
| 4月18日 | 1章 1-18 | 言葉が肉となった | 8月 8日 | 7章25-31 | この人はメシアか | |
| 4月25日 | 1章19-34 | 洗礼者ヨハネの証し | 8月15日 | 7章37-39 | 生きた水の流れ | |
| 5月 2日 | 1章35-51 | 最初の弟子たち | 8月22日 | 8章 1-11 | わたしもあなたを罪に定めない | |
| 5月 9日 | 2章 1-12 | カナでの婚礼 | 8月29日 | 8章12-20 | イエスは世の光 | |
| 5月16日 | 2章13-25 | 神殿から商人を追い出す | 9月 5日 | 8章31-38 | 真理はあなたたちを自由にする | |
| 5月23日 | 3章 1-15 | イエスとニコデモ | 9月12日 | 9章 1-12 | 生まれつきの盲人をいやす | |
| 5月30日 | 3章22-30 | イエスと洗礼者ヨハネ | 9月19日 | 9章13-41 | ファリサイ派の人々、事情を調べる | |
| 6月 6日 | 4章 1-30 | イエスとサマリアの女 | 9月26日 | 10章 1ー18 | イエスは良い羊飼い | |
| 6月13日 | 4章43-54 | 役人の息子をいやす | 10月 3日 | 10章22-30 | ユダヤ人、イエスを拒絶する | |
| 6月20日 | 5章 1-18 | ベトザタの池で病人をいやす | 10月10日 | 11章 1-16 | ラザロの死・イエスは復活と命 | |
| 6月27日 | 5章19-24 | 御子の権威 | 10月17日 | 11章45-57 | イエスを殺す計画 | |
| 7月 4日 | 6章 1-15 | 五千人に食べ物を与える | 10月24日 | 12章 1−8 | ベタニアで香油を注がれる | |
| 7月11日 | 6章16-21 | 湖の上を歩く | 10月31日 | 12章12-19 | エルサレムに迎えられる | |
| 7月18日 | 6章22-59 | イエスは命のパン | 11月 7日 | 12章20-26 | ギリシャ人、イエスに会いに来る | |
| 7月25日 | 6章60-71 | 永遠の命の言葉 | 11月14日 | 12章36-50 | イエスを信じない者たち | |
| 8月 1日 | 7章 1ー9 | イエスの兄弟たちの不信仰 | 11月21日 | 13章 1-20 | 弟子の足を洗う |
| 1月 2日 | 13章21-30 | 裏切りの予告 |
| 1月 9日 | 13章36-38 | ペテロの離反を予告する |
| 1月16日 | 14章 1-11 | イエスは父に至る道 |
| 1月23日 | 14章15-31 | 聖霊を与える約束 |
| 1月30日 | 15章 1-17 | イエスは真のぶどうの木 |
| 2月 6日 | 15章18-16章4 | 迫害の予告 | 3月 6日 | 18章12-25 | 大祭司の元への連行と尋問・ペトロの否認 | |
| 2月13日 | 16章16-24 | 悲しみが喜びに変わる | 3月13日 | 18章28-38 | ピラトから尋問される | |
| 2月20日 | 17章1-5,20-26 | イエスの祈り | 3月20日 | 19章16-30 | 十字架につけられる | |
| 2月27日 | 18章 1-11 | 裏切られ逮捕される | 3月27日 | 20章 1-18 | 復活する |
| これらのメッセージは「常盤台バプテスト教会・早朝礼拝」で語られたオリジナルメッセージです 許可なく引用することを禁じます |

| 第45回「復活する」(ヨハネ第20章1節〜18節)2005年3月27日 |
| 聖書 【復活する】 1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。 そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。 「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。 しかし、彼は中には入らなかった。 6 続いて、シモン・ペトロも着いた。 彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入ってきて、見て、信じた。 9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。 【イエス、マグダラのマリアに現れる】 11 マリアは墓の外に立って泣いていた。 泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。 一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。 しかし、それがイエスだとは分からなかった。 15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」 マリアは園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、 どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります。」 16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。 「先生」という意味である。 17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。 わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。 『わたしの父であり、あなた方の父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。 今日は一年間学んでまいりましたヨハネの福音書の最後の学びとなります。そして、福音書の最後は、どの福音書もすべて、イエス・キリストの復活の出来事をもって最後となります。福音書は4つありますけれども、イエスキリストの誕生、クリスマスの出来事を、書き記さないで始まる福音書はありますけれども、復活を書き記さないで終わる福音書ないんですね。すべての福音書は復活をもって終わる。つまり、実は、クリスマスの出来事よりも、むしろ復活祭、イースターの方が重要なこととして、欠けてはならないこととして、福音書が告げていることを、まず、心に留めておきたいと思います。 そして、4つの福音書のそれぞれの復活の出来事を見比べますと、微妙にその内容が違っております。 今日のヨハネの福音書では、マグダラのマリアが墓にいって、そして墓石が取りのけてあるのをみて、ペテロともう一人の弟子に告げて、二人が墓に駆けつけたと記されていますけれども、他の福音書では、数人の婦人達が墓にやってきて、殻の墓で、天使から復活のメッセージを告げられて、恐れて逃げ去ったとなっていたり、いろいろ細かいところが違っております。 そして、ある人は、そういう違いを、矛盾だと考えて、だから復活ということはないのだと考えます。しかし、それでは、逆に四つの福音書が、まるで判でおしたように、同じことを書いていたら、それは真実になるのかというなら、その方が、証言としては疑わしい。 たとえて言うなら、もうすぐ入学式ですけれども、入学式の出来事を作文に書きなさいといったなら、子どもが40人いれば、40通りの違った作文ができるわけであります。おなじ出来事でも、書く人の立場、視点が違えば、全く違ったものになる。もし、まったく同じ文章を書いてきたとしたら、誰かのを見て書いただろうと、そういうことになるわけですね。証言というものは、そういうものであって、微妙に違っていて当たり前であって、全く同じであるなら、かえって作り話ではないかと疑わしくなるわけであります。 福音書に記されている、復活の出来事が、それぞれに微妙に違っているからこそ、それが、作られたお話をコピーしているのではなく、本当にその出来事に遭遇した人々の、証言として、ここに記されているのだと、そう言えるのであります。 キリストの復活とは、なにか科学的に証拠を挙げて、論証するようなことではなくて、この福音書が語る、復活の証言を、私たちがどのように受け止めるのか、というそういうことに尽きるのですね。 このキリストの復活を証言し、福音書に書き記した最初の教会の人々は、このキリストが復活したという証言を、人々に語り続けたゆえに、ローマを惑わすものとして、迫害され、多くの命が失われたわけでした。 キリストの弟子たちはそのほとんどが殉教いたしますけれども、彼らはキリストの復活を証言したがゆえに、自分の命を危険にさらしたわけであります。その命がけの復活の証言が、ここに記されているわけであります。わざわざ自分の命を危険にさらすような作り話を書き記すほど、彼らは愚かではないでしょう。本当でもない、まったくの嘘の話を、命がけで証言するほど、彼らは愚かではない。そう思います。 ですから、この復活の出来事を読む私たちも、これは、初代教会の真剣なる、そして命がかかっていた証言の言葉であったことを覚えつつ、この復活の物語を読みたいと思っています。 けれども、限られた時間ですから、今日は特に11節からの、マグダラのマリアにイエス様が現れた出来事を読んでいきたいと思います。 11節を見ますと、「マリアは墓の外に立って泣いていた」とあります。 せめてイエス様のご遺体に、香料を塗って差し上げたいと墓に行ったのでしょう。他の福音書をみると数名の女性が香油を塗りに墓に行ったと記されていますけれども、それがせめてもの愛の行為として、最後にイエス様にして差し上げられることでありましたのに、墓にいってみると遺体がなかったわけであります。そして、急いで弟子たちのところに戻り、遺体が取り去られてしまったと、彼女は告げます。彼女は、墓の殻を見た瞬間に、誰かが遺体を持ち去ったのだと、そう思ったわけです。マリアはまさか復活したとは思わなかった。おそらく、私たちもそう考えるように、これは、誰かが遺体を持ち去ったのだと考えた。 ペテロともう一人の弟子が墓に入ると、そこには、遺体に巻いてあった亜麻布がおいてあったと記されています。しかもずいぶん細かく書いてあるのであります。 「20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」 何気なく読み過ごしてしまうところですが、この細かい描写が意味していることが一つあるのであります。 それは、マリアの思いこみが、間違っていたということであります。マリアは「主が墓から取り去られました」といいました。殻の墓を見たマリアはとっさにこれは誰かが持ち去ったに違いないと思いこんだ。 しかし、誰かが持ち去ったというのなら、遺体をぐるぐる巻きにいしていた亜麻布もないはずなのであります。しかし、亜麻布はそこにあった。ということは、誰かが遺体を取り去ったと思ったマリアの思いこみは、間違っていたということであります。しかし、彼女はそのことに気がついていない。 気がついていませんから、マリアは墓の外に立って、泣き続ける。そして、泣きながら墓の中をのぞき込むと、天使が見えたとあります。しかし、マリアは驚くことも、恐れることもなく、状況がよくわかっていないような、そんな応答をいたします。 ただ天使に向かって「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と、弟子たちに語ったのと同じ言葉を、うわごとのように語るのであります。 さらに、後ろを振り向くと、そこにイエス様が立っておられたというのに、それがイエス様だとはわからなかったと、そう記されています。イエス様がそこにいるというのに、気づかずに泣き続けるマリア。 今日の出来事は、この泣きつづけるマリアの姿が、大変印象深く響いて参ります。もう、泣くことしかできない。泣く以外、どうすることもできないマリア。イエス様が十字架につけられ、苦しみのなかにいたときも、きっと遠くから見て、泣くことしかできなかったマリア。イエス様が死んで葬られるときにも、なにもしてあげられなかったマリア。そして、せめてその遺体に香油を塗りたいと墓にやってきたというのに、その遺体さえも目の前から消え失せてしまった。もはや、なにもできない。ただ、ただ、立ちつくして、泣くことしかできないマリア。 そして、それはまた、私たちの姿でもあるのではないでしょうか。私たちもまた、ただ、泣くことしかできない時がくる。愛する人を失う、その死と向き合わなければならないときが、例外なく、すべての人にやってきます。そして私たちは、その時になって、このマリアのように、自分はなにもしてあげられない、なにもできない、ただ泣くしかないという、そんな自分のふがいなさ、無力さ、むなしさ、悲しみを、このマリアの涙を、知らされるのでありましょう。 涙にくれるマリアには、天使の姿も、愛するイエス様の姿さえも見えません。見えているのに見えていない。イエス様が、すでに、すぐそばにいてくださるのに、気がつかない。悲しみの思いに心つぶされて、すでにそばにいてくださっているイエス様に気がつかない。そういうことが人生には起こります。 イエス様はマリアに語りかけます。「なぜ泣いているのか」 このイエス様の問いかけは、もう泣かなくてもよいのだ、という、そういう語りかけでありましょう。もう泣く必要はない。なぜなら、イエス様はすでにそこにおられるからであります。マリアはそのことに気づいていないだけ。ただそれだけであります。 マリアはイエス様を園丁だと誤解して、泣きながら言います。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 マリアは涙で目が曇らされて、何も見えていないのでありましょうか?。悲しみの涙は、見えていたはずの目を曇らせるのでありましょうか。 突然、本当に突然、癌の宣告を受ける。そういうことが人生には起こる。そして、見えていたと思っていた未来が、悲しみの涙によって、見えなくなってしまうことがある。しかし、私たちにとって、涙で目が曇らされるということは、必ずしも悪いことではない。いや、涙によって目が曇らされなければ、聞こえてこなかった声がある。悲しみと無力さゆえに涙で目が曇らされなければ、聞こえてこなかった、御声があるのであります。それがまさに、マリアに語りかける、イエス様の声であった。 イエス様はひとこと、「マリア」と声をかけられます。「マリア」。この懐かしい、イエス様の、そのたった一言の語りかけ、その呼びかけだけで、マリアには十分でありました。マリアはこの一言の呼びかけですべてわかった。悟った。そして、彼女は振り向き、いつも親しくお呼びしていたように、一言「ラボニ」、先生と呼んだ。 復活のイエス様との出会い。それは、イエス様に呼ばれ、そして、イエス様を呼ぶ、そういう出会いであります。それは、なにか、自分の目で確認なければならないとか、自分の頭で納得しなければ出会えないと言うような、そういう出会いではありません。 そうではなく、そんな物事がよく見えているつもりだった目が、涙で曇らされたときに、どうしようもない自分の無力さに、そして罪深さに、悲しみの涙を流すときに、初めて聞こえ始める声に、聖書の御言葉を通して語りかけている、イエス様の語りかけに、耳を傾け、そして、主よと祈りの中で呼びかけていく。それこそが、確かにそばにいてくださる、いや、すでに、ずっとそばにいてくださっていた、イエス様との出会いなのであります。 イエス様に気がついたマリアに、イエス様は、言います。 「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」 今、マリアはイエス様にすがりついているのであります。愛するお方が、今、目の前にいてくださる。そのお方に、マリアは、泣きはらした顔をきっとこすりつけるようにして、すがりついている。しかし、そんなマリアに、イエス様は「すがりつくのはよしなさい」といわれる。なぜなら「まだ父もとへ上っていないのだから」といわれる。 そう、イエス様は、父なる神のもとに上られる。そして、見えざるお方となられる。復活された主は、もはや、目で見ることも、手で触ることもできない方となって、しかし、いつも、いつまでも、私たちと共にいてくださるお方となられる。 マリアはそのことを受け入れなければなりませんでした。それが、「すがりつくのはやめなさい」というイエス様の語りかけの意味であります。 そして、最後にイエス様はマリアにこういわれます。 「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 わたしの兄弟達とは、ご自分を裏切り捨て去った弟子たちのことであります。 主は、ご自分を捨て去った弟子たちを、わたしの兄弟と呼んでくださる。そして、天の父は、わたしの父であり、そして、わたしを裏切り逃げ去った、あなた方、弟子たちの父でもいてくださるのだ、と、神の計り知れない愛と、赦しを伝えるようにと、イエス様はマリアに語るのであります。 イエスキリストの復活。それは、十字架の後に、とってつけた作り話ではありません。復活によって、神の愛と赦しが完成するのであります。私たちの罪を背負って死んだキリストを、神は復活させてくださったからこそ、罪の赦しは完成するのであります。もし、復活がなく、十字架でキリストが死んだままであるなら、キリストの弟子たちは、一生涯、イエス様を裏切った罪に苦しみつづけなければならないでしょう。そして、私たちの罪も、赦されることはない。復活こそが罪の赦しの完成であります。そして、死のもたらす孤独を恐れ、悲しみの涙を流す私たちを、慰め、癒し、そして、いつも、いつまでも共にいてくださる神の愛の約束も、復活によって、現実の希望となりました。 マリアはその喜びの証人となります。 20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。 福音書とは、まさにその喜びの証、復活の証言集であります。いくたび迫害されようとも、キリストの復活を証し、証言し続けた人々はいなくなりませんでした。そして、2000年以上たった今日、この日も、この場所において、イエスキリストの復活の証言が語られているのであります。 ぜひ、今日の御言葉の語りかけに耳を澄まして、イエス様の呼びかけに耳を澄ましていただきたいと、そう願っております。 そして、ご自分に問いかけていただきたいのです。この2000年に渡って証言されてきた復活のこの証言を、この私は、どのように受け止めるべきなのか。そのことを、どうぞ思いめぐらしつつ、このイースターの時を過ごしていただきたいと、そう願うものであります。(お話:藤井秀一牧師) |
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| 第44回「十字架につけられる」(ヨハネ第19章16〜30節)2005年3月20日 |
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聖書 少しずつ春らしくなってまいりましたて、桜便りも聞かれるようになりました。そして日本では、この季節は、卒業式や入学式と重なりますので、桜の花と共に春の訪れが、一層楽しいものになっております。 |
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| 第43回「ピラトから尋問される」(ヨハネ第18章28節〜19章16節)2005年3月13日 |
| 聖書 18:28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。 明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。 18:29 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。 18:30 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。 18:31 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、 「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。 18:32 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。 18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。 18:34 イエスはお答えになった。 「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」 18:35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。 いったい何をしたのか。」 18:36 イエスはお答えになった。 「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、 わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。 しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」 18:37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。 「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、 そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」 18:38 ピラトは言った。「真理とは何か。」 ◆死刑の判決を受ける 18:38 ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。 おはようございます。 一年の間、ヨハネ福音書を皆様と共に聖書のみ言葉から学ばせていただきました。また、お交わりに加えていただき、改めて信仰の成長にとって継続した聖書学びの必要性とみ言葉を聴くことにより、新たにすばらしい真理に出会えました事が私にとりましては大変に感謝な一年でした。 さて、今朝の聖書のみ言葉は、大祭司たち宗教指導者がイエス様を夜どうしに審問し、ついには「神を冒とくした。」と宣言してローマのユダヤ総督であるポンティオ・ピラトのもとに告発するためにイエス様を引き連れて来たところから始まります。 宗教指導者達の意図は明白です。 とあるように、イエス様を慕う民衆がいることを恐れて、彼らはイエス様をローマの責任に於いて殺してしまおうとする行動に出たのです。どうして、何故、彼ら宗教指導者はイエス様を殺してしまおうとしたのでしょうか。11章でラザロの復活の話しを聞いた大祭司カイアファの言葉を思い起こしてみましょう。 彼らがイエス様を殺してしまおうと考えたのには二つの理由があると言われます。 第一にはカイアファの言葉です。 しかし、第二の理由こそが真の理由であると思われるのです。 <マルコ福音書 10章17〜22節> 神の律法を守ることは、神様を大切にして、神様の愛と信頼に応えることを前提としている筈です。しかし、彼らは地上の地位や名誉・資産の方が神様よりも大切であったのです。 <マルコ福音書12章28〜34節> 当時は、十戒をはじめ613の掟が律法としてユダヤの人の宗教生活、すなわち社会生活を律していました。 <申命記6章4・5節> <レビ記19章18節> しかし、イエス様が示された律法の精神からは彼らは全く離れていたのです。当時の人々には現代の社会に蔓延する神様の存在に対する懐疑主義や虚無がすでにあったのです。 今朝は時間の関係もあって、宗教指導者たちに的を絞ってお話しをさせていただきましたが、ピラトも自己中心のエゴの罪の中にあったと言わざるを得ません。イエス様がローマの法に対して何らの罪を認めることが出来ない無実と判りながら、しかも、宗教指導者達の陰謀である事も見抜いていながら裁判の席に着きました。ピラトの弱さは恐れから何とかイエス様を助けようとしますが、最後は自分の地位の安泰のためにイエス様を十字架での死刑宣告をしてしまうのです。 イエス様を十字架につけたのは誰でしょうか。 |
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| 第42回「大祭司の元への連行と尋問・ペトロの否認」(ヨハネ第18章12節〜25節)2005年3月6日 |
| 聖書 イエス、大祭司のもとに連行される ペトロ、イエスを知らないと言う 大祭司、イエスを尋問する ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う 25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、 みなさんお早うございます。今朝も聖書のみ言葉に聞いていきましょう。 |
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| 第41回「裏切られ逮捕される」(ヨハネ第18章1節〜11節)2005年2月27日 |
| 教会歴では、今の時期をレント、日本語では受難節と言います。イエスキリストの受難、十字架への苦しみの道を覚えて過ごすときです。 早朝礼拝でも今日から、キリストのご受難へと学びが進んでまいります。今日のところは、イエス様が、時の権力に逮捕されていくという、その出来事を通して学ぶことになります。そして、来週、再来週は裁判の出来事。そしていよいよその次の週が、十字架につけらるというそのような流れになっております。その受難の最初として、今日の御言葉の箇所を読みたいと思います。 聖書 18:1 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。 そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。 18:2 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。 イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。 18:3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。 松明やともし火や武器を手にしていた。 18:4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。 18:5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。 イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。 18:6 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。 18:7 そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。 18:8 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」 18:9 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。 18:10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。 手下の名はマルコスであった。 18:11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」 さて、1節を見ますと、最初に「こう話し終えると」とありますように、ここまでイエス様は弟子たちに何かを語っておりました。それは実に13章から17章までの長きにわたって語られた告別の言葉であり、また教えでありました。主は、ご自分がいよいよ十字架につくその時が近づいたことを悟り、弟子たちの足を洗われました。それは、わたしがあなた方の罪を洗うために十字架につくのだという、そういう意味でありましょう。そして、私こそ道であり真理であり命なのだと教え、わたしが去っていっても、聖霊が、神の霊が与えられる。平安を与える。だから大丈夫だ。しばしの悲しみは、喜びに変わる。わたしはこの世に勝っている。だから勇気を出しなさいと、そのように語られ、最後に弟子たちのために、長い祈りをなさった。 それが13章から17章までの内容です。そして、それは、十字架につけられる前の晩の、つかの間ではありますけれども、まことに麗しいイエス様と弟子たちとの愛の交わりの時、温かな光に包まれたような、一時であったと言えると思います。 しかし、今日のところから、再びイエス様は外の闇の世界、十字架の死が待ちかまえている闇の世界へと、出て行かれます。 18:1 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。 18:2 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。 イエス様と弟子たちは、最後の食事の席から立ち上がって、ギドロンの谷の向こうにある園に向かわれたとあります。この園とは、他の福音書を見ると、ゲッセマネの園と呼ばれるところですけれども、ここで大切なことは、この場所はイエス様と弟子たちが良く来ていた場所だということです。 そして、2節にありますように、だびだび来ていたこの場所を、イエス様を裏切るために一時立ち去っていた弟子のユダも、知っていた。これは大切なポイントです。 つまり、ヨハネの福音書が私たちに告げているのは、イエスキリストは、たまたま偶然にここで捕らえられていくのではなく、むしろ、裏切ろうとしていたユダが知っている場所に、あえてイエス様は出むいてこられたと語っているのです。 それはつまり、ここから先に展開していく受難の出来事は、単なる偶然が度重なったとか、また、人間の悪賢い計画によって、イエス様が十字架につけられたのでもなく、イエス様が自ら、あえてこの場所にやってこられたことが示しているように、この受難の出来事の主導権は、実はイエス様にあるということを、意味しています。 人間の目には、人々の思い通りに事が運んでいるように見えます。人間の悪が、この世界の闇が、イエス様を好きかってに扱っているように見えます。しかし、実はそうではなく、この受難の出来事の主導権を握っておられるのは、イエス様ご自身なのだということを、ヨハネの福音書は告げている。 このことは、すこし前の箇所でも、イエス様が語っておられますので、開けてみたいと思います。10章18節です。 10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」 ここにおいてはっきりと、イエス様はご自分から命を捨てるのだといわれていますように、すべての主導権は実はイエス様にある。神の愛をしめすために、イエス様はご自分から命を捨てようとされる。ゆえに、ご自分を捕まえに来た人々に、驚くことも、恐れることもなく、最後までイエス様は毅然とした態度で臨んでおられるのです。 それに対し、3節を見ますと、こうあります。 18:3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。 とありますように、イエス様一人を捕えにやってきたのは、ユダにつれられた一隊の兵士でありました。当時の一隊の兵士というと、通常600人、少なく見積もっても200人だといわれます。しかも、一人の人を捕まえるために、彼らは武器を手にしておりました。その用意周到な姿に、なにか、捕まえにきた人間の側の、恐れの心が現れているようです。その日はユダヤの過越の祭りの前の日で、満月の夜でありますから、夜でも、松明やともし火など必要ないほど明るかったでしょう。 しかし、彼らは人工の明かりを照らし、身を守る武器を持ち、大人数を率いてでなければ、イエス様のところに来られませんでした。 そこに恐れる人間の姿を見ます。人は常に、何かを恐れ、自分の身を守ることに躍起になる。そんな人の姿と、しかしそんな人間を愛し救うために、命を捨てることさえ恐れず歩んでいかれるイエス様の姿が、見事に対比されている、そんな箇所です。 さて、4節をみますと、こうあります。 「18:4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。」 最初の第一声を発したのは、捕まえに来た人々ではなく、イエス様でありました。このようにして、イエス様の側の主導でこの逮捕劇は進んでいく。まるでイエス様はこの出来事を前へ前へと進めてさえいるようであります。 さらに先に読み進めてまいりますと、イエス様に「誰を捜しているのか」と問われ、「ナザレのイエスだ」と答えた彼らは、イエス様に「わたしである」と言われて、おもわず後ずさりし、地に倒れたと、そのように記されております。 つまり、この「わたしである」というイエス様の言葉には、、彼らを地に倒すほど圧倒的な威厳がある言葉であったということでありましょう。 この「わたしである」という言葉は、英語では I am と訳されますけれども、原語のギリシャ語をみますと、これはエゴーエイミという言葉であります。そして、このエゴーエイミという言葉は、特別な意味を持っている言葉です。 その昔、旧約聖書の時代、モーセという人物の前に初めて神様が現れた時に、わたしは「わたしはある」という者であると自己紹介されました。英語では、I am Who I am と訳されますけれども、その「わたしはある」というI am という言葉が、ギリシャ語で言うところのエゴーエイミであります。でありますから、ここで、イエス様は、捕まえにきた人々に向かって、「わたしである」「エゴーエイミ」と言われたということは、それは、わたしはあってあるもの、すべての存在の源なる存在であると、そのように気迫を持って語られたのだと、そう受け止めることも出来ます。 まさに、私は神であるとさえ受け止められる、このような言葉を語られたその気迫に、主を捕まえに来た人々が圧倒され、地に倒れてたのだと、そのように読めるのであります。 しかしここでもっと大切なメッセージは、そのような威厳ある言葉を語ることのできるお方が、実に無力になり、人に捕えられていくという、そこにこそ、今日の聖書の告げているメッセージなのであります。 そのひと言で兵士達を地に倒れさせるほどの威厳と力をもつお方が、無力なまま人の手に落ちていく。 弟子のペテロはその無力さに耐えきれないのです。それゆえに彼は10節で、剣を抜いて、手下に斬りかかります。 弟子達には、このイエス様の無力さが理解出来ず、耐えきれない。その結果、彼らはこの後イエス様を見捨てて逃げ去るのです。 きっと、ここでイエス様が剣を抜いて戦ってくれたならば、弟子達はあるいは逃げ出さず、死ぬまで戦ったのかもしれません。 人間にとりまして、ある意味、無力であることほど耐え難いことばない。無力であるより、戦うほうがある意味楽なことであります。無抵抗であるよりは、抵抗するほうが楽なのです。それゆえに、テロというものもなくなりません。力には力を。それが人間です。弟子のペテロでさえも、人を救うためには無力ではなく、剣をぬくべきであると、斬りかかったのでありました。 しかし、そんなペテロにイエス様は、11節で「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」とそう語ります。 父がお与えになった杯とはなにか。 それは、神は人を愛するがゆえに、人の罪をキリストに背負わせ、私たちの身代わりに十字架につけようとされた。その十字架の杯のことであります。神は、ご自分の御子キリストを犠牲にしてまでも、私たちの罪を赦し救おうとされた。キリストはまさにそのために、無力な人として十字架に死ぬという杯を飲もうとしておられるのであります。 キリストは人を愛するがゆえに、あえて無力なものとなられ、捕えられた。それが今日の聖書の出来事であります。 そして忘れてはならないのは、この出来事においておいてあくまで主導権を握っておられるのは、イエス様であったのだということであります。 人間の力が強いから、キリストは捕えられていくのではない。 何百人もの兵士が武器を持ってやってきたからイエス様は捕えられていくのではない。 人が罪深く、この世の闇が深いゆえに、イエス様はその闇に負けて十字架につけられるのではないのであります。 そうではなく、神は愛であるから、そしてキリストは世の光であるから、罪深い私たちを救うために、自らすすんで十字架という杯を飲んでくださった。 ですから、今日の冒頭で、今はレント、受難節の時期だと申しましたが、このキリストの受難を覚えるということは、ただ、その苦しみの様を覚えるということではなくて、まさに、ご自分からすすんで命を捨ててくださったキリストの、その私たちに注がれた、絶大なる愛をこそ覚えるときでありたいと願うのです。 十字架、そしてキリストの苦しみの出来事とは、あえてその道を歩まれたイエス様の、絶大なる愛の証であります。そのキリストの愛を心に受け入れて、歩んでまいりたいと、そう願っています。(お話:藤井秀一牧師) |
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| 第40回「イエスの祈り」(ヨハネ第17章1〜5節,20〜26節)2005年2月20日 |
| 聖書 1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。 「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。 2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。 そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。 3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 4 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。 5 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。 世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。 20 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。 21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。 彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。 そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。 22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。 わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。 こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、 彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。 24 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共にあらせてください。 それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。 25 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、 この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。 26 わたしは御名を彼らに知らせました。 また、これからも知らせます。 わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。 昨年の春以来、ヨハネの福音書を通して、イエスさまのご生涯を辿ってまいりましたが、13章では、イエスさまが弟子たちと夕食を共にされた、いわゆる最後の晩餐の記事を読みました。その時、イスカリオテのユダが、イエスさまを敵の手に売り渡すために席を立ってゆきますが、そのあと、弟子たちに別れの説教をなさる。 |
