです。
弟子たちは風の吹く中を必死で5〜6キロ程漕いだとあります。この距離は丁度、湖岸に沿ってカペナウムを目指していれば、ほとんど目的地に達していたと考えられるのです。しかし、暗闇の中で風に翻弄されていた弟子たちにとっては、大変な事態でありパニックとなっていたとしても不思議ではありません。なんとか、この状態から脱するための避難場所を捜し求めていたのでしょう。

その時に19節20節に
イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。
イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」

イエス様が文字通り水の上を歩いて来られたのでしょうか。
ギリシャ語聖書の言葉からはイエス様は海辺を歩いておられたとあります。先ほど申し上げた事からすれば、湖岸沿いに風の強い中を必死に漕いでいた弟子たちの舟をイエス様はずっと見守られていたに違いないのです。そして、やっと湖岸の避難場所に近づいたときにイエス様が舟に近づいて弟子たちに声をかけられたのです。

「わたしだ。恐れることはない。」

このひと言が、まさかイエス様がそこにおられるとは考えもしなかった者にとってどれだけ驚くべき事であったか、信じがたいことであったか、しかし、すぐに愛に満ちたイエス様の元に帰りつくことが出来たと実感できたときに弟子たちはまさに「奇跡」を見たのです。
それは、人が水の上を歩く事をもって奇跡といっているのではなく、イエス様はどのような方であるかを確信持って悟ることが出来た事を指して「奇跡」と言えるのです。
弟子たちは奇跡をみた。
そして、それは今日の私たちにもその奇跡はあるのです。

私たちの人生のどのような事柄についてもこの湖での出来事と同じようにイエス様はみておられるのです。

第一にイエス様は私を見守っていてくださる。
   イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。

第二にイエス様は私の元にこられる。
   イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
   彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。


第三にイエス様は私を助けてくださる。
   舟は目指す地に着いた。

「わたしだ。」と言われた言葉はギリシャ語では「わたしはある」「わたしは〜である」を意味しておりまして、
それは、「ある」は神の存在に最も近い言葉であり、イエス様ご自身が私を含む全ての人々のために仕えるために遣わされた存在であることを表明する言葉でもあるのです。

「恐れることはない。」

たとえ私自身が暗闇の絶望の中にあっても、しっかりと私自身の一部始終を見守ってくださり、私が力尽きそうになったその時に「恐れることはない。」と声をかけてくださるのです。
そうして私の元に来てくださる。それにより私は再び暗闇から光に向って歩みだせるのです。
そして、み言葉を示して助けてくださる。このように私たちは一人ぼっちで何かをするのではないのです。

弟子たちはこの体験によってイエス様がどのような方であるかを決して忘れることができない程に悟ったのです。

この短くも一見、単純な話しの中にイエス様の真の存在意味が示されているのです。(お話:郷 秀男さん)

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第12回「五千人に食べ物を与える」(ヨハネ6章 1-15)2004年7月4日

聖書
「五千人に食べ物を与える」
1    その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリヤス湖の向こう岸に渡られた。
2    大勢の群集が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
3    イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
4    ユダヤ人の祭りである過越祭(すぎこしさい)が近づいていた。
5    イエスは目を上げ、大勢の群集が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6    こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
7    フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
8    弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
9    「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
10   イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
11   さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
12   人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい。」と言われた。
13   集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
14   そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにその人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
15   イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。





只今読みました「5000人の給食」と呼ばれておりますこの出来事は、3章、4章、5章で読んでまいりましたニコデモとの対話、サマリヤの女との井戸辺での出会い、ベトザタの池でのいやしといった、イエスさまとの個人的関わりと違いまして、大変雄大な奇跡であります。


それに、これら個人的な三つの出来事は、三つともヨハネ福音書のみに記されている、いわばヨハネ独特のものですが、しかし、今日読みましたこのいわゆる「5000人の給食」は、四つの福音書とも全部に記されておりまして、いかに弟子たちの心に深く印象づけられた出来事だったかが偲ばれます。

実はこの個所は数年前、ここでお話ししたことがありまして、今回、この個所を担当することになった時、前にお話ししたときと違う視点からお話しさせていただくつもりでしたが、聖書を読みながら“別の視点”など考えられず、やっぱり以前と同じ視点、この個所からお伝えすることは他にない、と思いました。イエスさまのもたらして下さる恵みの豊かさをご一緒にじっくりと味わいたいと存じます。

1節「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こうに岸に渡られた」と記されています。ここでヨハネは、ただガリラヤ湖といわず、ティベリアス湖とつけ加えていまして、21章の、イエスさまが復活なさって弟子たちにお会いになる場所も「ティベリアス湖畔」と記しておりまして、これもヨハネ独特の書き方でありまして、ヨハネはときのローマ皇帝ティベリウスにちなんでこの湖がこのように呼ばれていたことに、あるこだわりを持っていたのではないかといわれております。

いずれにしましても、そのティベリアス湖を弟子たちと共に渡られたイエスさまに大勢の群衆がついてきた。
2節に「大勢の群衆が後を追った。病人たちになさったしるしをみたからである」と記されています。イエスさまの伝道活動の初期は「ガリラヤの春」と表現されるのですが、当時イエスさまの活動は群衆たちにとって大変な評判で、恐らくスーパースター的存在だったのではないかと思われます。
10節をみますと、その数、男だけで5,000人というのですから、女や子供をいれたらどれ位の人数だったのでしょうか。そんなに大勢の群衆が舟で湖を渡ってゆかれるイエスさまの後を追った。自分たちも舟に乗ってでしょうか、多分、大部分の人たちはイエスさまの舟を見ながら湖辺の道を走って、或いは歩いて追いかけたのではないでしょうか。恐らく、怒濤のような群衆の動きだったと想像いたします。

3節「イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった」この言を読みますと、私共はマタイ5章1節、イエスさまがガリラヤ湖のほとりの山の上で弟子たちに「山上の説教」をなさったときのことを思い出します。
昔、神の言を学ぶとき、このように教師を囲んで皆座ったのでありましょう。しかし、ここでは、ゆっくりとイエスさまが教えを説く暇はありません。大勢の群衆が後を追いかけてきて、ぞくぞくと目の前に集まってきています。

これをみて、
5節「イエスは目を上げ、大勢の群衆がご自分の方へ来るのを見て、フィリポに『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが」とあります。イエスさまはとくにフィリポに向かって相談をもちかけるような言い方をなさっていますが、フィリポにとっては大変な難題です。
6節「こう言ったのは、フィリポを試みるためであって、ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである」とありますが、フィリポにこのように言いつつ、ご自分ではここで5,000人の人を養う計画はすでにお持ちだったと、これも他の福音書にはない、ヨハネ独特の洞察です。

他の福音書では、弟子たちの方から
「もう時も遅くなりました。群衆を解散させて、めいめいで食物を買いに村々へ行かせて下さい」と言っています。これはマタイ福音書の言ですが、マルコもルカも大体同じ趣旨のことを言っています。その弟子たちに対してイエスさまは「あなたがたの手で食物をやりなさい」とおっしゃっています。

このような場合、弟子たちの「めいめいで食物を買いにゆく」という発想はごく常識的で、当然のことを言っています。でもイエスさまはこの、ご自分の後を追って集まっている群衆に解散を命じたりはなさいません。
マルコ福音書には「大勢の群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで」と記されています。イエスさまの「あなたがたの手で食物をやりなさい」という言は、弟子たちに“この群衆を見捨ててはいけない”“この群衆と関わってゆくように”と教えておられるのだと思います。

このイエスさまの言に対する弟子たちの反応は四つの福音書ともみな同じ主旨です。
7節「フィリポは『めいめい少しずつ食べるためにも200デナリオン分のパンでは足りないでしょう』と答えた」とあります。200デナリオンは大金です。1デナリオンは、当時の1日の賃金ですから、200デナリオンは200日分の賃金です。

フィリポは恐らく、イエスさまに問いかけられて、そこにいる人数とパンを買う場合の代価とをとっさに頭の中で計算したのでありましょう。加藤常昭先生の説教では、フィリポはきっと頭の良い、また判断力のある人で、そのような能力にたけていたのだろうと述べておられます。イエスさまはそのようなこともよくご存知で、フィリポに問いかけられたのでしょうか。

このフィリポのとっさの判断、対応は決して誤ってはいません。多分私共もそう考えるでしょう。私共でしたらさしあたり“こんなに大勢では、ローソンとセブンイレブンと東武ストアとそこらへんのパン売場のパンを全部買ったとしてもとても足りない”と考えるでしょう。

そのような情況の中で、一つの新しい事実が報告されます。子供が持っていた5つのパンと2匹の魚がここにあります。5,000人を養うにはどうしようもない量であることは誰の目にも明らかです。

私共はいつも、このように数を確かめ、情況をみ、判断をして自分の能力とバランスをとりながら物事を解決してゆきます。そして、おおむねはそれで何とか乗り切ってきております。

しかし、このように目に見える情況、事実の外に、無限の、目に見えない世界が、事柄と関連しつつ、ひろがっていることを聖書は私たちに教え、そこに目を注ぐべきことを示しています。

5,000人の人の食事についてなす術もなく立っている弟子たちは「6節」に記されているイエスさまが既に持っておられるこの人々を養うご計画を察知することは出来ませんでした。

しかし、イエスさまの祝福があるところ、数とか能力の世界ではありません。
11節「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。魚も同じようにして欲しいだけ分け与えられた」となっています。マタイとマルコ福音書では「天を仰いで」となっています。イエスさまの生涯を画く映画や絵画などにもよく画かれる感動的なシーンであります。

天は、人工衛星が飛ぶ“空”ではありません。創世のはじめより働きたもう神の存在をあらわす“天”です。今、イエスさまは6節の「ご自分のしようと思うこと」を実行すべく、天に向かって感謝の祈りを唱え、僅かなパンと魚を手にとって祝福される。そのとき、そこに奇跡が起こるのです。

このすばらしい出来事は弟子たちに深い感動を与えたが故に、4人の福音書記者たちが4人ともこれを記したのでありましょう。のちにこの記事を読んだ人々の間で、この物語を天国のひな型とみる人もいます。

ヨハネ福音書では人々の様子をあまりくわしく書いていませんで「そこには草がたくさん生えていた」イエスさまは人々を「座らせなさい」と命ぜられたと記されています。私共はこれを読みますと、今の自分たちの習慣から、円形に座る車座を想像いたしますが、マルコやルカの福音書では「50人ずつ組にして座らせなさい」とイエスさまが命ぜられたとあり、口語訳のマルコ福音書では「列を作って座った」と記されています。昔の文語体の聖書ですと「或いは百人、或いは五十人、畝のごとく列びて座す」とありまして、ガリラヤ湖畔の青草の丘の上、畝のごとくに列んで座った、女・子供も加えたら何千人にもなる群衆が、イエスさまの祝福によって分けられたパンと魚をいただいている有様をイメージしますと、私共までが大きな驚きと幸せの入り交じった気持ちになります。

ところで、聖書の物語には、いつもいくつかのキーワードが秘められておりまして、これを発見しますと聖書を読むのが一そう楽しくなります。

このあとイエスさまは
12節「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』」のようにおっしゃいます。この「無駄にならない」と訳されていることばは、原文では、私共が愛誦するヨハネ3:16の「神はそのひとり子を賜ったほどに、、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」というみ言の中の「滅びる」という言と同じ言だそうです。

ですから、ここで「少しでも無駄にならないように」とおっしゃったのは、私共が“食べものを残してはもったいない”とか“あとをきれいに片付けて”などと思う発想とは全く違うことをおっしゃっているのが分かります。奇跡によって分けられたパンは神さまの恵みそのものなのです。“恵みが無駄にならないように、滅びないように”この恵みからもれて滅びる者のないようにという願いのこもった言です。ですから、イエスさまは「残ったパンはどれ位あるのか数えてごらん」とはおっしゃいません。恵みのパンは数ではないのです。「集めなさい」とおおせられる、そして12の篭に一ぱいになったとあります。12といえばお弟子さんたちの人数です。弟子たちは一つずつ篭をもって、篭一ぱいになったパンに、イエスさまのもたらして下さる恵みの重さをずっしりと感じとったにちがいありません。その中でもイエスさまに試されたフィリポ、この大勢の人にどうして食事を供しようかとの試練に立って一番心労したフィリポこそ、一番ずっしりと深く、その恵みを受け止めたことでありましょう。

先々週、ベトザタの池の傍えの病人をいやされた記事は、イエスさまが病人一人に語りかけ、周りの人が気がつかなかったのではないかと思う程、そっと奇跡が行われた印象を持ちましたが、今日の個所は、何千人という人々の前で、実にスケールの大きい奇跡を明らかにされました。イエスさまのなさることは実に多様でありますが、その時その時に意味があり、やたらに無意味な奇跡は行わなかったと思います。加藤常昭先生は、この奇跡を、ユダヤ人にとって一番大切な宗教行事、過越の祭りのときに起こった3つの大きな出来事、2章の宮潔め、19章の十字架、そしてこの6章の大きな奇跡、として注目しておられます。私は先週、藤井先生によって学んだ、この前の個所「御子の権威」についてイエスさまが強く主張されたことと関連があるのかしら?などと考えておりますが、実はその意味など、私共が到底推し量ることの出来ない領域であると思っております。ただ言えることは、奇跡はイエスさまの愛のあらわれであり、神のみわざの証であるということだけです。

宗教改革者のカルヴァンは、信者たちが、この奇跡物語を読んで働かなくなるのではないかと心配したというエピソードが残っておりまして、それ程まで一点の疑いもなく100%奇跡を信じたということです。

現代の合理的思考方法は、このような奇跡をそのまま受け容れることを難しくしていまして、聖書学者たちが、この奇跡をなんとか合理的に説明しようとして、さまざまなことを考えますが、そのような説明は、私にとってはかえって眉唾もので、納得ゆきません。

カルヴァンのように、信じ切ることが信仰であり、自分もそのような、そのまま信じる信仰を持ちたいと願っております。(お話:工藤渓子さん)

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第11回「御子の権威」(ヨハネ5章 19-24)2004年6月27日
聖書
5:19 そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。
5:20 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。
5:21 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。
5:22 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。
5:23 すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。



おはようございます。

さて、今日お読みしました箇所は、イエス様のことばでありまして、イエス様ご自身と、父なる神との関係について語っておられる箇所になります。

ある人は、父なる神は分るが、イエスキリストが出てくると良くわからなくなるといわれます。神さまだけ信じていればいいのではないか? そのように思われる方もいらっしゃるのではないかと思います。
確かに、神さまを信じることが大切なことでありますけれども、同時に、その信じているという神さまが、どういうお方なのかということは、もっと大切なことであります。ただ、やたらに神を信じるということではないわけです。

あまり難しい話はしないようにと思っていますけれども、キリスト教の神は三位一体の神と言われます。三つの神でありながら一つの神であるわけです。そして、これがよく分らないと言われます。

すべてを作られた神、私たちを造り生かしている神、それを父なる神というのは分かる。イスラム教もユダヤ教も、神は唯一絶対の創造主だといいますけれども、神がすべてを造り、すべてを生かしているというのは理解しやすい。