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| 第39回「悲しみが喜びに変わる」(ヨハネ第16章16節〜24節)2005年2月13日 |
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聖書 おはようございます。 今朝の聖書のみ言葉はイエス様の最後の「告別の説教」とでも言えるのでしょうか。その後半にあたります。 弟子たちも皆、何が起きるのか予想も出来ず、ただ当惑していたことでしょう。おそらくはイエス様を自分たちから失ってしまうであろうこと以外には何も判らなかったのではなかったでしょうか。このような弟子たちに対してイエス様は16章の5節以降からイエス様が去った後には聖霊の助けが弟子たちを含む全ての人々に顕されることを示してくださっています。 16:21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。 クリスチャンであるがゆえに襲ってくる悲しみがあるかもしれない。しかし、これだけで終わるのではなく悲しみの後には必ず喜びが来ることを心に留めておきなさいとおっしゃっているのです。 仮に私たちが悲しみを受け入れる事を拒否したらどうでしょうか。悲しみにより傷つく事を拒否したとしたらどうでしょうか。 「主イエス様、ここにいてください。そしてすべてをあなたが解決してください」 ひとつにはイエス様が与えてくださる喜びは決して取り去られるものでは無いということです。 そして、イエス様が与えてくださる喜びは完成に至ると言う真理であります。 人が人の力のみで喜びを完成させようとしても、それはたとえ最大のものであったとしても尚、不十分・不完全な要素があり、何かが欠けていると想いに捕らわれてしまいます。そして、今の喜びは永くは続くまいと予感してしまうものなのです。 16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」 |
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| 第38回「迫害の予告」(ヨハネ第15章18節〜第16章4節)2005年2月6日 |
| 聖書 第15章 18 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。 19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。 だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなた方を世から選び出した。 だから、世はあなたがたを憎むのである。 20 『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。 人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。 わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。 21 しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。 わたしをお遣わしになった方を知らないからである。 22 わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。 23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。 24 だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。 だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。 25 しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。 26 わたしが父のもとからあなたがたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、 その方がわたしについて証しをなさるはずである。 27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。 第16章 1 これらのことを話したのは、あなた方をつまずかせないためである。 2 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。 3 彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。 4 しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」 みなさんお早うございます。今朝も聖書のみ言葉から聞いてまいりましょう。 今、みなさんとヨハネによる福音書15:18〜16:4を読みました。 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である。もはやわたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ11:15−16) 前回の聖書箇所を大分長くお読みしたのですが、ここには実に大切な主イエス様の教えが込められていると思うのです。 世の人々は、わたしの名のゆえに、わたしを迫害したようにあなたがたをも迫害するようになる、なぜなら、世はわたしをお遣わしになった方を知らないからである、とイエス様は言われます。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ13:16−17) 今朝の聖書箇所は「世」がイエスを神の子と認めずにこれを拒むことが記されています。そしてイエスを神の子と信じて告白する者をも拒み、迫害することが予告されています。 今朝の箇所ではイエス様は「あなたがた」と何度も語りかけてきます。最初に述べましたが、あなたがたとは弟子、使徒たちを指します。しかしどうでしょうか。 |
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| 第37回「イエスは真のぶどうの木」(ヨハネ第15章1〜5)2005年1月30日 |
聖書 15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 今日もご一緒に御言葉を学ぶことのできますことを、こころから感謝致します。 今日は実はこの後、主日礼拝において信仰告白がおこなわれ、来週バプテスマ式が予定されています。 信仰告白といいますのは、つまり、この私はイエスキリストの救いを信じ、キリストの言葉を信じ、その言葉に従って生きていきますと、そのように皆さんの前で、その思いを告白するということであります。 そして、信仰告白を伺うたびに、これは実に不思議なことだと思わされます。 誰も、2000年も前に生きたイエスキリストを、見たわけでもありませんのに、その方を信じると告白する人が、2000年もたった今でも、こうして起こされてくる。それは、聖書のなかの、キリストの言葉によって捉えられるからでありますけれども、しかし、それにしても、2000年も前の人の言葉が、一人の人の人生を捉えてしまう不思議さ。たった100年前の哲学者の言葉でさえも、そんな力はない。今時、マルクスの言葉に捉えられて人生変わってしまう人などいないですね。 しかし、2000年もの前に、パレスティナの片田舎に生きた一人の男性の言葉には、今も捉えられる人がいるのであります。 そして、そんなことをしてもなんの得にもならないだろうに、その人の言葉を信じ、自分の人生を委ねよう、わたしの救い主と告白しようとする人が、後を絶たない。これは本当に不思議なことだと思います。 その不思議な導きについては、先週お話し致しました。それは、自分の信心の力でも、思いこみでもない。それは私たちを助け導く、神の霊、聖霊ともいいますけれども、その聖霊が働いて、2000年前のキリストの言葉が、今のこの私への語りかけの言葉となるということを、お話し致しました。 先週の聖書の箇所で、イエス・キリストは、弟子たちに言いました。 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」 それは、十字架に死んだあと、目には見えなくなっても、聖霊として、私たちの内に、戻ってこられる。共にいてくださる。だからあなた方をみなしごにはしないという、そういう意味であります。その聖霊の働きゆえに、それから2000年も経た今も、そして今日も、イエスキリストを告白する人が与えられているわけであります。 さて、今日の聖書の箇所は、その、今は目には見えないけれども、確かに共におられるイエス・キリストに、しっかりとつながっていなさいという、そのようなメッセージのたとえ話であります。 15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」 これはめぐみ幼稚園の子どもたちも暗唱聖句として覚えたりいたしますし、子ども達の賛美歌にもなっている、大変有名な御言葉です。 これはアレゴリー、日本語でいうところの「寓意」というものですね。つまり、一つ一つのキャラクターに意味を持たせているたとえであります。 ぶどうの木とはつまりキリストのことであり、、農夫とは父なる神のこと、そして、枝とは私たちのこと。 そのように一つ一つに意味を持たせているたとえ話でありますから、大変子どもにも分かりやすい。子どもによく、ぶどうの絵を描かせて、みんなも良い実を結ぶように、イエス様につながろうね、と、そのように教えたりします。 そういう意味で、大変分かりやすすく、かつ、心に残る大変優れたたとえだと思います。 イエス・キリストにつながる。それはぶどうの木に枝がつながるようなものだというイメージ。それは言葉をかえていえば、キリストの語りかけに応答する、キリストの言葉と関わりをもつ人となるということであります。 キリストの言葉に耳を傾け、キリストの言葉に教えられ、導かれ、慰められ、罪を示され、罪を赦され、キリストの言葉によって、愛をいただくものとなる。そのようなキリストとの人格的な関わりを持つ人となる。それが、キリストにつながるということであります。 そして、それを実現させてくれるのが、先週お話しした、神の霊、聖霊の働きなのであります。 ですから、このぶどうの木のたとえ話は、なにか私たちが頑張って、イエス・キリストにつながりましょうという、そういうお話ではないのであります。そうではありませんで、聖霊がそのように導いてくださるということであります。 たとえばこういうことがある。昔は聖書を読んでも、ちっともぴんと来なかったのに、なぜか今、イエス・キリストの言葉が心に響く。 キリストの言葉を聴くとき、ああ、そうだった。そうなんだと、その言葉が心に響く。迫ってくる。 こころの扉がノックされているような、また、自分でも気づかなかった心の暗闇に、光が当たったような心の痛み、そして、同時に、赦しの言葉に、慰めが心に染みわたるような、そのようなまさに心の奥底、魂に、キリストの言葉が響くということが起こるとするなら、それはまさに聖霊の働きであり、それがキリストとつながるということであろうと思います。 キリストにつながる。それは、キリストの言葉に応答する、レスポンスする、そういう人格的な関係、交わりに生きるものとなる。それが、キリストにつながるということであります。 さて、先に進みまして、ここで一つ注目したいのは、イエス様は「わたしはぶどうの木」と言われたわけですけれども、よく読むと、 「わたしはまことのぶどうの木」と言われているという点に注目したいと思います。 ここでイエス様は、「まことの」とあえて言っています。「まこと」と言われるからには、他のぶどうの木とは違うのだということでしょう。 実は、旧約聖書に、沢山のぶどうの木のたとえがでてきます。そしてそこで言われているのは、イスラエルの民は神が植えたぶどうの木であったのに、そのブドウの木からは良い実が実らなかったと、そのようにたとえられているわけであります。 神様から離れて、良い実が結べなかったイスラエルの民。それをぶどうの木に喩えている旧約聖書をふまえ、イエス様はここで、 「わたしはまことのぶどうの木」と言われている。つまり、わたしは、そのようなブドウの木とは違う。実を結ぶようでいて、結ばないような、また偽りの実を結んでしまうようなぶどうの木ではない。わたしは、まことのぶどうの木。本当のいのちと愛が注がれる本物のブドウの木であると、そのような意味が、この「まことの」という言い方に込められている。 そして、このまことのぶどうの木、イエス・キリストにこそつながる人々の集まりを、それを教会というのであります。 ですから、教会にとって大切なのは、本当のブドウの木につながるということであります。かつてイスラエルの民が偽物のブドウの木につながって、偽りの実をむすんでしまったようにならないように、本物の、まことのブドウの木である、イエス・キリストにつながりつづける。それが実に大切なことなのです。 しかし、残念ながら皆様もご存じのとおり、教会の歴史を見るときに、いつも教会は正しい道を歩んでこれたわけではありませんでした。何度も道を踏み誤ってしまうことがありました。 有名なところでは十字軍というものがあります。また、先の戦争において、ドイツの多くの教会は、あのヒットラーを支持してしまった。そういう汚点があります。 教会なのに、なんでそんなことをしてしまうのか。そう批判されても仕方がないと思います。なんでそうなってしまうのか。それを一言でいうなら、まことのブドウの木につながるのではなく、偽りのぶどうの木につながってしまったからであります。 キリストにつながる。キリストの言葉に耳を傾けるのではなく、ヒットラーにつながる。ヒットラーの言葉に耳を傾けてしまったわけであります。まことのブドウの木ではなく、偽りのブドウの木につながり、それで自分たちは安泰だとしてしまった。そこに間違いの本質があります。 しかしそんなとき、キリストの言葉にこそ従うべきではないかと、闘い、捉えられ殺されてしまったクリスチャンもおりました。そして、後の時代になって、その人たちこそが正しかったのだと、明らかになっていく。 ですから、大切なことは、どんな時代になろうとも、移り変わりゆく人の言葉、思想ではなく、まことのぶどうの木であるキリストの言葉につながることだであります。人の言葉に右往左往されるのではなく、キリストの言葉にとどまる。そこに、本物の実を結ぶ歩みがあることを覚えたいと思います。 さて、2節にはこうあります。 「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」 キリストにつながっていながら、実を結ばない枝を父が取り除くとはどういう事なのか。 また、実をむすぶなら、手入れをするというのは、どういう事なのか、少し分かりづらい箇所です。 ある有名な神学者の妻が、15年間ものあいだ鬱病で苦しんだすえに、最後には自殺してしまうということがありました。 夫にとっては、それは非常な苦しみでありました。たとえクリスチャンであっても、そういう苦しみが襲うことがあります。 キリストを信じていても体が病気になることもあれば、こころが病気になることもある。 キリストを信じていても鬱病にもなりますし、家族に先立たれることもあります。 そんなとき、なんだキリストを信じても、なんの役にも立たないではないかと、キリストを捨ててしまえるなら、キリストとの関わりを断ってしまうことが出来るなら、神様の方からもその人との関わりを絶つでしょう。 それが、2節で言われている「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と言う一見厳しい言葉の意味ではないかと思われます。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝」とありますけれども、本当なら、キリストにつながっていれば必ず実を結ぶはずなのであります。つながっているなら実を結ぶ。実を結ばないということは、それはつながっているようでつながっていなかったのではないか。 そしてそれは人生の危機が襲ってくると明らかになってくる。何だキリストはちっとも役に立たないキリストを捨てる、関わりを断つことが出来るなら、それは初めからつながっていなかったのではないか。 しかし、本当にキリストにつながっているなら、それとは全く反対のことが起こるのであります。苦しみの中でキリストとの関わりを断とうとするのではなく、キリストとの関わりをさらに求めるようになるっていくのです。 先ほどの神学者は、妻を失う苦しみの中でなにをしたかといいますと、彼はキリストの言葉を暗記し暗唱し始めたのであります。 学問を究めた神学者が、まるで小学生が教会学校でするように、イエス様の言葉を暗記し暗唱しはじめたのであります。 彼は苦しみゆえに、キリストの言葉を捨てるのではなく、求めた。そして、そのキリストの言葉によって、彼の心は癒されていくのです。 人の言葉ではなく、キリストの言葉によって。 2節の後半には、こう続きます。 「しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」 手入れとはつまり余分なところを切り落とす剪定のことであります。 キリストにつながっているからこそ、痛く苦しいことが人生に起こってくることがある。いよいよ豊かに実を結ぶためにと、痛み苦しみを、あえて神様は許されることがある。そのようにキリストは告げるのです。 しかし、キリストにつながっているなら、人の慰めや励ましは空しく響いても、キリストの言葉は魂にとどく。キリストの慰めの言葉、赦しの言葉、愛と恵みの御言葉だけは心に響く。なぜなら、キリストにつながっているからであります。 さらにキリストは3節でこう言っています。 15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 どんなに自分のいたらなさ、弱さ、罪深さに落ち込むことがあろうとも、人の批判や、自分で自分をせめる言葉に、耳を傾け続けるのではなく、キリストの赦しの言葉に耳を傾けていく。 あなたのその罪は赦されたのだという、そのキリストの言葉に委ねていくなら、神は私たちを清くされる。神様の目に、尊く清いものと受け入れてくださる。それがまさにキリストとつながるという事であり、まことのぶどうの木につながることであります。 さて、ぶどうの実はいったいどうやって甘くなるかご存じでしょうか。 ぶどうの木というのは、その実に養分を送るために、まるで雑巾を絞るように自分をよじらせよじらせどこまでも細らせることで、豊かな実を実らせるのだそうであります。 イエス様は、そのどこまでも細くなって実に養分を注ごうとするぶどうの木に、ご自分を重ね合わせられました。まるで雑巾のようにその身を絞り、自分のいのちのすべてを注いで、豊かに実を実らせる、そのまことのぶどうの木なのだといわれます。 母は自分の子どものために、まさに命を注いで愛そうと願うように、キリストは、私たちを愛する愛ゆえに、ご自分の命をすべて十字架の上に献げて、そのすべてを私たちに注がれたのでありました。 それゆえに、イエス様は、「あなた方はすでに清くなっている」とそう言ってくださるのであります。 まさに、雑巾のようにその身を絞り、私たちを清めてくださる、ぶどうの木になられた。 キリストはそのようにして、木につながる私たちに、神の命と愛を注がれる、まことのぶどうの木なのであります。 それゆえに、キリストは、最後にこのように私たちに語りかけています。 15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 私たちのために命を捧げ、変わらぬ愛を注いでくださるイエスキリストの、その愛の内とどまりつづけ、その言葉に耳を傾けつづけ、この新しい週も共に歩んでまいりたい。良き実を実らせるものでありたいと、そう願っております。(お話:藤井秀一牧師) |
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| 第36回「聖霊を与える約束」(ヨハネ第14章 15〜31)2005年1月23日 |
| 聖書 14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 14:20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」 ヨハネの福音書は全部で21章ありますけれども、前半と後半に分けるとするなら、13章がその区切りになります。 13章まではイエス様の様々な宣教活動が記されていますが、13章から17章までは、弟子たちに対して語られた別れの言葉や約束の言葉となり、そして十字架、復活という流れになっています。 ですから今日の14章は、イエス様のお別れの言葉の一部となります。告別説教という言われかたもありますけれども、要するに、このあと十字架につくことを知っておられたイエス様は、弟子たちと別れるまえに、これだけは語っておかなければならないという、ある意味遺言の言葉と言えなくもありません。 普通、遺言というと、残された人々に財産を与えるという約束が語られるわけですけれども、今日の聖書の箇所において、まさにイエス様は、ご自分が十字架について死なれたあと、地上に残される弟子たちに、この上もない宝、神の霊、聖霊を与えるという、そのような約束をしておられるのが、今日の箇所であります。 聖書をもう一度みて頂きたいと思います. 14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 イエス様を愛する人に、イエス様は、天の父に願い、別の弁護者を遣わしてくださるとあります。 そして、 14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 と言われています。 つまり、弁護者とは、目に見える存在のことではなく、それは、真理の霊、神の霊であって、この世の人々にはなんの興味もないものであろう。しかし、イエス様を愛する人々には、その神の霊が、私の弁護者として共にいてくださることがわかるのだと、そうイエス様は言われています。 確かに、イエス様はこの後、十字架にかかり、この世から去っていきます。 この十字架の出来事は、信仰のない人々から見るなら、ただ一人の人が死んだというだけの出来事だろうと思います。それ以上の意味はありません。ただ人が死んだというだけのことです。 それがこの世に生きる普通の人々のとらえ方だろうと思います。 しかし、同じ出来事でも信仰をもって見るとき、あのイエス様の十字架は、それはイエス様がただ死んでしまっただけのこと、それですべてが終ってしまった出来事ではない。目には見えなくなったけれども、まさにイエス様のように私たちを助け導いてくださるお方、そういう真理の霊。神の霊が与えられるようになった、新しい時代の幕開け。それこそが、あの十字架の出来事だったのだと悟ることができる。 しかし、その悟り、信仰もまた、神の霊、弁護者の助けと導きによって、与えられていくということであります。 この弁護者と訳されている言葉は、もとのギリシャ語では、パラクレイトスという言葉です。これは弁護者とか、助け主、あるいは慰め、励ます者という、そういう意味の言葉です。 ですから、神の霊というとなにか得体の知れない神秘的な力と思われるかもしれませんが、そうではなくて、弱く罪に堕ちいってしまう私たちを、弁護し、助け、慰め、励ます、そういう人格的な存在として、働きかける、そういう神の霊があると語られているわけであります。 さらに18節19節では「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」 と言われています。ですから、その霊とはイエス様のことだと考えてよろしいかと思います。 この後、イエス様は十字架のうえで死なれ、もう、見えなくなります。そしてそれは、現代に生きる私たちにとってもそうです。 誰もイエス様がどんな顔をしていたのか、どんな髪型だったのか、髭はあったのか、背丈はどのくらいか、など、全くわからない。 現代のクリスチャンも誰一人として、イエス様の姿形を見た人などいないわけであります。 姿は見えないけれども、しかし、確かにイエスキリストの人格にふれた経験。キリストの言葉が魂の奥にまで語りかけてくるような、こころの奥底をノックするような、そんな人格的な交わりをうけて、そして、キリストを信じるようになるわけであります。 たとえ目に見える人との交わりがあっても、魂の深いところに語りかけてくる言葉、人格的な交わりというのは、なかなか難しいことであります。ですから、大切なのは、姿が見えるとか見えないとかよりも、人格的な出会い、交わりがあるかどうかということでしょう。 パラクレートス、弁護者、助け主とは、今、目には見えないイエスキリストと、そして私たちとの人格的な出会い、親しい交わりへと導く霊。弁護者、助け主、慰め主であります。その神の霊、聖霊の働きがあるからこそ、人は、イエス様のことを、この「私のキリスト」この「私の救い主」と告白するように導かれていくのです。 他人の事のように、この世界をキリストは救うのだろうというのではなく、この「私のキリスト」、この「私の救い主」と告白するように導かれる。それまで、聖書などばからしい、キリストなどわたしに何の関係もないと思っていた自分が、聖書の教えに、キリストの言葉に素直に耳を聴けるようになる。 どうか知って頂きたいのは、それは、偶然でも、自分の力でそうなったのでもなく、それこそがまさにパラクレートスの働き、弁護者であり助け主である聖霊の働き、導きがそこにあるということに、ぜひ気がついて頂きたいと思うのであります。 聖書の言葉がこころに迫る、また魂に迫っているように感じるならば、それはただ、良いお話に感動しているのでも、人生訓に感心しているのでもない。聖霊によって、イエス様との人格的な出会いが起こっているのだということを、是非、ご理解頂きたいと、そう思うのであります。 ここで、私の個人的な証をさせていただくことをおゆるし願いたいと思います。 私が最初に聖書と出会ったのは、私が中学生のころだと思います。しかし、当時の私は、聖書に何の興味も沸きませんでした。ちょっとページを開いてみましたけれども、あのマタイの福音書の冒頭の、系図ですね。あのカタカナの羅列に閉口し、もう、二度と読むことはないだろうと思ったものでした。 時は流れ、私が就職して2年ほどたったある夜。寮生活をしていた私のところに母から電話がきて、今、家から飛び出して友人の家にいるというのですね。あわてて会いに行くと、父に殴られ醜く顔が腫れ上がった母がいまして、母はもう家には戻らないといいました。それからしばらくの間、長男であった私は、父と母の間に板挟みになって、お互い罵り合いの言葉、聞きたくもない言葉を聞かされ、辛い思いをしましたが、とりなしの甲斐なく、二人は別れてしまいました。 その出来事をきっかけにしまして、わたしは、心にぽっかり穴が開いたような状態になり、なにをしても、またどんな言葉もむなしく響く、そんな日々を生きていました。 そんなある日、クリスチャンの三浦綾子姉のエッセーに出会いまして、そこにつづられている言葉の一つ一つが、私の心の中に、なにか暖かいものを注いでくる体験をいたしました。それまで、どんな言葉もむなしかった私にとって、その体験は大きな出来事でした。それ以来、わたしは、三浦さんの言葉をあさり、やがて、もう二度と読まないと思っていたあの聖書を開き、イエスキリストの言葉をむさぼるようになったのであります。 そして、キリストの言葉は、私が思いもしなかった自分の罪をあらわにし始めました。当時職場にどうしても受け入れられない同僚がいまして、しかもいつも自分の隣に座り、いやでも一緒に仕事をしなければならず、彼と顔を合わせるのが本当に憂鬱でした。 彼さえいなければと思っていたそんな私を、イエスキリストの言葉が責めてきたのであす。 キリストは「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と語りました。ああ、なんという言葉だろうかと心が痛む。でも、聖書を読まないではいられない。そんな葛藤のなかで、キリストの言葉によって、自分の罪が示され、そして、その罪のためにキリストが十字架にかかったことがよく分かり、やがて、バプテスマを受けることになりました。 ささやかな証ですが、それでも、聖書になど全く興味なかったわたしが、聖書を読まずにはいられなくなった。聖書の言葉がこころに迫って仕方なくなったのは、それは、自分がなにか信心深かったからではなくて、聖霊の導きであったと、そう信じるわけであります。もし、そのような導きがないならば、間違いなくわたしは聖書を再び開くということはなかったと思います。 それまで、聖書やイエスキリストはわたしには何の関係もないと思っていたのに、いつの間にか聖書の教えに、そしてキリストの言葉に捕らえられ、その言葉に素直に耳を聴けるようになっていった。それはまさに聖霊の働きであります。聖霊、パラクレイトス。弁護者なる霊の働きがなければそういうことは起こりえないのであります。 そして、そうであるならば、今まさに、この場において、聖書の御言葉に耳を傾けようとお集いになっているお一人お一人もまた、その聖霊の導きをいただいているから、ここに来ておられる。その聖霊の導きにこころを開いていただけたらと、そう思っております。 さて、キリストは18節で弟子たちに言いました。 14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 弟子たちを捨て去りはしない。十字架に死に、肉体的には目に見えなくなろうとも、しかし必ず戻ってくる。弟子たちを、そして私たちをみなしごにするような、捨ててしまうようなことはしない。それがキリストの約束であります。 確かに、キリストは、今、目に見ることはできません。当然、その体にさわることもできませんし、逆にキリストにしっかり抱きしめられるというようなこともないでしょう。 2000年前、イエス様と一緒に寝食を共にした弟子たちのようには、私たちはイエスキリストを知ることはできません。それは確かに寂しい気もいたします。最初の弟子たちのようにイエス様に直接ふれてみたい、その声を聴いてみたい。そうしたら、もっとイエス様のことがわかるのではないか。もっとイエス様のことを信じることができるのではないか。愛することができるのではないか。そう思わなくもない。しかし、イエス様はそうは言われませんでした。 16章7節8節 「しかし、実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去っていかなければ、弁護者はあなた方のところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなた方のところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」 私たちのためには、イエス様は去っていった方が良いのだ。なぜなら、そうしなければ弁護者が来ないからだと言います。 そして、弁護者がこなければ、自分の罪がわからないからだと言います。そして、この弁護者が来なければ、人はなにが正しいことなのか、なにが誤りなのかわからないからだと言います。 だから、去っていった方が良いのだとイエス様は言うのです。 確かに、イエス様と三年間も寝食をともにしていた弟子たちは、ちっとも自分の罪がわかりませんでした。弟子たちは、自分は正しさを信じ、自分の力を信じ、誰が弟子の中で一番だろうかと、競っていました。そして、抜け駆けをしたり、ねたんだり。弟子同士で責めあい裁きあい、互いに愛し合うにはほど遠い姿であったのであります。 毎日のようにイエス様と接していながら、その教えにふれていながら、彼らはちっともわかっていなかったのであります。イエス様の教えを知ることと、「わかる」こととは違うのであります。わかるというとき、必ず、そこで自分が変わっていくからであります。頭で理解する、知識として聖書の言葉を知るということだけでは、「わかった」ことにはならない。聖書の言葉が「わかる」ということは、つまり、「わかった」自分が変わっていくということなのであります。しかし、それはこの弁護者が来なければ、助け主が来なければ、つまり神の霊がやってこなければ、実現しない。神の霊によらなければ、人は自分の罪は「わから」ない。罪の赦しが「わから」ない。だから、自分はちっとも変わらないし変われないのであります。そして、あいも変わらず、互いに裁きあい、愛しあえない苦しみの中を生き続けていく。 それゆえに、人間は、決定的に、神の霊を必要とする存在なのであります。神の霊、パラクレイトス。この弁護者、助け主なる聖霊が必要なのであります。その聖霊に導かれ、自分の罪の赦しを知るとき、初めて、人間は、互いにゆるしあい、愛し合あっていこうとするからであります。 今日の聖書の箇所の冒頭で、イエス様は言います。 14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」 わたしの掟。それはなんでしょうか。それは13章34節にあります。 13章34節 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 愛し合うこと。それがキリストが与えた掟であります。つまり、人は、だれも自然に素直に愛し合えるような存在ではないということであります。まさにキリストが言うように、人間は、愛し合うことさえ、掟として頂かなければならない存在なのであります。互いに愛し合えず、受け入れられず、理解し合えず、自分の力ではそれをどうにもできないそんな人間の原罪のあることを、知らされるのであります。 しかし、その人間にはどうにもできない罪があるからこそ、その罪の裁きから弁護する聖霊が必要なのであります。そして、愛せない人間を憐れみ、互いに愛するように助けてくださる助け主。聖霊が必要なのであります。その聖霊が与えられる、新しい時代がやってくる。やがて主の十字架によって、父なる神が、聖霊を私たちに送ってくださるという新しい時代がやってくる。それをイエス様は約束してくださった。 そして、その約束は真実であることが、2000年の教会の歩みを通して、また、数え切れないほどの変えられた人々をとおして、また、互いに愛し合う人々の存在をとおして、聖霊の働きが、証されてきました。 この弁護者、助け主である聖霊の導きに、こころ開いていきたいのであります。イエス様との人格的な出会いを与えてくださる聖霊の働きを通して、ほかのだれでもない、イエスキリストこそは、この「わたしのキリスト」です。この「わたしの救い主」ですと告白し、イエス様が共に歩んでくださる祝福の人生を、共に生きてまいりたいとそう願っております。(お話:藤井秀一牧師) |
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| 第35回「イエスは父に至る道」(ヨハネ第14章 1-11)2005年1月16日 |
| 聖書 1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいるところに、あなたがたもいることになる。 4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 6 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 先々週、先週とヨハネの福音書も13章に入り、ユダの裏切り、ペテロの離反の予告の記事も読み、いよいよ十字架は目前に迫っております。 |
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| 第34回「ペテロの離反を予告する」(ヨハネ13章 36-38)2005年1月9日 |
聖書 ◆ペトロの離反を予告する 13:36 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」 13:37 ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」 13:38 イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 おはようございます。
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| 第33回「裏切りの予告」(ヨハネ13章 21-30)2005年1月2日 |
聖書 21 イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」 22 弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。 23 イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人でイエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。 24 シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。 25 その弟子がイエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、 26 イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。 27 ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。 28 座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。 29 ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。 30 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。 みなさん、お早うございます。今朝もヨハネによる福音書からご一緒に学んで参りましょう。 今朝の箇所は前回の続きのところになります。 私は10月にヨハネによる福音書11:47〜57の「イエスを殺す計画」という箇所をお話させていただきました。 ラザロを生き返らせるというしるしは大きな反響をユダヤ人に与えました。そして、イエス様のなさった多くのしるしを目撃したユダヤ人の多くがイエスを信じました。 当時エルサレムで祭司長やファリサイ派の人たちは宗教的、政治的、社会的特権を保持していましたが、彼らは多くのユダヤの人々がイエス様を担いでクーデターでも起こしたら自分たちが与えられていた自由や特権がローマによって奪い取られてしまうと恐れました。 祭司長たちやファリサイ派の人々は最高法院を招集し、イエスを殺すことが決定されたのです。 これらの出来事のあったのは過越祭の時ですが、ヨセフォス「ユダヤ戦役」は、当時のエルサレムの城壁は800メートル四方ほどの狭い市街を囲んでいた、そして『270万200人』もの巡礼者が殺到するこの過越祭の混雑は大変なものであったと伝えています。 この過越祭の雰囲気は、常に一触即発の状態にあった。ローマ政府の司令部はカイザリアにあり、ふつうエルサレムには小さな分隊が駐屯しているだけであった。 ところが、過越祭には多くの分遣隊が送り込まれた。そこでユダヤの官憲が直面した問題は、どうしたら暴動を挑発せずにイエスを逮捕できるかにあったといいます(バークレー註解書)。 ユダの裏切りはこのような状況の中で行われたのです。 この13章はイエス様と12弟子の過越祭前の夕食の時のことですが、ユダヤ人の食事の時の様子について、バークレーの註解書により説明します。 ユダヤ人は椅子に座って食事をしなかったそうです。彼らは食卓にもたれかかって食事をしました。 テーブルは低く頑丈な台盤でそのまわりに長いすがついていました。それはU字型をしており、栄誉ある席、つまり主人の席は一方の側の中心にありました。 彼らは左ひじをついて左側を下にして横になり、右手は食物を取るために自由にしていました。そのようにして席に着くと、人の頭は文字通り彼の左に横たわっている人の胸もとに位置しました。 イエスはおそらく、その低いテーブルの一方の中央に、つまり主人の席に着いておられた。ここで出てくるイエスの愛しておられた弟子は、イエスの右側に横たわっていたはずということになります。 もうひとつのことですが、主人が客人に皿から特別のごちそうの小片を取って与えることも、特別な友情のしるしであった。 ボアズがいかに自分がルツを重んじているかを示そうとしたとき、彼は自分のそばに来て、食べ物をぶどう酒に浸すようにルツを招いたと言うことがルツ記2:14にあります。 さて今朝の最初の箇所は“イエスはこう話し終えられると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなた方のうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」”と始まります。 文語訳聖書は「まことに汝らに告ぐ、汝らの中の一人我を売らん」と訳します。 「はっきり」と訳されている言葉ですが、ギリシア語ではアーメンといって語り始められたということですから、実に重い言葉であります。 弟子たちの間には重苦しい空気が流れたと思います。だれのことだろうか、お互いに顔を見合わせていたのだと思います。 この食事の時、イエス様のすぐ隣にはイエス様の愛する弟子が席に着いていました。 先ほどお話したようにU字型のテーブルですからこの弟子はイエス様の右側に席を取っていたものと思われます。 ペトロに合図されたこの弟子は寄りかかったままの格好で「主よ、それはだれのことですか」と尋ねます。イエスは「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」といって、ユダにお与えになり、ユダがパン切れを受け取るとサタンが彼の中に入ったと聖書は記します。 主は「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」とユダに言われます。 ここで聖書は、座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言ったのか分からなかったというのです。 弟子たちががやがやしていて、イエス様が「わたしがパン切れを浸して与える人だ」と言ったのが聞こえなかったのでしょうか。他の弟子たちは、ユダが金入れを預かっていたので「祭りに必要なものを買いに行きなさい」とか貧しい人に施すようにとイエス様が言われたのだと思っていたのです。 このところを読むと、ユダはこれと分かるような“悪者”ではなかった。弟子たちの間でこの男はどうもよろしくないと言うようなことをいわれることはなかったのではなかろうか。 金入れを預かる、すなわち会計係なのだから皆から信用がなければそのような役割を与えられることはなかったのではないかと思われるのです。弟子たちは最後までユダが裏切るとは思っていないのです。 私はまだ教会に来て間もない頃にイエス様はユダが裏切るのを分かっていながら、なぜ「しようとしていることを、今すぐしなさい」と言ったのだろうか疑問に思って仕方がありませんでした。 イエス様がユダが裏切ろうとしていることを、この席で、弟子のみんなにはっきりと分かるように話していれば、おそらく他の弟子たちはユダのしようとしていることを止めたに違いないと思ったのです。 また主イエスを裏切ったユダはイエス様に有罪の判決の下ったのを知って後悔して首をつって死んでしまうのです。なぜイエス様はユダの裏切りの行為を止めようとなさらなかったのだろうか。このことは今もってはっきりとこういう理由だからだと言うことはできないのです。私がバプテスマを受けた前牧師の戸上先生は「今分かっただけのイエス様に従いなさい」と言われました。この言葉は私がバプテスマを受ける支えの言葉になったのですが、私たちは聖書のことをすべて分かったというようなことはできないと思います。 神様の御心はとても図り知ることなどできないからです。 ただ今回私は、今朝の聖書箇所でイエス様がパン切れをユダにお与えになった所を読んで…先ほどお話しましたようにユダヤ人の食事の時、主人が皿から食物を与えることは愛のしぐさなのですから、イエス様は最後までユダに悔い改めの機会を与えたのではないかという思いを抱かされました。 そして、もしイエス様がユダの心を無理にでも自分の思うように仕向けたらどうだろうか。ユダはイエス様のロボットになってしまうのではないでしょうか。 主イエスはあくまでユダの自由意志を重んじたのではないでしょうか。ですから、そうした中でイエス様を裏切ったユダの責任は重いということもできるとも思わされます。 「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」(ヨハネ13:30)…夜であったと言う言葉、これは外の世界の夜を表しているばかりでないように思います。ユダの心を支配している闇をも表しているように思われます。イエス様と他の弟子たちが食事を共にしている光の世界とユダが出て行った闇の世界が対比されている。 イエス様に背を向けて歩み始めた時、ユダを包み込む闇はまことに暗く深かったのです。 前回「弟子の足を洗う」と言うところをお話させていただきましたが、その時自分を裏切ることが分かっていても主イエスはユダの足を洗われたのだろうか、そして、主はやはりユダの足を洗われたのだとお話しました。 今回の箇所ではパン切れを受け取ったユダが外に出て行くという場面でした。夜の中に消えていったユダはやがて、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを連れてやってきます(ヨハネ18:3)。主イエスは彼らに引き渡されます。 このようにイエスを引き渡したユダですが、イエスに有罪の判決が下ると「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」といって自殺するのです。 みなさんはどのように思われるでしょうか。わたしはこのような最後を遂げるユダも主イエスの愛のまなざしの中に、主イエスの大きくて広く深い愛のみ手の中にあると思うのです。この第13章の第一節をもう一度見てみたいのです。 「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた。」(新共同訳13:1) 「過越しのまつりの前に、イエスこの世を去りて父に往くべき己が時の来れるを知り、世に在る己の者を愛して、極みまでこれを愛し給へり」(文語訳聖書13:1) (お話:平野一男さん) |
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| 第32回「弟子の足を洗う」(ヨハネ13章 1-20)2004年11月21日 |
| 聖書 1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 2 夕食の時であった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。 3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、 4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。 6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。 7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。 8 ペトロが「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。 9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」 10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」 11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。 12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。 13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。 14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。 16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。 17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。 18 わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べているものが、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。 19 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。 20 はっきり言っておく。わたしを遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」 皆さんお早うございます。今朝も聖書から学んで参りましょう。 ヨハネによる福音書の第13章は、「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた。」と始まります。この第一節の言葉を第二節以下の文章と切り離して第13章全体の序文とみなすこともできるとする注解書もありますが、実に味わいの深い始まりの言葉だとおもいます。 この印象深い第一節の「弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた」と新共同訳が訳しているところを、口語訳聖書は「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。」と訳します。同じところを新改訳聖書は「世にいる自分の者を愛されたイエスは、その愛を残すところなく示された」と訳し、文語訳聖書は「世にある己の者を愛して、極みまで之を愛し給へり」と訳しています。このように4つの訳を読んでみますと、イエス様の愛が最後まで、徹底していたことが実に良く分かると思うのであります。そしてこの始まりの言葉はまっすぐにイエス様の十字架を指し示しているように思われるのです。世にいる自分の者たちを愛して愛し抜かれ、十字架にまで歩みを進められ、神様の愛の目的を成し遂げられるのです。 さて、イエス様は食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、てぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水を汲み弟子たちの足を洗い始められました。洗い終わると腰にまとった手ぬぐいで弟子の足をふいていったのです。食事に招かれたお客様の汚れた足を洗うということ、洗足は古代では一般に奴隷の勤めとされていましたが、イスラエルでは異邦人の奴隷にしかさせられなかったほどの仕事であったといいます。 主イエスはこの時、まさに奴隷の低さにまで身を低くして、愛の行為をなさったのです。主イエスがまずわたしたちを愛し、つかえてくださったのです。しかしイエス様がペトロのところに来た時彼は「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言い、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うのです。 ペテロは弟子である自分が先生であるお方に足を洗ってもらうなど考えられないと思ったのでしょう。「主であるあなた様がわたしの足を洗うなどということはもったいなくて」という気持ちだと思います。イエス様は“わたしのしていることは、今、あなたには分かるまいが後で分かるようになります。もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりも持たないことになります”と答えられるのです。ここでペトロがイエス様の「わたしの足など洗わないでください」と言ったことは人間的な目でみればけなげなことに見えることですが、神様の目からすれば自分自身の力に頼った傲慢な姿になるのだと思うのです。 足はわたしたちの体の一番下にあって直接地面に接しています。一番汚れるところです。足を洗うということは、わたしたち人間の体で一番汚れたところを洗うことです。イエス様がお弟子さんたちの汚れた足を洗うという行為を通して示されたことは、ただ肉体の汚れを洗うということだけではなくて、わたしたち人間の罪を洗い清めるということを象徴していると思われます。わたしたち人間は自分の力で自分の罪を清める力などどこにもないのです。主イエスがまずわたしたちを愛し、仕えてくださったのです。そのイエス様の愛を拒むのではなく受け入れることによってしかわたしたちの罪が清められる道はないのです。 この章の前、第12章のところですが、驚くべき多くのしるしをなさったイエス様がエルサレムに入城したとき、大勢の群集に歓呼の声で迎えられました。群衆はイエス様がローマの軍隊を打ち破り、イスラエルを独立した強大な国にしてローマ人から開放してくれると思っていたのです。ペトロや弟子たちもそのような救世主としてのイエス様を考えていたのではないでしょうか。しかしこの時イエス様が示されたのは最大の謙遜の道・愛の道を歩きぬいていくという姿でした。群集にとってはもちろん、主に従ってきた弟子たちにとってもこのような道を歩まれようとする主の姿は分かりにくかったのではないでしょうか。しかし主イエスは世にいる自分の者であるわたしたち一人一人を愛するがゆえに、この上なく愛するがゆえに十字架への歩みを進めていかれるのです。 ところでイエス様は、あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではないと言っております。すでに悪魔はイスカリオテのシモンの子ユダにイエスを裏切る考えを抱かせていたのです。イエス様はユダが裏切るということを知っておられた。わたしはずいぶん前に聖書を読んだ時、果たして自分を裏切ることが分かっていてもイエス・キリストはユダの足を洗ったのだろうか考えたことがあります。聖書を読んでみてユダの足を洗わなかったということは出てこない、逆に10節にある「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなた方は清いが皆が清いわけではない」という言葉は弟子たちすべての足を洗ったことをいっていることになるわけです。ユダの裏切りのことはずいぶんと難しくてよく分からないことがありますが、主はユダの足をあらわれたのです。やはりユダも他の弟子たちと同じようにイエス様の愛の中にいたことは間違いないと思うのであります。主イエスの愛は徹底したもの、この世で御自分の弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた、そのような愛であったと思うのであります。 12節以下になりますが弟子たちの足を洗い終わったイエス様は上着を着て再び御自分の席に座り話し始められます。とても分かりやすい言葉で語っておられます。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」‥わたしがあなた方にしたことが分かるか、という主の言葉には弟子たちに分かってほしいという気持ちが込められているように思われます。主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならないとイエス様は言われます。イエス様は御自分の弟子たちに愛を示されたのですが、同時に自ら模範を示されたのです。 他の人の足を洗うということはどういうことでしょうか。それは自分を一番低いところにおいて相手に仕えていく、他の人の一番汚れたところを自分の持っているてぬぐいでふくことです。主イエスの愛の中にある者たちはお互いに足を洗い合うことが求められているのです。互いに仕えあうことが求められているのです。そして主は、僕は主人にまさらず、使わされた者は遣わした者にまさりはしない、このことが分かり、そのとおりに実行するならば幸いであるとも言っておられるのです。実際の生活の中で言葉や口先だけでなくて、行いをもって互いに仕えあっていくことを言っておられます。 わたしはこのような互いに足を洗い合わなければならない、互いに仕えあわなければならないというイエス様の言葉は、律法的意味で受け止めるのでなく、喜びを持って受け止めるべきものではないかと思うのであります。イエス様が低くへりくだられて、わたしたちを罪から解き放ってくださった愛のわざが十字架と復活において完成されました。そのイエス様を信じるものは救われているのです。ですから、日々感謝を持って、喜びを持って互いに仕えあうことができるのです。 |
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| 第31回「イエスを信じない者たち」(ヨハネ12章 36-50)2004年11月14日 |
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聖書 おはようございます。 30:15 まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。 イエス様に聴くことは、神様に聴くことであり、イエス様を見ることは、神様を見ることであります。 |
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| 第30回「ギリシャ人、イエスに会いに来る」(ヨハネ12章 20-26)2004年11月7日 |
| 聖書 12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。 12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。 12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。 12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。 12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 一年間かけて、ヨハネの福音書を学んでいます。今日は12章で、後半に入ったわけですが、これから学ぶ後半は、実はたった一週間の出来事です。先週、イエス様がエルサレムにやってこられた出来事を学ばれたかと思いますけれども、それが日曜日の出来事で、その週の金曜日には、イエス様は十字架につく。この一週間を受難週といいますけれども、この受難週の出来事を語るために、ヨハネの福音書は後半のすべてを使います。それほど受難週の出来事は大切なメッセージであることを、ぜひ心に留めて学んでいきたいと思います。 さて、今日の箇所は、表題に、「ギリシャ人、イエスに会いに来る」とありますように、福音書の中では珍しく、ギリシャ人が登場してくるところです。 聖書の舞台はパレスチナ。そして、神様は最初イスラエルの民を選び、ご自分の民として祝福されます。そのイスラエルの民からすれば、ギリシャ人は外国人であり異邦人であります。日本人も同じく異邦人。そして、異邦人は、聖書の神様とは無関係。神の祝福や約束とも無関係であった。それが旧約聖書の異邦人に対する扱いでありますけれども、その聖書の神とは関係ないとされていた異邦人の、そのギリシャ人のなかから、イスラエルの神殿に礼拝をしにやってきた人たちがいたと、今日のところに記されているわけであります。しかも、彼らは、直接神殿にいくのではなく、ここでイエス様に会いたいとやってきました。つまり、イエス様を礼拝したいとやってきたわけでありましょう。 来月はいよいよクリスマスでありますけれども、クリスマスの時期に必ず読まれる聖書の物語に、三人の博士が遠く異邦の地からイスラエルにやってきて、生まれたばかりのみどり子イエスを礼拝し、贈り物を献げたという出来事があります。彼らはおそらく、今でいえばイラクやイランあたりから、イスラエルまでの危険な長旅を、ラクダに乗ってやってきたのだろうといわれます。異邦人である彼らは、ただ一つのことをするためにやってきた。それは、幼な子イエスを礼拝するということでした。イエス様が生まれた、その一番最初のクリスマスに、異邦人による礼拝という出来事が起こったのです。 そして今日の聖書の箇所では、あと数日後に十字架に付けられこの世を去るというとき、また同じように異邦人による礼拝ということが起こる。これはまさに、今まで神の祝福も約束にも関係なかった異邦人にも、神の救いが広げられていくということを示しているのでありましょう。そのために、イエス様はこの世に生まれ、そして十字架のうえで死んでくださったのです。 日本の神道は日本人のためにあり、ユダヤ教はユダヤ人のためにあるとするなら、キリスト教は、人間のためにあるといえるでしょう。イエス・キリストは、ある特定の民族のために十字架にかかったのではなく、人間のために十字架にかかられるのだということが、この異邦人による礼拝が指し示していることであろうと思います。 イエス様は、このギリシャ人がやってきたという知らせを受け、「人の子が栄光を受けるときが来た」といわれます。人の子とはイエス様ご自身のことですけれども、イエス様が栄光を受けるときが来たという、その栄光とは、一粒の麦が死んで、豊かに実を結ぶことだと言われます。つまり、神を愛さない人の罪。その罪を背負われて十字架に死ぬことで、人々がまことの神を愛し、まことの神を礼拝する喜びの人生を生きていく、そういう実を結んでいく。まさにそのときが来たのだと、そういうことであります。 さて、聖書は「罪」ということを言います。聖書の語っている罪を言い換えていうなら、神を愛さないことだといえるでしょう。神を愛さない生き方。それが、聖書のいう罪だといえます。 それでは神を愛さない私たちは、何を愛しているのかと言うなら、25節を見ますと、「自分の命を愛するものは、それを失う」とありますように、自分の命を愛しているのであります。つまり神よりも自分の命を愛するものとなった。その命を与えてくださった神よりも、自分の命そのものを愛してしまう。それが罪だと言うことであります。 うちの子ども達はよくおもちゃの取り合いをしますけれども、「これは私の」って言い張って聞かないときに、こう聞いてみるんですね。美香ちゃん、あなたそのおもちゃはもらったものでしょう。あなたは生まれたとき、なーんにも持ってこなかったんだよ。今、あなたが持っているものは、みーんな、もらったもの。何一つ、自分のものなんかないんだよ。だからこれは自分のものなんて言わないで、感謝しようね。そして、すこし貸してあげなさい。そう言って聞かせることがたまにあるんですね。その言葉の意味を、三歳の子どもでも理解してくれるんですけれども、これが大人になるとそうは行かなくなるわけで、これは自分のもの、自分が頑張って手に入れたものと、しがみつくようになる。自分が裸で生まれ、裸で死んでいくことなどすっかり忘れて、これは、物や学歴や仕事や地位、そして何よりも、自分で創ったわけでもない、自分の命さえ、これは自分のものだと思ってしまう。命を創り与えた神よりも、自分の命を愛するとは、そういうことであります。自分の命は自分の物と自分勝手に生きていってしまう。それが、自分の命を愛するということであります。 最近集団で自殺するような若者達が増えてしまっていますけれども、なんで自殺するのかといえば、自分の命を愛しているからなのです。逆説的なのですけれども、自分の命を愛しているからこそ、人は自殺するのです。命を与えてくださった神よりも、自分の命を愛するからこそ、つまり、自分の命は自分の物だと思うからこそ、自殺出来る。まさに、25節で言われていますように、自分の命を愛するものは、それを失ってしまうわけであります。 自分の命は自分のものだ。自分の人生は自分のものだと思って生きるなら、結局は、それを失っていく。 それに対して、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命にいたると言われていますけれども、それはつまり、自分のために生きるだけの、そんな空しい人生を憎む。自分の命は自分のものだ、この世で手に入れたものは、みんな自分のものだと、死んだら持っていけないようなものに執着するような空しい人生を憎む。嫌悪する。そんないつかは無くなる物に縛られて生きる人生ではなく、命を与えてくださった神を愛し、神のために、自分の命や与えられたものを生かして生きる。それこそ、永遠の命。永遠の価値をもつ人生への道であると、そのように教えておられるのであります。 自分の命を愛してそれを失う人生、つまり、罪の人生から解放されて、神を愛し、神を礼拝して、与えられた自分の命を、豊かな実りあるものとする。そのために、イエス様は一粒の麦となってくだり、神よりも自分を愛してしまうような、人の罪を背負われて、十字架に死んでくださったのだと、聖書は語るのです。 第二次大戦中。ナチスの強制収容所の監視兵たちは、恐るべき権力を行使することができたわけであります。それこそ、なんでも強制して行わせることができた。収容されているユダヤ人に対して、信じる神を捨てさせることも、家族を呪わせることも、強制労働させることも、親しい友人や息子を殺させて埋めさせることさえ出来たわけです。戦争という異常事態の中で、彼らは恐ろしい権力を手にしていました。 しかし、そんな彼らでさえ、ただ一つだけ出来ないことがあったわけであります。どんな権力をもってしても、力をもってしても出来なかったこと。それは、自分たちを愛させることであった。彼らは、どんな力をもってしても、自分たちを愛するようにだけは、強いることが出来なかったのですね。 愛は強制や力では手に入らない。愛は愛によってしか手に入らない。愛国心が強制された瞬間に愛国心ではなくなってしまうように、愛は決して強制からは生まれない。愛は愛されることからしか生み出されてこない。 それゆえに、神は一人子イエスキリストを与えてくださった。神を愛するように強制することなど一切ないどころか、神自らがまず、人に対する圧倒的な愛を示してくださった。その神の愛のあかしが、キリストの十字架なのであります。そして、その一粒の麦は、2000年の時を経て、今や世界中に何十億ものイエスキリストを愛する人々という実を実らせているのであります。 そして、愛するということは、仕えるということであります。 今日の聖書の26節以下でイエス様は、こう言います。 12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 わたしのいるところに、わたしに仕える者もいる。つまり、イエス様の愛を知った人々、その愛を心に受け入れて、生き始めた人々は、イエス様に仕えて生きる新しい人生を生き始めていく。愛は人を仕えるものと変えていくのです。 西郷隆盛が西南の役の戦いに敗れたとき、せめて残った兵を国に返そうと軍を解散したわけですが、その時、増田という隊長は「自分は残る」と言い出しました。彼は、こう言います。「西郷という人はまことに妙である。一日、かの人に接すれば、一日の愛が生まれ、三日かの人に接すれば、三日の愛が生まれる。しかし、私は接する日を重ねて、もはや去ることはできず、いまは、かの人と生死を共にするほかはない」 伝道者のパウロという人は、イエスキリストの愛を知って、自分がどれほど強烈にその愛に引きつけられたかを、その手紙の中で表現していますけれども、彼は、キリストのことを人々に伝えることで、迫害を受け、地位も名誉も、すべて失ってしまったけれども、キリストの愛を知る素晴らしさゆえに、それら一切のものは塵芥であると言いました。そして、だれがこのキリストの愛から私たちを引き離すことが出来るのだろうか。この世界が提供するどんなものも、あの十字架によって示された神の愛から、私たちを引き離すことは出来ないのですと、そう語りました。 人は愛されるとき、その方に従って生きてくことを願います。もし、今、私たちが、誰にも従って生きようとしない。仕えるべき方などいない。自分は自分の勝手に生きていくだけだとするなら、それは、つまり、自分は誰にも愛されていないのだと告白してるのではないでしょうか。愛されるとき人は、仕えて生きるものとなる。聖書は、妻は夫に従うようにと告げますが、同時に、夫に対して、妻を命を捨てるほど愛しなさいと説くのです。人は愛されなければ心から仕えることもできない。逆を言えば、心から仕えるお方を持っている人は、愛されていることを知っている幸いな人であります。 イエス様は私たちを愛し、一粒の麦となって、その命を捨ててくださった。 この愛を心に受け入れて、自分の命を愛してそれを失う空しい人生ではなく、自分に命を与えた神様を愛して豊かな命を生きる人生。この私を愛してくださった、イエス様にお仕えしていきる永遠に価値ある人生を、ご一緒に歩んでまいりたいと、そう願うのであります。(お話:藤井秀一牧師) |
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| 第29回「エルサレムに迎えられる」(ヨハネ12章 12-19)2004年10月31日 |
| 聖書 12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群集は、イエスがエルサレムに来られると聞き、 13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。 「ホサナ。 主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」 14 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。 15 「シオンの娘よ、恐れるな。 見よ、お前の王がおいでになる、 ろばの子に乗って。」 16 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。 17 イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき、一緒にいた群集は、その証しをしていた。 18 群集がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。 19 そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」 今日の聖書箇所はイエスさまがエルサレムの町に入って行かれた時の様子が記されています。 聖書の中には「福音書」とよばれるものが四つあります。 |
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| 第28回「ベタニアで香油を注がれる」(ヨハネ12章 1-8)2004年10月24日 |
| 聖書 12章 1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。 2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。 3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。 家は香油の香りでいっぱいになった。 4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。 5 「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その 中身をごまかしていたからである。 7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。 8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」 4月からヨハネの福音書によって、イエスさまの生涯を追っておりますが、今日の12章から、内容的には、いよいよ大詰めに入ったというべきでありましょう。 先々週、私共は11章で、ラザロが墓の中からイエスさまによって甦った出来事を読みました。「偉大な生涯の物語」という映画が昔ありまして、その中の、このイエスさまによってラザロが甦った出来事が、人から人へと波のように伝わっていって、大勢の群衆が双手をあげて、怒濤のように街の中を走ってゆく場面を思い出します。それはまさに「歓喜」という言葉がそのまま映像になったような、すごい迫力のある場面で、ローマの占領下にあって、苦しい生活にあえいでいた人々にとって、この出来事がどれほど大きな喜びと、この人がイスラエルの国を復興してくれるかも知れないという、ある種の期待をもたらしたことは想像に難くありません。 しかし一方、時の宗教の指導者や政治的指導者にとっては、この出来事は決して喜ばしいものではありませんで、むしろ自分たちの立場を危うくするようなことでした。そこで、先週「イエスを殺す計画」というテーマで学びました通り、時の宗教指導者たちは、 11:53「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」と有り、57節には「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである」とあり、現代でいう指名手配のようなものが出されていたということでした。 ですから、12章からは、イエスさまはすでにいよいよ十字架への道を歩みはじめられていたということです。(もちろん、ある意味では、イエスさまは生まれた時から人間救済の使命を負っての、十字架へ向かう人生だったといえるのですけれど……)ですから、今日これから読む、この美しくも劇的な出来事も、イエスさまが十字架への道を歩みはじめられる、大変きびしい門出で起こった出来事ととらえて下さいますように。 さて、今日の聖書の個所をみてゆきたいと思いますが、まず登場人物は、先々週の11章の登場人物、即ちイエスさまによって甦ったラザロ、その姉妹のマルタとマリア、それに弟子たちです。 場所は1・2節「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」とあり、イエスさまが時々訪問されたラザロとその姉妹の家のようであります。しかし、記述は不鮮明であります。この出来事は福音記者たちの心に深く残ったことのようでありまして、実はマタイ福音書にも、マルコ福音書にも記されているのでございますが、こちらの方では、場所は「らい病人シモンの家」というふうになっています。聖書を読む場合、これを“本当はどっちだったのだろう”ということの方に目を奪われてしまいますと読みづらくなります。場所の詮索は聖書学者にまかせることとして、私共は、聖書は何を一体私共に向かって告げようとしているのかという、その、聖書の語りかけを聴いてゆきたいと思います。 実は、昨年一年間、マルコの福音書をこの早朝礼拝で学びました折にも、わたしは14章を担当することになり、この香油の出来事をお話し申し上げました。今日は「見えるものと見えないもの」ということをテーマとしてお話し申し上げたいと思いますが、しかし、同じ出来事ですので、前回と重複する点もあろうかと思いますので、その点、あしからずおねがい申し上げます。 2節をみますと、よみがえったラザロが食卓について、マルタが給仕をしていたとありまして、11章にも登場してえらく現実的発言をするマルタ、またルカ10章におけるマルタとマリアの物語を彷彿とさせまして、マルタはここでもまた人々のもてなし役をしています。きっと、まわりに気を配ってお世話をよくする人柄だったのだろうと想像いたします。 多分、親しい者同志で、いつもの雰囲気で和やかな食事が進んでいたと思われますが、その普段の雰囲気を破って、思いがけないことが起こりました。 妹娘のマリアが非常に高価な純粋なナルドの香油1リトラ(口語訳聖書では1斤となっている。1斤は普通600グラム、但し食パンの1斤は、店によって異なり250グラム〜400グラム)をもってきて、イエスさまの足に塗り、自らの髪をもってそのみ足をぬぐいました。何と美しい光景でありましょう。「家は香油の香りでいっぱいになった」と記されております。 今は女性の髪の毛もファッションの一部のようになってしまいましたが、この物語の起こった当時のユダヤの社会では、髪の毛というのは大変神聖なもの、霊の宿るものとして、やたらに人にふれさせなかったと言われておりますので、自らの髪の毛をもってみ足をぬぐうということは並々ならぬ行為であり、周囲の人々に衝撃を与えるに十分な光景だったと思われます。 彼女はベタニアに住んで、イエスさまがエルサレムにお上りになる度にお寄りになる家の娘でした。11章、ラザロの復活の記事の中で、ヨハネはくり返しイエスさまがこの姉妹を愛しておられたと記しています。ルカ10章のマルタとマリアの物語の中でも、忙しく立ち働くマルタをよそに、マリアは主のひざもとに座ってみ言に耳を傾けていたとありますが、マリアは日頃からイエスさまの語るみ言に心から傾倒し、信じ、尊敬し、慕い、愛していた。だからこそ、彼女はもう数日後には十字架にかかって死ぬと宣言なさるイエスさまの心の悲しみも苦しみも理解出来たのです。愛は人の心の悲しみや痛みを感じとることが出来ます。恐らくマリアにとって、イエスさまが時の為政者たち、宗教指導者たちからにらまれているお尋ね者だなどという意識など全くなかったろうと思われます。マルコによる福音書には「壺をこわして注ぎかけた」とありまして、彼女はひたむきにイエスさまへの愛を、かくも美しく、大胆な行動によって精一杯捧げたのでした。 また一方、7節の「わたしの葬りの日のために」というイエスさまの言にもありますように、この行為を“イエスさまの葬りの先取り”とみる見方もあります。そういう観点からこの行為をみたとしても、彼女はイエスさまを愛するが故に、目前に迫っている十字架を察知することが出来たのだと思います。何べんも「十字架にかかって死ぬ」と預言なさるイエスさまを、男の弟子たちは本当の意味でなかなか理解出来なかったし、理解出来ないが故に、なかなか信じることが出来なかった弟子たちと、愛するが故の鋭い感性によって、信じたくないこと、起こりえないと思われることをも、はっきりと察知して、葬りの先取りとして香油を捧げたとみるべきでしょう。 さて、この美しくも衝撃的出来事をみて、直ちに批判の言葉を発したのが、のちにイエスさまを裏切ることになるユダであります。 4節「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。『なぜ、この香油を300デナリオンで売って貧しい人々に施さなかったのか』」とあります。300デナリオンという値は、当時のユダヤ人の1年間の給与に相当するといわれております。 この間、新聞に日本のサラリーマンの1年間の平均給与は670万円とでておりましたので、その高価なことは大体理解出来ます。ですから、ここでユダがこのことを無駄遣いだと言って非難する気持ちもよく分かります。彼は不当な、理不尽なことを言っているのではありません。むしろ、現代にも通じる合理的な発言であります。私が属していた組織などの会議でも、このような主旨の発言はよく聞かれましたし、このような合理的・効率的意見が優位を占めて採決される場合が多いのです。しかし、イエスさまはこのユダの合理的・常識的な発言をおとりにならず、一見無謀のように、無駄遣いのようにみえるマリアの行為を支持なさいました。ここには記されておりませんが、マタイの福音書には「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とイエスさまが言われたと記されてあり、これは最高のおほめのお言であるように思われます。 一方、マリアよりずうっとイエスさまと接する機会も多い弟子の一人であるユダは、一貫してイエスさまが説きつづけた愛の世界、ほんとうは一番大切な、目に見えない世界をどうしても理解出来なかった。今日のこの短く記されている出来事の中に、この、目にみえる世界しかみることの出来なかったユダと、イエスさまが示された目にみえない世界を理解することの出来た対照的な二人の姿がはっきりと浮き彫りにされています。 この12弟子の一人であるユダが、イエスさまを裏切るという行為は、何べん読んでも胸痛む、悲しい出来事であります。 どうして彼がイエスさまを裏切ったのかは、学者たちの間でもいろいろ意見がありますが、ユダはイエスさまに、当時のユダヤの国の困難な情況、ローマの圧政、貧困など、政治的・経済的苦しみから解放する救い主を求めたのだと思います。 しかし、イエスさまの救いはそのような処にはなかった。そのイエスさまの救いのあり方を理解出来なかった彼は、ついに主なるイエスさまを裏切るという痛恨事を残してしまいました。いろんな短歌を詠んだことがあります。 「見えぬものに視点をおきて生きんとし なお日常の見える物見る」 なかなかイエスさまのために1年分の給料に値するものを捧げるようなことなど出来ないのが現実でございます。しかしまた、目にみえる現実だけに終始する生き方もしたくはありません。 天野有さんという方は、この常盤台教会で青年時代を過ごし、ここから献身して、今、西南の神学校の教師をしておられる方ですが、ずいぶん前になりますが、ヨハネ11章、ラザロの復活の記事を主日礼拝で説教をなさいました。私は感動して、テープをダビングしていただき、今も持っているのですが、天野有さんはその中で「マリヤにはからし種ほどの信仰があった。そしてからし種ほどの信仰で十分だった」と語られたことが心に深く残っております。 自らかえりみてゆるぎない強い信仰など到底持つことは出来ません。でも、からし種ほどの信仰があれば十分だという天野有さんの言葉に慰められます。からし種ほどの信仰でも、イエスさまによって救われ、その恵みの中で愛していただいていることに感謝し、また周囲の人、一人ひとりもイエスさまが愛しておられるお一人おひとりとして、大切に考えてゆく人生でありたい。 からし種ほどの信仰、でもそれがほんものでありたいと願いつつ祈る毎日です。(お話:工藤渓子さん) |