しかし、そこにイエスキリストの存在が加わると、途端にわかりにくくなります。神様がお一人なら、イエスキリストはいったい何なのかと思うわけです。

このヨハネの福音書の学びの一番最初に、
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
とありました。そして、この言葉のところに、キリストと入れて読むと分かりやすいと以前、工藤先生に教えて頂きました(
第1回参照)。つまり、
「初めにキリストがあった。キリストは神と共にあった。キリストは神であった」と、そのように、聖書は、イエスキリストとは、人となられた神であると伝えているわけであります。

クリスチャンの信じる神とは、ですから、ただ単に、すべてを作った神を信じることではなく、その神が、私たちを救うために、イエスキリストという人となられてこの地に来られた、神が人となられたことを信じるというところに、キリスト教信仰の核心がございます。
今日のイエス様の言葉は、そのような子なる神と、父なる神の関係について、教えておられるところになります。それは人間の関係に喩えれば、父と子のような関係ということであります。

19節
「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。


とありますように、父なる神と子なる神の関係は、きわめて親密であります。そして、父がなさることはなんでも、子もそのとおりにするとありますように、イエスキリストの行動は、父なる神と一緒。たとえますなら、子どもが、親のまねをするようなものということでありましょう。
子どもは親のまねをして育つわけですが、良いことも悪いことも、よく子どもはまねをいたします。親がやっていないことは子どももやりませんね。そういう意味で、「子は親の鏡」とよくいわれるわけですけれども、 

ですから、子なる神、イエス・キリストの姿を聖書から学ぶとき、私たちは同時に、目には見えませんけれども、父なる神とはどういうお方なのかということを、知ることが出来るということであります。父なる神とはイエスキリストのような愛の方なのだということを、知ることが出来るわけであります。

そして、イエス様が、父なる神のなさることだけを行うのは
20節にありますように、
「父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるから」だということであります。
父が子を愛するから、子は父のなさることを行うのだということであります。

ここに父なる神と子なる神の関係の本質が示されているように思います。父なる神は子なる神を愛する。そして、子なる神は父なる神に従うという、そのような愛が神の本質にあるということであります。「神は愛である」といわれますけれども、まさにそういうことであります。そして、神がそのような愛の方ゆえに、聖書は、私たちも互いに愛しあいなさいと語るのであります。
つまり、夫と妻、上司と部下、教師と学生など、あらゆる人間関係においても、この、神の愛、父が子を愛し、子が父に従うという、そのような神の愛のあり方、神が示されている愛の模範に、その秘訣があるのではないかと思うのであります。

いずれにしましても、イエス様は、私と父なる神は、そのように親密な関係であると語られまして、そして、その親密さゆえに、
20節後半で
「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになる」と、父なる神はイエス様に大きな業を示される、任されると言われるわけであります。
そして、その大きな業とは、具体的には、
21節以下にありますように
5:21 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。
といわれている、復活のいのちを与えるという業、そして、
5:22 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。
という、父なる神の裁きをさえ、子に任せる。イエスキリストに任せるということであります。

イエス様は、病の人々を癒されましたが、ここで言っているのは、そのような、人間の病を癒す次元とは違う、おおきな業のことを言っているのであります。まさに、たとえ死んでも、いつか復活するいのちを与え、そして、神の裁きをなさる。それはまさに、神にしか許されていないこと。神のみ業であります。それを、子に任されている、といっているとことは、ここでイエス様は、ご自分のことを、父なる神と等しい、まさに神と明言されているということであります。

それゆえに、
23節で
5:23 すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。
と、父なる神が崇められるように、ご自分も崇められる、礼拝されるようになるためなのだと、言っておられる。

何度も繰り返すようですが、聖書は、イエスキリストは神と等しいかた、子なる神であり、神としての働きをするという、驚くべき主張をしているのであります。


アルベルトシュバイツアーという有名が神学者がいます。彼が残した神学的功績は偉大なものがありますが、その研究の中心は史的イエスの探求でありました。
 これは、ごく簡単に申し述べれば、聖書の中において、イエスキリストのなされた奇跡であるとか、復活であるとか、そのような、人間の合理性ではとうてい受け入れられない事柄は、後代の教会の付加した信仰とみなして削りとり、純粋な歴史的イエスの姿を聖書から読みとろうとした研究であります。
 その時代の自由神学において、そのような研究をとおして歴史的なイエスキリストを、聖書から導き出せると信じておりました。奇跡やら復活などは、後から付け足したものに違いない。本当のイエスキリストは、自分が神であるなどと言わなかったに違いない。後の時代の人々が、そのように書き記しただけではないか、と、そう考えた人々は、聖書から、一切の奇跡を取り除けば、本当のイエスキリストの姿が引き出せると思っておりました。
 しかし、結果は失敗でした。そのように聖書から自分を神の子と語り、奇跡を行うような、超自然的なイエスキリストを削ると、同時に、歴史的なイエスキリストをも削らなければならなくなるのであります。つまり、聖書において、超自然的なキリストと、そうでないキリストは、別々ではなく、密接に結びついていて、切り離せない。切り離してしまえば、あとは何も残らないのであります。史的イエスを聖書から探求することはできないということは、今や学問的な常識になっております。ですから、今、私たちに残されている道は、聖書が語るところのイエスキリスト、まさに父なる神と同じ神であると言われたこの言葉を、まるまる信じ受け入れるか、それとも、逆にまったく拒否するかのどちらかであります。今や、イエスは、ただ素晴らしい教えをした人格者だったのだ、というような、選択はなくなってしまったのであります。聖書の言葉を信じ、キリストを子なる神と受け入れるか、否か。そのどちらかであります。

そして、24節でキリストは、
5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
と語るのであります。

キリストは、道徳の教師としてこのようなことを言っているのではありません。まさに神の立場から、神にしか許されていない永遠の命の約束と、裁きからの解放、赦しを語っているのであります。
そして、それゆえに、今これを聞いている私たちは、この言葉にどのように応答するのかが問われているのであります。

戦後の教育において、大きな欠点と言われることを、ひと言で言えば、宗教教育を捨ててしまったことではないでしょうか。宗教教育を捨てるということは、人間は死ぬのだということを、無視して生きるようになったということであります。人間は必ず死ななければならないのに、それを無視して生きる。そんな宗教教育を捨てた戦後60年の歩み。そのひずみが、今や、至る所に心の荒廃、悲惨な事件として噴出しているように思われるわけであります。

誤解を恐れずに申し上げれば、誰か、人がなくなられたときに、私たちはよく「お気の毒に」と申し上げるわけですけれども、それはもちろん、大切な方をなくされた家族や親類にとっては、まさにそのように語りかけることは適切でありましょうが、しかし、人が亡くなるということは、本当に「お気の毒」なことなのだろうとか、思うのであります。誤解を恐れずにといいましたのは、そういうこともありますけれども、人が死ぬということは、ただ、お気の毒な出来事なのでしょうか。宗教を捨て、人間の死を、まるでないもののように考えるならば、確かに「死」はお気の毒なことでありましょうが、しかし、永遠の命を信じ、神の赦しと愛を信じ、また、そのように信じて生きる家族の、その祈りの中で、死にゆく人は、決して「お気の毒」なのではなく、真に、幸せな方なのではないかと、そう思うのであります。

キリストは約束いたします。
5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

だれも、死の向こう側は分かりませんけれども、しかし、だからこそ、このキリストの言葉、そして、約束に信頼することが出来るならば、信仰を頂くことが出来るならば、それは本当に幸いな事であると思うのであります。

キリスト教のラジオ放送などでメッセージを語っておられる牧師に榊原寛(さかきばらひろし)牧師という方がおります。この方が、キリスト教のラジオ放送を始められたきっかけを、このように証しておられました。

 私の次男は、二十八年前の五月十九日、交通事故で亡くなりました。当時六歳、小学校に入学して間もなくのことでした。私たち家族は、突然襲って来た悲しみに翻弄されました。
私は、伝道者も辞めたい、牧師も辞め、教会も戸を締めて休業したいというような衝動にかられました。四才上の長男は、毎晩弟の名を呼んでいました。妻は、「私は生きていても一生笑うことはないかも知れない」と、お腹を痛めた子の突然の死に、いたたまれない、様子でした。
そのようなとき、キリスト教ラジオ放送のある方から「若者向けの番組をやってほしい」との電話があリました。私は事情を話してお断りしました。その後も私たち家族は、なかなか立ち直れずにいました。

ところがある日、子どもの聖書を見ていたとき、傍線(ぼうせん)が引かれている個所に目が留まりました。ヨ八ネによる福音書21章4節の「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた」とのみことばでした。
私はそのとき、息子が語りかけているような気がしたのです。「お父さんはいつまで暗い夜にいるの。イエス様は、お父さんのために夜明けを備えてくれているんだよ」。
私はそのとき、改めて復活の主にお会いしたのです。主は十字架を前にしてのゲツセマネの園で祈られたとき、弟子たちに語られました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」。わたしはこの主のおことばにふれたとき、癒されました。「主よ、死んだ息子の分まで、お役に立ちたいのです」と祈ることができたのです。
息子は、よく友達を教会学校につれて来ました。「ぼくも、おとうさんのようにぼくしになるんだ」と幼稚園の二年間も、小学校に入っても、先生方に言い続けたそうです。そのような息子のことを思い起こしながら、私はキリスト教ラジオ放送の方に電話を入れました。「まだ出演者が決まらなかったら、やらせてください」。
それ以来、二十七年、マイクに向かってイエス様を伝え続けて来ました。新緑の五月は、私たち家族にとって大変悲しい月ですが、同時に息子の分まで伝道に励ませていただこうと思う月でもあります。

復活されたイエスキリストは、今日も私たちに語りかけておられます。
24節
5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

このキリストの言葉を信じ、キリストが神の御子、救い主であることを信じて、死で終わることのない永遠の命の希望を胸に、今日という日を、喜び感謝しながら、ご一緒に歩んでまいりたいと、そう願っております。(お話:藤井秀一牧師)

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第10回「ベトザタの池で病人をいやす」(ヨハネ5章 1-18) 2004年6月20日
聖書

「ベトザタの池で病人を癒す」(新共同訳聖書)
1     その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
2     エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
3     この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。 [彼らは水の動くのを待っていたのである。
4 それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである(口語訳聖書より)]

5     さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
6     イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
7     病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
8     イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
9     すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
10    そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
11   しかし、その人は、「わたしをいやして下さった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
12    彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。
13    しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは群集がそこにいる間に、立ち去られたからである。
14    その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
15    この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
16  そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
17  イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
18  このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自分を神と等しい者とされたからである。




4月の中旬よりヨハネの福音書を通してイエスさまのご生涯をたどっておりますが、今日は5章に入りました。
この前の4章のサマリアの女のお話、3章の議員だったニコデモのお話、そして今日のベトザタの池の傍らにいた病人、ともにイエスさまが全く一人の個人と関わられた記事でございまして、他の福音書には記されていない、ヨハネ福音書独自の記事であります。
そして、どのお話も、新約時代の到来を告げる深い意味が込められている記事だと思われます。

今、1節から18節まで読みましたが、皆さまもお分かりの通り、この記事は前半のいやしの部分と、後半の安息日に関する論争の部分と、二つのことからなっております。これをもし、前半の部分だけを読んだだけでしたら、ここで聖書の告げようとしている意味は半減してしまいます。実は、ヨハネの告げたかった大切なことは、むしろ後半の部分ではなかったかと私は思っております。

さて、1節「その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた」とあります。
先週、4章で読みました記事は「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた」とあります。そして、今日5章、ガリラヤに行かれたイエスさまは、またエルサレムに戻って来たことになります。イエスさまは何べんかガリラヤとエルサレムの間を往ったり来たりしておられますが、往復するのにどれくらいの時間がかかったのでしょうか?


そして2節、今日の舞台、ベトザタの池です。「ベト」というのは、イエスさまの出生地のベツレヘムとかヤコブ物語にまつわる地名ベテルなどにも関わりのある「家」を意味する語だそうで「ベトザタ」というのは「いつくしみの家」という意味の呼び名だそうです。なぜこのように呼ばれたかというと3節「この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、身体の麻痺した人などが大勢横たわっていた」とありますように、いろいろな病におかされた人々がここに集まっていた、いわば病院のようなところだったので、「いつくしみの家」と呼んだと思われます。ある本には、上下2段に分かれた池であって、その二つの池の間の廊とで五つの廊がめぐらされていたとありますから、一応そこに横たわっている人々は、雨がふったりしてもぬれることのないようにはなっていたと思われます。

19世紀の後半にエルサレム神殿跡の発掘が行われたとき、神殿の北のところにこの池がみつかり、ヨハネ福音書の記事の通り、五つの回廊もみつかったということで、ヨハネ福音書が史実に忠実に画かれていることが話題になったそうです。

この「いつくしみの家」と呼ばれる池の周辺の様子は、口語訳聖書には4節として記されているのですが、何故か、新共同訳聖書では省かれております。4節を省いたことについて疑問をもつ学者もおりまして、私はどう考えて良いのか分かりませんが、7節のこの病人がイエスさまに訴える言葉を理解するためにも、口語訳聖書の4節を用いさせていただきます。3節から読みますとこんな風に書かれています。

「その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。彼らは水の動くのを待っていたのである。それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」と。当時、天使という存在が信じられていた時代ですので、本当に天使が降りてきて水を動かすと信じていたのでしょうが、多分これは不定期に水が湧き出る“間けつ泉”だったのではないかと言われております。

いずれにしましても、その水の動きを、“天使が降りてきて水を動かすのだ”と考えた、そのようなことを信じる世界に生きていた当時の病人たちです。それにしても、これは何という悲しい光景でありましょう。

水が動いたときに、一番先に入った人が治るのですから、互いに病人でありながら、人を押しのけて我さきに飛び込まなければならないという早い者勝ちの場であったわけで、見るからに愛のない、不信と孤独におおわれている縮図のような世界です。
皆、身も心も弱り果てた病人であるのに、虎視耽々と水の動く機会をねらっていて、心の休まる暇もない、殺伐たる空気の中、一方、自分で動けない人は、当然水に入ることが出来ませんので、あきらめ、羨望、絶望の入り交じった想いで、それらの人を眺めていたでありましょう。


そのような中にイエスさまはお立ちになりました。
当時、ローマの占領下にあったユダヤの国、現代のように社会福祉の制度が整っているわけではありませんし、貧しさや病や差別に苦しんでいる人たちが社会に一杯いたと思われますが、いつもイエスさまはそのような人たちの只中にお立ちになります。弟子たちのことは何も書かれてありませんのでお一人だったのでしょうか。
1節にユダヤ人の祭りがあったと書いてありますが、神殿の祭りのにぎわいをよそに、この多くの病人たちが横たわっているベトザタの池を訪ねてこられたイエスさまの姿を想像してみてください。誰にみとられることもなく、池をめぐる回廊に横たわって、いつか動く水面を見つめながら、いくらかの期待と焦燥と絶望との入り交じった思いが渦巻いているのをごらんになって、きっと悲しいまなざしで人々をごらんになり、深くあわれまれたに違いありません。


そしてやがて38年間もそこに病んでいた人に声をおかけになりました。38年間もそんな悲惨な場所で横たわっていたなんて、気の遠くなるようなつらい日々を想像いたしますが、或いは、あまりに長い年月をそのような場所で過ごして、まったく希望を失った人をイエスさまは選ばれたのでしょうか?その理由は誰にも分かりません。
6節「なおりたいのか」と問われます。