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| 第27回「イエスを殺す計画」(ヨハネ11章 45-57)2004年10月17日 |
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聖書 みなさんお早うございます。今朝もご一緒にヨハネによる福音書から学んで参りましょう。 今朝の箇所では最高法院という言葉が出てきます。このことに少し触れておきます。 47節をご一緒に読んで見ましょう。 「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行なっているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」」(ヨハネ11:47) ローマ帝国は支配した国の宗教や文化に対して、治安が赦される限り寛大な政策をとっていました。 49節と50節も一緒に読んでみましょう。 「彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」(ヨハネ11:49−50) ここで一人の人間とはイエス様のことを指しています。 わたしも今年になって皆さんと一緒にヨハネによる福音書を学ばせてもらっておりますが、6月に「イエスとサマリアの女」のところをお話させていただきました。自分にとっても本当に良い学びでしたが、この福音書にはサマリア人やガリラヤ人が登場いたします。異邦人というものがその視野に入っている。アブラハムの子、イスラエルの子孫たちという民族的な枠を超えた「よき知らせ」、福音が語られている。ですから、カイアファは神様に用いられて、こんなふうに言ったということができるのではないか。 次に参ります。 「それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。」54節 これまでもイエスに対する殺意はあったのですが、サンヘドリンというユダヤ人の最高意思決定機関による正式決定としてはなされていなかった。しかしここにおいて、公式の決定となったのです。ですから、イエス様は公然とユダヤ人の間を歩くことはなくなりました。 「さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。」(ヨハネ11:55−57) 福音書はこの時、ユダヤ人の過越祭が近づいたと記します。この福音書ではこれで3度目になるでしょうか。 過越祭では子羊が屠られます。子羊が自分たちの代わりに死んでくれていく。ヨハネによる福音書はこの過越祭で殺される子羊とこれから十字架への道を歩みきり殺されていく主イエス・キリストを重ね合わせて見ていると思うのであります。 ユダヤ人の議会はイエスを捕らえるために彼の居所が分かれば届出よという命令を出しました。 |
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| 第26回「ラザロの死・イエスは復活と命」(ヨハネ11章 1−44)2004年10月10日 |
| 聖書 ◆ラザロの死 11:1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。 11:2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。 11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。 11:4 イエスは、それを聞いて言われた。 「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」 11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 11:6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。 11:7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」 11:8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」 11:9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。 11:10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」 11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」 11:12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。 11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。 11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。 11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、 彼のところへ行こう。」 11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。 ◆イエスは復活と命 11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。 11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 ◆イエス、涙を流す 11:28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。 11:29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。 11:30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。 11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、 墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。 11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、 「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。 11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 11:35 イエスは涙を流された。 11:36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。 11:37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。 ◆イエス、ラザロを生き返らせる 11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。 11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、 「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。 しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。 あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 11:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。 イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。イエスは言われた。 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 ユダヤのエルサレムの近郊でベタニヤという村にマルタ、マリヤの姉妹が兄弟のラザロと住んでいました。 |
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| 第25回「ユダヤ人、イエスを拒絶する」(ヨハネ10章 22-30)2004年10月3日 |
| 聖書 10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。 10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。 10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」 10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。 10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。 10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。 10:30 わたしと父とは一つである。」 おはようございます。 今日の聖書の箇所の冒頭に、そのころエルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。時は冬であった、とあります。このお祭りは、今でもユダヤで行われている祭りで、他の聖書では「宮きよめの祭り」とも訳されます。最初にこのお祭りの由来を簡単に説明します。 イエス様の活躍された時代から160年ほど前の時代。ユダヤ地方は、シリアという国に支配されておりました。そして、そのシリアの王様が、自分こそ神の現れであるといって、エルサレムにギリシャの神々の像を建てさせ、ギリシャの神を拝ませ、ユダヤ人の嫌う豚を犠牲として献げさせるようなことをしました。つまり、自分たちの宗教を持ち、なかなか治めにくいユダヤ人たちを支配するために、宗教的な弾圧をしたわけであります。 戦前、日本が、朝鮮半島を支配するために、あちこちに日本の神社をつくって、人々に無理矢理拝ませ、支配しようとしたことと似ておりますが、人間にとって思想や信仰といいますのは、人間が生きていくための、根本的なものでありますから、それを弾圧したり支配しようとすれば、必ず大きな反発を受ける。 ユダヤ人も、自分たちの神殿に、無理矢理異教の神々を建てられ、これを拝めと弾圧される中、ある祭司を中心として反乱が起こり、ユダヤ教の礼拝を回復するために、独立するのだと、戦いを始めたわけであります。そして、見事、エルサレムの神殿を奪回し、異教の神々を追い出して、宮きよめをして、新しい神殿を奉献した。そのことを、記念する祭りが、この神殿奉献記念祭なんですね。力づくで、ユダヤ民族の信仰を守った。ユダヤの民族意識がもっとも高まるお祭りでもあったわけであります。 そんなお祭りの最中に、ユダヤの人々、特に、ユダヤの指導者たちですが、彼らがイエス様を取り囲んでこう言ったわけであります。 「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」 メシアといいますのは、油注がれた者という意味ですが、やがてやってくる救い主と信じられていた存在であります。ユダヤの指導者達は、イエス様に向かって、あなたが私たちを救う救い主であるなら、はっきりとそういいなさいといっているわけであります。 それに対して、イエス様は「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。」と言われました。 ユダヤ人たちは、メシアならはっきりそう言いなさいといったのに対して、イエス様は、言ったではないかといわれるわけです。でもあなた方は信じないではないかといわれる。なにか会話がすれ違っているわけであります。 そこにはまず、ユダヤの人々が考えていたメシア、救い主というものが、かつてシリアと戦って、異教の神々から救ってくれたような存在として、つまり、軍事的な力で、今、ローマに支配されている自分たちを解放してくれるメシアがやってくると、そう思いこんでいたところに大きな問題がありました。 しかし、イエス様は、ご自分がそのような、ユダヤ民族がこの世界で一時的に繁栄するとか、解放されるとか、そのようなメシアであるとは、ひと言も語っていないのであります。だから、ユダヤ人達は、メシアならメシアだとはっきり言ってくれといったわけであります。 でも、イエス様は、言ったではないか。でも、あなた方は信じない。そういわれる。それは、私は軍事的なメシアだといってきたのではなく、永遠の命を与えるメシアであると語ってきたのに、あなた方は信じなかったではないかと、そういわれるわけであります。ここで、少し前の箇所を開けたいのですけれども、8章51節からですが、そこにはイエス様とユダヤの指導者とのやりとりがこう記されています。 8:51 はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」 8:52 ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。 8:53 わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」 こうあります。 イエス様が、わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。もちろんこれは、肉体的な命のことではなく、霊の命のことでありますけれども、その永遠の命を与えると語っても、それを聞いたユダヤの指導者達は、何を言っているんだ、人間はみんな死ぬではないか、何様だと思っているのか、と、イエス様の言葉に耳を傾けようとしませんでした。ローマに支配されていたユダヤの人々にとっては、今の目の前の現実が良くなることが救いであって、そんな自分もやがて死ななければならないことも、自分の罪も忘れて、ただ、目の前の現実を改善してくれる救い主、民族的なメシアで心いっぱいだった。でありますから、イエス様の言われていることが、聞こえてはいても、心に入らない。聞こうとしない、信じようとしないと、そういうことでありました。 そのような、目の前のことにとらわれ、永遠の事柄に対して目がふさがれている姿。それは、現代に生きる私たちもまたそうではないでしょうか。 現代人は、毎日忙しくて、宗教とか哲学とか、そのようなものに関わっていられない、宗教などではなく、すぐに目の前の問題を解決してくれる実用的なものこそが、価値あるものだと、そういう考え方で、いきてきたのではないでしょうか。 戦後日本も、生きる意味や人生の意味を求めることより、今、目の前の貧しさからのがれ、豊かになるという目先の問題を解決しようと、家庭を犠牲にしてまでがんばってきた。そして、確かに経済的には豊かになったかもしれませんが、その陰で、多くの家庭が壊れ、子どもたちの犯罪が増えてきたわけであります。 最近は、年金問題が騒がれましたけれども、年金の問題の本質は、本当にお金の額にあるのだろうかと、そう思います。本当にお金の問題なのだろうか。 厚生労働省によると、今、勉強もせず、働きもしない若者の数が、毎年何万人ものペースで増えているわけであります。最近、教会にやってきたホームレスのおじさんに聞いたのですけれども、今、新宿あたりにいくと、20代の若いホームレスの人が、大変増えているそうであります。田舎から出てきて、仕事をしてみたけど続かなくて、そうこうしているうちにホームレスになってしまう。そういう若者が増えている。そんな働けるのに働かない若者が年々増えれば、年金どころの話ではない。社会そのものが行き詰まってしまうわけであります。 問題の本質は、目先のお金の話ではない。その本質は、人間がいかに生きるべきなのか。なぜ生きていくのか、何のために生きるのかという、まさに宗教の問題。聖書が言うところの、永遠の命の問題にこそ、目が開かれなければならないのではないでしょうか? 10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。 イエス様はここで、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」といわれます。 10章でイエス様は、ご自分のことを羊飼いにたとえ、私たちを羊にたとえておられますけれども、羊飼いであるイエス様の言葉を、聞き分ける。それは、ただ無意識に聞こえていることを聞き流すのではなくて、聞き分けていく。確かにこれは、神の言葉であると、命の言葉であると、聞き分けていく。それが大切なことなのであります。 なにが本当に生きていくのに大切な言葉なのか。この世界には沢山の言葉があふれていますし、インターネットによって、ありとあらゆる言葉にアクセスできるわけですけれども、その言葉の洪水の中で、本当になにが大切な言葉なのかを聞き分ける。その大切な言葉が、聖書の言葉であることを、イエスキリストの言葉であることを、聞き分けていくことができる。それは、不思議なことであります。そこには、単なる自分の思いこみではなく、確かに、イエス様の言葉を聞き分けさせてくださる神の導きがある。 少し前の14節にこうあります。 10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 とイエス様は言われるのであります。つまり、 すでにイエス様に知られているから、私たちはイエス様の言葉が心に響く。聖書の言葉が心に響く。 無理矢理思いこもうとしているわけでもなく、また、念仏のように押しつけられているわけでもないのに、なぜだか、イエスキリストの言葉が、心に響いてくる。 「わたしは羊のために命を捨てる」と言われ、本当にこの私の罪の身代わりに十字架についてくださったイエスキリストの言葉が心に響く。 生きることのむなしさになやむ私の心に、キリストの言葉、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われた言葉が響く。それは、私の思いこみでも、信仰の押しつけでもなく、それは、すでにイエス様に知られ、イエス様に愛されているゆえに、イエス様のその声を聞き分けることができる、心にとめることができる。そういうことなのであります。 問題を引き起こしてきた新興宗教は、大抵、無理矢理人々に信仰の教義を信じさせようと、マインドコントロールの手法などを駆使して、いわば洗脳のようなことをいたします。そのためのマニュアルが整っていて、いわば、そのマニュアルにそってするなら、どんな人間も信じさせることができると、そう考えているわけであります。 つまり言葉を変えれば、人間が人の心の中に信仰を作り出すことができる。人間の力で、人に神を信じさせることができる。そう考えるわけであります。 戦前の日本帝国が、朝鮮半島に日本の神社をたてて神社の神を信じさせることができると考えたように、人間が人間に対して信仰を与えることができると考えるとき、そこに恐ろしいことが引き起こされてきたのであります。信仰というものを、人間を支配するために利用してきた国があり、教祖がいる。 しかし、イエス・キリストは、ご自分を否むユダヤの指導者たちにこういわれたわけであります。 10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 クリスチャンの方はおそらく誰一人として、無理矢理に脅され強制されて、イエスキリストを信じるようになったということはないと思います。そうではなく、ただ、イエス様の言葉が心に響いて、心から離れなくて、この方こそまことの救い主であるに違いないと、そのように自分で確信したのだと思います。 特に私たちのバプテスト教会は、自分の口で信仰の告白をすることを大切にしています。親がクリスチャンであるからとか、そういうことはいっさい関係なく、誰にも無理強いされないで、ただ自分自身の口で、イエスキリストを救い主と信じる告白をすることを大切にいたします。 そこに人の働きではなく神の働きを信じるのです。人間が人を支配するために、人に無理矢理信じさせるのではなく、本当の神に従うために、神が人に信仰を与えてくださる。それが聖書の信仰であり、まさにイエス様が、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」と言われたことの意味だと理解しています。 そして最後にイエス様は、 10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。 10:30 わたしと父とは一つである。」 と、救いの確かさについて明言されました。 父なる神と一つであるイエス様は、ご自分の羊を守り通してくださる。私たちの罪を赦し、死が終わりではない、永遠の命の約束をしてくださった、その約束のことばを、聞き分ける人に、その約束は必ず成就するのであります。 どんなに、私たちが弱くとも、自分には信仰など持ち続けられないと感じていてもであります。 信仰とは、私たちが神の手を握ることではなく、神が私たちの手をつかんでくださることだからであります。 子どもが親の手をつかんでいるときに、何かに躓けば、子どもは手を離して、転ぶでしょう。しかし、親が子どもの手をつかんでいるなら、こどもが何かに躓いても、転ぶことはありません。親がしっかり子どもの手をつかんっでいるからであります。 私たちの信仰とは、まさにそのように、私ではなく、神が私たちの手をつかんでくださっている。そこに平安と喜びを見いだす信仰であります。 イエス様の言葉を聞き分け、その永遠の命の約束に胸躍らせながら、どんな状況が目の前にあろうとも、躓いて倒れそうになっても、神が支えてくださることを信じて、今を感謝して歩む。そんな人生をあゆませていただく、それが、私の羊飼いであるイエス様を信じる信仰なのであります。(お話:藤井秀一牧師) |
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| 第24回「イエスは良い羊飼い」(ヨハネ10章 1−18)2004年9月26日 |
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聖書 先週、私共は9章を通して、一人の盲人がファリサイ派の人々の圧力にも屈せず、イエスさまに目を開けていただいたことを主張しつづけ、会堂を追い出されたところで、イエスさまに真向かい、救われた出来事を読みました。今日のところは、その9章の出来事のあとに続くイエスさまの教えであります。 |
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| 第23回「ファリサイ派の人々、事情を調べる」(ヨハネ9章 13−41)2004年9月19日 |
| 聖書 ヨハネ9章 ファリサイ派の人々、事情を調べる 13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。 14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは安息日のことであった。 15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと見えるようになったのです。」 16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」という者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行なうことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。 17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたと言うことだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。 18 それでもユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、 19 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったというのか。それがどうして今は目が見えるのか。」 20 両親は答えていった。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。 21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」 22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。 23 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。 24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」 ファリサイ派の人々の罪 みなさんお早うございます。今朝もヨハネによる福音書から学んで参りましょう。 最初に(ヨハネ9:13−17)をみていきたいのですが、ここで安息日が出てきます。 ここでこの男が言った預言者という言葉は、旧約聖書に出てくるモーセやエリヤといった預言者のことを思い浮かべて言っていると思われます。出エジプト記でモーセは多くのしるしを行なってイスラエルの民をエジプトから導き出しました。このときのことは、映画『十戒』等で皆さんもよくご存知だと思います。エリヤはバアルの預言者たちができないことを行なうことによって本当の神の預言者であることを証明しました。(列王記上18章)‥この前に盲人であった人は、イエス様に唾でこねられた土を目に塗られてから、イエス様の言葉に従ってシロアムの池で目を洗いました。すると目が見えるようになったのです。この時のこの男はイエスを「あの方(イエスという方、)」と言っていました。しかし、この男はファリサイ派の人たちから質問されることでイエス様を「預言者」と言っております。彼らに質問されることで、自分の目を開けてくれた「あの方(イエスという方、)」に対する認識が深まっていっているのではないでしょうか。 次に(ヨハネ9:18―23)に参ります。 前に盲人であったこの男の目が開かれて今は見えるようになったと言う事実をどうしても信じられない彼らは今度は、この男の両親を呼び出します。呼び出したんですね、何だか裁判のようです。両親は、わが子のことですし、普段から不憫に思っていた自分の息子のことですから、その身に何が起こったか、そしてそのことを為してくれたのはイエス様であったことを知っていたと思われます。そのことは町中のうわさにもなっていたでしょうから。しかし、両親は「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、私どもはわかりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」と答えます。聖書はその理由を記します。ユダヤ人たち(ファリサイ派)が既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたからです。両親は会堂から追い出されること、すなわちユダヤ人社会から締め出されること、村八分にされる事を恐れたのです。 次に(ヨハネ9:24−34)に進みます。 ここからのユダヤ人たちとこの男の言葉のやりとりは実に味わい深いものです。ここはご一緒に聖書を読んでみましょう。 24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」 ユダヤ人たちは再度盲人であった男を呼び出します。そして言います。 “神は罪人の言うことはお聞きにならないとわたしたちは承知しております。”まさに『わたしたち』は承知している、そしてそのことを彼らファリサイ派の人たちはイスラエルの民に普段から教えてきのです。 次に参ります。ここもご一緒にお読みいたしましょう。 35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 イエス様は、彼が外に追い出されたと聞くとすぐに彼を見出すために行動されます。 《ヨハネ福音書の理解で言えば、私どもと同じ人間であって、しかも神の救いをもたらしてくださっている存在、あるいは、「神の救いそのものであるような存在」、それをここで当時の人々の信仰の一つの表現、聖書に見出される表現をもって「人の子」と呼んでいるのです。》‥加藤常昭ヨハネによる福音書講解説教 「あなたは人の子を信じるか」というイエス様の問いにこの男は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と答えています。 前に盲人であったこの人は、イエス様のことを最初は 最後になりますがご一緒にヨハネによる福音書20:30―31をお読みいたしましょう。 20:30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物には書かれていない。 |
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| 第22回「生まれつきの盲人をいやす」(ヨハネ9章 1−12)2004年9月12日 |
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聖書 9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
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| 第21回「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8章 31−38)2004年9月5日 |
| 聖書 8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 8:34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。 8:37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。 8:38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」 今日の聖書の、特に32節の「真理はあなたたちを自由にする」という言葉は、大変有名な言葉でありまして、大学の図書館や記念館に刻まれておりましたり、国立国会図書館にも書かれていると伺ったことがあります。 いわゆる格言とか座右の銘のように、クリスチャンではない人にも親しまれている言葉でありますけれども、大学とか図書館などで、この「真理はあなたたちを自由にする」と掲げられているとき、おそらくイメージされているのは、学問こそが真理への道であって、学問を究めるとき、人は本当の自由を得ていくのだという、そういうイメージで語られているのではないかと思います。 学問こそが、私たちに自由を与えるのだということは、広く信じられているのではないでしょうか。実際、戦後の日本の教育においては教育ですとか学問、特に科学技術の領域においては、大変力を入れてやってきたわけでありますけれども、そんな学問や技術の恩恵を受けて、確かに戦後の驚異的な経済復興も成し遂げられ、日本の科学技術、学問のレベルは、一応先進国に追いついたのでしょうけれども、しかし、その学問や科学というものが、本当に人を自由にしてくれたのか、ということに関しては、疑問が残るわけであります。 なぜ、オウム真理教のようなカルト宗教に、学問を究めた優秀な人間がのめり込んで、果てには人殺しまでしていったのかと思います。あえて自由を放棄して、教祖の奴隷となって罪を犯してしまう。せっかく積み上げた学問が役に立っていない。無知ゆえに、人間を絶対化して道を誤ったりしない。人間の営みを相対化する学問が、教祖を絶対化することに、なんのブレーキにもならなかったわけであります。学問が真理であり、学問こそが人に自由を与えるという考えは幻想なのだと思います。 「真理はあなたがたを自由にする」という言葉が欧米の大学などの建物に記されているように、もう一つ有名な言葉がありまして、それは、ラテン語で、ピエタス・エト・スキエンティアという言葉ですけれども、このピエタスという言葉は英語にするとpiety(パイアティ)、スキエンティアというのは、英語でscience(サイエンス)で、piety and science つまり、日本語にいたしますと、「敬虔と科学」。「信仰と科学」あるいは「宗教と科学」といってもいいかとおもいますけれども、この「信仰と科学」という言葉を、特に700年800年という歴史を持つヨーロッパの大学などの研究機関は、大切にしていると言われます。つまり、学問だけの追求ではなくて、その学問の基礎となり、内容を整え、正しい方向付けをする、パイアティー、敬虔とか信仰というものが、ヨーロッパの優れた高等教育において、大切にされている訳であります。この信仰と学問の緊張関係の中で、ヨーロッパの学問は営まれてきた。 しかし、日本においては、このパイエアティーの部分を、すっかり無視して、知識だけを切り離して学問としてきた付けが、優秀な若者をオウムへと送っていったように思えてならないわけであります。 積み重ねてきた知識が、学問が、いったい何の意味を持ち、どこを目指していくのかという、意味と方向付けを持たなければ、そのような知識は、私たちに本当の自由を与えてはくれないのではないでしょうか。 本当に私たちに自由を与えてくれるもの。それこそが「真理」なのであり、その真理とは、わたしの言葉にとどまるところにあると、イエス様は言われたのであります。この「真理」とは、人間の知的探求の先にかいま見えるものではなく、上からの啓示によって。つまり、神の御子イエスキリストの御言葉によって、そしてその言葉にとどまるとき、知ることができるのだと、イエス様は語られているわけであります。 さて、31節を見ますと、イエス様を取り囲んでいたユダヤの人たちが、イエス様を信じたと記されています。しかし、その信じるということが、口先ではなく、本当であるかどうか。それをイエス様は、32節でこういわれます。 「わたしの言葉にとどまるならば、あなた達は本当に私の弟子である」 イエス様を信じるということは、つまり、イエス様の語られた言葉にとどまることであるということであります。 体の調子が悪くて病院に行きましたときに、診断してくれたお医者さんを本当に信じるならば、医者の言葉に従って、出された薬を飲むわけであります。イエス様を信じるということは、信じていると言うだけではなくて、イエス様の語っている言葉を信じて、委ねていく。そのイエス様の語られた言葉に人生をかけていく、ということであります。 そのように、イエス様の言葉に人生をかけて、委ねていくとき、私たちは真理を知り、真理は私たちを自由にするだろうと、イエス様は言われたわけであります。 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 しかし、イエス様に、真理はあなたたちを自由にするだろうと言われたユダヤ人たちは、ちょっとびっくりした。そして、 33節で「私たちはアブラハムの子孫ですが、今まで誰の奴隷になったことはありません。」とあわてて反論いたします。私たちは、誰の奴隷にもなったことなどない。私たちは自由に生きてきた。そういうのであります。 しかし、これは厳密に言うと違っているわけであります。なぜなら、この時すでにユダヤの人々はローマ帝国に支配されていましたし、それまでの歴史においても、何度もなんども、他国の支配の下に置かれて彼らは生きてきたわけであります。しかし、それでも、わたしたちは奴隷になどなったことがないと、当時の彼らが胸を張って言えた。それは、彼らはどんなに大きな国家権力の武力によって弾圧されようとも、安息日を守り、礼拝を守ってきた民族だからであります。弾圧され、公に礼拝できないときには、隠れてでもした。今時の言葉で言えば、信教の自由を守り通したのであります。だから、彼らは人間の奴隷になどなったことはない。 信仰の父であるアブラハムの子孫である私たちは、人間に支配されて心の中まで奴隷にされたことなどないと、そう言うことができたのであります。実際、紀元前には、敵と戦っているのに、安息日を守るために、敵に殺されることさえ辞さないこともあった。それくらい徹底して人間の奴隷にはならない民族でありました。 しかし、そんなユダヤの人々に、イエス様は、34節でこういわれました。 「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」 確かに、他人の奴隷にはならなかったかもしれない。心の中まで支配されるようなことはなかったかもしれない。しかし、あなた方は、自分自身の罪の奴隷ではないのか。自分の心の中に巣くっている、悪き思い、みだらな思い、憎しみ、殺意。そのような自分自身の中にある罪の奴隷ゆえに、37節で「あなたたちは私を殺そうとしている」といわれるわけであります。それは、わたしの言葉、御言葉を受け入れないからだと、そのように語られました。 ひるがえって、現代に生きる私たちはどうでしょうか。 確かにこの日本は、一人一人の自由が確保され、むやみに人に支配されたり奴隷になるようなことはないかもしれません。しかし、それでは、本当に自由を謳歌しているかと言えば、確かに人の奴隷にはなってはいないかもしれませんけれども、自分自身の奴隷になっているということはないでしょうか。それは世間体やメンツの奴隷であったり、お金の奴隷であったり、もしくは、死の恐怖の奴隷ということもあるかもしれない。とかく自分と他人との関係でありますとか自分と国との関係のようないわゆる、自分の外側からやってくる不自由にばかり目がいきますけれども、しかし、本当の不自由とは、自分の外側ではなく、自分の内側にあるのではないでしょうか。自分のなかに巣くっている、自分を縛り上げている罪。その罪からの解放と自由こそが、なによりも私たちに必要な自由であると、そのように思うわけであります。 新約聖書の中に、パウロという伝道者が出てきますけれども、彼はイエスキリストに出会ってすっかり変えられた人でありますけれども、彼はキリストを信じるまでは、一生懸命、自分の力で聖書の教えを守ろう、律法を守ろうとがんばっておりました。しかし、どうがんばっても、それは無理だったのであります。自分は聖書の教えに従って、良いことをしたいという意志はあるけれども、どうしてもそれをすることができない。自分は、自分が望んでいる良いことは行わずに、望まない悪いことを行ってしまう。それは、わたしの中に罪が潜んでいるからなのだ。ああ、私はなんと惨めな人間なのかと、パウロは嘆いたわけであります。 本当の自由は、まず自分の外側ではなく、自分の内側にこそ必要な自由。神の愛による罪の奴隷からの解放。そして神の愛に応えて、互いに愛に生きる自由にあるのではないでしょうか。 そして、その自由を、ユダヤの人々は持っているのだと、なぜなら、自分たちはアブラハムの子孫なのだからと、いったのであります。自分たちは、神の祝福も救いもすべて約束されているアブラハムの子孫なのである。だから、自分たちは自由なのだと、彼らはアブラハムの子孫という血統にすがった。しかし、そういう彼らは、イエスキリストをねたみ、殺そうという心に縛られていたわけであります。ちっとも彼らは自由ではない、愛する自由を持たず、罪の奴隷であった。 それゆえに、イエス様は、いや、罪を犯す者はだれでも、罪のどれいであると、確かにあなた方はアブラハムの子孫かもしれない。しかし、私を殺そうとしている、そういう罪の奴隷ではないかと言われるわけであります。ですから、彼らは、今や、自分たちがアブラハムの子孫であるという血統を選ぶか、イエスキリストの言葉を信じ、そこにとどまるか、どちらかなのであります。そして、罪の奴隷の前には、血統など何の力にもならない。罪からの救い、解放は、イエスキリストが、私たちの罪の身代わりとなって十字架に死に、三日目に復活された。この御言葉にとどまるときに、もたらされる神の業なのであります。この御言葉にとどまり、この御言葉に自分の人生をかけていくとき、神は私たちに真理を悟らせ、その真理は私たちを自由にするのであります。 そして、罪からの自由、自分の内側の自由をいただくとき、その自由は、自分の外側にも、つまり、人との関係にも、広げられていくのであります。良いことがわかっているのにできない自分。愛さなければならないのがわかっているのに愛せない自分。その不自由な自分、罪深い自分が、そのままで、キリストの犠牲によって、神に受け入れられた。こんな愛のない自分が、自分のことばかりに縛られている自分が、しかし、そのありのままで神に受け入れられた。その神の愛は、私たちの魂を自由にすると共に、自分の外側に向かって、その自由を広げていく。自分の家族、友人、知り合いなど、かつてはそれらの人々を受け入れられずに、人を変えようとしていた自分が、神様にそのありのままを受け入れて頂いたその恵みによって、他の人々をもそのありのままを、愛し受け入れていこうと願うようになる。人を支配して、自分の願い通りに変えようとするのではなく、そのありのままの他人を、神の愛ゆえに、愛し受け入れる自由に生きる者へと、神の力を頂いて、たとえ少しずつではあっても、変えられていく。そう信じるのであります。 その真の自由を得させる、イエスキリストの御言葉を受け入れ、日々その御言葉に委ねて生きることが出来るよう祈りながら、御言葉にとどまっていく歩みを共に歩んでまいりましょう。(お話:藤井秀一牧師) |