わかりきったことを尋ねる愚問のようにみえますが、イエスさまはいつもその人に向かって「なおりたいか」、盲人に向かっては「みえるようになりたいのか」と問うて、その人の意思の表明を求められます。安閑としていては何の変化も起こらない、現状からの脱却、飛躍、転換の時の自主的な意志の確認でありましょう。「病人は答えた『主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りて行くのです』 」というこの病人の言葉は、殆ど答にはなっていない、つぶやきのようなものですが、38年間の悲しみの集約、短い言葉の中に万感がこめられています。

そして8節「イエスは言われた。『起き上がりなさい、床を担いで歩きなさい』するとその人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した」とあり、実に淡々と、簡潔な書き方で、私共は「そんなことが起こったのですか。その病人は喜んだでしょうね。良かったですね」と思いながら、38年間も池のほとりで横になっていた人の足はおそらくよろよろしていたでしょうにと、床を背負って、自分の足で歩いてゆく一人の男に声援を送りたいような気持ちになるのですが、
9節の終わりの言、行を変えて「その日は安息日であった」と記されていまして、このことが、ただ喜んではいられない事態へと発展してゆきます。

          


当時、律法は、生活の全領域にわたってきびしい決まりを、実にこまごまと規定しておりましたが、この、ユダヤ教の律法を守るという厳しさは、今、信仰の自由の中にいる私共からは想像も出来ない程、重いものでした。
特に安息日についての規定は、一般庶民にとっては一番関わりの深い重要なものでした。そして、その中には「安息日に荷物を取りあげ運ぶこと」を禁止する条項があり、彼のしていることは明らかに律法違反にあたるわけです。
どんな種類のブローチでも安息日につけてはいけない。即ち、ひき出しからブローチを出して胸につける、それだけで安息日に働いてはいけないという規則に違反したことになるそうですから、まして床をかついで神殿の中を歩いていったら、人々は驚きあきれたでしょうし、10節「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは許されていない」のように注意するのは当然なことでありました。

しかし、この病人は実に泰然として「わたしをいやして下さった方が『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」のように答えます。或いは38年もの間ベトザタの池で日々を送っていたので、律法を犯すことの恐ろしさなど知らず、知らないがゆえの堂々たる態度だったかもしれませんが、さらにユーモラスなのは11節「取りあげて歩けといった人は誰か」と聞かれたとき、彼は自分を何十年の長い病苦から救い出してくれた人を誰だか知らなかったということで、なんだか春風がそっと吹いてゆくようなおおらかさを感じます。


イエスさまが病人や身体の不自由な人をいやされるときは、いやされる人が「主よ」とか「ダビデの子よ」とか叫びながらお願いし、奇跡が起こったのをみて、人々が驚き、イエスさまを信じたというふうな記事が多いのですが、今日のところでは、周囲の人のことは一切記されておりませんで、私は、もしやイエスさまは、そっと彼の傍らにおよりになり、そっと問いかけ、静かに誰にも分からぬようにおいやしになって、立ち上がらせ「行け」といって、誰にも知られないようにそこを去らせたのではないかと思ったりいたします。いずれにしましても、彼は38年間の病から解放され、命ぜられるままに床を担いで神殿のお祭りの群れの中に入っていったのです。

先週読みました4:43以下の役人の息子がいやされた記事では、役人は遠くからはるばるイエスさまを訪ねてきて、積極的にイエスさまにお願いをしました。しかし、今日の記事はどうでしょう。彼は池の傍らに38年間の病を背負ってただ座っていました。そこにイエスさまの方から声をかけて下さいました。「なおりたいのか」と意思を確認なさっているのに、7節、彼の答はイエスでもノーでもない、唯の「水が動いても、わたしを入れてくれる人がいないのです」という嘆きの言葉だけです。それでもイエスさまは彼をいやされたのです。実にイエスさまの人との関わり方は多様であります。


この13節のあと、次の14節の記述の間にはある程度の時間の経過があって「この男をいやしたのははたして誰だろうか?」などと、その男の周辺では噂されていたのではないかと思いますが、14節をみますと、この38年間の病から救って下さった人が誰かも知らないというちょっとのんきな男は宮でイエスさまに再会いたします。ここで彼は自分をいやしてくださった方がイエスさまであったことがわかり、ユダヤ人たちに報告するわけです。ここに「ユダヤ人たち」と記されていますが、病をいやされた男もユダヤ人ですし、イエスさまもユダヤ人ですし、その周辺にいる人たちもみんなユダヤ人ですので、ここに「ユダヤ人たちに告げた」という「ユダヤ人たち」というのは、多分ユダヤ人の祭司や律法学者などの指導者たちをさすのではないかと思われます

男の病をいやしたのがイエスさまだと知ったいわゆるユダヤ人たちは、さっそくイエスさまへと糾弾(きゅうだん)の矛先を向けます。私共にとって、38年間も病に苦しんだ人が、今いやされて、自分の足で立ち、床を担いで自立への道を歩きはじめた姿は、本当にうれしいことの外ではありませんのに、律法にがんじがらめになって、律法の規則を守ることが信仰の基盤になっているユダヤ人たちにとっては、律法違反として弾劾(だんがい)すべき事柄にすぎず、さらに安息日なのに病人をいやしたイエスさまのお働きもまた、律法違反の矛先を向ける対象になるわけです。
16節「そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである」と記され、17節イエスさまは「わたしの父は今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」と答えられました。このイエスさまの言を聞いて、ユダヤ人たちが烈火の如く怒ったのは容易に想像出来ます。何故なら、二つのことでイエスさまとユダヤ人の間に重大な信仰上の相違点があるからです。


まず、ユダヤ人たちは、神は創造のわざを進める中で七日目に休まれたように、安息日は神も休んでおられるとしているのに、イエスさまは、安息日でも神は働いておられると宣言したことが一点で、
さらに神を父と呼んで、ご自分を神と同格として「共に働いているのだ」と宣言なさったことです。それは18節に記されている結果をもたらします。殺そうと思うほど、イエスさまを憎んだのです。


この安息日のあり方をめぐるユダヤ人指導者たちとイエスさまの対立は、他の福音書にも何回も記されていまして、このような対立の積み重ねによって、やがて十字架へと事態が進んでゆくのです。

この当時、律法の支配下にあった安息日は、神を賛美し、神に感謝し、神の生命に生きるという安息日本来の光を失い、安息日さえ闇になっていた。そこに真の光をとり戻すための闘いをイエスさまはしておられるのではないでしょうか。
今日の記事、安息日に病人をいやされたことも、その闘いの一環として、行われたのではないかと思ったりいたしております。イエスさまは、やたらと意味もなく奇跡を行ったりなさいません。その時々に、それなりの意味があって奇跡は行われるのです。安息日は、あれもしてはいけない、これもしてはいけないと、息をひそめるようにしながら一日を送るのではなく、神をよろこぶ日なのだから、病める者もいやされて自由に歩けるようになる、罪人と呼ばれる人たちもイエスさまと共に食卓を囲んで楽しむ、そして究極的には、安息日にイエスさまのよみがえりが実現しました。
ですから、ユダヤ教では土曜日が安息日ですが、私共キリスト者は、イエスさまが甦られた日曜日を安息日、聖日として、とくにその日、神さまへの賛美と感謝を捧げるのです。
即ち日曜日は、新約時代到来の象徴です。(お話:工藤渓子さん)
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第9回「役人の息子をいやす」(ヨハネ4章 43-54)2004年6月13日

おはようございます。
早朝礼拝でお話しをさせていただきますのは、二回目になります。
今朝の箇所はヨハネによる福音書4章43節から54節までの、小見出しには「役人の息子をいやす」という、いわゆる奇跡の話しです。

イエス様のいわゆる公の生涯の始まりはユダヤのエルサレムや近くのベタニヤ、ヨルダン川での出来事とこのヨハネ福音書には記されています。他の三福音書がガリラヤ地方を伝道の場とされたとあるのとはかなり異なります。それは、ヨハネ福音書が誰の為にという視点が三福音書と異なるためであります。
そして一度、ガリラヤへ帰られたときにカナでの婚礼に臨まれて水をぶどう酒に変えられる最初のしるしをされました。後にユダヤの過越しの祭りが近づいたので再びエルサレムを上られて数々のわざをなさったことがありました。
有名な神殿の宮清めの話しやニコデモの対面、そして、ユダヤ地方にとどまり人々にバプテスマを授けておられました。
そうして、これらの出来事が宗教指導者達の知るところなった時に、イエス様はサマリヤ地方を通りガリラヤへ向われたのが先週までの話しになるかと思います。
聖書の箇所をお読みしましょう。




4:43 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。
4:44 イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。
4:45 ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。
4:46 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。
4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。
4:48 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。
4:49 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。
4:50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
4:51 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。
4:52 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。
4:53 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。
4:54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。



この話は、役人の息子が重い病気で今にも死にそうな状態でありましたが、イエス様が近くまで来られているという話を聞き、イエス様に癒していただく他に助かる道はないと考えた役人自身がイエス様のもとに出向いて、一緒に息子のところまで来て助けてくださるように頼んだところ、「帰りなさい、あなたの息子は生きる」と言われ、その言葉を信じて帰る途中に息子の病気がよくなったという知らせを受けた、という奇跡の話です。

私は、三番目の子供でこの役人と同じような体験をしました。
一歳を過ぎてすぐの頃に40度以上の熱が出て、ケイレンを起こし、救急車で新宿の国立国際医療センターへ運ばれました。
私は丁度、仕事をしていまして夕方の4時ごろ家内から携帯に電話が入り、「ケイレンを起こして今、救急車に乗せたところ」との一報でした。搬送先が判ったらまた知らせるとのことでしたが暫くして新宿だと聞き、病院に向かいました。
髄膜炎を発症しているとの診断で、夜に骨髄注射をしてウィルスがあるか判定するとのことでした。その晩は遅くまで病院におりましたが最悪には障害が残るかもしれないことを覚悟しました。上の子供たちにもその可能性を話し、家族で支えていこうと言った覚えがあります。
教会へも連絡し、当時の戸上信義牧師が「あなたのその話しぶりから、いかに大変な状況かが判ります。皆で祈ります。」と言ってくださいました。本当に大きな心の支えとなりました。皆様の祈りに支え守られて無事に二ヶ月程の入院をいたしましたが、今は元気に小学一年生となりました。
私はこの困難な状況の時に私の子供のために、家族のために祈ってくださる教会の方々がおられ、そして、回復が与えられるという恵みの信仰体験をさせていただきました。本当に感謝なことでした。

さて、ガリラヤへ行かれたイエス様は「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とおっしゃいました。しかし、ガリラヤで待っていましたのはイエス様の言葉とは裏腹に、サマリヤでのイエス様の言葉により信仰の体験をした人々、エルサレムでのイエス様の数々の行いを見てきた人々により、思いがけず歓迎を受けたのです。自らがイエス様の語るのを聞き、自らがイエス様のわざを見たという確信にも通ずる経験をした人々がイエス様を歓迎したのです。

信仰に導かれた方々はキリストがご自身にしてくださったことをいくつも喜びをもってお話しをすることができるでしょう。このような信仰の経験はその方の信仰にとっては無くてはならない貴重な体験となっているのです。

しかしながら、だれも自分の経験によってキリストの信仰を他の方に納得していただくことは出来ないでしょう。私たちに出来ることと言えば信仰を伝えたい方が同じような経験をしてくださるように導びかれるお手伝いをするだけではないでしょうか。

キリストの信仰は、まずイエス・キリストを神の子であると認識し、そのイエス様を信頼する。そして、イエス様の言葉を確信持って受け止める。このことに尽きると思います。

ここにおられるお一人お一人には、それぞれに人生の課題がおありになると思います。皆様もイエス様を神の子として信頼して、与えられた課題に対する聖書のみ言葉に立ったときにイエス様があなたご自身に何をしてくださるかを信仰の諸先輩方が体験されましたように、是非体験していただきたいと願います。

この役人の信仰の経験について考えてみたいと思います。

この人はカペナウムのおそらくは、ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスの高官であったと言われています。役人でありましたからイエス様たちの振る舞いについてはよく知っていたと思います。イエス様の話された事やしるしやわざ等の出来事をいろんな人々から聞いていたことでしょう。ユダヤの人々であれば、そのように出来るのはもしかしたら救い主かもしれないと誰もが一度は考えたことでしょう。そして、信仰に導かれる者と排斥しようとする者に分かれていったことでしょう。この高官は立場上では民心をゆさぶり、治世に混乱を起こすような存在は断固、排除する側でありました。地位も名誉もあり、裕福であったに違いありません。

そのような人物がたとえ、自分の息子が死にそうではあってもイエス様がカナにおられると聞くや40Kmもの距離、1日から2日もかかる道のりを自分が歩いてゆくという話は、なかなかありそうも無いのではないでしょうか。ましてや医者でも無い大工の息子であるイエス様にです。身分の差もありましょう。また、親であれば子供が死にかかっているのに何日も家を空けることも考えにくいでしょう。僕たちが多く居た筈ですから、僕たちにイエス様を迎えにやることも出来たでしょう。しかし、役人本人が迎えに行ったのです。彼の心の内は排除する側ではなく、信頼を寄せる存在としてイエス様をみていたのでしょう。

それでも、役人は自分の立場もありました。このことからの自尊心を押さえて、このような行為にたいする周囲の非難の目を感じつつも、イエス様からこの困難の助けを得られるであろうとの信頼から出向いたのではないでしょうか。又、イエス様へ出向いたからには息子の容態も深刻な状態にはなるまいという信頼もあったのでしょう。

カナに着いた役人は「カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。」イエス様に懇願しました。

この役人に対してイエス様は「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。これは、どうなるものかと見守る群衆に向けたものとも、役人自身に向けた言葉とも理解できますが、キリストの救いが及ぶ前というものは真剣な態度でなければならないことを示されたのだと思います。他の聖書の箇所においても、イエス様の救いのある前にはその対象となった人々の切なる真剣な問いかけがあるのです。

「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行きました。

イエス様からの直接の言葉が、「あなたの息子は生きる」でした。この言葉以外に必要なものは無いと役人は確信したのです。この言葉により息子は救われる、と確信したのです。

信仰とはイエス様の言われることは真実であり、イエス様の言葉を漠然とした期待やあいまいな願いを抱くことではなく、イエス様の言葉は「真実かもしれない」のでもなく「真実に違いない」と確信することです。

この役人はイエス様の言葉を「真実」であると確信し、家路を急ぎました。

「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」に続いて「あなたの信仰が息子を救いました」と言う言葉が心に響いてくるような気がします。

この役人のすばらしい信仰の経験は、イエス様が何をなされる方であるかをつぶさに見た結果として、自身の求めているものがなんであるかを悟り、それが満たされ、自分自身を顧みて本当に大切なものを想い起こすことが出来てたどり着くことが出来た。このことは自分のみならず家族をも神の子キリスト・イエスを信頼する信仰へと導くほどの大きな喜びの経験となったのです。(お話:郷 秀男さん)
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第8回「イエスとサマリアの女」(ヨハネ第4章 1-30)2004年6月6日
聖書
イエスとサマリアの女
1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼(バプテスマ)を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
2  ― 洗礼(バプテスマ)を授けていたのは、イエスご自身ではなく、弟子たちである ― 
3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。
5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

7 サマリアの女が水を汲みに来た。イエスは「水をのませてください」と言われた。
8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
9 するとサマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして、水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
10 イエスは答えて言われた。「もし、あなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人は生きた水を与えたことであろう。」
11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子どもや家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
13 イエスは答えて言われた。「この水を飲むものはだれでもまた渇く。
14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われると、
17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。「イエスは言われた。「『夫はいません』とはまさにそのとりだ。」
18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。この方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
26 イエスは言われた。「それはあなたと話をしているこのわたしである。」

27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰ってきて、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」という者はいなかった。
28 女は水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。(ヨハネ:1−30)


みなさんおはようございます。今朝も聖書からみ言葉をきいて参りましょう。

 “さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼(バプテスマ)を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、― 洗礼(バプテスマ)を授けていたのは、イエスご自身ではなく、弟子たちである ― ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。”(ヨハネ4:1‐6)

最初にご一緒に聖書の後ろにある地図を見ましょう。サマリア、ガリラヤ、ユダヤの位置です。これを見るとわかりますね。ユダヤからサマリアへ行く場合、サマリアを通過するコースは最短距離でした。しかし、多くのユダヤ人はこの道を避け、ヨルダン川を越えて渓谷沿いの険しい道を選んで北上し、もう一度ヨルダン川を渡ってガリラヤへ行ったのです。ユダヤ人はサマリアを避けて通った。それはユダヤ人とサマリア人の間に対立があったのからなのです。


サマリアはイスラエルの国が北王国と南王国に分かれていたときに北王国の首都でした。この北王国は紀元前722年にアッシリアの侵略により首都サマリアが陥落し、やがて滅亡しました。多くの住民がアッシリアに捕虜として連行されました。アッシリアは占領政策としてメソポタミア地方から移民を導入して殖民を行いました。北王国の残った住民は入ってきた外国人と雑婚し始めました。彼らはユダヤ人にとって許されざる罪と考えられていたことを犯したのです。彼らは人種的純粋性を失ってしまったのです。南王国もその後、他国の侵略、敗北、そしてエルサレムが陥落してバビロン捕囚といった歴史をたどったのですが、彼らは民族的純粋性を失いませんでした。ユダヤ人は他の民族の血が混じっているという理由でサマリア人をさげすんでいました。ユダヤ人がサマリア人を嫌うのはサマリア人が他の民族と結婚したばかりでなく、そのとき異教の神々を拝んだからです。宗教的混淆(こんこう)が起こったのです。その結果サマリア人はエルサレムで礼拝することを拒否されたのです。そこで彼らはサマリアのゲリジム山に神殿を建ててそこで礼拝をしていました。もとは同じ民族で同じ神を拝んでいるのに、ユダヤ人とサマリア人は礼拝を共にすることができないという悲劇的な状態の中にありました。

次の箇所です。

 “サマリアの女が水を汲みに来た。イエスは「水をのませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。するとサマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして、水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もし、あなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人は生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子どもや家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲むものはだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」”(ヨハネ4:7−15)

このことの起こった時刻は正午ころのことでした。正午ころにサマリアの女がヤコブの井戸に水を汲みに来たのです。ところで、当時のパレスチナ地方の日常生活では人々は朝まず井戸へ行って水を汲む。どうしても足りないときは夕方もう一度水を汲みに行くのです。朝と夕方が井戸に水を汲みにいく通常の時間帯であって、昼間は亜熱帯の気候のゆえに暑さを避けて水を汲みに行ったりしないのです。正午ころこの女性が水を汲みに来たのは、人目を避けての行動と思われます。

イエス様はこのサマリアの女に「水を飲ませてください」と言われます。女はびっくりして「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」と言います。先ほどユダヤ人とサマリア人の間には歴史的に積み重なった対立があることをお話しました。あなたはどうしてそのように自由にユダヤ人とサマリア人という壁を乗り越えることができるのか。あなたたちユダヤ人とわたしたちサマリア人の間には700年もの間の長い憎しみあった関係が横たわっているではないか。それなのにどうしてあなたは何のわだかまりもなく話しかけてこられるのか。そういう気持ちが女性にはあったでしょう。この女性が驚くもう一つの理由が考えられます。それは当時ユダヤ教の厳格なラビ(律法の学者、教師)が女性に話しかけることはなかったということです。「女どもと多く語る者は、自分に禍を招き、律法の学びを怠り、ついにゲヘナを相続するであろう」(ミシュナー)という言葉がありますが、ラビは公の場では、たとえ自分の妻や娘や姉妹であっても話しかけてはいけなかったのです。公の場で婦人に話しかけているのを見つけられると、それはラビとしての名声の破滅であったと言われております(バークレー)。「サマリアの女のわたしにどうして」と言う言葉は、この女の驚きがどこから来ているものかをよく示していると思います。イエス様は民族とか人種とか、男女の性の差とかいうものから自由でした。イエス様はこの女性に対して一人の人格として接していったのです。

イエス様とサマリアの女との会話の内容はどうでしょうか。イエス様は喉が渇き女に水をくださいと頼むのですが、会話が進むにつれて、『神の賜物』『生きた水』について話しかけられています。それに対して女性は汲むものを持っていないイエス様にどのようにして水を汲むのですかと尋ねています。物理的で目に見える時限での受け答えです。話は空回りをしているように見受けられます。それでも、「この水を飲むものはだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」とイエス様が言われると、女は「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と今度は自分の方からイエス様に『その水をください』と頼んでいます。この女のなかに少しずつ変化があらわれてきているのでしょうか。

次の箇所に参ります。

 “イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。「イエスは言われた。「『夫はいません』とはまさにそのとりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。この方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それはあなたと話をしているこのわたしである。」”(ヨハネ4:16−26)

16節で話は別の展開を見せます。イエス様はこの女性が今どういう状況の中にいるのかをすべてわかっていたのです。イエス様はこの女の過去も現在も言い当てたのです。「『夫はいません』とはまさにそのとおりだ。あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない、あなたはありのままを言ったわけだ」本当にこの女性は驚いたでしょう。女はイエス様を「主よ、あなたは預言者とお見受けします」と言います。 はたしてこの女性は今まで、どんな人生体験をしてきたのでしょうか。みなさんはどう思われるでしょうか。

この女は不道徳な生活をしてきており、愛を求めながら本当には応えられないで、愛に絶望していた。イエス様との会話の中で、彼女は自分の不身持、不品行、不完全さを直視させられたのだと言う人がいます。キリストの前で自己を見出だすことにより真の自己を見出すことができた。彼女に罪の自覚が生じたというのです。また一方で当時のイスラエルは男性優位の社会であったことから、この女が男性側の都合で幾たびもつらい思いをしてきたというものです。イスラエルの決まりによると、男性が女性を離婚することは定められていますが、女性が男性と離婚ができるとは定められていません。離婚の条件は、恥ずべきことを女性が行った場合と定められています。この恥ずべきことというのは女性が夫以外の男性と性的な関係を結ぶことでしたが、時代をへるに従って、男性の都合のよいように解釈が行われるようになっていったといわれているからです。いろいろと考えることができるでしょう。聖書は、この女性には5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではないとだけ記しています。確かなこととして言える事は、そういう状態にあるこの女性は決して幸いな中にいるのでないということでしょう。

ある人はヤコブの井戸に水を汲みに来るとき、この女性はその井戸のそばからゲリジム山を見上げていたのではないかと想像しています。わたしも今回この聖書箇所を読み込んで言って同じ思いに捕らわれました。彼女の心の中はとても渇いていて、いや飢え渇いていたといってもよいような状態ではなかったろうか。そして、永遠なるもの、決して変わることのない、彼女の存在そのものを受け入れてくれる存在、あってあるもの、すなわち神を求めていたのではないだろうか。だからこそ彼女はイエス様から自分のありのままの姿を言われたとき、礼拝のことに話を持って行ったのではないかと思うのです。

ここでイエス様は本当に大切なことを話されました。
「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」イエス様はこの女性に答えて、今すでに真実の礼拝をする時が来ている、そしてそれはエルサレムとかゲリジム山とかいった場所には捕らわれない礼拝だ、と言われました。そしてこの女性が「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。この方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」
と言った時、イエス様は「それはあなたと話をしているこのわたしである。」と言われました。そうです、すでにイエス様はきてくださったのです。

彼女はこれまでの人生の中で、人間に対する信頼とか愛といったものから引き離されたり失われたりするような状況の中にあったと思われます。そうした彼女にイエス様は「水をください」とご自分から話しかけられました。それは、わたしはあなたの働きを必要としているのですと言うことです。この女性と同じ高さのところから話しかけられたのです。そして、イエス様と会話を積み重ねていく中で、このサマリアの女の中にはいつの間にか湧き水があふれ出すように、渇くことのない水が流れ始めていたのではないかと思うのです。

聖書は記します。
“女は水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。”(ヨハネ4:28−30)

サマリアの女は、町の中で多くの人たちにこのように大きな声で話していたのです。正午ころヤコブの井戸に人目を避けるようにして水を汲みにきたこの女性は、イエス様との出会いの中で全く変えられていったのです。きっと彼女の中からは枯れることのない命の水が湧き出ていたにちがいないのです。(お話:平野一男さん)

                       讃美「サマリアの女」(マレー作曲)(平野範子さんと仲嶋英理子さん)

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第7回「イエスと洗礼者ヨハネ」(ヨハネ第3章 22-30)2004年5月30日
聖書
「イエスと洗礼者ヨハネ」
22    その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼(バプテスマ)を授けておられた。
23    他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼(バプテスマ)を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来てバプテスマを受けていた。
24    ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
25    ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。
26    彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、バプテスマを授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
27    ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない。
28    わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
29    花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
30    あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」





ヨハネの福音書を通して、イエス様のご生涯を学ぶ、第7回目になりますけれども、今日学ぶ聖書の箇所で中心となりますのは、イエス様ではありませんで、バプテスマのヨハネという人が中心人物となります。

すでに6回ヨハネによる福音書を学ぶなかで、何人かのユダヤ人が出てまいりました。このバプテスマのヨハネもそうですし、イエス様の母マリア。そして、ニコデモという議員。来週学ぶ箇所では、夫を何人も取り替えた女性がでてまいりますけれども、そんな一人一人とのイエス様のやりとりを通して、おもしろいことに、その人の内面があらわになったりいたします。婚宴の席でぶどう酒が無くなったとき、母マリアが示したイエス様に対する信頼。またニコデモという議員が、イエス様の言葉を理解できずに、古いしきたりの中にとどまっていた姿。イエス様との関係の中で、そんな人間の内面があらわになるところが大変興味深い。イエス様は、そんな不思議な方であります。

そして、今日の聖書の箇所では、バプテスマのヨハネという人の心の内面が、イエス様との関係の中で、よくあらわれている箇所だと思います。このバプテスマのヨハネという人は、神から遣わされた預言者と言われていますけれども、神が愛したイスラエルの民が、今や、神から離れている。そのイスラエルの人々に向かって、悔い改めて神に立ち返りなさいと厳しく説きながら、バプテスマを授けてていた人であります。彼は、動物の皮の衣をきて、いなごや野密を食物にしていたという、大変ワイルドな人ですから、なにか厳しいイメージがありますけれども、実は、大変謙遜な人であったという彼の内面が、今日の箇所から伝わってまいります。

それでは聖書を順に見ていきたいと思います。

3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、バプテスマ(洗礼)を授けておられた。
3:23 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンでバプテスマを授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、バプテスマを受けていた。


今日の箇所は、イエス様と弟子たちが、エルサレムの都から郊外に行かれたところからお話が始まります。注目すべき点は、そのころイエス様の弟子たちも、人々にバプテスマを授けていたということであります。これはイエス様ではなく弟子たちがしていたようですけれども(4章2節)、いずれにしろ、それまでは、バプテスマのヨハネが、授けていたバプテスマを、イエス様の弟子たちがするようになった。しかも、多くの人々が、イエス様の方に集うようになってしまっている。そのことが、どうもバプテスマのヨハネの弟子たちにはおもしろくなかったようであります。

3:26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、バプテスマを授けています。みんながあの人の方へ行っています。」

ただ、ヨハネの弟子たちは不満でしたけれども、当のヨハネはそうではなく、自分の立場をよく理解していたわけであります。
彼は、最初にイエス様に出会ったとき、この方こそ自分が待っていた方。「世の罪を取り除く神の子羊」つまり、私たちの罪を赦すために十字架に死んでくださる救い主だと証しをして、私はこの方の靴のひもを解く値打ちもないと、そのように言ったわけですけれども、そのように、このバプテスマのヨハネという人は、自分が何のために神によって遣わされているのか、その立場をよくわきまえていたわけであります。自分は、このイエス様が救いを成し遂げてくださる、その道ぞなえをするために、人々に、悔い改めるようにと、バプテスマを授けているという、その自分の立場を彼は理解しておりました。

しかし、ヨハネの弟子たちの方は、そんなこと分かりませんから、この状況が納得いかないわけであります。なんであの人達は勝手にバプテスマを授け、しかも、多くの人々は、あの人達のところにいってしまうのかと、ここで嫉妬心を燃やしていたわけであります。

嫉妬心といいますのは、人間関係が危うくなる火種になるものですけれども、どうしても、人と自分を比べて生きてしまう、そのような人間の地平でものを見るだけですと、この嫉妬心というものから逃れることは難しいですね。何であの人ばかりいい思いしているのか、と、思ったことも思われたことも誰しもあるかとおもいますけれども、嫉妬心というものは持つなと言ってもなかなか難しいもので、人と自分を比べてしまう、つまり、横の関係だけで見てしまいますと、どうしても嫉妬心が沸いてくる。しかし、そこに横の視点ではなくて縦の視点。つまり、どこまで行ってもドングリの背比べに終わる横の視点から、私たちを造られた神の御旨という、上からの視点で、自分や他人を見るときに、この嫉妬心というものから解放されるのではないでしょうか。

ヨハネはその点、弟子たちとは違う視点で、この状況を見ていた事が分かります。

3:27 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」

といいました。ヨハネは、横を見て、イエス様たちと比べては嫉妬している弟子たちに、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」のだと、上からの視点でものを見るように教えておられるのではないでしょうか。
天が与えなければ、つまり、神が与えなければ、人は、なにも得ることが出来なかった。よく考えてみれば、人は生まれたときには何にも持たずに生まれ、そして、今に至るまですべてを頂いて生きているわけであります。なのに、人をうらやんだりねたんだり、人の物がほしくなったりいたしますのは、裏を返しますと、今、すでに神が与えてくださっている恵みが分からない、いや、そもそも、神様がこの私に良いものを与えてくださっている、愛してくださっているということが分からない、信じられないということゆえの不安の裏返しではないかと、だから、人の物がほしくなるのではないかと、そのように思うわけであります。

それは、自分自身を愛せない、受け入れられないということも同じことだと思いますけれども、神様が造ってくださったこの自分自身。またとないユニークな存在として、能力と賜物を与えてくださっている自分自身を、愛せない、受け入れられない、人と比べて、なんで自分はこんなに劣っているんだろう、と自分を責めては、人をうらやむということも、まさに、上からの視点を忘れてしまっているということではないかと思うのであります。