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| 第20回「イエスは世の光」(ヨハネ8章 12-30) 2004年8月29日 |
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聖書
「イエスは世の光」 12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 13 それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」 14 イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。 15 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。 16 しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。 17 あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。 18 わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」 19 彼らが、「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」 20 イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。 「わたしの行く所にあなたたちは来ることができない」 21 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」 22 ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、 23 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。 24 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」 25 彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。 26 あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」 27 彼らは、イエスが御父(おんちち)について話しておられることを悟らなかった。 28 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。 29 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」 30 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。 今日はヨハネ8章12〜30という長い箇所が与えられておりますが、特に最初の8章12節だけを朗読させていただきます。 12節:イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 この後の少し長い箇所ですが、それらにも触れながらイエスさまのみ言葉をご一緒に学んでいきたいと思います。 イエスさまはここで「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」とご自身のことを証しされました。すると周りにいた人たち、特にイエスさまと敵対関係にあるファリサイ派の人たちが「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」とイエスさまに反論したわけです。それは当然と言っていいかもしれません。犯罪を犯して捕らえられた人が、いくら「私は無罪です」と言っても、その人の証言というのは裁判では信憑性に欠けますし、やはり第三者の証言で決まるわけです。 確かにファリサイ派の人たちは、イエスさまが自分で「わたしはこういう者だ」と言ったとしてもそれを簡単に受け入れることが出来ませんでした。それは決してファリサイ派の人たちが理不尽なことを言っているのではありません。律法でもやはり二人以上の人たちの証言というのが必要となっっていたわけです。ですから「わたしは世の光だ」とイエスさまがご自分のことを言ったとしても「あなたが世の光だと他に証言する人はいないのか」と彼らは言っているわけです。 それに対してイエスさまはご自分はご自分のことを証しする資格があると仰っています。それは、イエスさま自身が「自分は神の子である」という自覚にたっておられるからなのです。イエスさまはわたしは自分がどこからきたのか、そしてどこに行くのか、知っている。しかしあなた方は知らない、とイエスさまは仰るわけです。 しかしそういわれても、これもイエスさまご自身の証言ですから、ファリサイ派の人たちがたやすく信じるとは思えません。しかし、イエスさまのこの言葉はとても大切な言葉です。それはイエスさまが父なる神と共にいると仰っているからです。 16節のところで「わたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」と言っています。 わたしは父なる神と一緒にいるのであって、わたしの証言は決して一人の証言ではない。そのようにイエスさまは仰るわけです。 しかし、これも誰の証言かということになればファリサイ派の人たちにとっては受け入れることのできない証言だと思います。 しかし、このときイエスさまはファリサイ派の人たちに捕らえられることはありませんでした。まだ「その時」がきていなかったと聖書に書かれています。イエスさまの証言をファリサイ派の人たちが納得したから捕らえられなかったのではない、ということです。 このイエスさまの行動、そしてイエスさまに対する人々の行いというものは、神さまのご計画の中にあったということがここに記されているのです。 これはとても大切なことだと思います。イエスさまのご自身の行動、そしてイエスさまを取り巻く人たちの行動、それもやはり神さまのご計画の中にあったということです。 イエスさまとファリサイ派の人たちのやりとりをみていますと、本当にそのやりとりを通して大切なことが示されているのに気づきます。 イエスさまに敵対する人の言葉、イエスさまに対して投げかけられる疑問の言葉、考えてみれば、イエスさまに対して投げかけられるこのような疑問の言葉というのはわたしたちも持ち得る疑問の言葉だと思います。 イエスさまが「わたしは真理である。わたしは道である。」とご自身のことを言いましたときに、私たちは二つの反応をします。(日本人は、どちらとも言えないというのが多いので三つの反応、とでも言いましょうか) 「わたしは道であり、真理である」というその言葉をきいて、 「本当だ。ご自分でそう仰っているのであれば、その真実とはなにか、その真実を知りたい」と思う人と、 「そんなこと自分で言ったとして何になるんだ。自分で自分のことを正しいといって、なんと傲慢だ」と思う人と二通りいると思います。 イエスさまに対するそのような疑問とか反論というものがこの聖書の中ではファリサイ派の人たちや律法学者を通してイエスさまにぶつけられています。そしてその事に対して、イエスさまは答えておられます。そしてその答えにたいして、そのとき、ファリサイ派の人たちや律法学者の人たちはその答えを聞いてすぐに納得したかというと、決してそうではないのです。納得した人もいるけれども、多くの人がそんな答えでは納得できないと考えていたのは確かです。 今日の12節から20節のやり取りは、そのことを表しています。誰も捕らえようとしなかった、それはまだ「その時」が来ていなかったからです。イエスさまとのやり取りで、ファリサイ派の人たちが理解して納得したからイエスさまを捕らえようとしたのではないということです。また、イエスさまに対する疑問も残っているのです。イエスさまのことを信じていなかった、受け入れていなかったけれど捕らえられなかった、そういう疑問が残ります。 聖書の言葉に対する疑問、イエスさまの言葉に対する疑問、このような疑問を持つということは、わたしたちクリスチャンにとって悪いことでしょうか? また、聖書の言葉に疑問を持つということはいけないことでしょうか? 聖書のこのようなイエスさまとファリサイ派の人たちや律法学者の人たちとのやりとりをみていますと、決してそうではないということを思わされます。聖書はわたしたちに「疑わずに信じなさい、それができることは幸いだ」と言います。しかし、なかなか私たちはそのような幸いな状態になれないことが多いのです。 聖書の言葉に対して、何故だろう、どうしてだろう、そのような思いを抱いてしまうということがありますね。しかし聖書は決してそのことを否定していませんし、またこのようなファリサイ派とのやりとりを通してイエスさまが疑問に答えてくださっています。 それでは、イエスさまの答えを私たちはいつ納得し「イエスさまの仰るとおりだ」というふうにわたしたちが思えるのでしょうか。 それはまさに聖霊が働くとき、その中でわたしたちはイエスさまが語っておられる言葉が本当で真実であると受け止めることができるのです。 そしてさらにイエスさまが「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」ということですね。 このことが真実かどうか、このことについて、ファリサイ派の人たちは「あなたは自分について証しをしているからそれは信じられない」といっているわけですが、このファリサイ派の人たちにもイエスさまは答えておられます。 しかしファリサイ派の人たちに答えられるのはイエスさまだけではないのです。このファリサイ派の人たちの疑問に答えることが求められているのは誰でしょうか? このファリサイ派の人たちの「あなたは自分について証しをしている、その証しは真実ではない」とイエスさまに言っているこの言葉。もちろんこれはイエスさまが問われていますから、イエスさまが答えることでありますけれども、しかしこのファリサイ派の言葉に対して答えることが出来る人が他にもいるのですね。 それがクリスチャンです。わたしたちクリスチャンです。 今この場にはクリスチャンでない方もいらっしゃいますけれども、クリスチャンであるわたしたちが、イエスさまが世の光であると仰っているけれども、本当にその通りなんですよ、という風に証しができるのです。証をすることが求められているのはわたしたちクリスチャンなのです。 わたしがイエスさまと出会い、イエスさまを信じ、イエスさまが本当に世の光であるということを体験しました、と言えるのです。 イエスさまに従うことでわたしたちは暗闇のなかを歩くことなく、命の光を得て今、喜んでいます。だからこうして毎週日曜日に礼拝にきているんです。教会にきているんです。わたしはこのことの証言者になることができます、というように、わたしたちクリスチャンは手を上げることができるのです。 聖書の中のファリサイ派や律法学者の人たちの疑問の言葉、それはイエスさまに投げかけられているのと同時にイエスさまを信じているクリスチャンであるわたしたちに投げかけられている言葉でもあるのです。 わたしたちがクリスチャンであってもそのみ言葉に対して疑問を持つということがあるわけですから、イエスさまを信じようか、信じまいか、いや、イエスキリストって何だろう?聖書って何だろう?キリスト教ってなんだろう?と思っている方たちがイエスさまの言葉や聖書の言葉やキリスト教が伝えていることに対して疑問を持つということは当然のことです。 このことに対してクリスチャンは答えていくことができるのです。答えることが求められているのです。どのようにして答えるか。それは先ずわたしたちクリスチャンが証しをもって答えるということなのです。 本当にそうなのでしょうか? イエスさまは自分のことを世の光だと仰った。 ファリサイ派や律法学者の人たちはそんな自分の証言はダメだといった。このときこのファリサイ派の人たちの言葉に私たちクリスチャンは手を上げて答えることができるのですね。 そして私たちのそのような証しの言葉が何よりの大きな伝道の言葉になっていくわけです。 私たちは理詰めで答えることができたらいいですけれど、理詰めで答えるだけではなくて、わたしはこのようにイエスさまを「世の光」として受け入れています。 私が暗闇の中にいたときイエスさまを「世の光」だと受け入れたときに光を得ることができました。 そのように証をすることができるのですね。 イエスさまはご自分が世を去るということを知っておられました。その時はまだきていないけれども、すぐその時がくる。その言葉の中で人々は戸惑いました。「この人は自殺しようとしているのではないか」、そんな言葉でさえ聖書の中に記されているわけです。 けれども、イエスさまは自分のなすべきこと、ご自分の使命をすべて知っておられました。そして、父の許に帰るということを知っておられました。 そして、イエスさまがこの地上を離れた後、弟子たちがイエスさまを証ししました。イエスさまのことについて証しをたてる人として立てられたのです。彼らはイエスさまを証しする言葉をもってイエスさまの真実なことを伝えていったのです。 私たちクリスチャンもそのようにイエスさまを証しするために招かれているということをまず今日の聖書箇所から覚えたいと思います。そして、クリスチャンでない方には、聖書に対する疑問やキリスト教に対する疑問を大いに持っていただいていいと私は思います。そしてこの答えを求めていただきたいと思っております。 言葉尻を捕らえて揚げ足をとるような、そのような思いからおきた疑問でなければ、いや、そのような思いからであってもいいかもしれません。 疑問を持つ、投げかける、ということも大切な関わりです。 無関心でいられるよりも、疑問を持つ、問いかける、というのはとても大切なことだと思います。 無関心であるより、とてもステキなことだと思います。 キリスト教や宗教や信仰のこと全体、いろいろ疑問を持って考えていただきたいと思うんですね。 日本の中でこの宗教のことをとても否定するということがあることも事実です。 オウム真理教の事件の中で、「宗教というものは恐ろしいものだから無いほうがいい」と思う人たちもいましたけれど、わたしたちの教会ではその後に教会学校の人数が増えたということがあったと先日聞きました。 「歴史のある、そういう宗教を学んでおこう、見ておこう、そのことの方がいいんじゃないか」と思われた方が多かったようですね。そして、教会に子供たちを送ってくださいました。 人間の歴史の中で信仰を持つということ、宗教というのは途絶えたことのない大切な事柄だと思っています。 だからこそ、その大切なものを大切にするために決して信仰や宗教に無関心でいていただきたくないと思っているのです。 疑問を持つならたくさん疑問をもって、たくさん関わってそしてその中で求めていっていただきたいと願っているわけです。 私たちの疑問や何だろうという思いをイエスさまがしっかりと受けとめてくださるということを覚えたいと思います。そして、イエス様が世の光であるということが真実であると気づくものでありたいと思うのです。(お話:中田義直牧師)(テープから編集させて頂きました) |
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| 第19回「わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハネ8章 1〜11)2004年8月22日 |
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聖書 私共は先週7章によって、人々の間でイエスさまは果たしてメシアなのかということで論争が起こった記事を読みました。そして、今日の個所のあとには、イエスさまのお言そのもの、教えが記されておりまして、その間に、このように突如ひとつの衝撃的な出来事が記されております。また、この出来事の記事は、ごらんの通りカッコの中に入っています。 |
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| 第18回「生きた水の流れ」(ヨハネ7章 37−52)2004年8月15日 |
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聖書 「生きた水の流れ」37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。 「群集の間に対立が生じる」 40 この言葉を聞いて、群集の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、 41 「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う人もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。 42 メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」 43 こうして、イエスのことで群集の間に対立が生じた。 44 その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。 「ユダヤ人指導者たちの不信仰」 45 さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻ってきたとき、「どうして、あの男を連れてこなかったのか」と言った。 46 下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません。」と答えた。 47 すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。 48 議員やファリサイ派の人々の中にあの男を信じたものがいるだろうか。 49 だが、律法を知らないこの群集は、呪われている。」 50 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。 51 「われわれの律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」 52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者のでないことがわかる。」 みなさんお早うございます。今朝も聖書からみ言葉を聞いて参りましょう。 7月に入って、ヨハネによる福音書の第7章について見てきております。今朝の箇所は仮庵祭(かりいおさい)が最も盛大に祝われる終わりの日の出来事になります。この第7章は仮庵祭を背景とした時間の流れの中でイエス様の行動が記されております。この仮庵祭のことについて触れておきたいと思います。 ユダヤ教の三大祭がありますが、それは「過越祭」、「七週祭」(ペンテコステ)、「仮庵祭」です。 聖書をご一緒に見ましょう。 「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37−38) 黄金の器、金の水差しに汲まれたシロアムの池の水を、祭司が神殿の祭壇に注ぐその時にイエス様の大きな声が響き渡ったのでしょうか。 祭りの時というものは、日本でもそうだと思いますが、人々は興奮して満ち足りた状態にあるように思われます。お酒が入っていることがあります。まして、ユダヤの人々のこの仮庵祭は収穫を祝う祭り、喜びの祭りであります。そういう時にイエス様は「渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい」といわれます。どうしてだろうか。 38節に「生きた水が川となって流れ出るようになる。」とあります。この箇所はエゼキエル書を参照するとよいと思います。ご一緒に[エゼキエル書の47章]を見てみましょう。旧約聖書p1374です。少しばかり長くなりますが、47:1−12までご一緒に読んでみましょう。 「彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東へ向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は膝に達した。更に、一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。更に彼が1千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。彼はわたしに、「人の子よ、見ましたか」と言って、わたしを川岸へ連れ戻した。わたしが戻ってくると、川岸には、こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた。彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。するとその水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、すべてのものが生き返る。漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干す所とする。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海の魚のように非常に多くなる。しかし、その沢と沼はきれいにならず、塩を取ることができる。川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる」(エゼキエル書47:1−12) これはエゼキエルがみた幻です。バビロンへ連れて行かれ、バビロン川のほとりで、遠く故郷エルサレムとその神殿をしのんだ捕囚の民はエゼキエルのこの幻と預言をどんな思いでかみしめていたのでしょうか。エゼキエルに啓示された幻は本当に豊かな祝福そのものです。 みなさんはここで語られている生命の水についてどのように感じられたでしょうか。 「聖なる神殿」から流れ出る豊かな水は東の方に向かって流れ出ていた。そして、流れ出る水はエゼキエルが1千アンマ渡らせられるとくるぶしまで、更に1千アンマ渡らせられると膝まで、次の1千アンマを渡らせられると腰まで、そして四千アンマ渡らせられるともはや渡ることのできない川となったのです。 エゼキエル書が描く『聖なる神殿、水の流れ出る聖所』はイエス様のことを示していると思います。前回サマリアの女のところをお話させていただきましたが、その時イエス様は言われました。 もう一度聖書を読みましょう 「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」(ヨハネ7:37―39) 渇いている人はだれでもイエス様のところにいって生命の水を飲めるのです。イエス様からは本当に豊かな生命の水が尽きることなく流れ出ているからです。そればかりではないのです。ここでイエス様は『わたしを信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出る』と言われています。 次に聖書は“霊”について記します。ご自分を信じる人々が受けようとしている“霊”についてです。イエス様が栄光を受けると言うことは、主イエスが十字架につけられて蘇られる、十字架と復活のその時を意味します。その時にイエス様に栄光、勝利が与えられる。イエス様のすべての業が完了した時、聖霊が降ります。そして聖霊はイエス様を信じるわたしたちにも与えれる、わたしたちの内に住むものとなるのです。 主イエスを信じた常盤台教会の教会員の証を紹介したいと思います。 『本日は「ビューティフルサンデー」で証する機会を与えていただき感謝いたします。まず最初にわたしがクリスチャンになった経緯をお話し、次に会社での仕事上の悩みに聖書のみ言葉がいかに生かされているかをお話したいと思います。 |
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| 第17回「この人はメシアか」(ヨハネ7章 25−31)2004年8月8日 | |
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聖書 おはようございます。
エルサレムの神殿でイエス様をそのように見て取った人々や宗教指導者に対してイエス様は言われました。 |
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| 第16回「イエスの兄弟たちの不信仰」(ヨハネ7章 1−9)2004年8月1日 |
| 聖書 1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。 2 ときに、ユダヤ人の仮庵祭(かりいおさい)が近づいていた。 3 イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。 4 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」 5 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。 6 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。 7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。 8 あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」 9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。 先週、イエスさまと周りの人達は当時いろいろな批判を受けていた、というお話をしました。とりわけ「主の晩餐」という事について誤解と偏見を受けていました。 「主の晩餐式」は、今日も礼拝の中でいたしますが、クリスチャンにとっては特別な礼典です。これは、イエスさまが私たちの罪のために十字架にかかって死んで下さったことを私たちが思い起こし、記念するためにパンとぶどう酒を頂くという儀式です。 パンはイエスさまの体を象徴し、ぶどう酒は十字架上で流されたイエスさまの血をあらわしています。当時その事について「彼ら(クリスチャンたち)は人の肉を食べ、人の血を飲んでいる。これは邪教である」という噂がたったのです。 弟子たちの中にも、それを象徴として受け取らず「人間の肉だ、血だ」というのをグロテスクだ、ひどい話だと言って、イエスさまのもとを去っていった人たちもいたということです。 そういう誤解や、当時イエスさまが「宮清め」といって、神殿のあり方を批判したというような様々なことから、イエスさまを危険視する人々が増えてきました。イエスさまがこれだけ危険視されてきたということは、当時それだけイエスさまが人々に支持されていたということでもあるのです。 当時のユダヤ人、ユダヤ地方というのはイスラエルのいわば中心地だったのです。信仰的・宗教的、また、政治的・経済的にも中心地でありました。その中心にいる人達は権力をもっていたわけです。しかし、そのユダヤの国、イスラエルの国というのは当時はローマの属国でローマの支配下にありましたから、中心地で権力をもっていたユダヤ人というのはローマの人とかなり通じていたわけです。 ローマは属国となった国には、ローマ皇帝の像を建ててローマ皇帝を礼拝することを課していました。しかし、ユダヤに対しては、ユダヤ人の中に宗教的なものが根強くあるため、混乱をさける為に皇帝礼拝を免除していました。 けれどもそこには一つの条件がありました。それは、反ローマ的活動をしない、という条件があったのです。具体的には危険な人物を排除するというようなことです。ですからパリサイ派の人たちは祭司たちに対し「あの人たちはローマの手先になっている」と批判したのです。しかし祭司たちにも言い分がありました。祭司たちは「わたしたちがうまくやっているからローマ皇帝礼拝を強要されなくていいのだ。わたしたちの唯一の神さまを礼拝する事を許されているのだ」という思いをもっていました。 そういう中でユダヤの祭司たちにとってイエスさまの行動は目に余るものがありました。 人々がイエスさまの周りに群がっていきます。 もしここでイエスさまが「これから反ローマ運動を展開するぞ。ローマに対して声を上げていこう。」と言ったとしたら一気に反ローマ運動が起こるだろう、そのくらいイエスさまの影響は大きかったのです。ローマの支配の中におかれていた人たちはイエスさまが新しい預言者ではないかと思ったのです。 かつてイスラエルがこの地方で非常に強い力を誇っていたダビデ王の時代の再来を民衆は願っていたのでしょうか。ダビデ王に率いられてイスラエルが周りの列国と互角に戦い、息子のソロモンの時代には周りのいろいろな国々の人たちがイスラエルに様々な貢ぎ物をもってきました。そんな輝かしいユダヤをもう一度作りたいという思いが民衆の中に根強くありました。 そして信仰を徹底しようとしたパリサイ派の人たちの中にもそういう思いはあったでしょう。特にローマによって税を課せられたり、いろいろなところで抑圧された人たちにとってはそういった反ローマ的な運動を起こし、ダビデ王の時代を再現するような指導者が欲しかったわけです。 そういう人が起きないだろうか、そのような期待がイエスさまと合致したのです。この人について行けばダビデ王朝のようなイスラエルを回復することが出来るのではないだろうかという期待感が民衆の中で起こってきました。 しかしそれはユダヤの信仰や政治・経済の中心にいる人たちにとっては危険なことだったのです。 サドカイ派の人たちは、何とかローマとわたりをつけて、そして神殿が守られて、皇帝礼拝をせずにこうして自分たちがユダヤ人として確立しているのは、ローマとサドカイ派の私たちがうまくやっているからなのだという思いがありました。こういう人たちにとってイエスさまのような民衆に人気があり、もしかしたら民衆を先導して反ローマ運動を起こすかも知れない、民衆の思いを爆発させるようなことが出来る力をもったイエスさまを非常に警戒していました。 そしてイエスさまのような人を排除しようという思いが当時の宗教・政治・経済の中心にいた人たちが考えたわけです。イエスさまをこのまま放置してはいけない、彼がもし何か暴動を起こしたら一気にローマは攻め込んできて鎮圧し、それと同時に皇帝礼拝を強要されるようなことになるかもしれない、という思いが強まっていました。 (現に紀元90年に第三次ユダヤ戦争があった時、ローマによってユダヤは神殿を壊されてしまうような壊滅的な打撃を受けました。) ですからイエスさまはユダヤに行こうとせず生まれ育ったガリラヤ地方に行き、めぐり歩いて教えをしておられました。 ガリラヤ地方はイエスさまの地元でしたから兄弟たちがいるわけです。 この兄弟たちについてプロテスタント教会とカトリック教会では解釈が違っています。カトリック教会ではマリアを崇拝しています。マリアの処女性を非常に大切にしていますから、イエスさまの処女降誕のあとマリアからは子供は産まれないという立場に立っています。 ですからこの兄弟というのは「いとこ達」であるという解釈をしているようです。私たちはマリアをそのように神格化していませんから、ここでは「兄弟たち」というのはそのままイエスさまの兄弟たちとみていいかと思います。 いずれにせよ兄弟たちはイエスさまに反感をもっていたようです。 イエスさまはマリアとヨセフの長男でした。ヨセフの家は大工の家だということが知られています。当時は世襲の社会でした。その村で大工がなくならないように代々大工を継いでいくのです。色々な専門的な仕事が町や村からなくならないように、仕事を家の者が継いでいくというのが当然だったのです。 イエスさまはマリアとヨセフの長男でしたから、そう考えれば当然大工の後を継いでいく人でした。しかもイエスさまが故郷を訪れた時にマリアと兄弟たちが、もういいから家に帰ってきなさいというように説得しようとした場面が出てきます。そこにヨセフが出てきません。ですからヨセフがマリアより先に亡くなったのだろうという事が考えられています。 そうしますと代々大工の家で、お父さんが亡くなっていたとすれば、大工の家を継がなければならない責任はイエスさまにあったわけです。 ところがイエスさまは突然「神の国は近付いたと言わなければならない」と言って家を出ました。バプテスマのヨハネのところへ、いわば出家していったのです。そこから独自の活動を開始していったのです。 しかし、その教えがどんなに素晴らしく良いことであっても兄弟たちにしたら、父親ヨセフが亡くなった後、長男のくせに母マリアを置いてどうしてそんな勝手なことをするんだという思いが出てきて当然です。独り遺されたお母さんを助けようとしない、大工の仕事は誰が継ぐのか、私たち兄弟はどうするのだ、普通に考えれば当然そういう家の中のごたごたが起こったはずです。ですからイエスさまの兄弟たちはそのような中でイエスさまに対して悪い感情をもっていました。イエスさまに皮肉めいた事も言うわけです。 「あなたはこんな人前に出て、神の国は近付いた、というようなそんな教えをするのであれば、どこにいても堂々としなさい。こんなガリラヤの地元にいないでユダヤに行ってしなさい。本当に正当な行動をして公に知らせようとするならどうしてそんなにコソコソ隠れて密かに行動するのか」という風にイエスさまの兄弟たちはイエスさまを批判しました。それは兄弟たちもイエスさまを信じていなかったからであると書かれています。 この事にたいしてイエスさまは反論しました。「わたしの時はまだ来ていない。」とおっしゃいました。 わたしの時というのは、わたしが苦しみを受け十字架で殺される、贖いの業を完成させる、その時のことです。 今はまだその時ではない。しかしいつもその時は備えられている、神さまがこの時であると示された時には私は何も恐れずにユダヤに行きます、という思いがこの言葉には込められているのです。 「この時」というのがとても大切なことであり、今日このことをお話していこうと思います。 私たちは時の中で生きています。自分に何か願い事があって、こうあって欲しいと思うとき、私たちは時を求めます。 この時にこういうことが起きて欲しい、この時にこういう物が与えられて欲しい、というように、私たちはどこかで時と願いをセットで考えているのです。イエスさまにお祈りしても中々答えが返ってこない、まだなのか、いつだろうか、と私たちは自分たちの時の中で生きています。 しかし聖書は「神の時」があるという事を示しています。神さまがこの時が最良だ、最善なんだと示される「神の時」があるのですね。そして多くの場合私たちの願う時と神さまの計画されている時というのにはズレがあるようです。私たちが思っていたよりも早く神さまの時がくる事もあるし、また私たちがどんなに願っても神さまはまだその時がきていないと仰るときがあります。イエスさまも、ご自分が苦しみを受けるその時、そして復活してくるその時は、父なる神だけがご存知であるとおっしゃっています。 神さまを信じ、神さまに委ねるというのは、神さまに時をおまかせするということではないでしょうか。「今でしょうか?」「この時でしょうか?」と。 神さまは私たちに一番良い時に一番よいものを与えて下さいます。しかしそれが私たちにとって時には辛い事、悲しい事かもしれません。何故今この時に私がこんな目に遭わねばならないのかという疑問で心がおおい尽くされるような苦しみや災いに直面するときがあります。 しかし、神さまはそのような時でも私たちを最善の道へ導いて下さる、という信頼をもって、離れずに神さまによりすがっていくならば、やがて時がきたとき、わたしはあの時あのような経験をしていて良かった、あの時は最悪の時だった、何故あんな無意味なことが起こったのか、と思ったけれど、それは私の人生にとって深い意味のあることだった、そしてそれはいつでもないあの時にしか経験することができない神さまのみ業だったのだ、という事がわかります。 イエスさまは神さまにご自身をお委ねになっていました。委ねるということの一つは時を委ねるという事であります。何故この時なのか、という問いを私たちは持つことがあります。しかし神さまから離れず、そして「主よ、どうぞ答えをお与えください」という思いをもって祈り続けるならば、その時が良い時であるということがやがて私たちに知らされてくるでしょう。 イエスさまにお従いし、神さまにお委ねするのは「時を委ねることでもある」という事を覚えたいと思います。 イエスさまは、人の思いや言葉・計画ではなく、神さまのご計画の中でご自身の生きるべき道を、神の時を求めてその生涯を全うされたという事を覚えたいと思います。(お話:中田義直牧師)(テープから編集させていただきました) |