「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」のだとヨハネが言ったところの、人間の努力や能力を越えて、いっさいは神によって恵みとして与えられている、頂いているという視点。それがまさに信仰でありますけれども、そのように自分の人生を見るときに、そこにこそ、嫉妬心なるものからの解放があるのではないかと、そのように思うのであります。

それと同時に、バプテスマのヨハネは、イエス様が、自分とは違う上よりの権威、神様からの特別な権威をいただいた方であるということを、いっていたのでしょう。

それゆえに、28節でヨハネは

3:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。

と、自分はメシア、救い主ではないと、はっきり語るわけであります。あの方こそ、上よりの権威をいただいた人であって、自分は違うのだ。

このヨハネ態度にこそ、本当の謙遜というものが表されているのではないでしょうか。単なる自己卑下ではなく、自分をなにか意味のないもののように、価値のないもののように語ることが謙遜なのではなく、ありのままの自分を、神に造られ、使命を与えられているそのままの自分を、包み隠さず生きていく姿。

ヨハネは、もしこんな事を言わなければ、十分人々を集めて大きな教団を造るだけのカリスマを持っていた人だと思います。実際、今まで、ヨハネのところに、沢山の人々がやってきていたことを考えますと、ヨハネという人には人々を集めるだけのカリスマがあったのでありましょう。しかし、彼は、その魅力を用いて、人々を自分に結びつけようとはしないのであります。ヨハネはあくまで、自分のところにやってきた人を、自分ではなく、神に向かわせ、そして、救い主キリストに向かわせていく。
そこに、彼の謙遜の姿。神に造られ、神に与えられた使命を生きる姿を見るのであります。

オウム真理教のある幹部は、「私は尊師の愛に惹かれた」と入会の動機を語っておりましたけれども、多くの新興宗教に多くの若者が引きつけられていく原因に、教祖の魅力というものがあるわけであります。若者たちは、その教祖の魅力に引きつけられ、やがて教祖のためなら何でもしてしまう信者にさせられていってしまう。そのように、魅力的な教祖は、自分のところにやってくる人々を、自分自身の利益のために、自分自身に結びつけるわけであります。教えそのものではなく教祖に結びつけようとする。そして、そのために、特別な権威づけをするために、自分には天からのなにか特別な力を頂いていると、偽りの自分を演出して、信者の心を自分自身に結びつけようといたします。

しかし、ヨハネは、全くそのようなあり方とは違うのであります。

3:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。

と、自分は「メシア」ではなく、ただの人であると、弟子たち自身に証させる。それがヨハネという人ででありました。
ヨハネは、神を畏れ、神の前に誠実に生きていくゆえに、自分をなにか素晴らしいものでもあるかのように偽るようなことをせず、ただ神から与えられた、自分の使命を、その人生を生きたのであります。それは、自分を卑下したのでも、誇ったのでもなく、ただ、神に造られ、神に与えられた使命を、ありのままのに生きていったということであります。そして、それがまさに、神と人との前に謙遜な生き方なのだということを、ヨハネの姿から教えられる思いがいたします。

さて、最後にヨハネはこう言いました。

3:29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。

花婿とは待たれていた救い主、メシアのことであります。そして花嫁とは、花婿、つまり救い主の愛を受け入れたすべての人々のことでありましょう。神と神の民との関係は、聖書において夫婦にたとえられることが多いわけですけれども、まさに、イエス様は愛する花嫁を迎えに来た花婿にたとえられております。花婿こそが主役であり、ヨハネは、自分はその花婿の介添人に過ぎないと語ります。そして、彼はまさにその自分に与えられた役目を生きているがゆえに、花婿であるイエスキリストの声を聞いて、待ちに待っていた救い主の声を聞いて、彼は喜びに満たされていると言うのであります。自分が主役になったからではなく、本当の主役であるキリストに出会えたことが、自分にとって本当の喜びなのだ。そして今まさに、キリストに出会って、自分はその喜びに満たされていると、ヨハネは語っているのであります。

今、若者たちのなかで、自分が主役になれないジレンマをきっかけに、暴力が頻繁に起こっています。
少年による犯罪によって家族を失った遺族の戦いをルポルタージュしたジャーナリストの本があります。それは目を背けたくなるほどの少年達の残酷な振る舞いが記されておりますけれども、しかし、なぜ、そのような少年犯罪が近年増えたのか。このジャーナリストは、この本のまとめの部分で、現代の自意識を肥大させる教育について疑問を呈しておりまして、少年による暴力が増えたことについて、

 
それは「自分はすごい人間なのだ」という自意識が世代を追うごとにどんどん肥大化していったからにほかならないと私は考えます。著名事件の加害少年らはみな同様のことを供述しています。目立ちたかった、大きなことをしたかった、世の中を騒がせマスコミで世の関心を集めたかった…つまり、過剰で一方的な自意識を満足させるためにもっとも手っとり早いのが暴カによる弱者の絶対支配ということなのです。
 過剰な自意識は子ども期から、学校や保護者の過度な期待や保護によって形成されていきます。たとえば学校の「優等生」は少しぐらい勉強ができる程度で、ものすごく先生や親にほめられる。そうするとその子は「自分はすごいはずだ」と思い込みますが、しかし、それは自分自身の試行錯誤で培った経験ではないし、そこから導き出された自身でもない。つまり自意識だけは肥大化していくのだけれど、自分に対しての自信はとても低いという若者が大量生産されていくのです。
 一定の時間が経つと、彼らはその学校や地城、家庭から上の学校や社会に出なければなりません。それまでとは異なった人間関係を生きなければならなくなる。そうすると、ちょっとスポーツができるとか、ちょっと勉強ができる程度でかなり高度な自意識を持つようになってしまっているのに、しかし実際は学校も地域も人生の通過点に過ぎず、都会に出たり、上の学校に行ったりした時点で、「ただの人だ」ということをいずれ突きつけられ、たいがいの人間はたいがい「ただの人」になってしまう。ところが、それに耐えきれない場合に、多くは「引きこもり」になるか、自傷行為にむかうか、八つ当たり的に他者を攻撃する行為に走ることになる。
十代-二十代の殺人を犯した動機として、「まわりが自分を受け入れてくれない。自分の力はこんなはずじゃない」という短絡きわまりないものばかり目につきますが、そこに欠落しているのは、自己否定をする視点ではないでしょうか。(「少年に奪われた人生」藤井誠二著 P.229より)



そのように彼は述べております。
この自己否定する視点が欠けているのではないかという指摘が、非常に印象に残るのであります。今の時代の子ども達の教育において、そして、また私たちの生き方において、この自己否定する視点というものが欠けてきているのではないでしょうか。それゆえに主役でなければならないともがきながら、主役になれない自分の人生を嘆きつつ、いつも人と比べては嫉妬し、喜びのない日常を生きてしまっている。そんな気がするのであります。

バプテスマのヨハネという人は、「自分は喜びに満たされている」といった後に、最後、30節でこう言うのであります。

3:30 「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

私ではなく、あの方が栄えることが、それが私の喜びだというヨハネ。
それは、自己卑下でも、自分は無価値なのだといっているのでもなく、神が与えてくださった自分の役割を、人生を、使命を生きることこそが、それが本当の喜びなのだ。それは、あの方が栄え、わたしは衰えることなのだといっているのであります。

自分が主役でなければいやだと、偽りの自分を演出しながら頑張る人生は、結局、人と比べては不平と不満に生きる人生でありましょう。
しかし、イエスキリストに出会うとき、自分の内面、自分の罪が問われるけれども、同時にその罪をキリストが担って死んでくださったという、神の恵みに押し出されて、偽りの仮面をはいで、神に造られた本当の自分を生き始めていく。そこに本当の喜びがあるのであります。

ヨハネが、キリストの言葉によって、私は喜びに満たされていると語ったように、キリストの言葉に生かされた私たちもまた、キリストと共なる喜びを頂きながら、生きていきたいのであります。(お話:藤井秀一牧師)
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第6回「イエスとニコデモ」(ヨハネ第3章 1-15)2004年5月23日

聖書

「イエスとニコデモ」

1  さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
2    ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3    イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4    ニコデモは言った。「年をとったものが、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
5    イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
6    肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
7    『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
8    風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
9    するとニコデモは、「どうしてそんなことがありえましょうか」と言った。
10   イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。
11   はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。
12   わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
13   天から降(くだ)って来た者、すなわち人の子の他には、天に上った者はだれもいない。
14   そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
15   それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。




4月から読みはじめましたヨハネ福音書、今日は3章に入ります。

前回にも申し上げましたが、イエスさまのご生涯を記した4つの福音書はそれぞれ特色をもっておりますが、ヨハネ福音書の特色の一つに、イエスさまとの対話の記事が多いということがあると思います。今日のこの個所も、ニコデモという人とイエスさまの対話によって構成されています。4章では、世の中をはばかって生きていたサマリヤの女との対話が記されていますが、どちらもいわば信仰問答といったもので、一見、分かりにくい部分があったり、また、今日のところはイエスさまのけっこう厳しいお言葉が含まれておりますので、楽しく安易な気持ちでは読めない個所でございます。

まず1節、今日の登場人物ニコデモが紹介されています。「パリサイ人のひとり」とあります。他の個所ではパリサイ派と呼ばれている宗教的呼び名ですが、このパリサイ派はイエスさまが十字架におかかりになるまで、イエスさまと対決しながら深く関わったグループです。どんなグループだったかといいますと、パリサイ派という呼称は“区別する人たち”という意味だそうです。即ち、正統なユダヤ教の伝統を受けつぎ、律法を遵守することを信条として、自ら“少々いい加減な生活をしている人々”とは厳然と区別していたグループで、ある本には「“きまじめ派”といってもよい」と書いてありました。そのパリサイ派のグループの一人と記されていますので、多分、信徒だったのだろうと思われますが、しかし10節に「イスラエルの教師」という言葉がありますので、信徒の中でも指導的な立場にある長老と呼ばれるような立場の人であろうというのが定説です。次に「議員であった」と記されていますが、当時のユダヤの国の仕組みとして、大体、指導的な立場の人は、政治のことも信仰に関する事柄もとり仕切る議会の議員になっていたのです。(ですから、指導者と訳そうが議員と訳そうが同じことになります。)さて、このような立場の人がイエスさまを訪ねてきます。福音書でイエスさまをとり囲む人々はおおむね貧しい人、病める人、罪人と呼ばれる人の場合が多いように思われますので、このような地位のある知識人とイエスさまとの出会いは珍しい場面のひとつといっていいと思われます。

2節、この人はまずイエスさまにごあいさつをいたします。“夜”訪ねて来たと記されていることについて、聖書学者たちがいろいろ問題にしますが、私共は聖書学者ではありませんし、そのことは省きます。

この人のごあいさつは大変ていねいで、イエスさまへの尊敬の思いのこもったものです。しかし、注目しなければならないのは、この言葉の中にはイエスさまを人々を救う救い主として信じているという信仰は全くない、ということです。これが今日のイエスさまのニコデモに対する批判的とも思われるお言葉の原因となるのだと思われます。

3節には「イエスは答えて言われた。はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」のように言われたと記されています。「答えて言われた」と記されているからには、この前にニコデモはイエスさまに何らかの質問をしたのだろうと思われます。2節はあくまでもあいさつであって質問ではありませんので、この2節と3節の間にどんなニコデモの問いかけがあって、なぜそれがかくされているのだろうかと、私はここでふと立ち止まってしまうのですが、聖書はいつも簡潔すぎるほど簡潔です。

そこでもう一ぺんもとに戻って考えてみますと、1節、ニコデモという人は社会的地位もあり、パリサイ派の一人だったということで、彼は彼なりに一所懸命に真面目に信仰を求めていたのでありましょう。そこにイエスという宗教家として新しい人物があらわれた。はじめはいかなる人か?と思っていたのでしょうが、イエスさまが語る言(ことば)やその驚くべきわざをみて、2節の言葉を借りれば、「神のもとから来られた教師である」と強い尊敬の念を抱いたのです。「ラビ」と呼びかけていまして、この「ラビ」という呼び方は、律法の教師に対する最高の尊称です。更に驚くことは、イエスさまに対する評価が普通のものではないということです。「神から来られた、神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」というふうに明言しているところに、ニコデモのイエスさまに対する並々ならぬ尊敬の想いがうかがわれます。

そして、先程も申し上げました通り、3節のイエスさまのお答のまえに、きっと「この人なら答えてもらえるだろう」という想いの中から何らかの質問をしたと思われます。

3節のイエスさまのお答からして、多分、神の国のことをお尋ねしたのではないかと思われますが、しかしこれはあくまでも想像の域を出ません。

3節のイエスさまのお答「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」は調子としては相当強いもののように思われます。「神の国」とはどんな世界でしょうか。マタイ福音書では「神の国」を「天国」と表現していますが、しかし昔のフォークのグループが歌っていた「天国よいとこ一度はおいで」とか、よくイラストなどに画かれている花咲き、鳥歌い、この世の楽しいことだけがある処というふうに表現される“天国”とは全く違います。これも「神の国」というだけで一冊の本になるほどのことですが、今、一口で言えば“神の支配が完全に行われる国”ということになると思います。そして、ニコデモはそのような神の支配を熱心に求めていたのです。多分、そのような深い思いの中から神の国のことをお尋ねしたのでありましょう。そしてこれは、私共もまた切なる思いで抱く問いであります。そして、イエスさまのお言は「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」です。この言が、今日の聖書のポイントになる言であることは言うまでもありません。私共は今、イエスさまの救いのわざの成就した新約の世界に生かされていて、新約聖書を与えられ、そのみ言(ことば)を学ぶ機会もたくさんありますので、イエスさまがおっしゃる「新しく生まれなければ」という言をすぐ理解できますが、当時、いまだ旧約の時代に生きていた人々にとって、この言はなかなか理解できなかったのは当然だったかもしれません。ニコデモとイエスさまの対話はなかなかかみ合いません。「4節〜9節」と記されています。



4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。


ユダヤ教の指導者として、信仰ももち、また相当な知識人でもあったニコデモが、このイエスさまのおことばを理解できなかった、この有様の中に、この時、まだ旧約の時代の中に生きていた人々の姿を見る想いがいたします。私共はいま、新約聖書によって、イエスさまが告げられた福音(主イエスさまによって救われる)ということをはっきりと示されているということは、大変幸せなことだと思います。

イースターには、私共の喜びと祈りの中で、黒崎さんがバプテスマを受けられましたが、このバプテスマの儀式が、5節以下のちょっと分かりにくいイエスさまのおことばをよく表していると思います。

バプテスマ式のとき歌う讃美歌199番の3節の歌詞に「罪のこの身は、今死にて、きみのいさおによみがえり」とありますように、水に一ぺん沈められるということは、今までの罪の身の死を意味します(水による潔めの意味もあります)。そして、水から出て立ち上がったとき、今後はキリストの霊によって生きる者となるのです。即ち“新しく生まれかわった者”です。

このように、ただキリストの霊によって、その恵みに救われるという信仰に生きるのが新約の信仰です。

しかし、未だ旧約聖書の世界に生きていたニコデモは、現に、救い主であるイエスさまと面と向かってお話ししながら、その真理を理解できなかったのです。この、なかなか理解できないニコデモは、私からみれば途方にくれているようにみえますが、このニコデモに向かってイエスさまは相当厳しいことばを投げかけます。
10節「あなたはイスラエルの教師でありながらこんなことが分からないのか」と。