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| 第15回「永遠の命の言葉」(ヨハネ6章 60−71)2004年7月25日 |
| 聖書 60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」 61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。 62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・・・・。 63 命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。 65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」 66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスとともに歩まなくなった。 67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。 68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」 70 すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」 71 イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。 新約聖書には福音書が四つありまして、夫々少しずつ違うことが書かれてあります。特にヨハネ福音書は他の三つの福音書に比べて書かれている内容が大分違います。時折そのことで、一体どれが本当だろうか? どれが正しいのだろうか? という言われ方をする事がありますが、聖書の福音書の中にイエスさまが話された事や行った奇跡がすべて記されている訳ではないのです。と言いますのは、ヨハネ自身が福音書の最後のところで 「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」 と言っているからです。ですからヨハネ自身はイエスさまのたくさんの教えの中から大切なことを選び出したというわけです。それはヨハネだけでなくて、マタイもマルコもルカも皆ヨハネと同じように大事なところを選び出して福音書を編纂していったのです。 その時に一つの基準となっていたことがありますが、どういう視点で選んだかというと、 一つは教えが普遍的であるということ、 もう一つはその時代に必要な教え、つまりヨハネの教会(ヨハネは教会のリーダーでありました)で必要だと思われる観点から選んだのです。 今日のところはヨハネの時代を反映して書かれた箇所です。その背景をお話ししましょう。 イエスさまの教え、キリスト教の教えはシナゴーグ(ユダヤ人の会堂)を中心にしてだんだん広まっていったのです。 最初の頃はイエスさまのことをナザレ出身であったということから、ユダヤ教のナザレ派だと言われていました。キリスト教という言葉はまだ出てこなかったのです。一つのグループとして認知されていました。 ところがイエスさまの福音というのはユダヤ教の民族的な教えを超える普遍的なものをもっていましたから異邦人にも広まっていったのです。外国育ちのユダヤ人や外国語を話すユダヤ人、さらにユダヤ人以外の人達にもイエスさまの教えは広まっていったのです。 そしてヨハネ福音書の時代、紀元90〜120年くらいのその頃はユダヤ人ユダヤ教を超えて、ギリシャ人ローマ人という違う文化的背景をもった人達、そしてユダヤ人という背景をもたない人達にもイエスさまの教えが広まっていったという時代です。 そういう時代にヨハネのような人達はその事を意識して「はじめに言があった」という哲学的・抽象的な表現を用いて福音書を書き始めていますが、これは一つにはナザレ派の教えというのは、哲学をするようなギリシャ人たちにも十分通用する、普遍的なものでありましたし、抽象的な議論にも耐えられる考えだという事をヨハネは意識していたからなのです。 しかしそのような状況と時代の中で、このナザレ派に対する強い偏見がありました。それは教えに対する偏見ではなくて「礼典・儀式」に対する偏見と誤解でした。イエスさまが教えて下さった「主の晩餐」という、当時は食事を共にする交わりを大切にしていました。その頃はシナゴーグで礼拝したあと信者の家に行って信者だけで食事をしました。今の教会では教会が歴史をへて成長していく中で非常に簡潔になり、例えば私たちの教会では小さなパン一切れと小さな盃ということになってきました。 ところが、彼らは人間の血を飲んで人の肉を食べている、という噂がたったのです。 イエスさまがパンを裂いて「これはわたしの身体である。わたしの血である」と言って十字架で流した契約の血である盃をとられました。弟子たちはパンを裂きぶどう酒を飲む時、そのようなイエスさまの教えを思い出しながら食事の席で主の晩餐の礼典を守っていました。 人々は、彼らは集まって人の肉を食べ人の血を飲む、それは非常に恐ろしい邪教であると言って噂をしました。 ヨハネの教会の中にはそのような噂に耐えられない弟子たちもいました。そういう誤解や偏見の中で教会から離れていく信徒もいました。その事で彼らの中で深い悩みがあったというのがこのヨハネの教会の状況なのです。 そのような状況の中でヨハネは、イエスさまが語られた言葉、イエスさまが教えて下さったことを見出した人だと思います。 イエスさまの時代にすでに今日の 60節 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」 のような言葉が交わされていました。ではこの前に何が話されていたかというと 52節 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。 というように主の晩餐のことが書かれています。 これはひどい、こんなことをわたし達はしていられない、この教えは間違っている、このように思った弟子たちがイエスさまのもとを離れていったのです。 イエスさまが亡くなって50年〜60年過ぎたヨハネの時代の教会でのイエスさまの教えに対する誤解や偏見は、実はイエスさまが生きておられた頃からあったのです。教えそのものに対しても「そんな教え聞いていられない」と思った人達がいました。 「わたし達と同じじゃないか」 聖書ってそういうところがありますね。 二千年も前のことなのに聖書の言葉を読んでいると、ここに起きていることは、舞台背景や舞台設定、周りの文明文化は違うけれども、人間のやっている事って何と変わらないのだろう、何度人間は過ちを繰り返しているのだろう、ということを私達は聖書から気付かされます。 少し前ですが、ある集まりで創世記を読んでいたのです。 後半はアブラハムの子供・孫たちの話が出てくるアブラハム物語です。 アブラハムの息子イサクとリベカの家族が中々大変な家族なんです。 相続のことでゴチャゴチャが起こるのです。 聖書というと何か清らかなことが書かれていると思ってしまいますが、実は理解できないことが沢山出てきます。 こういうゴタゴタやイザコザはどこかで見たことがあると思ったら、橋田寿賀子の世界なんですね。 「渡る世間は鬼ばかり」 ああいうような人間模様が聖書の中でも展開されていくんですね。 六千年も前から変わらず人間は同じことを繰り返しているのだなぁと思います。 創世記を読んでいると「渡る世間は鬼ばかり」のドラマの中の人間模様とアブラハムの孫たちの家庭の問題と何か似ているところがあると思うのです。 わたしたち人間が神さまの言葉に対して誤解したり偏見をもったりするというのは変わらないのですね。 人間は神さまに対して過ちを犯しながら、そして神さまに赦され続けながら生きているんだなぁと思います。 憐れみと赦しを受けながら私達は遅々とした歩みの中で神さまのみ心に適うようにきっとされているだろうという期待を持ちながら、しかしどこかで同じ過ちを繰り返しながら生きているんだなと思わされます。 ヨハネの教会で、周りの人達の誤解や偏見に耐えられなくなって信者たちが教会にいずらくなり、イエスさまを信ずる信仰が揺らいでいくということが起こってきました。 その教会の群れの人達に対して、ヨハネは 「聖書を調べていったら、イエスさまの時代にも教会を離れていった人達がいた。だからわたし達は教会を離れていったり信仰が揺らいだりという、同じ間違いをしないようにしようじゃないか」 という祈りと願いをもって、ヨハネはイエスさまの沢山のみ言の中から選び取っていったのです。 そしてここでヨハネはまずイエスさまの言を取り上げます。 62節 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・。 63節 命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 64節 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」 この”霊と血と肉”の話を理解できないようであるなら、どうしてイエスさまの復活の話を理解できようか? この話を誤解して受け取ってしまうならば、イエスさまの復活の話をきちんと受け止めることができるだろうか? あなたたちはすでにイエスさまの復活の話を受け入れている。この復活を受け入れたその信仰をもって「主の晩餐のできごと」をもう一度とらえなおしてみなさい、という思いが込められています。 そしてイエスさまの言を紹介しています。 「命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。」 これは主の晩餐に対する一つの理解であります。 「肉は何の役にも立たない。」 肉を食べたからといって、血をのんだからといって、私達は救われる者ではない。 私たちが救われ、私たちが神の民とされているのは、これは命を与える”霊”の働きである。 表面的な目に見える肉や血のことではなくて、私たちの奥深い目に見えない霊の部分、これをしっかり捉えていかなければ、わたし達は命を得ることができない、とヨハネは言っています。 私たちに永遠の命を与えるというのは霊的な事柄だということです。 そして主の晩餐においても大切な事は、この霊的な信仰をもってパンとぶどう酒を受けることであって、肉や血というのはあくまでも象徴であるのです。 そして私達は自分の内なる霊の部分、内側から変えられていくのです。 私たちがイエスさまの言葉を本当に学び、信じ、そして心開いて受け入れていくならば、私達は内面から霊的に変えられていくのです。それは単なる納得や理解を超えるものです。 私達は頭だけで聖書の言葉を読んでいくとわからないことがいっぱいあります。 ところが頭で理解できてしまうとそこで終わってしまうことがあります。 あぁそうか、そういう事なんだ、納得した、よかった、という風に。 イエスさまの母マリアのできごとがルカの福音書に何箇所か出てきます。 まず、受胎告知のこと、誕生の後のできごと、イエスさまが12歳の時、過ぎ越しの祭りの帰りにはぐれてしまった事、そういう折々のできごとの中でマリアはイエスさまの語る言葉や天使のお告げの言葉を納得したり理解する事ができなかったのです。 しかし彼女はその時それらの言葉を心に留めておいたのです。 聖書の言葉。私達はそれを学び理解し受け留めたいと思いますけれども、しかし、わからないみ言葉に出会った時どうぞその言葉を心に留め置いていただきたいと思います。 神さまは私に何をおっしゃろうとしているんだろう。 それは言葉だけでなくて、私たちの日常生活で起こることの中で、一体これはどう受け留めたらいいんだろうというような時に、勿論早く解決すればそれにこしたことはありませんが、その事でただ心を騒がせるのではなくて、そのでき事を心の中に留めておいていただきたい、そして祈ってみ言葉に触れて神さまのみ心を求めて頂きたいと思います。 そうするとある日、本当に不思議に『あ、この事だったのか、あの納得いかなかった理不尽に思えたことは、この事の備えだったのだ』と私たちは気づくのです。 あの理解できない、解からなかったみ言葉は、こんな状態の私を支えるためのみ言葉だったんだということに気付く時が必ずきます。 私の40年程の経験の中でしか語れないことですけれども、あのイヤだったでき事はこの時のためにあったんだという事を体験するのです。 主の言葉には力がある、主の言葉には偽りがないという事を私は何度も経験してきました。 ここにいるクリスチャンの方も多分経験されてきたと思います。 聖書の言葉を私たちは出来るだけ喜んで受け留めたいと思います。 日々のでき事をできるだけ前向きに受け留めたいと思います。 しかし、身の回りで起こった事がどうしても納得できない時、受け入れられない時、どうぞ慌てて急いでその場しのぎの解決を求めるだけではなくて、その事を心に留め置き主のみ心を求めて祈っていただきたいのです。 内側から霊のめが開かれて、その大切さが解かる時が必ずきます。 イエスさまの言葉もその当時から誤解されていたんだということを覚える時に私たちは自分の理解だけで判断することなく、祈りをもってイエスさまの言葉を受け留める者でありたい、そのように心から願う者であります。(お話:中田義直牧師)(テープから編集させていただきました) |
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| 第14回「イエスは命のパン」(ヨハネ6章 22〜29)2004年7月18日 |
| 聖書 6:22 その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。 6:23 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。 6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。 6:25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。 6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。 6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」 6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 ヨハネの福音書を順に学んでおりますけれども、このヨハネの福音書によく出てくる言葉の一つに、「命」という言葉があります。 これはほかの福音書よりもヨハネの福音書に圧倒的に多いのですね。他の福音書の3倍くらい「命」という言葉が出てくるわけであります。 ただ、日本語に訳しますと命となるわけですけれども、聖書の元の言葉であるギリシャ語から言うと、命という言葉には二つの単語がありまして、 一つは「プッシュケイ」という言葉ですけれども、これは、私たちが今、こうして生きているこの肉体の命のことであります。お母さんから生まれて、毎日心臓が動きつづけているこの肉体の命です。これを「プッシュケイ」といいます。 そして、聖書はもう一つの命を表す言葉として、「ゾウエイ」というギリシャ語を使います。 これはたとえばヨハネの福音書の3章に、 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と記されていますけれども、この永遠の命という時の、命は「ゾウエイ」でありまして、これは、肉体の命とは質の違う命。神の命とでも申しましょうか、とにかく、肉体の命のように、いつか朽ちていく命ではない、朽ちない命のことをギリシャ語で「ゾウエイ」と言うわけであります。 この二つの命の違いをよく理解していただきますと、聖書が言わんとしていることが理解できてくるのではないかと思います。聖書が語っている命には、二つの命がある。一つは時がくれば朽ちていく肉体の命であり、もう一つは、時を超えて存在し続ける命。神に属する命。そして、聖書はこの神の命。「ゾウエイ」こそを手に入れなさいと、私たちに語りかけているということを、心にとめて頂きたいわけであります。 先ほど読んだ聖書の箇所にもう一度目を落として頂けたらと思いますけれども、22節から24節までは状況説明なのですね。「その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆」とは誰かといいますと、6章の最初のところで、5000人の人々がイエス様からパンと魚をいただいたという出来事がありましたけれども、そこでパンをもらった人々です。 彼らはそこで野宿をしたわけですが、その日の夕方、イエス様の弟子たちは舟で向こう岸に渡っていきましたけれども、その舟にイエス様は乗っていなかったから、イエス様は、まだ私たちと一緒にここに残っているのだろうと思っていたようです。 ところが朝になってイエス様がいないことに気がつくと、群衆たちは、おりよく近づいてきた小舟にのって、イエス様を捜し求めて、向こう岸までやってきたという、そのような状況の説明が24節までであります。 イエス様を見つけた群衆たちは25節で 6:25 「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」 ラビというのは、先生という意味ですけれども、先生、いつここにきたのですか、なんて聞いていますけれども、要するに、なんで自分たちをおいてきぼりにして、こんなところにいるんですかという、そういうことでありましょう。5000人、それ以上の人間に食べ物を与えるという、力ある先生、今風の言葉で言えば、カリスマ指導者の、追っかけのようになっていた群衆たち。 そんな群衆に向かってイエス様は、こう言われたわけであります。 6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。 イエス様は彼らの本当の動機を見抜かれます。彼らがイエス様を必死になって捜しているのは、奇跡によって5000人以上もの人を養ったのをみて、この人こそメシア、救い主であると信じて、神の救いを求めてやってきたということではない。 そうではなくて、ただ、パンをたらふく食べさせてもらって、おなかが満たされたから、あなた方はわたしを追いかけているのだろうという、そういうことであります。 奇跡を見ても信じない群衆たちということでありますけれども、私たち現代人も、奇跡などというと眉唾ものではないかと思うわけであります。 しかし、キリスト教の信仰から奇跡を排除することは出来ません。なぜなら、キリスト教では、自然の法則を神と信じているわけではなくて、その自然の法則をさえ作った、創造主なる神を信じるわけでありますから、当然その神は、自然の法則を越えて、奇跡をなす存在であると信じるわけであります。 奇跡が行えない自然法則に縛られた神を神とはいえないわけですから、聖書に奇跡が記されていることはある意味当然であるわけですけれども、ただ、反面、実は、他宗教の教典などと比べますと、いがいと聖書には、奇跡が少ないのも事実です。 ある宗教の教典は、神々の奇跡のオンパレードだといわれます。その点聖書は、実に奇跡に対して抑制的で、数が少なくて、これだけ聖書は分厚いですけれども、奇跡が記されている箇所は、点々となのであります。大切なところにだけ、意味があるところにだけ奇跡が起こる。まさに、神からの「しるし」としての意味をもって奇跡が起こるわけであります。 ですから、イエスキリストがなす奇跡は、奇跡とは呼ばれずに「しるし」といわれているわけであります。単に人々を驚かす奇跡ではなく、イエス・キリストが神の御子、救い主であるという、そのような「しるし」として、奇跡の出来事が捉えられている。 ところが、そのようなしるしをみても、人々は信じなかったということが、26節のキリストの言葉からわかるわけであります。 「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」 そういわれます。 彼らはイエスキリストを、神の御子、救い主と信じたわけではありませんでした。私たちにパンを与えてくれる存在として期待したわけであります。 当時イスラエルの国は、ローマ帝国に占領されて抑圧されていましたから、人々は、この抑圧から解放してくれる政治的な指導者、ローマを倒して、私たちにパンを与えてくれる改革者として、人々はイエス様に期待したわけであります。 それは15節に、人々がイエス様を王様にしようとしたとあることからも分かります。 そのような期待を胸にイエス様を探しにやってきた人々。ローマを倒し、自分たちの目の前の生活を改善してくれる指導者として期待してやってきた人々にむかって、イエス様は 「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」 と言われるわけであります。 パンを食べて満腹したから。 確かに、神を信じる信仰だ、なんだかんだと言っても、人間食べられなければ生きていけないわけですから、信仰は結構だけれども、やはりパンを食べるために働くことが何よりも大切なのではないか。神を信じるのは結構だけれども、それでは食べていけない。やはり、まず誰もが毎日食べていくことができる世の中にして、その上で、神様を信じたいなら信じればいいんじゃないか。毎日のパンにも事欠きながら、神を信仰していてもしかたがない。まず、神の前に、すべての人がパンを食べて満腹できる社会を造るべきではないか。そういう考えもあるでしょう。 かつて、旧ソ連は、そのように信じた人々によって運営されたわけであります。一人も飢えることなく、すべての人がパンを食べて満腹できるパラダイスを造ろうと、政府が国民のすべての財産を管理して、平等に再分配する。そうすればすべての人にパンが行き渡る、まさにパラダイスが訪れると信じられたわけであります。 しかし、現実はそうなりませんでした。 宗教は阿片であると、人々から神を信じる信仰を取り上げ、人間は人間だけの力によって、この世界にパラダイスを作り出せると、そのようなイデオロギーを信じて、働けば働くほど、国は貧しくなり、そして、多くの人々の血が流され、犠牲となっていきました。 神抜きの人間中心主義の社会を実現しようとした壮大な実験は、失敗に終わったわけであります。 神などなくても、パンさえあれば生きていける、幸せになれるという考えは幻想であります。 さて、パンさえあれば幸せになれると信じてイエス様を捜しにやってきた人々。その人たちに向かってイエス様は、27節でこういわれます。 6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」 多くの人々は、働いているのは、生活の糧を得るため、生きるためであることに、何の疑問もないでしょう。 働くということはつまりそういうことである。日々の糧を手に入れ、生活していくために、私たちは働くのだ。それが人生だ、ということを疑うこともなく、日々働き続けていく。 しかし、もし、働くということが、それだけのことでありますなら、ここでイエス様が「朽ちる食べ物のため」に働くのではなく、なくならないいのち、「ゾウエイ」ですね。そのいのちのために働きなさいと言われた言葉に、耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。 もちろん、この肉体のいのち。ギリシャ語で言うところの「プシュケー」のいのちを保つために働くことは大切であります。 人間にパンなど必要ないとイエス様は言っておられるわけではないのです。 聖書の他の箇所では、イエス様は、日ごとの糧を求めなさい、と教えておられますから、この肉体のいのち「プシュケー」のいのちを保つために働くことは大切なのであります。 しかし、同時にこの肉体のいのち、「プシュケー」のいのちというものは、いつか必ず朽ちていかなければならない一時的なもの、限りあるものでありますのし、そのようにいつか過ぎ去るものを、あたかも究極的なもの、まるで永遠の価値ある者のように錯覚して、そのために人生のすべてを費やしてしまってはならない。 一度しかない人生を、いつかは朽ちていくいのちのためにだけ働いて、食べることだけが人生であるかのように、生きてしまうのではなくて、いつまでもなくならない永遠の命、まさに神の命をいただく、そのような神の与える食べ物のために働いてほしい。まさに私があたえる食べ物とは、そのような神の命の食べ物であるのだから、と、イエス様は、そのように言われるのであります。 永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。 そのように言われた人々は、困惑いたします。永遠の命に至る食べ物のために働けと言われても、いったい何をすればいいのだろうか。そのように困惑した人々は、28節でイエス様に質問いたします。 6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 つまり、神の命をいただく働き、業とは、なにか人間の苦行や知恵を尽くして働くことで手に入れることができるものではなく、神の命のパンであるキリストを、心にお迎えする、心にいただく。ただそれだけであります。 神がキリストを通して与えてくださる、神の命のパン。それをただ感謝して頂く。これがキリスト教信仰の核心です。毎日生きるために必死になって働いている人々には、まさに愚かなことのように思えようとも、この神の命を頂くこと、イエスキリストを信じることこそが、永遠の価値ある働きなのであると、聖書は教えているのであります。 最後に、羽鳥明という長年ラジオ伝道をしている牧師の証をして終りたいと思います。 この羽鳥牧師には、弟さんがいらして、純二さんといいますけれども、この純二さんはばりばりの共産党員でありました。 あるとき、その純二さんを、羽鳥牧師はある小さな教会につれていったそうであります。その小さな教会では、田舎弁丸出しの老牧師が 「イエスキリストは十字架について、三日目に復活したのじゃ〜」と説教をしておりました。 弟の純二さんは東大の理系出身で、共産党の幹部として活躍しているインテリで、お兄さんの羽鳥牧師も、正直言って、せっかく弟を連れてきたのだから、もう少しインテリな話をしてもらいたかったと、牧師でありながら、正直思ったそうであります。 そして、次の週もおそるおそる弟さんに、教会にいくかと尋ねたら、行くといいますので、また、その教会にいったそうであります。その教会は外部から説教者が来ることもあるので、今日はあのおじいさん牧師ではない人が良いと、正直祈る気持ちで弟さんをつれていったそうであります。 ところがまたもや前回と同じおじいさん牧師が出てきまして、 「キリストは罪人のために死んで、そして三日目に死人の中からよみがえったのじゃ〜」という調子で説教をしたのであります。 そのときお兄さんの羽鳥牧師は、こんな調子の説教ではせっかく教会にきてくれた弟の心をかたくなにするだけで、とてもキリストを信じさせることなどできないと正直思ってしまったそうであります。ところが、礼拝の最後に説教者が 「イエスキリストを信じるものは手を上げるように」と決心を募りましたときに、驚いたことに、弟の純二さんが手を上げ、涙を流してキリストを受け入れたのであります。 驚いたのは羽鳥牧師のほうで、おもわず、「純二や、どうして信じたの」といってしまったそうであります。 その問いに彼はこう答えました。 「お兄さん、僕は正義と理想の社会の実現を求めて、共産党に入って、地下にまでもぐって活動してきたんだ。それは本当に真剣だったんだよ。しかし、組織の中で、自分はだんだんその理想から離れてゆき、金と力におぼれ、とても人にはいえない罪を犯してしまったのだ」と涙ながらに語り「共産主義というイデオロギーは社会どころか、この自分ひとりさえも変えることができなかった。もしこの自分を救うことができるものがあるとしたら、それは、十字架にかかり、死んでよみがえったキリストしかいない。だから僕は信じたんだよ」と、そういったそうであります。 毎日生きるために必死になって働く、家族のため、社会のため、国のため、一生懸命に働くこと、それは尊いことであります。 しかし、それがすべてであると思うとき、人は本当に大切なものを見失っていくのではないでしょうか。 目に見えるものがすべてであると思う人には、まさに愚かさの極みである、永遠の命に至るパンであるキリスト。しかし、この神の命のパンを頂くことこそが、イエスキリストを信じていきる人生こそが、私たちが本当に生き生きと、いのちにあふれた生き方への道であると、聖書は教えているのであります。 どうでしょうか。今日、私たちは、何のために自分の力を一番に注いで生きているでしょうか。無くなる食物のためでしょうか、いつまでもなくならない食物のためでしょうか。(お話:藤井秀一牧師) |
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| 第13回「湖の上を歩く」(ヨハネ6章 16-21)2004年7月11日 |
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聖書 おはようございます。 |
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| 第12回「五千人に食べ物を与える」(ヨハネ6章 1-15)2004年7月4日 |
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聖書 只今読みました「5000人の給食」と呼ばれておりますこの出来事は、3章、4章、5章で読んでまいりましたニコデモとの対話、サマリヤの女との井戸辺での出会い、ベトザタの池でのいやしといった、イエスさまとの個人的関わりと違いまして、大変雄大な奇跡であります。 それに、これら個人的な三つの出来事は、三つともヨハネ福音書のみに記されている、いわばヨハネ独特のものですが、しかし、今日読みましたこのいわゆる「5000人の給食」は、四つの福音書とも全部に記されておりまして、いかに弟子たちの心に深く印象づけられた出来事だったかが偲ばれます。 実はこの個所は数年前、ここでお話ししたことがありまして、今回、この個所を担当することになった時、前にお話ししたときと違う視点からお話しさせていただくつもりでしたが、聖書を読みながら“別の視点”など考えられず、やっぱり以前と同じ視点、この個所からお伝えすることは他にない、と思いました。イエスさまのもたらして下さる恵みの豊かさをご一緒にじっくりと味わいたいと存じます。 1節「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こうに岸に渡られた」と記されています。ここでヨハネは、ただガリラヤ湖といわず、ティベリアス湖とつけ加えていまして、21章の、イエスさまが復活なさって弟子たちにお会いになる場所も「ティベリアス湖畔」と記しておりまして、これもヨハネ独特の書き方でありまして、ヨハネはときのローマ皇帝ティベリウスにちなんでこの湖がこのように呼ばれていたことに、あるこだわりを持っていたのではないかといわれております。 いずれにしましても、そのティベリアス湖を弟子たちと共に渡られたイエスさまに大勢の群衆がついてきた。 2節に「大勢の群衆が後を追った。病人たちになさったしるしをみたからである」と記されています。イエスさまの伝道活動の初期は「ガリラヤの春」と表現されるのですが、当時イエスさまの活動は群衆たちにとって大変な評判で、恐らくスーパースター的存在だったのではないかと思われます。 10節をみますと、その数、男だけで5,000人というのですから、女や子供をいれたらどれ位の人数だったのでしょうか。そんなに大勢の群衆が舟で湖を渡ってゆかれるイエスさまの後を追った。自分たちも舟に乗ってでしょうか、多分、大部分の人たちはイエスさまの舟を見ながら湖辺の道を走って、或いは歩いて追いかけたのではないでしょうか。恐らく、怒濤のような群衆の動きだったと想像いたします。 3節「イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった」この言を読みますと、私共はマタイ5章1節、イエスさまがガリラヤ湖のほとりの山の上で弟子たちに「山上の説教」をなさったときのことを思い出します。 昔、神の言を学ぶとき、このように教師を囲んで皆座ったのでありましょう。しかし、ここでは、ゆっくりとイエスさまが教えを説く暇はありません。大勢の群衆が後を追いかけてきて、ぞくぞくと目の前に集まってきています。 これをみて、 5節「イエスは目を上げ、大勢の群衆がご自分の方へ来るのを見て、フィリポに『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが」とあります。イエスさまはとくにフィリポに向かって相談をもちかけるような言い方をなさっていますが、フィリポにとっては大変な難題です。 6節「こう言ったのは、フィリポを試みるためであって、ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである」とありますが、フィリポにこのように言いつつ、ご自分ではここで5,000人の人を養う計画はすでにお持ちだったと、これも他の福音書にはない、ヨハネ独特の洞察です。 他の福音書では、弟子たちの方から 「もう時も遅くなりました。群衆を解散させて、めいめいで食物を買いに村々へ行かせて下さい」と言っています。これはマタイ福音書の言ですが、マルコもルカも大体同じ趣旨のことを言っています。その弟子たちに対してイエスさまは「あなたがたの手で食物をやりなさい」とおっしゃっています。 このような場合、弟子たちの「めいめいで食物を買いにゆく」という発想はごく常識的で、当然のことを言っています。でもイエスさまはこの、ご自分の後を追って集まっている群衆に解散を命じたりはなさいません。 マルコ福音書には「大勢の群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで」と記されています。イエスさまの「あなたがたの手で食物をやりなさい」という言は、弟子たちに“この群衆を見捨ててはいけない”“この群衆と関わってゆくように”と教えておられるのだと思います。 このイエスさまの言に対する弟子たちの反応は四つの福音書ともみな同じ主旨です。 7節「フィリポは『めいめい少しずつ食べるためにも200デナリオン分のパンでは足りないでしょう』と答えた」とあります。200デナリオンは大金です。1デナリオンは、当時の1日の賃金ですから、200デナリオンは200日分の賃金です。 フィリポは恐らく、イエスさまに問いかけられて、そこにいる人数とパンを買う場合の代価とをとっさに頭の中で計算したのでありましょう。加藤常昭先生の説教では、フィリポはきっと頭の良い、また判断力のある人で、そのような能力にたけていたのだろうと述べておられます。イエスさまはそのようなこともよくご存知で、フィリポに問いかけられたのでしょうか。 このフィリポのとっさの判断、対応は決して誤ってはいません。多分私共もそう考えるでしょう。私共でしたらさしあたり“こんなに大勢では、ローソンとセブンイレブンと東武ストアとそこらへんのパン売場のパンを全部買ったとしてもとても足りない”と考えるでしょう。 そのような情況の中で、一つの新しい事実が報告されます。子供が持っていた5つのパンと2匹の魚がここにあります。5,000人を養うにはどうしようもない量であることは誰の目にも明らかです。 私共はいつも、このように数を確かめ、情況をみ、判断をして自分の能力とバランスをとりながら物事を解決してゆきます。そして、おおむねはそれで何とか乗り切ってきております。 しかし、このように目に見える情況、事実の外に、無限の、目に見えない世界が、事柄と関連しつつ、ひろがっていることを聖書は私たちに教え、そこに目を注ぐべきことを示しています。 5,000人の人の食事についてなす術もなく立っている弟子たちは「6節」に記されているイエスさまが既に持っておられるこの人々を養うご計画を察知することは出来ませんでした。 しかし、イエスさまの祝福があるところ、数とか能力の世界ではありません。 11節「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。魚も同じようにして欲しいだけ分け与えられた」となっています。マタイとマルコ福音書では「天を仰いで」となっています。イエスさまの生涯を画く映画や絵画などにもよく画かれる感動的なシーンであります。 天は、人工衛星が飛ぶ“空”ではありません。創世のはじめより働きたもう神の存在をあらわす“天”です。今、イエスさまは6節の「ご自分のしようと思うこと」を実行すべく、天に向かって感謝の祈りを唱え、僅かなパンと魚を手にとって祝福される。そのとき、そこに奇跡が起こるのです。 このすばらしい出来事は弟子たちに深い感動を与えたが故に、4人の福音書記者たちが4人ともこれを記したのでありましょう。のちにこの記事を読んだ人々の間で、この物語を天国のひな型とみる人もいます。 ヨハネ福音書では人々の様子をあまりくわしく書いていませんで「そこには草がたくさん生えていた」イエスさまは人々を「座らせなさい」と命ぜられたと記されています。私共はこれを読みますと、今の自分たちの習慣から、円形に座る車座を想像いたしますが、マルコやルカの福音書では「50人ずつ組にして座らせなさい」とイエスさまが命ぜられたとあり、口語訳のマルコ福音書では「列を作って座った」と記されています。昔の文語体の聖書ですと「或いは百人、或いは五十人、畝のごとく列びて座す」とありまして、ガリラヤ湖畔の青草の丘の上、畝のごとくに列んで座った、女・子供も加えたら何千人にもなる群衆が、イエスさまの祝福によって分けられたパンと魚をいただいている有様をイメージしますと、私共までが大きな驚きと幸せの入り交じった気持ちになります。 ところで、聖書の物語には、いつもいくつかのキーワードが秘められておりまして、これを発見しますと聖書を読むのが一そう楽しくなります。 このあとイエスさまは 12節「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』」のようにおっしゃいます。この「無駄にならない」と訳されていることばは、原文では、私共が愛誦するヨハネ3:16の「神はそのひとり子を賜ったほどに、、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」というみ言の中の「滅びる」という言と同じ言だそうです。 ですから、ここで「少しでも無駄にならないように」とおっしゃったのは、私共が“食べものを残してはもったいない”とか“あとをきれいに片付けて”などと思う発想とは全く違うことをおっしゃっているのが分かります。奇跡によって分けられたパンは神さまの恵みそのものなのです。“恵みが無駄にならないように、滅びないように”この恵みからもれて滅びる者のないようにという願いのこもった言です。ですから、イエスさまは「残ったパンはどれ位あるのか数えてごらん」とはおっしゃいません。恵みのパンは数ではないのです。「集めなさい」とおおせられる、そして12の篭に一ぱいになったとあります。12といえばお弟子さんたちの人数です。弟子たちは一つずつ篭をもって、篭一ぱいになったパンに、イエスさまのもたらして下さる恵みの重さをずっしりと感じとったにちがいありません。その中でもイエスさまに試されたフィリポ、この大勢の人にどうして食事を供しようかとの試練に立って一番心労したフィリポこそ、一番ずっしりと深く、その恵みを受け止めたことでありましょう。 先々週、ベトザタの池の傍えの病人をいやされた記事は、イエスさまが病人一人に語りかけ、周りの人が気がつかなかったのではないかと思う程、そっと奇跡が行われた印象を持ちましたが、今日の個所は、何千人という人々の前で、実にスケールの大きい奇跡を明らかにされました。イエスさまのなさることは実に多様でありますが、その時その時に意味があり、やたらに無意味な奇跡は行わなかったと思います。加藤常昭先生は、この奇跡を、ユダヤ人にとって一番大切な宗教行事、過越の祭りのときに起こった3つの大きな出来事、2章の宮潔め、19章の十字架、そしてこの6章の大きな奇跡、として注目しておられます。私は先週、藤井先生によって学んだ、この前の個所「御子の権威」についてイエスさまが強く主張されたことと関連があるのかしら?などと考えておりますが、実はその意味など、私共が到底推し量ることの出来ない領域であると思っております。ただ言えることは、奇跡はイエスさまの愛のあらわれであり、神のみわざの証であるということだけです。 宗教改革者のカルヴァンは、信者たちが、この奇跡物語を読んで働かなくなるのではないかと心配したというエピソードが残っておりまして、それ程まで一点の疑いもなく100%奇跡を信じたということです。 現代の合理的思考方法は、このような奇跡をそのまま受け容れることを難しくしていまして、聖書学者たちが、この奇跡をなんとか合理的に説明しようとして、さまざまなことを考えますが、そのような説明は、私にとってはかえって眉唾もので、納得ゆきません。 カルヴァンのように、信じ切ることが信仰であり、自分もそのような、そのまま信じる信仰を持ちたいと願っております。(お話:工藤渓子さん) |
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| 第11回「御子の権威」(ヨハネ5章 19-24)2004年6月27日 |
| 聖書 5:19 そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 5:20 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。 5:21 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。 5:22 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。 5:23 すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。 5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 おはようございます。 さて、今日お読みしました箇所は、イエス様のことばでありまして、イエス様ご自身と、父なる神との関係について語っておられる箇所になります。 ある人は、父なる神は分るが、イエスキリストが出てくると良くわからなくなるといわれます。神さまだけ信じていればいいのではないか? そのように思われる方もいらっしゃるのではないかと思います。 確かに、神さまを信じることが大切なことでありますけれども、同時に、その信じているという神さまが、どういうお方なのかということは、もっと大切なことであります。ただ、やたらに神を信じるということではないわけです。 あまり難しい話はしないようにと思っていますけれども、キリスト教の神は三位一体の神と言われます。三つの神でありながら一つの神であるわけです。そして、これがよく分らないと言われます。 すべてを作られた神、私たちを造り生かしている神、それを父なる神というのは分かる。イスラム教もユダヤ教も、神は唯一絶対の創造主だといいますけれども、神がすべてを造り、すべてを生かしているというのは理解しやすい。 しかし、そこにイエスキリストの存在が加わると、途端にわかりにくくなります。神様がお一人なら、イエスキリストはいったい何なのかと思うわけです。 このヨハネの福音書の学びの一番最初に、 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」 とありました。そして、この言葉のところに、キリストと入れて読むと分かりやすいと以前、工藤先生に教えて頂きました(第1回参照)。つまり、 「初めにキリストがあった。キリストは神と共にあった。キリストは神であった」と、そのように、聖書は、イエスキリストとは、人となられた神であると伝えているわけであります。 クリスチャンの信じる神とは、ですから、ただ単に、すべてを作った神を信じることではなく、その神が、私たちを救うために、イエスキリストという人となられてこの地に来られた、神が人となられたことを信じるというところに、キリスト教信仰の核心がございます。 今日のイエス様の言葉は、そのような子なる神と、父なる神の関係について、教えておられるところになります。それは人間の関係に喩えれば、父と子のような関係ということであります。 19節 「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 とありますように、父なる神と子なる神の関係は、きわめて親密であります。そして、父がなさることはなんでも、子もそのとおりにするとありますように、イエスキリストの行動は、父なる神と一緒。たとえますなら、子どもが、親のまねをするようなものということでありましょう。 子どもは親のまねをして育つわけですが、良いことも悪いことも、よく子どもはまねをいたします。親がやっていないことは子どももやりませんね。そういう意味で、「子は親の鏡」とよくいわれるわけですけれども、 ですから、子なる神、イエス・キリストの姿を聖書から学ぶとき、私たちは同時に、目には見えませんけれども、父なる神とはどういうお方なのかということを、知ることが出来るということであります。父なる神とはイエスキリストのような愛の方なのだということを、知ることが出来るわけであります。 そして、イエス様が、父なる神のなさることだけを行うのは 20節にありますように、 「父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるから」だということであります。 父が子を愛するから、子は父のなさることを行うのだということであります。 ここに父なる神と子なる神の関係の本質が示されているように思います。父なる神は子なる神を愛する。そして、子なる神は父なる神に従うという、そのような愛が神の本質にあるということであります。「神は愛である」といわれますけれども、まさにそういうことであります。そして、神がそのような愛の方ゆえに、聖書は、私たちも互いに愛しあいなさいと語るのであります。 つまり、夫と妻、上司と部下、教師と学生など、あらゆる人間関係においても、この、神の愛、父が子を愛し、子が父に従うという、そのような神の愛のあり方、神が示されている愛の模範に、その秘訣があるのではないかと思うのであります。 いずれにしましても、イエス様は、私と父なる神は、そのように親密な関係であると語られまして、そして、その親密さゆえに、 20節後半で 「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになる」と、父なる神はイエス様に大きな業を示される、任されると言われるわけであります。 そして、その大きな業とは、具体的には、 21節以下にありますように 5:21 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。 といわれている、復活のいのちを与えるという業、そして、 5:22 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。 という、父なる神の裁きをさえ、子に任せる。イエスキリストに任せるということであります。 イエス様は、病の人々を癒されましたが、ここで言っているのは、そのような、人間の病を癒す次元とは違う、おおきな業のことを言っているのであります。まさに、たとえ死んでも、いつか復活するいのちを与え、そして、神の裁きをなさる。それはまさに、神にしか許されていないこと。神のみ業であります。それを、子に任されている、といっているとことは、ここでイエス様は、ご自分のことを、父なる神と等しい、まさに神と明言されているということであります。 それゆえに、 23節で 5:23 すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。 と、父なる神が崇められるように、ご自分も崇められる、礼拝されるようになるためなのだと、言っておられる。 何度も繰り返すようですが、聖書は、イエスキリストは神と等しいかた、子なる神であり、神としての働きをするという、驚くべき主張をしているのであります。 アルベルトシュバイツアーという有名が神学者がいます。彼が残した神学的功績は偉大なものがありますが、その研究の中心は史的イエスの探求でありました。 これは、ごく簡単に申し述べれば、聖書の中において、イエスキリストのなされた奇跡であるとか、復活であるとか、そのような、人間の合理性ではとうてい受け入れられない事柄は、後代の教会の付加した信仰とみなして削りとり、純粋な歴史的イエスの姿を聖書から読みとろうとした研究であります。 その時代の自由神学において、そのような研究をとおして歴史的なイエスキリストを、聖書から導き出せると信じておりました。奇跡やら復活などは、後から付け足したものに違いない。本当のイエスキリストは、自分が神であるなどと言わなかったに違いない。後の時代の人々が、そのように書き記しただけではないか、と、そう考えた人々は、聖書から、一切の奇跡を取り除けば、本当のイエスキリストの姿が引き出せると思っておりました。 しかし、結果は失敗でした。そのように聖書から自分を神の子と語り、奇跡を行うような、超自然的なイエスキリストを削ると、同時に、歴史的なイエスキリストをも削らなければならなくなるのであります。つまり、聖書において、超自然的なキリストと、そうでないキリストは、別々ではなく、密接に結びついていて、切り離せない。切り離してしまえば、あとは何も残らないのであります。史的イエスを聖書から探求することはできないということは、今や学問的な常識になっております。ですから、今、私たちに残されている道は、聖書が語るところのイエスキリスト、まさに父なる神と同じ神であると言われたこの言葉を、まるまる信じ受け入れるか、それとも、逆にまったく拒否するかのどちらかであります。今や、イエスは、ただ素晴らしい教えをした人格者だったのだ、というような、選択はなくなってしまったのであります。聖書の言葉を信じ、キリストを子なる神と受け入れるか、否か。そのどちらかであります。 そして、24節でキリストは、 5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 と語るのであります。 キリストは、道徳の教師としてこのようなことを言っているのではありません。まさに神の立場から、神にしか許されていない永遠の命の約束と、裁きからの解放、赦しを語っているのであります。 そして、それゆえに、今これを聞いている私たちは、この言葉にどのように応答するのかが問われているのであります。 戦後の教育において、大きな欠点と言われることを、ひと言で言えば、宗教教育を捨ててしまったことではないでしょうか。宗教教育を捨てるということは、人間は死ぬのだということを、無視して生きるようになったということであります。人間は必ず死ななければならないのに、それを無視して生きる。そんな宗教教育を捨てた戦後60年の歩み。そのひずみが、今や、至る所に心の荒廃、悲惨な事件として噴出しているように思われるわけであります。 誤解を恐れずに申し上げれば、誰か、人がなくなられたときに、私たちはよく「お気の毒に」と申し上げるわけですけれども、それはもちろん、大切な方をなくされた家族や親類にとっては、まさにそのように語りかけることは適切でありましょうが、しかし、人が亡くなるということは、本当に「お気の毒」なことなのだろうとか、思うのであります。誤解を恐れずにといいましたのは、そういうこともありますけれども、人が死ぬということは、ただ、お気の毒な出来事なのでしょうか。宗教を捨て、人間の死を、まるでないもののように考えるならば、確かに「死」はお気の毒なことでありましょうが、しかし、永遠の命を信じ、神の赦しと愛を信じ、また、そのように信じて生きる家族の、その祈りの中で、死にゆく人は、決して「お気の毒」なのではなく、真に、幸せな方なのではないかと、そう思うのであります。 キリストは約束いたします。 5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 だれも、死の向こう側は分かりませんけれども、しかし、だからこそ、このキリストの言葉、そして、約束に信頼することが出来るならば、信仰を頂くことが出来るならば、それは本当に幸いな事であると思うのであります。 キリスト教のラジオ放送などでメッセージを語っておられる牧師に榊原寛(さかきばらひろし)牧師という方がおります。この方が、キリスト教のラジオ放送を始められたきっかけを、このように証しておられました。 私の次男は、二十八年前の五月十九日、交通事故で亡くなりました。当時六歳、小学校に入学して間もなくのことでした。私たち家族は、突然襲って来た悲しみに翻弄されました。 私は、伝道者も辞めたい、牧師も辞め、教会も戸を締めて休業したいというような衝動にかられました。四才上の長男は、毎晩弟の名を呼んでいました。妻は、「私は生きていても一生笑うことはないかも知れない」と、お腹を痛めた子の突然の死に、いたたまれない、様子でした。 そのようなとき、キリスト教ラジオ放送のある方から「若者向けの番組をやってほしい」との電話があリました。私は事情を話してお断りしました。その後も私たち家族は、なかなか立ち直れずにいました。 ところがある日、子どもの聖書を見ていたとき、傍線(ぼうせん)が引かれている個所に目が留まりました。ヨ八ネによる福音書21章4節の「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた」とのみことばでした。 私はそのとき、息子が語りかけているような気がしたのです。「お父さんはいつまで暗い夜にいるの。イエス様は、お父さんのために夜明けを備えてくれているんだよ」。 私はそのとき、改めて復活の主にお会いしたのです。主は十字架を前にしてのゲツセマネの園で祈られたとき、弟子たちに語られました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」。わたしはこの主のおことばにふれたとき、癒されました。「主よ、死んだ息子の分まで、お役に立ちたいのです」と祈ることができたのです。 息子は、よく友達を教会学校につれて来ました。「ぼくも、おとうさんのようにぼくしになるんだ」と幼稚園の二年間も、小学校に入っても、先生方に言い続けたそうです。そのような息子のことを思い起こしながら、私はキリスト教ラジオ放送の方に電話を入れました。「まだ出演者が決まらなかったら、やらせてください」。 それ以来、二十七年、マイクに向かってイエス様を伝え続けて来ました。新緑の五月は、私たち家族にとって大変悲しい月ですが、同時に息子の分まで伝道に励ませていただこうと思う月でもあります。 復活されたイエスキリストは、今日も私たちに語りかけておられます。 24節 5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 このキリストの言葉を信じ、キリストが神の御子、救い主であることを信じて、死で終わることのない永遠の命の希望を胸に、今日という日を、喜び感謝しながら、ご一緒に歩んでまいりたいと、そう願っております。(お話:藤井秀一牧師) |
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| 第10回「ベトザタの池で病人をいやす」(ヨハネ5章 1-18) 2004年6月20日 |
| 聖書 「ベトザタの池で病人を癒す」(新共同訳聖書) 4月の中旬よりヨハネの福音書を通してイエスさまのご生涯をたどっておりますが、今日は5章に入りました。 この前の4章のサマリアの女のお話、3章の議員だったニコデモのお話、そして今日のベトザタの池の傍らにいた病人、ともにイエスさまが全く一人の個人と関わられた記事でございまして、他の福音書には記されていない、ヨハネ福音書独自の記事であります。 そして、どのお話も、新約時代の到来を告げる深い意味が込められている記事だと思われます。 今、1節から18節まで読みましたが、皆さまもお分かりの通り、この記事は前半のいやしの部分と、後半の安息日に関する論争の部分と、二つのことからなっております。これをもし、前半の部分だけを読んだだけでしたら、ここで聖書の告げようとしている意味は半減してしまいます。実は、ヨハネの告げたかった大切なことは、むしろ後半の部分ではなかったかと私は思っております。 さて、1節「その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた」とあります。 先週、4章で読みました記事は「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた」とあります。そして、今日5章、ガリラヤに行かれたイエスさまは、またエルサレムに戻って来たことになります。イエスさまは何べんかガリラヤとエルサレムの間を往ったり来たりしておられますが、往復するのにどれくらいの時間がかかったのでしょうか? そして2節、今日の舞台、ベトザタの池です。「ベト」というのは、イエスさまの出生地のベツレヘムとかヤコブ物語にまつわる地名ベテルなどにも関わりのある「家」を意味する語だそうで「ベトザタ」というのは「いつくしみの家」という意味の呼び名だそうです。なぜこのように呼ばれたかというと3節「この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、身体の麻痺した人などが大勢横たわっていた」とありますように、いろいろな病におかされた人々がここに集まっていた、いわば病院のようなところだったので、「いつくしみの家」と呼んだと思われます。ある本には、上下2段に分かれた池であって、その二つの池の間の廊とで五つの廊がめぐらされていたとありますから、一応そこに横たわっている人々は、雨がふったりしてもぬれることのないようにはなっていたと思われます。 19世紀の後半にエルサレム神殿跡の発掘が行われたとき、神殿の北のところにこの池がみつかり、ヨハネ福音書の記事の通り、五つの回廊もみつかったということで、ヨハネ福音書が史実に忠実に画かれていることが話題になったそうです。 この「いつくしみの家」と呼ばれる池の周辺の様子は、口語訳聖書には4節として記されているのですが、何故か、新共同訳聖書では省かれております。4節を省いたことについて疑問をもつ学者もおりまして、私はどう考えて良いのか分かりませんが、7節のこの病人がイエスさまに訴える言葉を理解するためにも、口語訳聖書の4節を用いさせていただきます。3節から読みますとこんな風に書かれています。 「その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。彼らは水の動くのを待っていたのである。それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」と。当時、天使という存在が信じられていた時代ですので、本当に天使が降りてきて水を動かすと信じていたのでしょうが、多分これは不定期に水が湧き出る“間けつ泉”だったのではないかと言われております。 いずれにしましても、その水の動きを、“天使が降りてきて水を動かすのだ”と考えた、そのようなことを信じる世界に生きていた当時の病人たちです。それにしても、これは何という悲しい光景でありましょう。 水が動いたときに、一番先に入った人が治るのですから、互いに病人でありながら、人を押しのけて我さきに飛び込まなければならないという早い者勝ちの場であったわけで、見るからに愛のない、不信と孤独におおわれている縮図のような世界です。 皆、身も心も弱り果てた病人であるのに、虎視耽々と水の動く機会をねらっていて、心の休まる暇もない、殺伐たる空気の中、一方、自分で動けない人は、当然水に入ることが出来ませんので、あきらめ、羨望、絶望の入り交じった想いで、それらの人を眺めていたでありましょう。 そのような中にイエスさまはお立ちになりました。 当時、ローマの占領下にあったユダヤの国、現代のように社会福祉の制度が整っているわけではありませんし、貧しさや病や差別に苦しんでいる人たちが社会に一杯いたと思われますが、いつもイエスさまはそのような人たちの只中にお立ちになります。弟子たちのことは何も書かれてありませんのでお一人だったのでしょうか。 1節にユダヤ人の祭りがあったと書いてありますが、神殿の祭りのにぎわいをよそに、この多くの病人たちが横たわっているベトザタの池を訪ねてこられたイエスさまの姿を想像してみてください。誰にみとられることもなく、池をめぐる回廊に横たわって、いつか動く水面を見つめながら、いくらかの期待と焦燥と絶望との入り交じった思いが渦巻いているのをごらんになって、きっと悲しいまなざしで人々をごらんになり、深くあわれまれたに違いありません。 そしてやがて38年間もそこに病んでいた人に声をおかけになりました。38年間もそんな悲惨な場所で横たわっていたなんて、気の遠くなるようなつらい日々を想像いたしますが、或いは、あまりに長い年月をそのような場所で過ごして、まったく希望を失った人をイエスさまは選ばれたのでしょうか?その理由は誰にも分かりません。 6節「なおりたいのか」と問われます。 わかりきったことを尋ねる愚問のようにみえますが、イエスさまはいつもその人に向かって「なおりたいか」、盲人に向かっては「みえるようになりたいのか」と問うて、その人の意思の表明を求められます。安閑としていては何の変化も起こらない、現状からの脱却、飛躍、転換の時の自主的な意志の確認でありましょう。「病人は答えた『主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りて行くのです』 」というこの病人の言葉は、殆ど答にはなっていない、つぶやきのようなものですが、38年間の悲しみの集約、短い言葉の中に万感がこめられています。 そして8節「イエスは言われた。『起き上がりなさい、床を担いで歩きなさい』するとその人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した」とあり、実に淡々と、簡潔な書き方で、私共は「そんなことが起こったのですか。その病人は喜んだでしょうね。良かったですね」と思いながら、38年間も池のほとりで横になっていた人の足はおそらくよろよろしていたでしょうにと、床を背負って、自分の足で歩いてゆく一人の男に声援を送りたいような気持ちになるのですが、 9節の終わりの言、行を変えて「その日は安息日であった」と記されていまして、このことが、ただ喜んではいられない事態へと発展してゆきます。 当時、律法は、生活の全領域にわたってきびしい決まりを、実にこまごまと規定しておりましたが、この、ユダヤ教の律法を守るという厳しさは、今、信仰の自由の中にいる私共からは想像も出来ない程、重いものでした。 特に安息日についての規定は、一般庶民にとっては一番関わりの深い重要なものでした。そして、その中には「安息日に荷物を取りあげ運ぶこと」を禁止する条項があり、彼のしていることは明らかに律法違反にあたるわけです。 どんな種類のブローチでも安息日につけてはいけない。即ち、ひき出しからブローチを出して胸につける、それだけで安息日に働いてはいけないという規則に違反したことになるそうですから、まして床をかついで神殿の中を歩いていったら、人々は驚きあきれたでしょうし、10節「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは許されていない」のように注意するのは当然なことでありました。 しかし、この病人は実に泰然として「わたしをいやして下さった方が『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」のように答えます。或いは38年もの間ベトザタの池で日々を送っていたので、律法を犯すことの恐ろしさなど知らず、知らないがゆえの堂々たる態度だったかもしれませんが、さらにユーモラスなのは11節「取りあげて歩けといった人は誰か」と聞かれたとき、彼は自分を何十年の長い病苦から救い出してくれた人を誰だか知らなかったということで、なんだか春風がそっと吹いてゆくようなおおらかさを感じます。 イエスさまが病人や身体の不自由な人をいやされるときは、いやされる人が「主よ」とか「ダビデの子よ」とか叫びながらお願いし、奇跡が起こったのをみて、人々が驚き、イエスさまを信じたというふうな記事が多いのですが、今日のところでは、周囲の人のことは一切記されておりませんで、私は、もしやイエスさまは、そっと彼の傍らにおよりになり、そっと問いかけ、静かに誰にも分からぬようにおいやしになって、立ち上がらせ「行け」といって、誰にも知られないようにそこを去らせたのではないかと思ったりいたします。いずれにしましても、彼は38年間の病から解放され、命ぜられるままに床を担いで神殿のお祭りの群れの中に入っていったのです。 先週読みました4:43以下の役人の息子がいやされた記事では、役人は遠くからはるばるイエスさまを訪ねてきて、積極的にイエスさまにお願いをしました。しかし、今日の記事はどうでしょう。彼は池の傍らに38年間の病を背負ってただ座っていました。そこにイエスさまの方から声をかけて下さいました。「なおりたいのか」と意思を確認なさっているのに、7節、彼の答はイエスでもノーでもない、唯の「水が動いても、わたしを入れてくれる人がいないのです」という嘆きの言葉だけです。それでもイエスさまは彼をいやされたのです。実にイエスさまの人との関わり方は多様であります。 この13節のあと、次の14節の記述の間にはある程度の時間の経過があって「この男をいやしたのははたして誰だろうか?」などと、その男の周辺では噂されていたのではないかと思いますが、14節をみますと、この38年間の病から救って下さった人が誰かも知らないというちょっとのんきな男は宮でイエスさまに再会いたします。ここで彼は自分をいやしてくださった方がイエスさまであったことがわかり、ユダヤ人たちに報告するわけです。ここに「ユダヤ人たち」と記されていますが、病をいやされた男もユダヤ人ですし、イエスさまもユダヤ人ですし、その周辺にいる人たちもみんなユダヤ人ですので、ここに「ユダヤ人たちに告げた」という「ユダヤ人たち」というのは、多分ユダヤ人の祭司や律法学者などの指導者たちをさすのではないかと思われます 男の病をいやしたのがイエスさまだと知ったいわゆるユダヤ人たちは、さっそくイエスさまへと糾弾(きゅうだん)の矛先を向けます。私共にとって、38年間も病に苦しんだ人が、今いやされて、自分の足で立ち、床を担いで自立への道を歩きはじめた姿は、本当にうれしいことの外ではありませんのに、律法にがんじがらめになって、律法の規則を守ることが信仰の基盤になっているユダヤ人たちにとっては、律法違反として弾劾(だんがい)すべき事柄にすぎず、さらに安息日なのに病人をいやしたイエスさまのお働きもまた、律法違反の矛先を向ける対象になるわけです。 16節「そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである」と記され、17節イエスさまは「わたしの父は今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」と答えられました。このイエスさまの言を聞いて、ユダヤ人たちが烈火の如く怒ったのは容易に想像出来ます。何故なら、二つのことでイエスさまとユダヤ人の間に重大な信仰上の相違点があるからです。 まず、ユダヤ人たちは、神は創造のわざを進める中で七日目に休まれたように、安息日は神も休んでおられるとしているのに、イエスさまは、安息日でも神は働いておられると宣言したことが一点で、 さらに神を父と呼んで、ご自分を神と同格として「共に働いているのだ」と宣言なさったことです。それは18節に記されている結果をもたらします。殺そうと思うほど、イエスさまを憎んだのです。 この安息日のあり方をめぐるユダヤ人指導者たちとイエスさまの対立は、他の福音書にも何回も記されていまして、このような対立の積み重ねによって、やがて十字架へと事態が進んでゆくのです。 この当時、律法の支配下にあった安息日は、神を賛美し、神に感謝し、神の生命に生きるという安息日本来の光を失い、安息日さえ闇になっていた。そこに真の光をとり戻すための闘いをイエスさまはしておられるのではないでしょうか。 今日の記事、安息日に病人をいやされたことも、その闘いの一環として、行われたのではないかと思ったりいたしております。イエスさまは、やたらと意味もなく奇跡を行ったりなさいません。その時々に、それなりの意味があって奇跡は行われるのです。安息日は、あれもしてはいけない、これもしてはいけないと、息をひそめるようにしながら一日を送るのではなく、神をよろこぶ日なのだから、病める者もいやされて自由に歩けるようになる、罪人と呼ばれる人たちもイエスさまと共に食卓を囲んで楽しむ、そして究極的には、安息日にイエスさまのよみがえりが実現しました。 ですから、ユダヤ教では土曜日が安息日ですが、私共キリスト者は、イエスさまが甦られた日曜日を安息日、聖日として、とくにその日、神さまへの賛美と感謝を捧げるのです。 即ち日曜日は、新約時代到来の象徴です。(お話:工藤渓子さん) |
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| 第9回「役人の息子をいやす」(ヨハネ4章 43-54)2004年6月13日 |
おはようございます。 早朝礼拝でお話しをさせていただきますのは、二回目になります。 今朝の箇所はヨハネによる福音書4章43節から54節までの、小見出しには「役人の息子をいやす」という、いわゆる奇跡の話しです。 イエス様のいわゆる公の生涯の始まりはユダヤのエルサレムや近くのベタニヤ、ヨルダン川での出来事とこのヨハネ福音書には記されています。他の三福音書がガリラヤ地方を伝道の場とされたとあるのとはかなり異なります。それは、ヨハネ福音書が誰の為にという視点が三福音書と異なるためであります。 そして一度、ガリラヤへ帰られたときにカナでの婚礼に臨まれて水をぶどう酒に変えられる最初のしるしをされました。後にユダヤの過越しの祭りが近づいたので再びエルサレムを上られて数々のわざをなさったことがありました。 有名な神殿の宮清めの話しやニコデモの対面、そして、ユダヤ地方にとどまり人々にバプテスマを授けておられました。 そうして、これらの出来事が宗教指導者達の知るところなった時に、イエス様はサマリヤ地方を通りガリラヤへ向われたのが先週までの話しになるかと思います。 聖書の箇所をお読みしましょう。 4:43 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。 4:44 イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。 4:45 ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。 4:46 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。 4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。 4:48 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。 4:49 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。 4:50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。 4:51 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。 4:52 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。 4:53 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。 4:54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。 この話は、役人の息子が重い病気で今にも死にそうな状態でありましたが、イエス様が近くまで来られているという話を聞き、イエス様に癒していただく他に助かる道はないと考えた役人自身がイエス様のもとに出向いて、一緒に息子のところまで来て助けてくださるように頼んだところ、「帰りなさい、あなたの息子は生きる」と言われ、その言葉を信じて帰る途中に息子の病気がよくなったという知らせを受けた、という奇跡の話です。 私は、三番目の子供でこの役人と同じような体験をしました。 一歳を過ぎてすぐの頃に40度以上の熱が出て、ケイレンを起こし、救急車で新宿の国立国際医療センターへ運ばれました。 私は丁度、仕事をしていまして夕方の4時ごろ家内から携帯に電話が入り、「ケイレンを起こして今、救急車に乗せたところ」との一報でした。搬送先が判ったらまた知らせるとのことでしたが暫くして新宿だと聞き、病院に向かいました。 髄膜炎を発症しているとの診断で、夜に骨髄注射をしてウィルスがあるか判定するとのことでした。その晩は遅くまで病院におりましたが最悪には障害が残るかもしれないことを覚悟しました。上の子供たちにもその可能性を話し、家族で支えていこうと言った覚えがあります。 教会へも連絡し、当時の戸上信義牧師が「あなたのその話しぶりから、いかに大変な状況かが判ります。皆で祈ります。」と言ってくださいました。本当に大きな心の支えとなりました。皆様の祈りに支え守られて無事に二ヶ月程の入院をいたしましたが、今は元気に小学一年生となりました。 私はこの困難な状況の時に私の子供のために、家族のために祈ってくださる教会の方々がおられ、そして、回復が与えられるという恵みの信仰体験をさせていただきました。本当に感謝なことでした。 さて、ガリラヤへ行かれたイエス様は「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とおっしゃいました。しかし、ガリラヤで待っていましたのはイエス様の言葉とは裏腹に、サマリヤでのイエス様の言葉により信仰の体験をした人々、エルサレムでのイエス様の数々の行いを見てきた人々により、思いがけず歓迎を受けたのです。自らがイエス様の語るのを聞き、自らがイエス様のわざを見たという確信にも通ずる経験をした人々がイエス様を歓迎したのです。 信仰に導かれた方々はキリストがご自身にしてくださったことをいくつも喜びをもってお話しをすることができるでしょう。このような信仰の経験はその方の信仰にとっては無くてはならない貴重な体験となっているのです。 しかしながら、だれも自分の経験によってキリストの信仰を他の方に納得していただくことは出来ないでしょう。私たちに出来ることと言えば信仰を伝えたい方が同じような経験をしてくださるように導びかれるお手伝いをするだけではないでしょうか。 キリストの信仰は、まずイエス・キリストを神の子であると認識し、そのイエス様を信頼する。そして、イエス様の言葉を確信持って受け止める。このことに尽きると思います。 ここにおられるお一人お一人には、それぞれに人生の課題がおありになると思います。皆様もイエス様を神の子として信頼して、与えられた課題に対する聖書のみ言葉に立ったときにイエス様があなたご自身に何をしてくださるかを信仰の諸先輩方が体験されましたように、是非体験していただきたいと願います。 この役人の信仰の経験について考えてみたいと思います。 この人はカペナウムのおそらくは、ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスの高官であったと言われています。役人でありましたからイエス様たちの振る舞いについてはよく知っていたと思います。イエス様の話された事やしるしやわざ等の出来事をいろんな人々から聞いていたことでしょう。ユダヤの人々であれば、そのように出来るのはもしかしたら救い主かもしれないと誰もが一度は考えたことでしょう。そして、信仰に導かれる者と排斥しようとする者に分かれていったことでしょう。この高官は立場上では民心をゆさぶり、治世に混乱を起こすような存在は断固、排除する側でありました。地位も名誉もあり、裕福であったに違いありません。 そのような人物がたとえ、自分の息子が死にそうではあってもイエス様がカナにおられると聞くや40Kmもの距離、1日から2日もかかる道のりを自分が歩いてゆくという話は、なかなかありそうも無いのではないでしょうか。ましてや医者でも無い大工の息子であるイエス様にです。身分の差もありましょう。また、親であれば子供が死にかかっているのに何日も家を空けることも考えにくいでしょう。僕たちが多く居た筈ですから、僕たちにイエス様を迎えにやることも出来たでしょう。しかし、役人本人が迎えに行ったのです。彼の心の内は排除する側ではなく、信頼を寄せる存在としてイエス様をみていたのでしょう。 それでも、役人は自分の立場もありました。このことからの自尊心を押さえて、このような行為にたいする周囲の非難の目を感じつつも、イエス様からこの困難の助けを得られるであろうとの信頼から出向いたのではないでしょうか。又、イエス様へ出向いたからには息子の容態も深刻な状態にはなるまいという信頼もあったのでしょう。 カナに着いた役人は「カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。」イエス様に懇願しました。 この役人に対してイエス様は「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。これは、どうなるものかと見守る群衆に向けたものとも、役人自身に向けた言葉とも理解できますが、キリストの救いが及ぶ前というものは真剣な態度でなければならないことを示されたのだと思います。他の聖書の箇所においても、イエス様の救いのある前にはその対象となった人々の切なる真剣な問いかけがあるのです。 「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行きました。 イエス様からの直接の言葉が、「あなたの息子は生きる」でした。この言葉以外に必要なものは無いと役人は確信したのです。この言葉により息子は救われる、と確信したのです。 信仰とはイエス様の言われることは真実であり、イエス様の言葉を漠然とした期待やあいまいな願いを抱くことではなく、イエス様の言葉は「真実かもしれない」のでもなく「真実に違いない」と確信することです。 この役人はイエス様の言葉を「真実」であると確信し、家路を急ぎました。 「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」に続いて「あなたの信仰が息子を救いました」と言う言葉が心に響いてくるような気がします。 この役人のすばらしい信仰の経験は、イエス様が何をなされる方であるかをつぶさに見た結果として、自身の求めているものがなんであるかを悟り、それが満たされ、自分自身を顧みて本当に大切なものを想い起こすことが出来てたどり着くことが出来た。このことは自分のみならず家族をも神の子キリスト・イエスを信頼する信仰へと導くほどの大きな喜びの経験となったのです。(お話:郷 秀男さん) |