実はこのニコデモの記事は、前の章の2章からのつづきとして読むべきものとされています。2章の終わり、宮潔めの出来事のあとに、24節「彼らを信用されなかった」とあります。即ち、イエスさまが8節「どこから来てどこへゆくか分からない」霊の話、目にみえない世界のことを語っているのに、人々は理解できず、目にみえるしるし(奇跡)或いは文字に書かれた律法にのみ心を奪われているのを嘆き、人々を信用されなかったのです。そしてそのような人の一人としてニコデモがここに登場してきているように思われます。

イエスさまは更に、12節「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したとてどうして信じるだろう」と嘆かれ、そして13節以下、ご自分の救い主としての姿を明らかにされているわけです。

それは、十字架にかかって人々を救うご自分の姿であり、“このわたし自身をみなさい、わたし自身を信じなさい”と告げておられる、即ち15節「それは信じる者がみな人の子によって永遠の命を得るためである」と結んでおられます。

この14節、モーセが荒野で蛇をあげる話は、旧約聖書の民数記の21章に記されている出来事ですが、これもまた、いまだ新約聖書のない時代ですので、旧約聖書から引用なさって、この故事に、のちに起こるであろう十字架における救済のご自分のお姿を託して語っておられるのです。

ここでニコデモとイエスさまの対話は終わって、そしてその先に、ヨハネは聖書の中の“黄金の言葉”と云われる章16節以下の言葉を書き記しました。
3章16節「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」
と。

2章24節でイエスさまが人々を信用されなかったと記しているように、人々の信仰は表面的で、形式的で、イエスさまの示される愛の世界、霊の世界を理解できなかった。そのような信じない人々がイエスさまのまわりに一ぱいいたのでありましょう。ヨハネは自らもそのことを嘆き、ニコデモとイエスさまとの対話を記し、そして一気に黄金の言葉といわれる3章16節の言葉を記した。私は、もしやヨハネは、この黄金の言葉を記すために、そのプロローグとしてこのニコデモの出来事を書いたのかも知れないなどと思ったりもいたします。

しかし、ニコデモとイエスさまの出会いがこれっきり終わってしまってはあまりに淋しい。このあと、このニコデモという人は、ヨハネ福音書の中に二度登場いたします。

1回は、7章50節、そろそろユダヤ人指導者たちがイエスさまに殺意を抱きはじめ、イエスさまを逮捕しようとした時、それをたしなめたのがこのニコデモでした。そして、その指導者たち仲間から「あなたもガリラヤ出身なのか」と言ってなじられております。この記事をみますと、ニコデモは今日の記事のイエスさまとの出会いのあとも、イエスさまの日頃の言動を見聞きし、変わらぬ尊敬の念をもっていたことがうかがわれます。

更に19章39節、イエスさまが十字架上に息をひきとられたあと、ヨセフという人が遺体の引きとりを申し出て、十字架から下ろし、丁重に葬るのですが、その時、ニコデモは没薬(もつやく)と沈香(じんこう)をもってきて埋葬に加わります。「かつて、ある夜イエスのもとに来たことのあるニコデモも」と記されています。時の権力者によって処刑された囚人をひきとって葬るということは、勇気のある決意のいる行為と思われますが、あえてそのようにしたニコデモは、最後までイエスさまを尊敬しつづけたのだと思われます。

いえ、私は更に思うのですが、いい尽くせない十字架の苦難、人々から投げつけられる侮辱に耐えて十字架にかかり、なお「彼らを許し給え」と父なる神に祈り、すべての人々にもたらす救いのわざを全うされたイエスさまのお姿の一部始終をニコデモはきっと見ていただろうと思うのです。そして、その一部始終の中から彼は、今日の記事で「どうしてそんなことがあり得ましょうか」とつぶやいた疑問も、次第に見えてきたのではないでしょうか。その時、イエスさまの仰せられた“天上のこと”“見えざる霊のこと”“イエスさまの深い愛”をニコデモは深く理解したに違いないと私は信じます。十字架のお姿を通して、イエスさまを信じ愛したであろうニコデモは、その後どのような人生を生きただろうと、私の信仰の夢はひろがってゆきます。(お話:工藤渓子さん)

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第5回「神殿から商人を追い出す」(ヨハネ第2章 13-25)2004年5月16日

聖書
神殿から商人を追い出す
13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。3日で建て直してみせる。」
20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは3日で建て直すのか」と言った。
21 イエスの言われる神殿とは、御自身の体のことだったのである。
22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

イエスは人間の心を知っておられる
23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。


みなさんおはようございます。今朝も聖書からみ言葉を聴いてまいりましょう。

讃美歌の312番をご一緒に讃美いたしましたが、「いつくしみ深きイエスさま」のことが歌われています。罪、咎(とが)、憂い、を取り去り賜い、われらの弱きを知りてあわれみ、悩み悲しみに沈めるとき慰めてくださる、変わらぬ愛もて導き、祈りに応えてくださるイエスさまのことが歌われておりますね。

みなさんは今朝の聖書箇所を読まれてどのように感じましたか。

いつものイエスさまと違って厳しく、激しいイエスさまのお姿があります。聖書箇所の17節を先に見てみましょう。この時のイエスさまの姿をお弟子さんたちが見て「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出したとあります。これは旧約聖書の詩編69編にある1節です。ご一緒に旧約聖書の詩編にあたって見ましょう。新共同訳聖書では旧約聖書の901ページです。

詩編 69:1〜13

  神よ、わたしを救ってください
  大水が喉元に達しました。
  わたしは深い沼にはまり込み
  足がかりもありません。
  大水の深い底にまで沈み
  奔流がわたしを押し流します。
  叫び続けて疲れ、喉は涸れ
  わたしの神を待ち望むあまり 
    目は衰えてしまいました。
  理由もなくわたしを憎む者は
    この頭の髪よりも数多く
  いわれなくわたしに敵意を抱く者
    滅ぼそうとする者は力を増して行きます。
  わたしは自分が奪わなかったものすら
    償わねばなりません。

 6:神よ、わたしの愚かさは、よくご存知です。
  罪過もあなたには隠れもないことです。
  万軍の主、わたしの神よ
  あなたに望みをおく人々が
    わたしを恥としませんように
  イスラエルの神よ
  あなたを求める人々が
    わたしを屈辱としませんように。
 8:わたしはあなたゆえに嘲(あざけ)られ
  顔は屈辱に覆われています。
 9:兄弟はわたしを失われた者とし
  同じ母の子らはわたしを異邦人とします。
  あなたの神殿に対する熱情が
    わたしを食い尽くしているので
  あなたを嘲る者の嘲りが
    わたしの上にふりかかっています。
 11:わたしが断食して泣けば
    そうするからと言って嘲られ
  粗布(あらぬの)を衣とすれば
    それもわたしへの嘲りの歌になります。
  町の門に座る人々はわたしを非難し
  強い酒に酔う者らは私のことを歌います。

     
    ・ ・ ・ ・ 

この詩編69編を歌う詩人は、悲しみ苦しみの中で祈っていることがわかります。深い流れの底にまで沈んで疲れ果てているようです。敵の数は多く、滅ぼそうとする者が増えていきます。自分が取らなかった物も償わなくてはならない状況です。自分を取り囲む苦しい状況の中で歌っています。

6節
では敵の前で潔白を主張する彼も、神さまの前では罪ある存在であることを認めています。彼は自分の仲間のことを思いやり自分のゆえに同じ恥を見ないように、卑しめられないようにと祈ります。
8節
からですが、あなたゆえに嘲られ、屈辱を受けているのですから、神の家を思う熱心が彼に対する迫害を招いたのでしょう。
9節
、この当時肉親との関係が断たれることは最も大きな痛手だったといいます。「あなたの神殿に対する熱情がわたしを食い尽くしている。」ここで『あなたの神殿』とありますが、口語訳、新改訳、文語訳では『あなたの家』となっています。あなたの家を思う熱心とは神さまの住まう家、神さまを思う熱心のことだと思います。
11節以下では、嘲られ、非難され、酔ったものたちからうたいはやされます。(新聖書注解参照)

弟子たちはいつもとは違って、激しく行動し、厳しいお姿のイエスさまをみて詩編のこの詩を思い起こしたのです。
共観福音書(注:第1回「言が肉となった」を参照)ではこの箇所はイエスさまが十字架にかかる前のエルサレム神殿で起こったこととして記されています。
去年早朝礼拝で学んだ「マルコによる福音書」では、この事件をきっかけとして、エルサレムのユダヤ人、すなわち宗教上の指導者との対立が決定的となり、イエス殺害が計画されるようにまでなったと記されています。
「ヨハネによる福音書」では、今朝の箇所で、過越祭が近づいた時となっていますが、弟子たちはイエスさまのお姿をみて詩篇69編を思い起こしていたと記します。「食い尽くす」という言葉は文字通り食べてなくすことです。言い換えて「殺す」「焼き滅ぼす」と訳すこともあるそうです。「熱心」「熱意」は主イエス・キリストの父の家を思う熱情です。その熱情が結局は主ご自身の存在を「食べつくす」ことになっていったのです。弟子たちの直感は、十字架につながっていくものとしての主の熱情を捕らえていたのです。
ヨハネによる福音書も共観福音書と同じように、この時の出来事はイエス・キリストの十字架につながっていくものとして捕らえていると思います。

聖書箇所の最初に戻ります。こうなっております。

「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

イエスさまは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒しました。この激しい怒りは何処から来るのでしょうか。

当時、過越祭の時には、地中海全域からのユダヤ人巡礼者が225万人にもなったと言われ、この祭りで屠られる子羊の数は2万5千頭にもなったそうです。祭りでたくさんの人たちが集まると、献金や多くの捧げ物が必要となります。神殿で使えるお金は、ユダヤ人の通貨であるガリラヤのシケルか、神殿のシケルでした。犠牲として捧げる子羊や牛や鳩は遠い道中を連れてくるわけにはいきませんからエルサレムに着いてから、自分の国で使っている通貨を両替して購入しました。両替人や犠牲の動物を売る者たちは「異邦人の中庭」といわれる所におりました。祭りの約1ヶ月前から売り台を出すことを許可されていたと言います。そして、両替人たちは両替のとき大きな手数料を取っていました。また神殿の「異邦人の中庭」には3,000頭もの家畜が繋がれており、宮の外で買った場合に比べて10数倍の値段だったと言われております。

しかし、イエスさまが鳩を売る者たちに言われた言葉は、「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」というものです。イエス様の言葉は、両替人や犠牲の動物を売る者たちが法外な手数料を取って、純朴な巡礼者たちを搾取していた不正を責めるよりも、境内で行われる一切の営業活動に反対されたものであると言えます。
神殿全体の有様を見据えながら主イエスはこの当時神殿で捧げられていたあまりにも形式的になり実質的な内容が失われてしまっていた礼拝のあり方そのものを否定されたのです。過越の祭りはエジプトと言う強大な力から開放してくださった神へのまことの感謝と祈りから出たものでした。しかし主イエスの目には、まことの神をまことの神として礼拝する、神が神として崇められるべきはずの礼拝が、あまりにも物質化し、形骸化し、その真実が失われてしまっているその様子がはっきりと映っていたのです。深い悲しみと共に憤りを覚えられ、激しい行動に出られたのだと思うのです。

次の聖書箇所を一緒に読んでみましょう。2:18以下です。

「ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは3日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自身の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」

ここでの神殿は<ヘロデの神殿>と言われるものです。エルサレムの神殿は、何度も壊されましたが、主イエスがお生まれになる前に、また破壊されました。そしてヘロデ大王がエルサレム神殿の再建に取りかかったのが紀元前20年です。46年もかかったと言うこの時は、まだ建設中であります。完成したのは紀元64年ごろです。神殿が拡張され、祭司の庭、イスラエルの庭、婦人の庭、その外に異邦人の庭が設けられました。この豪華な神殿は紀元70年にローマ軍により破壊されました。

「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちにみせるつもりか。」とユダヤ人指導者たちはイエスさまに詰め寄ったのです。イエスさまは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言われました。この箇所をマルコによる福音書(14:58)は「この男が,『わたしは人間の手で作ったこの神殿を打ち倒し、3日あれば、手で作らない別の神殿を建てて見せる』というのを、わたしたちは聞きました。」と記しています。ユダヤ人の思いの中にあったのは目に見えている神殿ですが、主イエスの語ったのは目に見えている神殿ではなかったのです。聖書が記すようにイエスの言われる神殿とは、ご自身の体のことだったのです。

ここで14節にある「神殿」と「19,20節」にある神殿ですが、新共同訳では同じく「神殿」と訳していますが、口語訳、新改訳では14節は「宮」と訳し、「19,20節」は「神殿」と訳しています。原文では意味が違い、「19,20節」で訳されている言葉は『聖所』と訳したほうがよいものだそうです。『聖所』の奥には至聖所がありそこは神顕現の場を意味します。ですから、ここは主イエスが『聖所』を再建なさった、人間の手で作ったのでなく、主イエスが十字架でご自身の体を捧げることによって、神とわたしたちが出会う場所を作ってくださったと言うのです。ヨハネによる福音書は、弟子たちは十字架にかけられた主イエスが、死んで後3日目に死者の中から復活されたとき、イエスさまの言葉を思い出し、聖書とイエスの言葉とを信じた、と記します。

今朝の箇所にはまことに厳しく激しいまでのイエスさまのお姿があります。しかしそれは神の義と愛が主イエスによって示されたものであります。神さまは私たち人間の罪の深きこと、真実に程遠いその現実の姿をよくご存知です。だからこそ御子イエス・キリストをこの地上に送られました。イエスさまはわたしたち人間のためにこの地上を歩まれ、神さまの愛と真実をご自身の身体をもって示され、わたしたち人間の罪を贖うために十字架にかかり3日目に復活されたのです。復活された主イエスは、神の民の礼拝の中心となられることを聖書は語っております。今ではこの地上でイエスを主と告白する者たちの前で、すなわち教会の礼拝において、わたしたちの中心におられるのです。

今朝の聖書箇所はわたしたちが読むたびに真実の礼拝とは何かと言うことが問いかけられてくるところだと思います。御子イエス・キリストを十字架にかけてまでしてわたしたち人間を贖いだして救ってくださった天の父、神さまに対する心からの感謝の礼拝、神を神として崇める真実の礼拝をこの常盤台教会においてわたしたちが捧げ続けるものでありたいと願っております。(お話:平野一男さん)

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第4回「カナでの婚礼」(ヨハネ第2章 1節〜12節)2004年5月9日


本日に与えられました聖書の箇所はイエス様が公の生活に入られてから最初のしるしを行われ、その栄光を現されたところです。新共同訳聖書の小見出しには「カナでの婚礼」とあります。短い箇所ですので、ご一緒に読みましょう。


2:1  三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2:2  イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
2:3  ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
2:4  イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5  しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
2:6  そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
2:7  イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
2:8  イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
2:9  世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
2:10  言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
2:11  イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
2:12  この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。


この最初の奇跡を起こされた場所が、ユダヤの国の中央から遠く離れたガリラヤ地方の小さな名も無い家族の婚礼の場所において示されたことに大きな意味があると言えます。そこにイエス様がお出でになり婚礼の家族やそこに集まった人々には大きな喜びと祝福につつまれたのです。このことはイエス様と共にあるときに喜びと祝福がいつも包まれている事を示されているのではないでしょうか。

カナという場所はイエス様の家族が住んでいたガリラヤのナザレの町近くにある小さな村です。おそらくマリア様の姉妹の子供さんの結婚式であったろうと言われています。ですからマリア様は招待された客というより、この宴席の世話役をしていたのでしょう。

伝え聞くところでは当時、ユダヤの人々の結婚式は水曜日に行われることが多かったそうです。婚宴の催しは1日以上つづけられ、結婚の儀式は夕方遅く行われ、儀式が終わると若い二人は新居まで村の出来るだけ多くの人から二人の幸福を祈る機会を得るために村の道を案内されてゆく決まりでありました。新居では2人は一週間の間、家庭を解放して婚礼の衣装を着てふるまい、村の者は彼らの言うこと何でも聞き入れ、この喜びと祝いの一週間が2人のこれからの人生における最上の機会でありました。

この大切な祝いの時に、ぶどう酒が無くなってしまいそうになったのです。宴席を設けた花婿にとっては大変な恥となる事態です。世話役のマリア様も大変な事になってしまったと思い、何とかしなければとイエス様に打ち明けましたところ、イエス様は水がめに水をいっぱいに入れて宴会の世話役のところへ持ってゆきなさい言われました。そのようにしますと汲み入れた水がぶどう酒に変えられたという奇跡が行われたという話です。

この奇跡物語のマリア様とイエス様が交わされた言葉から考えてみたいのです。

まず、第一に祝宴にとって無くてはならないぶどう酒が無くなりそうになった事態をイエス様に告げました。「ぶどう酒がなくなりました」
もちろん、イエス様が持っていらっしゃる訳ではありません。マリア様は自分自身ではとうてい解決できない問題を素直にイエス様に告げたのです。イエス様を親しく信頼している者にとっては自分のとりまく状況が悪くなったときにイエス様にたよることは、信仰を得ている者にとってはごく自然なことなのです。そこにはマリア様のイエス様への絶対の信頼があります。
答えてイエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と言われます。この文言だけでは乱暴のように聞けてしまい意味が判らなくなりますが、この言葉は「心配しないで私におまかせください。私のやり方で良いようにしますから」と理解できるのです。

次にマリア様は「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と世話役の人に告げました。イエス様が何をなさろうとしているのかを理解できなくても、マリア様はイエス様を信じていたのです。必ずやこの大変な事態を良い方法でなんとかしてくださるにちがいない。どのような事が起こるのか全く予測が出来なくても信頼できる信仰をマリア様はイエス様に持っていたのです。イエス様への信頼があります。

キリスト教の信仰はまさに私たち、私自身、そしてあなた様の神様への信頼の関係であるといってもよいと思います。人と人の信頼関係は互いに相手の人格を認め合うことにより成立します。しかし、人間関係は自然によくなる訳ではありません。自己中心の気持ちが強くなれば簡単に壊れてしまいます。ましてや他者と自分との間に愛と信頼の関係を作り、維持して、さらに深めることは自然には出来ません。このような行為が出来るようになるには愛のある信頼関係のなかで尊重され訓練されなければ人格性・人間性が育たないのではないでしょうか。
では、どうしたらよいのですか。
このような問いかけに対してイエス様には答えと可能性が開かれているのです。なんと、幸いなことには神様と私、そしてあなた様の間は神様からの一方通行の信頼関係がすでに存在しているのであります。神様はずっと前から私を、あなた様を愛して信頼して傍らに付き添っていてくださっています。ですから、あなた様が神様を信頼しますという告白か意志さえ持ってくだされば、神様とあなた様の信頼関係すなわち、神様への信仰が与えられているのです。
マリア様の大変に美しい信仰から、神様への信頼という信仰の姿を示されるのです。

お名前は失礼しているかもしれませんが、たしか、アサヒビールの前会長樋口広太郎さんは熱心なカソリックの信者さんでいらして、財界人としてもとても大切な働きをなさっておられます。この方の常に心に留めている言葉を以前にお聞きしたことがあります。
「キリスト・イエスに信頼し、己が内にある罪を憎み、隣人を愛する」
実にこの言葉には真摯なキリストへの信仰が込められています。

さらに、神様への信頼はすばらしい恵をも与えられる事を示されています。水がめ六個にいっぱいのぶどう酒は一個には80リットルから120リットル程は入るもので、これほどもあれば祝宴の必要をはるかに超えた量となります。
自分自身の悩みや苦しみがあったとしても、自分一人の苦しみとしないで、自分一人で解決しようとしないで傍らにいてくださる神様への信頼を寄せるときに、神様は私たちの予想出来ないほどの、計り知れないほどの大きな恵みを与えてくださる事をこの「カナでの婚礼」の話から示されるのです。(お話:郷 秀男さん)

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第3回「最初の弟子たち」(ヨハネ第1章 35〜51)2004年5月2日
聖書
「最初の弟子たち」
35   その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
36   そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の子羊だ」と言った。
37   二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
38   イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ(『先生』という意味)どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
39   イエスは、「来なさい、そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
40   ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
41   彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア(『油を注がれた者』という意味)に出会った」と言った。
42   そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(『岩』という意味)と呼ぶことにする」と言われた。

「フィリポとナタナエル、弟子となる」
43   その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って「私に従いなさい」と言われた。
44   フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。
45   フィリポはナタナエルに出会って言った。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
46   すると、ナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい。」と言った。
47   イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
48   ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか。」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
49   ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
50   イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大な事をあなたは見ることになる。」
51   更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」




今日の箇所は、イエスさまが最初の弟子に出会い、招いた時のことが記されているところです。最初にイエスに従った弟子・シモンペテロの兄弟アンデレがいました。アンデレは本当はバプテスマのヨハネの弟子であったということが35節と40節によりわかります。アンデレ、シモンペテロ、ピリポ、ナタナエル、この四人がイエスさまと最初に出会い招かれたのでした。

ヨハネの福音書の記者ヨハネが想定していたのはユダヤ人以外の人々、特にギリシャの人々でした。ギリシャ・ローマの世界の人達には「哲学」が発達していましたから、哲学に興味があり通じている人達に対して、キリスト教のイエスさまの教えは哲学的にもきちんとしたものなのだ、という事を伝えたいという思いがあったようです。
この福音書の冒頭に「はじめに言があった」とありますが、かなり抽象的な言葉で始まっています。ヨハネは哲学的な考えをもつギリシャ・ローマの人々を大切に思っていましたから、このように抽象的に言ったり、また、今日の箇所では、ユダヤ人には特に説明の要らないこともいちいち説明しています。例えば「ラビ(先生)」「メシア(油を注がれた者)」「ケパ(岩)」という言葉の意味をわざわざ説明しています。

今日のところを見ますとイエスさまが四人の弟子たちに出会っています。「出会う」ということについて少し考えてみたいと思います。

私たちも日々の生活の中で色々な人や物と「出会う」という経験をします。けれども私たちは単に擦れ違ったり、ずっと一緒にいたから、という事で出会う訳でもないのです。「会っている」とか「知っている」というよりも、もう少し深い違った意味が込められているのです。人が孤独を感じるのは一人でいる時よりもかえって雑踏の中にいる時の方が多い、といいます。満員電車で人はいっぱい居るけれどそこには深い孤独があるといいます。周りに人が大勢いるからといって必ずしもそこに出会いがあるとは限らないのです。人が「この人と出会った」と感じる時はどういう時でしょうか?それは、そのことを通して私の人生がちょっと動く時なのです。大きく動く時もあります。今までこっちの道を行っていたのにちょっと右に方向が変わるみたいに。結婚などもそうですね。

勿論悪い出会いもあります。あの人に出会ってさえいなかったら・・という事もあるでしょう。そのような出会いの経験がここに記されています。そして私たちはそのような「出会い」ということを通して、人生が豊かに広がっていきます。もちろんそれによって悪い方向にということもありますが、私たちは出会いを通して広げられていくということがあります。色々な人との出会いや人生の経験を通して自分の中に広げられるもの、自分の人生体験だけでは感じられないものを人との出会いを通して知らされていきます。

私は最近関わっているある会で「人をどう作っていくか、人とどう関わっていくか」ということを発題させていただきました。こんにち多くの人に「人と出会う力」が欠けているのではないかと言われています。出会っていくというのは自分の人生を変えられていきますから面倒なことなのです。多くの人が、変わりたくない、今のままで安心と思い、自分の好きな世界、趣味の世界での出会いは良いが、それを超えたところでの出会いというのに躊躇しているのです。なるべく出会わないように、あまり深入りしないようにしているようです。しかしこの「出会う」ということをしていかないと私たちは自分の考えや趣味・思考の中でしか、ものが見えなくなってきます。価値判断ができなくなってきます。

今幼稚園でのお父さんお母さんの子供達に対する見方はそれぞれだと思いますが、しかしもう少し広がりをもってもいいかと思います。というのは、今の時代は、特に子供に対してのマニュアルなどの本が出ていますので、評価するものさしが非常に狭くなっています。しかし評価するものさしは実はいっぱいあるのです。
ONLY ONE の人生はどうやって見出されるかというと、違う秤で計ったときに ONLY ONE が見えてきます。同じ秤で計れば比較でしかありません。そのような比較をなくそうとする時には秤を変えてみる。そうすることによってその人の違った面が見えてきます。

私の子供のころには様々なはかりがあったように思います。勉強なんか出来なくても運動がものすごくできる。スポーツも勉強もできないけど、いろんな遊びを知っている、それだけでワーッと人気者になるんですね。たくさんの秤をもち幅を広げていくことによって、異なった人と出会っていくことが大切なのです。

ここで、イエス様はフィリポ、ナタナエル、ペトロ、アンデレと出会いました。フィリポがイエス様に出会ったとき「ああこの人は素晴らしい人だ。この人をナタナエルに紹介したい。ナタナエルにもイエス様に出会ってほしい。ナタナエルもイエスさまに出会ったらきっと素晴らしいと思うに違いない。」といって紹介したら、ナタナエルは渋い顔をしました。彼は出会うことを拒み、躊躇しました。彼はその人がナザレの子イエスではないかと思い、また彼には「ナザレからは良いものは出ない」と聖書に書いてあるじゃないか、という知識がありました。知識があることでナタナエルは出会いを拒もうとしました。直接会うことよりも自分の知識を優先して、その人に会っても仕様がないと判断しました。私たちも人と出会うときに自分の価値判断でその人と会ってもしょうがないと決めてしまいます。そういうレッテルを貼ることで出会いから遠ざかってしまいます

しかし、フィリポは躊躇しませんでした。ナタナエルがイエスさまにレッテルを貼ったことを承知で、しかしとにかく会ってみなさい、直接あわなきゃわからないよ、といって会わせました。会ったとき、イエスさまはナタナエルのことをわかっていましたから「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」といいました。ナタナエルはいちじくの木の下で何か重大な決心をしたのか何かあったのかわかりませんが、特別な時を過ごしていたのではないでしょうか。「あなたはイチジクの木の下にいたでしょう」と言われた時、ハッと自分の心を見透かされたような気がしたのだと思います。

その時彼は「ナザレ人だ、たいしたことない」とイエスさまにはっきりとレッテルを貼っていました。イエスさまは「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか」と言いました。あなたはこれからもっと素晴らしいことを見ることになる。もっと素晴らしい出会いをしていく。あなたは人に対して、罪に対して、自分に対してレッテルを貼っていないか。それによってあなたは大切な出会いや素晴らしい出来事と出会うチャンスを逸していないだろうか。イエスさまはそのようにこのナタナエルに問いかけておられるのではないでしょうか。

イエスさまと私は直接出会ったことはありません。しかし、二千年を通して「この人と出会ってよかったよ、この人と出会って素晴らしかったよ」と言い続ける人が途絶えずに続いているのです。この4人の人たちの出会いがその最初だったのです。「イエスさまと出会ってよかった、イエスさまを知ってよかった」という思いの中で二千年という時が経ち、今もこの出会いが続いています。フィリポのように「一度出会ってごらんよ」という人が二千年間、世界中で途絶えたことがないのです。

そんな方と私は出会ったんだなぁ、出会えてよかった、そしてその方と是非出会って欲しい、そんなフィリポのような祈りと願いをもって今私はここに立たされています。本当にイエスさまと出会ってよかった。私はそのように思っています。何でよかったの?と聞かれても、言葉を尽くして説明しきれません。しかし、だからこそ是非祈りの中で、また聖書のみことばを通してイエスさまと出会っていただきたいと思うのです。

イエスさまと出会うとき、私たちは本当に素晴らしい人生の変化を経験します。そしてそのような素晴らしい人生の変化を経験した人たちが二千年間世界中で、また民族を超えて途絶えることなく今もいるという、そのような素晴らしい出会いがあることを是非知っていただきたいと思います。(お話:中田義直牧師)(テープから編集させていただきました)                                           

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第2回「洗礼者ヨハネの証し」(ヨハネ第1章 19節〜34節)2004年4月25日
聖書
 洗礼者ヨハネの証し
19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問をさせたとき、
20 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。
21 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリアですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
22 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」
23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。


 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
 『
主の道をまっすぐにせよ』と。」

24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。
25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼(バプテスマ)を授けるのですか」と言うと、
26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼(バプテスマ)を授けるが、あなたがたの中には、あなた方の知らない方がおられる。
27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
28 これはヨハネが洗礼(バプテスマ)を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 神の子羊
29 
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。
30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼(バプテスマ)を授けにきた。」
32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼(バプテスマ)を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である』とわたしに言われた。
34 わたしはそれを見た。だからこの方こそ神の子であると証ししたのである。


みなさんおはようございます。今朝も聖書からみことばを聴いてまいりたいと思います。

エルサレムのユダヤ人たちがヨハネのところに祭司やレビ人を遣わしました。遣わされた彼らは「あなたは、どなたですか」と質問しました。どうしてエルサレムのユダヤ人たちは彼等を遣わしてこのように尋ねさせたのでしょうか。
マルコによる福音書の第1章にはこのようにあります。

「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」(マルコ1:4−6)

この時、バプテスマのヨハネには大変大きな影響力があったことがわかります。本来バプテスマは異邦人(ユダヤ人でない人)が“あなた方ユダヤ人の神様を信じます”という時に、すなわち改宗する時に受けるものでした。しかし、彼はユダヤ人に自分自身の罪を悔い改めてバプテスマ(洗礼)を受けることを求めました。彼は「天国は近づいた」と説教を行い、まじかに迫る神の審きに供えた罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマを説いたのです。
エルサレムにいる宗教指導者たちは、ヨルダン川の向こうの地でバプテスマのヨハネが行うこのような運動で、自分たちの足元から多くの群集が引き寄せられてヨハネの下に行くこと、自分たちの権威に対する影響を考えるとこのままにはしておけなかったのでしょう。誰がそれを赦しているのか。何の権威でそのようなことをしているのか。そうした思いのなかから彼らは祭司やレビ人たちを遣わしたと思われます。

ヨハネはまずこう答えます。「わたしはメシアではない」すなわち救い主、救世主ではないと言うのです。すると使者たちは「エリヤなのか」「あるいはあの預言者なのか」と問いかけます。旧約聖書のマラキ書の第3章23節に「見よ、私は、大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤを遣わす。」とあるのですが、神の最後の審きの時に、決定的な救いのもたらされる時に、エリヤが来ると預言者マラキは語ったのです。こうした期待がユダヤの人々の間に生きていたのです。「あの預言者」というのは旧約聖書、申命記第18章15節以下にあります。「あなたの神、主はあなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない。このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。」
これは申命記にあるモーセの語ったとされる言葉です。モーセは出エジプト記でご存知のように、イスラエルの民を導いてきました。そのモーセが、いつの日にか、私のような預言者が立てられるということを預言した。これもまた、神の審きにかかわって、決定的な審きに先立つものと考えられていたのです。ヨハネはどちらも否定します。

そして彼は、イザヤ書の言葉を用いて「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」と答えます。

この答えを聞いて使者たちは安心したかもしれません。メシアでなく、エリヤでも、あの預言者でもないのですから。しかし、彼らはさらに質問します。「あなたはメシアでも、エリヤでも、あの預言者でもないのになぜバプテスマを授けるのですか。」これは、あなたは何の権威をもってそのようなことをするのかと言うことでしょう。これに対してヨハネは「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなた方の中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその方の履物のひもを解く資格もない」と語ります。
当時、履物のひもを解くことは奴隷の仕事でした。バプテスマのヨハネは後から来るその方の奴隷になる資格もないと言っているのです。ヨハネはただひたすら自分の後から来られるお方を指し示しているのです。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と叫ぶこえである。」と語っているのです。

次の箇所をご一緒に読んでみましょう。

「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは水で洗礼(バプテスマ)を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼(バプテスマ)を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証したのである。」

ヨハネによる福音書はイエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたことを言葉で記してはおりません。しかし、ヨハネによる福音書の記事は、明らかにイエス様がヨハネのもとでバプテスマを受けられたことを前提としています。ヨハネが水でイエス様にバプテスマを授けているときに、“霊”が降ってきてとどまったのです。それをヨハネは見たのです。そして、ヨハネはご自分を遣わされた方から『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である』と言われていた。
彼を遣わされた方とは天の神様です。だから、この方こそ神の子であるとヨハネは証するのです。

そして、バプテスマのヨハネはこの方、イエス・キリストを「世の罪を取り除く神の子羊」であると語ります。この神の子羊という言葉は、共観福音書にはありません。このことは、ヨハネによる福音書がイエス様をどのように理解しているかと言うことが示されています。
出エジプトのとき、イスラエルの人々はなかなかエジプトから抜け出すことができませんでした。最後に、イスラエルの家の柱と鴨居に子羊の血を塗るようにと神様から示されました。滅ぼす者は、子羊の血を塗られたイスラエルの家の前を、過ぎこしていった(出エジプト12章)。このことをいつまでも感謝し、覚えるために設けられたのが過越の祭りです。ヨハネによる福音書は第19章14節以下で、主イエスが十字架にかけられたのは、過越の祭の準備の日であったと記しております。
イエス・キリストは過ぎ越しの子羊として十字架に付けられたのだと告げているのです。

イスラエルの民が、子羊の血によってエジプトから脱出でき、滅びからまぬかれたように、この世の一人一人が背負っている罪を贖うためにイエス・キリストは十字架にかけられたのだとヨハネによる福音書は語りかけてきます。

今、世界に目を向けるとき、国家による大義名分のもとに、血で血を洗う戦いが多くの国により行われています。
争いの根源にあるものはなんでしょうか。人間の自己中心的な思い、おのれこそ正しいとする独善的な考え方が膨らんでいって、人間の集団的な思いとなり、それが正義であると思い込んで、異なった考え方を持って生きる人々を力によってねじ伏せようとする、まさに自己中心的な欲望、すなわち人間の罪の問題が潜んでいるのではないでしょうか。それは一人一人の人間の心の中に根を持っている罪の問題ではないでしょうか。
こうした人間の罪は神さまの目からすれば当然審かれなければなりません。神さまのみ心は愛なのですから。イエス・キリストの十字架はこうした人間が犯している罪のために流されたのです。ですから十字架の贖いの救いを受け入れたわたしたちは、他の人たちを受け入れ、平和を作り出す者として、神の子としての歩みを進めていくとき、幸いであるといえるのです。


洗礼者ヨハネに神さまから与えられた使命は「荒れ野で叫ぶ声として」、イエスさまを「神の子羊」として証しすることでした。そのために彼は、自らの使命を忠実に果たしたのです。そして今も洗礼者ヨハネは、聖書を読むわたしたちに、イエス・キリストを指し示し、イエスさまは「世の罪を取り除く神の子羊」であると証しし訴えかけているのです。

ヨハネによる福音書は、第一日目、第二日目をバプテスマのヨハネによる証しを持って始まりました。
さらにこれから日にちを刻むようにして、実際の出来事を通して、イエスさまはいったい誰なのか、どのようなお方なのかを語っていくのです。(お話:平野一男さん)

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第1回「言葉が肉となった」(ヨハネ第1章 1節〜18節)2004年4月18日

聖書
第1章 1節〜18節
「言が肉となった」
1    初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2    この言は、初めに神と共にあった。
3    万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。
4    言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5    光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
6    神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
7    彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
8    彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
9    その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
10   言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11   言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
12   しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
13   この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
14   言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
15   ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
16   わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
17   律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
18   いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。




昨年の4月から読みはじめたマルコによる福音書を先週で読み終わりまして、今回から1年を通して、ヨハネによる福音書を読むことになっております。

皆さまご存じの通り、新約聖書は、まずイエスさまのご生涯の出来事を記した四つの福音書によって始まります。これらの福音書は、イエスさまを愛し、イエスさまを信じた4人の記者たちが、それぞれの信仰に立ってイエスさまのご生涯を記したもので、それぞれの特長をもっております。

昨年読みましたマルコの福音書は最初に書かれた福音書で、マタイの福音書、ルカの福音書の基礎となったもので、この三つの福音書は共観福音書と呼ばれますが、ヨハネの福音書は他の福音書とは違う視点から書かれたもので、独特の筆致でイエスさまを記しました。

例えば、誕生物語についていえば、マタイ福音書はユダヤ人のために書かれましたので、例の長々とした系図のあとに、主に父親ヨセフに焦点をあてながら記しています。一方、ルカは、ローマ人を対象に記されましたせいか、主に母マリアに焦点をあてた誕生物語になっています。そして、このヨハネ福音書は、イエスさまの誕生を、できごととしてではなく、イエスさまがこの世においで下さったその意味を伝えるという形で記しました。それが今日私共が読んでおります1章1節〜18節であります。19節からは具体的な出来事が記されておりまして、今日読みます18節までは、ヨハネ福音書の序章、序曲ともいうべき言葉でありまして、また、或いは、この文章はヨハネの弟子たちのキリストを讃美する歌が基になっているのではないかという説もあります。

実は、このヨハネ福音書の冒頭のこの部分は、聖書の中でもきわめて難しい真理を内蔵している箇所といわれておりまして、私の愛読する加藤常昭先生の説教集では、この箇所を5回の礼拝にわたって説教をしておられ、書物にして、ここだけで実に80頁をついやしておられます。その他、優れた聖書学者や牧会者たちが研究し、解釈し、深く読み込んで、更に今なお、新たに研究はつづけられて、多くの人々がその深みを探求しつづけているというそのような聖書の箇所であります。

しかし、それだからといって、私共小さな存在の信徒たちには近づくことの出来ない、ということではありません。聖書はすべての人々に開放され、問いかけて下さる。ささやかな信徒は信徒なりに、ここから何かを汲みとる幸せを与えられており、私も一信徒なりに信じるところを語らせていただきたいと思います。

ヨハネはイエスさまがこの世においで下さった意味を語るにあたって「はじめに言があった」という言を冒頭に置きました。訴える力のある印象深い言として心に残るからでしょうか、クリスチャンでない人々にもよく知られているフレーズです。

「はじめに」の「はじめ」は私共が物事の“はじめ”とか“終わり”とかいう時間的な“はじめ”ということではなくて、すべてのものの根源という意味のようです。次に「言があった」の「言」をどのように受け止めるかがこの個所を読むときの課題になります。

日本の文化での言葉というものはあまり重要な地位は与えられておりませんで、言葉のもともとの語源は言の端で、多分に情緒的でありますが、聖書の原典の言葉であるギリシャ語のロゴス「言」は大変重い意味をもっていました。ギリシャ語のロゴス「言」の意味するものは、理性或いは意志です。ですから、「はじめに言があった」というこのみ言を解釈いたしますなら、『根源的なところに神の意志があった』となります。そして、神の意志はキリストをこの世におつかわしになったとヨハネは主張いたします。即ち、神の意志によってキリストは人間として地上に来られたのです。そしてキリスト、イエスはずーっと前から神と共にあった。2・3節でいうなら、はじめから神と共にあったし、すべてのものはこれによって出来たと言います。即ち、神の意志イコール、キリストでありまして、ここを「はじめにキリストがあった」と読み、5節まで「言」を「キリスト」と読みかえて読めば分かり易いという学者もおります。「1節〜5節」をこのように置き換えて読んでみたいと思います。

『初めにキリストがあった。キリストは神と共にあった。キリストは神であった。このキリストは、初めに神と共にあった。万物はキリストによって成った。成ったもので、キリストによらずに成ったものは何一つなかった。キリストの内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった。』となります。
即ち、マタイ福音書やルカ福音書のような、誕生物語からイエスが存在するのでなく、天地創造の前からおられた神と共に存在していたと言っているのです。

このようにしておいでになったイエス・キリストは4節・5節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とあります。しかしイエスさまがこの世においで下さったから一ぺんに何もかもが光輝いて、すべてがハッピーになるというのではありません。私はこの言葉を読むときいつも、クリスマス物語の中であまり話題にならない一つの出来事を想い起こします。マタイ2:16の記事、ベツレヘムに生まれたみどり児によってヘロデ王は自分の王位がおびやかされるのではないかという猜疑心(さいぎしん)のために、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の児をみな殺しにするのです。

イエスさまの誕生のよろこびのかげに生ずる、この悲しい出来事を私はどう理解すればいいのかといつも迷います。人間の罪の深さをしみじみと思わせられます。よろこびは、単純によろこびのまま終わらないのです。

このヨハネの福音書が書かれた時代は、ユダヤの国はローマの圧政下にあり、また現代のように社会制度も確立されていない時代ですので、社会は暗黒の部分をたくさんかかえていたと思われます。しかし現在、この豊かな発達した社会をみても暗黒は決して小さくなってはいません。一人ひとりの問題として自分自身をみても、深い闇をうちに秘めつつ生きている私です。しかし闇は闇のままではないのです。光が闇の中に輝いているのです。イエスさまの誕生によって、この闇の中に一条の光が輝きはじめたのです。

しかし5節「光は闇の中に輝いている」という言のあとに続く5節後半の言は「暗闇は光を理解しなかった」でありまして、19節以下からつづられるイエスさまのご生涯の姿は決して平穏で順調というものでなく、実に苦難と悲しみに満ちたものでありましたが、それはこの世の闇、人々の罪深さが闇を照らす光としておいでになったイエスさまを理解出来なかったための結果であったと思われますし、ついにその人々の罪深さのすべてを背負って十字架におつきになったイエスさまの苦難のお姿をこのひと言にこめたものと思われます。

実は、昨年まで私共が使っておりました口語訳聖書では、ここは「そして闇は光に勝たなかった」となっていまして、いわば、イエスさまの最終的な勝利のお姿を宣言する言になっておりました。新共同訳では、何故この勝利の言を殆ど逆の言に訳しかえたのかは私には分かりませんが、私が若い時代に使っていた文語訳では「光は暗きに照る。そして暗きはこれを悟らざりき」となっておりましたので、新共同訳において、昔の解釈に戻ったのだと思われます。

よく見ますと、10節には「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」とあり、更に11節には「言は自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった」とありまして、ヨハネは、この福音書を書くにあたり、光としておいでになったキリストを理解出来なかったこの世の罪深さを強調しているように私には思われます。

さて、このように闇の世に光としておいでになったイエス・キリストとはどのような方であるかというと14節にこう記されております。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」イエスさまがどんなに人々を愛し、愛し通されためぐみの方であるか、どんなに正しく真実な方であるかは聖書にその姿が記され、私共はこの福音書をこれから読み進むうちにも、そのようなイエスさまの言動に出会うことでしょう。

私共の日々の生活は決して楽しいことばかりではありません。ときに争いがあり、或いは死や病があり、経済的不安が襲ったり、ときには焦燥や挫折感に打ちひしがれるときもある、そのように必ずしもハッピーではなく、闇に沈みそうになる現実の中にもイエスさまは共に生きていて下さる、常に一緒にいて下さる、それが「宿られた」ということだと思います。闇の中に灯っている光としてのイエスさまが共にいて下さるという平安、励まし、慰めをいただいて、焦燥や挫折から立ち直り、また希望をとり戻して人生の道を歩んでゆけるのです。

この教会にしても、ここに唯、教会堂という建物があって、そこに人々が集まってくるだけだったら○○会館と何ら変わりはありません。もしそれだけのことだったら、誰が忙しい中から、毎週こうして集まってくるでしょう。めぐみとまことなる主イエスさまの教会だからこそ、愛し、より処とし、誇りとするのです。エフェソの手紙に「教会はキリストの霊のみちみちているところ」という言がありますが、主イエスが宿っていて、私共と霊的に関わって下さっているからこそ、ここは聖なる場となり、信仰の拠点となり、喜びと感謝をもって教会生活を送る、そしてそのような中で、私共はいつもイエスさまに出会うことが出来るのでございます。

そして、ヨハネはこの序章の終わりに、まるでとどめをさすように、18節「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」と宣言いたします。現代でも修行を積んで神を見たという人がいたりしますし、またそのような体験の上に新しく宗教を作り出したりいたします。まして2000年前の社会には、神を見たという人はもっと多かったと思いますし、また、それを信じて、そこに集うということも多かったと思いますが、そのような社会に向かって、大胆にも、「未だかつて神を見た者はいない」と断言し、見ることの出来ない神を、イエス・キリストのみが示した、表したと言い切っています。言い換えれば、イエス・キリスト以外に神を示すものは無いと言っているのです。そして、14節の繰り返しになりますが、その神は、恵みと真理に満ち、闇の世に輝く光として、私共の中に宿っていて下さるお方であります。

ヨハネ福音書の序章ともいうべきこの1節から18節の信仰的主張は、これから読み進むヨハネ福音書全巻の底を最後まで強く流れつづけております。

今、私共は未来の見えにくい時代に暮らしているのだと思います。今まで持っていた常識とか仕組みとか価値観が激しく揺さぶられる時代であります。世界はテロ、戦争、国内でもさまざまな事件があとを絶たない、このような時代に生きる私共の日常も、平安で希望に満ちたものとはなりにくいのでありますが、しかし、これから読み進むヨハネの福音書から、私共はきっと道しるべと勇気を与えられると信じます。

先程歌いました讃美歌90番は「ここも神のみ国なれば よこしま暫しは時を得とも 主のみ旨のややになりて あめつちついにはひとつにならん」と神のみわざを歌います。このようなみわざの流れの中の一日一日であることを思い、その日その日を大切に歩みたいと思っております。(お話:工藤渓子さん)

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