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| 第8回「イエスとサマリアの女」(ヨハネ第4章 1-30)2004年6月6日 |
| 聖書 イエスとサマリアの女 1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼(バプテスマ)を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、 2 ― 洗礼(バプテスマ)を授けていたのは、イエスご自身ではなく、弟子たちである ― 3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。 4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。 5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。 7 サマリアの女が水を汲みに来た。イエスは「水をのませてください」と言われた。 16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われると、 27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰ってきて、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」という者はいなかった。 みなさんおはようございます。今朝も聖書からみ言葉をきいて参りましょう。 “さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼(バプテスマ)を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、― 洗礼(バプテスマ)を授けていたのは、イエスご自身ではなく、弟子たちである ― ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。”(ヨハネ4:1‐6) 最初にご一緒に聖書の後ろにある地図を見ましょう。サマリア、ガリラヤ、ユダヤの位置です。これを見るとわかりますね。ユダヤからサマリアへ行く場合、サマリアを通過するコースは最短距離でした。しかし、多くのユダヤ人はこの道を避け、ヨルダン川を越えて渓谷沿いの険しい道を選んで北上し、もう一度ヨルダン川を渡ってガリラヤへ行ったのです。ユダヤ人はサマリアを避けて通った。それはユダヤ人とサマリア人の間に対立があったのからなのです。
次の箇所です。 “サマリアの女が水を汲みに来た。イエスは「水をのませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。するとサマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして、水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もし、あなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人は生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子どもや家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲むものはだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」”(ヨハネ4:7−15) このことの起こった時刻は正午ころのことでした。正午ころにサマリアの女がヤコブの井戸に水を汲みに来たのです。ところで、当時のパレスチナ地方の日常生活では人々は朝まず井戸へ行って水を汲む。どうしても足りないときは夕方もう一度水を汲みに行くのです。朝と夕方が井戸に水を汲みにいく通常の時間帯であって、昼間は亜熱帯の気候のゆえに暑さを避けて水を汲みに行ったりしないのです。正午ころこの女性が水を汲みに来たのは、人目を避けての行動と思われます。 イエス様はこのサマリアの女に「水を飲ませてください」と言われます。女はびっくりして「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」と言います。先ほどユダヤ人とサマリア人の間には歴史的に積み重なった対立があることをお話しました。あなたはどうしてそのように自由にユダヤ人とサマリア人という壁を乗り越えることができるのか。あなたたちユダヤ人とわたしたちサマリア人の間には700年もの間の長い憎しみあった関係が横たわっているではないか。それなのにどうしてあなたは何のわだかまりもなく話しかけてこられるのか。そういう気持ちが女性にはあったでしょう。この女性が驚くもう一つの理由が考えられます。それは当時ユダヤ教の厳格なラビ(律法の学者、教師)が女性に話しかけることはなかったということです。「女どもと多く語る者は、自分に禍を招き、律法の学びを怠り、ついにゲヘナを相続するであろう」(ミシュナー)という言葉がありますが、ラビは公の場では、たとえ自分の妻や娘や姉妹であっても話しかけてはいけなかったのです。公の場で婦人に話しかけているのを見つけられると、それはラビとしての名声の破滅であったと言われております(バークレー)。「サマリアの女のわたしにどうして」と言う言葉は、この女の驚きがどこから来ているものかをよく示していると思います。イエス様は民族とか人種とか、男女の性の差とかいうものから自由でした。イエス様はこの女性に対して一人の人格として接していったのです。 イエス様とサマリアの女との会話の内容はどうでしょうか。イエス様は喉が渇き女に水をくださいと頼むのですが、会話が進むにつれて、『神の賜物』『生きた水』について話しかけられています。それに対して女性は汲むものを持っていないイエス様にどのようにして水を汲むのですかと尋ねています。物理的で目に見える時限での受け答えです。話は空回りをしているように見受けられます。それでも、「この水を飲むものはだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」とイエス様が言われると、女は「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と今度は自分の方からイエス様に『その水をください』と頼んでいます。この女のなかに少しずつ変化があらわれてきているのでしょうか。 次の箇所に参ります。 “イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。「イエスは言われた。「『夫はいません』とはまさにそのとりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。この方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それはあなたと話をしているこのわたしである。」”(ヨハネ4:16−26) 16節で話は別の展開を見せます。イエス様はこの女性が今どういう状況の中にいるのかをすべてわかっていたのです。イエス様はこの女の過去も現在も言い当てたのです。「『夫はいません』とはまさにそのとおりだ。あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない、あなたはありのままを言ったわけだ」本当にこの女性は驚いたでしょう。女はイエス様を「主よ、あなたは預言者とお見受けします」と言います。 はたしてこの女性は今まで、どんな人生体験をしてきたのでしょうか。みなさんはどう思われるでしょうか。 讃美「サマリアの女」(マレー作曲) |
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| 第7回「イエスと洗礼者ヨハネ」(ヨハネ第3章 22-30)2004年5月30日 |
| 聖書 「イエスと洗礼者ヨハネ」 22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼(バプテスマ)を授けておられた。 23 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼(バプテスマ)を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来てバプテスマを受けていた。 24 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。 25 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。 26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、バプテスマを授けています。みんながあの人の方へ行っています。」 27 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない。 28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。 29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。 30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」 ヨハネの福音書を通して、イエス様のご生涯を学ぶ、第7回目になりますけれども、今日学ぶ聖書の箇所で中心となりますのは、イエス様ではありませんで、バプテスマのヨハネという人が中心人物となります。 すでに6回ヨハネによる福音書を学ぶなかで、何人かのユダヤ人が出てまいりました。このバプテスマのヨハネもそうですし、イエス様の母マリア。そして、ニコデモという議員。来週学ぶ箇所では、夫を何人も取り替えた女性がでてまいりますけれども、そんな一人一人とのイエス様のやりとりを通して、おもしろいことに、その人の内面があらわになったりいたします。婚宴の席でぶどう酒が無くなったとき、母マリアが示したイエス様に対する信頼。またニコデモという議員が、イエス様の言葉を理解できずに、古いしきたりの中にとどまっていた姿。イエス様との関係の中で、そんな人間の内面があらわになるところが大変興味深い。イエス様は、そんな不思議な方であります。 そして、今日の聖書の箇所では、バプテスマのヨハネという人の心の内面が、イエス様との関係の中で、よくあらわれている箇所だと思います。このバプテスマのヨハネという人は、神から遣わされた預言者と言われていますけれども、神が愛したイスラエルの民が、今や、神から離れている。そのイスラエルの人々に向かって、悔い改めて神に立ち返りなさいと厳しく説きながら、バプテスマを授けてていた人であります。彼は、動物の皮の衣をきて、いなごや野密を食物にしていたという、大変ワイルドな人ですから、なにか厳しいイメージがありますけれども、実は、大変謙遜な人であったという彼の内面が、今日の箇所から伝わってまいります。 それでは聖書を順に見ていきたいと思います。 3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、バプテスマ(洗礼)を授けておられた。 3:23 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンでバプテスマを授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、バプテスマを受けていた。 今日の箇所は、イエス様と弟子たちが、エルサレムの都から郊外に行かれたところからお話が始まります。注目すべき点は、そのころイエス様の弟子たちも、人々にバプテスマを授けていたということであります。これはイエス様ではなく弟子たちがしていたようですけれども(4章2節)、いずれにしろ、それまでは、バプテスマのヨハネが、授けていたバプテスマを、イエス様の弟子たちがするようになった。しかも、多くの人々が、イエス様の方に集うようになってしまっている。そのことが、どうもバプテスマのヨハネの弟子たちにはおもしろくなかったようであります。 3:26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、バプテスマを授けています。みんながあの人の方へ行っています。」 ただ、ヨハネの弟子たちは不満でしたけれども、当のヨハネはそうではなく、自分の立場をよく理解していたわけであります。 彼は、最初にイエス様に出会ったとき、この方こそ自分が待っていた方。「世の罪を取り除く神の子羊」つまり、私たちの罪を赦すために十字架に死んでくださる救い主だと証しをして、私はこの方の靴のひもを解く値打ちもないと、そのように言ったわけですけれども、そのように、このバプテスマのヨハネという人は、自分が何のために神によって遣わされているのか、その立場をよくわきまえていたわけであります。自分は、このイエス様が救いを成し遂げてくださる、その道ぞなえをするために、人々に、悔い改めるようにと、バプテスマを授けているという、その自分の立場を彼は理解しておりました。 しかし、ヨハネの弟子たちの方は、そんなこと分かりませんから、この状況が納得いかないわけであります。なんであの人達は勝手にバプテスマを授け、しかも、多くの人々は、あの人達のところにいってしまうのかと、ここで嫉妬心を燃やしていたわけであります。 嫉妬心といいますのは、人間関係が危うくなる火種になるものですけれども、どうしても、人と自分を比べて生きてしまう、そのような人間の地平でものを見るだけですと、この嫉妬心というものから逃れることは難しいですね。何であの人ばかりいい思いしているのか、と、思ったことも思われたことも誰しもあるかとおもいますけれども、嫉妬心というものは持つなと言ってもなかなか難しいもので、人と自分を比べてしまう、つまり、横の関係だけで見てしまいますと、どうしても嫉妬心が沸いてくる。しかし、そこに横の視点ではなくて縦の視点。つまり、どこまで行ってもドングリの背比べに終わる横の視点から、私たちを造られた神の御旨という、上からの視点で、自分や他人を見るときに、この嫉妬心というものから解放されるのではないでしょうか。 ヨハネはその点、弟子たちとは違う視点で、この状況を見ていた事が分かります。 3:27 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」 といいました。ヨハネは、横を見て、イエス様たちと比べては嫉妬している弟子たちに、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」のだと、上からの視点でものを見るように教えておられるのではないでしょうか。 天が与えなければ、つまり、神が与えなければ、人は、なにも得ることが出来なかった。よく考えてみれば、人は生まれたときには何にも持たずに生まれ、そして、今に至るまですべてを頂いて生きているわけであります。なのに、人をうらやんだりねたんだり、人の物がほしくなったりいたしますのは、裏を返しますと、今、すでに神が与えてくださっている恵みが分からない、いや、そもそも、神様がこの私に良いものを与えてくださっている、愛してくださっているということが分からない、信じられないということゆえの不安の裏返しではないかと、だから、人の物がほしくなるのではないかと、そのように思うわけであります。 それは、自分自身を愛せない、受け入れられないということも同じことだと思いますけれども、神様が造ってくださったこの自分自身。またとないユニークな存在として、能力と賜物を与えてくださっている自分自身を、愛せない、受け入れられない、人と比べて、なんで自分はこんなに劣っているんだろう、と自分を責めては、人をうらやむということも、まさに、上からの視点を忘れてしまっているということではないかと思うのであります。 「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」のだとヨハネが言ったところの、人間の努力や能力を越えて、いっさいは神によって恵みとして与えられている、頂いているという視点。それがまさに信仰でありますけれども、そのように自分の人生を見るときに、そこにこそ、嫉妬心なるものからの解放があるのではないかと、そのように思うのであります。 それと同時に、バプテスマのヨハネは、イエス様が、自分とは違う上よりの権威、神様からの特別な権威をいただいた方であるということを、いっていたのでしょう。 それゆえに、28節でヨハネは 3:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。 と、自分はメシア、救い主ではないと、はっきり語るわけであります。あの方こそ、上よりの権威をいただいた人であって、自分は違うのだ。 このヨハネ態度にこそ、本当の謙遜というものが表されているのではないでしょうか。単なる自己卑下ではなく、自分をなにか意味のないもののように、価値のないもののように語ることが謙遜なのではなく、ありのままの自分を、神に造られ、使命を与えられているそのままの自分を、包み隠さず生きていく姿。 ヨハネは、もしこんな事を言わなければ、十分人々を集めて大きな教団を造るだけのカリスマを持っていた人だと思います。実際、今まで、ヨハネのところに、沢山の人々がやってきていたことを考えますと、ヨハネという人には人々を集めるだけのカリスマがあったのでありましょう。しかし、彼は、その魅力を用いて、人々を自分に結びつけようとはしないのであります。ヨハネはあくまで、自分のところにやってきた人を、自分ではなく、神に向かわせ、そして、救い主キリストに向かわせていく。 そこに、彼の謙遜の姿。神に造られ、神に与えられた使命を生きる姿を見るのであります。 オウム真理教のある幹部は、「私は尊師の愛に惹かれた」と入会の動機を語っておりましたけれども、多くの新興宗教に多くの若者が引きつけられていく原因に、教祖の魅力というものがあるわけであります。若者たちは、その教祖の魅力に引きつけられ、やがて教祖のためなら何でもしてしまう信者にさせられていってしまう。そのように、魅力的な教祖は、自分のところにやってくる人々を、自分自身の利益のために、自分自身に結びつけるわけであります。教えそのものではなく教祖に結びつけようとする。そして、そのために、特別な権威づけをするために、自分には天からのなにか特別な力を頂いていると、偽りの自分を演出して、信者の心を自分自身に結びつけようといたします。 しかし、ヨハネは、全くそのようなあり方とは違うのであります。 3:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。 と、自分は「メシア」ではなく、ただの人であると、弟子たち自身に証させる。それがヨハネという人ででありました。 ヨハネは、神を畏れ、神の前に誠実に生きていくゆえに、自分をなにか素晴らしいものでもあるかのように偽るようなことをせず、ただ神から与えられた、自分の使命を、その人生を生きたのであります。それは、自分を卑下したのでも、誇ったのでもなく、ただ、神に造られ、神に与えられた使命を、ありのままのに生きていったということであります。そして、それがまさに、神と人との前に謙遜な生き方なのだということを、ヨハネの姿から教えられる思いがいたします。 さて、最後にヨハネはこう言いました。 3:29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。 花婿とは待たれていた救い主、メシアのことであります。そして花嫁とは、花婿、つまり救い主の愛を受け入れたすべての人々のことでありましょう。神と神の民との関係は、聖書において夫婦にたとえられることが多いわけですけれども、まさに、イエス様は愛する花嫁を迎えに来た花婿にたとえられております。花婿こそが主役であり、ヨハネは、自分はその花婿の介添人に過ぎないと語ります。そして、彼はまさにその自分に与えられた役目を生きているがゆえに、花婿であるイエスキリストの声を聞いて、待ちに待っていた救い主の声を聞いて、彼は喜びに満たされていると言うのであります。自分が主役になったからではなく、本当の主役であるキリストに出会えたことが、自分にとって本当の喜びなのだ。そして今まさに、キリストに出会って、自分はその喜びに満たされていると、ヨハネは語っているのであります。 今、若者たちのなかで、自分が主役になれないジレンマをきっかけに、暴力が頻繁に起こっています。 少年による犯罪によって家族を失った遺族の戦いをルポルタージュしたジャーナリストの本があります。それは目を背けたくなるほどの少年達の残酷な振る舞いが記されておりますけれども、しかし、なぜ、そのような少年犯罪が近年増えたのか。このジャーナリストは、この本のまとめの部分で、現代の自意識を肥大させる教育について疑問を呈しておりまして、少年による暴力が増えたことについて、 それは「自分はすごい人間なのだ」という自意識が世代を追うごとにどんどん肥大化していったからにほかならないと私は考えます。著名事件の加害少年らはみな同様のことを供述しています。目立ちたかった、大きなことをしたかった、世の中を騒がせマスコミで世の関心を集めたかった…つまり、過剰で一方的な自意識を満足させるためにもっとも手っとり早いのが暴カによる弱者の絶対支配ということなのです。 過剰な自意識は子ども期から、学校や保護者の過度な期待や保護によって形成されていきます。たとえば学校の「優等生」は少しぐらい勉強ができる程度で、ものすごく先生や親にほめられる。そうするとその子は「自分はすごいはずだ」と思い込みますが、しかし、それは自分自身の試行錯誤で培った経験ではないし、そこから導き出された自身でもない。つまり自意識だけは肥大化していくのだけれど、自分に対しての自信はとても低いという若者が大量生産されていくのです。 一定の時間が経つと、彼らはその学校や地城、家庭から上の学校や社会に出なければなりません。それまでとは異なった人間関係を生きなければならなくなる。そうすると、ちょっとスポーツができるとか、ちょっと勉強ができる程度でかなり高度な自意識を持つようになってしまっているのに、しかし実際は学校も地域も人生の通過点に過ぎず、都会に出たり、上の学校に行ったりした時点で、「ただの人だ」ということをいずれ突きつけられ、たいがいの人間はたいがい「ただの人」になってしまう。ところが、それに耐えきれない場合に、多くは「引きこもり」になるか、自傷行為にむかうか、八つ当たり的に他者を攻撃する行為に走ることになる。 十代-二十代の殺人を犯した動機として、「まわりが自分を受け入れてくれない。自分の力はこんなはずじゃない」という短絡きわまりないものばかり目につきますが、そこに欠落しているのは、自己否定をする視点ではないでしょうか。(「少年に奪われた人生」藤井誠二著 P.229より) そのように彼は述べております。 この自己否定する視点が欠けているのではないかという指摘が、非常に印象に残るのであります。今の時代の子ども達の教育において、そして、また私たちの生き方において、この自己否定する視点というものが欠けてきているのではないでしょうか。それゆえに主役でなければならないともがきながら、主役になれない自分の人生を嘆きつつ、いつも人と比べては嫉妬し、喜びのない日常を生きてしまっている。そんな気がするのであります。 バプテスマのヨハネという人は、「自分は喜びに満たされている」といった後に、最後、30節でこう言うのであります。 3:30 「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」 私ではなく、あの方が栄えることが、それが私の喜びだというヨハネ。 それは、自己卑下でも、自分は無価値なのだといっているのでもなく、神が与えてくださった自分の役割を、人生を、使命を生きることこそが、それが本当の喜びなのだ。それは、あの方が栄え、わたしは衰えることなのだといっているのであります。 自分が主役でなければいやだと、偽りの自分を演出しながら頑張る人生は、結局、人と比べては不平と不満に生きる人生でありましょう。 しかし、イエスキリストに出会うとき、自分の内面、自分の罪が問われるけれども、同時にその罪をキリストが担って死んでくださったという、神の恵みに押し出されて、偽りの仮面をはいで、神に造られた本当の自分を生き始めていく。そこに本当の喜びがあるのであります。 ヨハネが、キリストの言葉によって、私は喜びに満たされていると語ったように、キリストの言葉に生かされた私たちもまた、キリストと共なる喜びを頂きながら、生きていきたいのであります。(お話:藤井秀一牧師) |
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| 第6回「イエスとニコデモ」(ヨハネ第3章 1-15)2004年5月23日 |
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聖書 「イエスとニコデモ」1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 4月から読みはじめましたヨハネ福音書、今日は3章に入ります。 前回にも申し上げましたが、イエスさまのご生涯を記した4つの福音書はそれぞれ特色をもっておりますが、ヨハネ福音書の特色の一つに、イエスさまとの対話の記事が多いということがあると思います。今日のこの個所も、ニコデモという人とイエスさまの対話によって構成されています。4章では、世の中をはばかって生きていたサマリヤの女との対話が記されていますが、どちらもいわば信仰問答といったもので、一見、分かりにくい部分があったり、また、今日のところはイエスさまのけっこう厳しいお言葉が含まれておりますので、楽しく安易な気持ちでは読めない個所でございます。 まず1節、今日の登場人物ニコデモが紹介されています。「パリサイ人のひとり」とあります。他の個所ではパリサイ派と呼ばれている宗教的呼び名ですが、このパリサイ派はイエスさまが十字架におかかりになるまで、イエスさまと対決しながら深く関わったグループです。どんなグループだったかといいますと、パリサイ派という呼称は“区別する人たち”という意味だそうです。即ち、正統なユダヤ教の伝統を受けつぎ、律法を遵守することを信条として、自ら“少々いい加減な生活をしている人々”とは厳然と区別していたグループで、ある本には「“きまじめ派”といってもよい」と書いてありました。そのパリサイ派のグループの一人と記されていますので、多分、信徒だったのだろうと思われますが、しかし10節に「イスラエルの教師」という言葉がありますので、信徒の中でも指導的な立場にある長老と呼ばれるような立場の人であろうというのが定説です。次に「議員であった」と記されていますが、当時のユダヤの国の仕組みとして、大体、指導的な立場の人は、政治のことも信仰に関する事柄もとり仕切る議会の議員になっていたのです。(ですから、指導者と訳そうが議員と訳そうが同じことになります。)さて、このような立場の人がイエスさまを訪ねてきます。福音書でイエスさまをとり囲む人々はおおむね貧しい人、病める人、罪人と呼ばれる人の場合が多いように思われますので、このような地位のある知識人とイエスさまとの出会いは珍しい場面のひとつといっていいと思われます。 2節、この人はまずイエスさまにごあいさつをいたします。“夜”訪ねて来たと記されていることについて、聖書学者たちがいろいろ問題にしますが、私共は聖書学者ではありませんし、そのことは省きます。 この人のごあいさつは大変ていねいで、イエスさまへの尊敬の思いのこもったものです。しかし、注目しなければならないのは、この言葉の中にはイエスさまを人々を救う救い主として信じているという信仰は全くない、ということです。これが今日のイエスさまのニコデモに対する批判的とも思われるお言葉の原因となるのだと思われます。 3節には「イエスは答えて言われた。はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」のように言われたと記されています。「答えて言われた」と記されているからには、この前にニコデモはイエスさまに何らかの質問をしたのだろうと思われます。2節はあくまでもあいさつであって質問ではありませんので、この2節と3節の間にどんなニコデモの問いかけがあって、なぜそれがかくされているのだろうかと、私はここでふと立ち止まってしまうのですが、聖書はいつも簡潔すぎるほど簡潔です。 そこでもう一ぺんもとに戻って考えてみますと、1節、ニコデモという人は社会的地位もあり、パリサイ派の一人だったということで、彼は彼なりに一所懸命に真面目に信仰を求めていたのでありましょう。そこにイエスという宗教家として新しい人物があらわれた。はじめはいかなる人か?と思っていたのでしょうが、イエスさまが語る言(ことば)やその驚くべきわざをみて、2節の言葉を借りれば、「神のもとから来られた教師である」と強い尊敬の念を抱いたのです。「ラビ」と呼びかけていまして、この「ラビ」という呼び方は、律法の教師に対する最高の尊称です。更に驚くことは、イエスさまに対する評価が普通のものではないということです。「神から来られた、神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」というふうに明言しているところに、ニコデモのイエスさまに対する並々ならぬ尊敬の想いがうかがわれます。 そして、先程も申し上げました通り、3節のイエスさまのお答のまえに、きっと「この人なら答えてもらえるだろう」という想いの中から何らかの質問をしたと思われます。 3節のイエスさまのお答からして、多分、神の国のことをお尋ねしたのではないかと思われますが、しかしこれはあくまでも想像の域を出ません。 3節のイエスさまのお答「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」は調子としては相当強いもののように思われます。「神の国」とはどんな世界でしょうか。マタイ福音書では「神の国」を「天国」と表現していますが、しかし昔のフォークのグループが歌っていた「天国よいとこ一度はおいで」とか、よくイラストなどに画かれている花咲き、鳥歌い、この世の楽しいことだけがある処というふうに表現される“天国”とは全く違います。これも「神の国」というだけで一冊の本になるほどのことですが、今、一口で言えば“神の支配が完全に行われる国”ということになると思います。そして、ニコデモはそのような神の支配を熱心に求めていたのです。多分、そのような深い思いの中から神の国のことをお尋ねしたのでありましょう。そしてこれは、私共もまた切なる思いで抱く問いであります。そして、イエスさまのお言は「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」です。この言が、今日の聖書のポイントになる言であることは言うまでもありません。私共は今、イエスさまの救いのわざの成就した新約の世界に生かされていて、新約聖書を与えられ、そのみ言(ことば)を学ぶ機会もたくさんありますので、イエスさまがおっしゃる「新しく生まれなければ」という言をすぐ理解できますが、当時、いまだ旧約の時代に生きていた人々にとって、この言はなかなか理解できなかったのは当然だったかもしれません。ニコデモとイエスさまの対話はなかなかかみ合いません。「4節〜9節」と記されています。 4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 ユダヤ教の指導者として、信仰ももち、また相当な知識人でもあったニコデモが、このイエスさまのおことばを理解できなかった、この有様の中に、この時、まだ旧約の時代の中に生きていた人々の姿を見る想いがいたします。私共はいま、新約聖書によって、イエスさまが告げられた福音(主イエスさまによって救われる)ということをはっきりと示されているということは、大変幸せなことだと思います。 イースターには、私共の喜びと祈りの中で、黒崎さんがバプテスマを受けられましたが、このバプテスマの儀式が、5節以下のちょっと分かりにくいイエスさまのおことばをよく表していると思います。 バプテスマ式のとき歌う讃美歌199番の3節の歌詞に「罪のこの身は、今死にて、きみのいさおによみがえり」とありますように、水に一ぺん沈められるということは、今までの罪の身の死を意味します(水による潔めの意味もあります)。そして、水から出て立ち上がったとき、今後はキリストの霊によって生きる者となるのです。即ち“新しく生まれかわった者”です。 このように、ただキリストの霊によって、その恵みに救われるという信仰に生きるのが新約の信仰です。 しかし、未だ旧約聖書の世界に生きていたニコデモは、現に、救い主であるイエスさまと面と向かってお話ししながら、その真理を理解できなかったのです。この、なかなか理解できないニコデモは、私からみれば途方にくれているようにみえますが、このニコデモに向かってイエスさまは相当厳しいことばを投げかけます。 実はこのニコデモの記事は、前の章の2章からのつづきとして読むべきものとされています。2章の終わり、宮潔めの出来事のあとに、24節「彼らを信用されなかった」とあります。即ち、イエスさまが8節「どこから来てどこへゆくか分からない」霊の話、目にみえない世界のことを語っているのに、人々は理解できず、目にみえるしるし(奇跡)或いは文字に書かれた律法にのみ心を奪われているのを嘆き、人々を信用されなかったのです。そしてそのような人の一人としてニコデモがここに登場してきているように思われます。 イエスさまは更に、12節「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したとてどうして信じるだろう」と嘆かれ、そして13節以下、ご自分の救い主としての姿を明らかにされているわけです。 それは、十字架にかかって人々を救うご自分の姿であり、“このわたし自身をみなさい、わたし自身を信じなさい”と告げておられる、即ち15節「それは信じる者がみな人の子によって永遠の命を得るためである」と結んでおられます。 この14節、モーセが荒野で蛇をあげる話は、旧約聖書の民数記の21章に記されている出来事ですが、これもまた、いまだ新約聖書のない時代ですので、旧約聖書から引用なさって、この故事に、のちに起こるであろう十字架における救済のご自分のお姿を託して語っておられるのです。 ここでニコデモとイエスさまの対話は終わって、そしてその先に、ヨハネは聖書の中の“黄金の言葉”と云われる章16節以下の言葉を書き記しました。 2章24節でイエスさまが人々を信用されなかったと記しているように、人々の信仰は表面的で、形式的で、イエスさまの示される愛の世界、霊の世界を理解できなかった。そのような信じない人々がイエスさまのまわりに一ぱいいたのでありましょう。ヨハネは自らもそのことを嘆き、ニコデモとイエスさまとの対話を記し、そして一気に黄金の言葉といわれる3章16節の言葉を記した。私は、もしやヨハネは、この黄金の言葉を記すために、そのプロローグとしてこのニコデモの出来事を書いたのかも知れないなどと思ったりもいたします。 しかし、ニコデモとイエスさまの出会いがこれっきり終わってしまってはあまりに淋しい。このあと、このニコデモという人は、ヨハネ福音書の中に二度登場いたします。 1回は、7章50節、そろそろユダヤ人指導者たちがイエスさまに殺意を抱きはじめ、イエスさまを逮捕しようとした時、それをたしなめたのがこのニコデモでした。そして、その指導者たち仲間から「あなたもガリラヤ出身なのか」と言ってなじられております。この記事をみますと、ニコデモは今日の記事のイエスさまとの出会いのあとも、イエスさまの日頃の言動を見聞きし、変わらぬ尊敬の念をもっていたことがうかがわれます。 更に19章39節、イエスさまが十字架上に息をひきとられたあと、ヨセフという人が遺体の引きとりを申し出て、十字架から下ろし、丁重に葬るのですが、その時、ニコデモは没薬(もつやく)と沈香(じんこう)をもってきて埋葬に加わります。「かつて、ある夜イエスのもとに来たことのあるニコデモも」と記されています。時の権力者によって処刑された囚人をひきとって葬るということは、勇気のある決意のいる行為と思われますが、あえてそのようにしたニコデモは、最後までイエスさまを尊敬しつづけたのだと思われます。 いえ、私は更に思うのですが、いい尽くせない十字架の苦難、人々から投げつけられる侮辱に耐えて十字架にかかり、なお「彼らを許し給え」と父なる神に祈り、すべての人々にもたらす救いのわざを全うされたイエスさまのお姿の一部始終をニコデモはきっと見ていただろうと思うのです。そして、その一部始終の中から彼は、今日の記事で「どうしてそんなことがあり得ましょうか」とつぶやいた疑問も、次第に見えてきたのではないでしょうか。その時、イエスさまの仰せられた“天上のこと”“見えざる霊のこと”“イエスさまの深い愛”をニコデモは深く理解したに違いないと私は信じます。十字架のお姿を通して、イエスさまを信じ愛したであろうニコデモは、その後どのような人生を生きただろうと、私の信仰の夢はひろがってゆきます。(お話:工藤渓子さん) |
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| 第5回「神殿から商人を追い出す」(ヨハネ第2章 13-25)2004年5月16日 |
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聖書 イエスは人間の心を知っておられる みなさんおはようございます。今朝も聖書からみ言葉を聴いてまいりましょう。 讃美歌の312番をご一緒に讃美いたしましたが、「いつくしみ深きイエスさま」のことが歌われています。罪、咎(とが)、憂い、を取り去り賜い、われらの弱きを知りてあわれみ、悩み悲しみに沈めるとき慰めてくださる、変わらぬ愛もて導き、祈りに応えてくださるイエスさまのことが歌われておりますね。 みなさんは今朝の聖書箇所を読まれてどのように感じましたか。 詩編 69:1〜13 神よ、わたしを救ってください 「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 当時、過越祭の時には、地中海全域からのユダヤ人巡礼者が225万人にもなったと言われ、この祭りで屠られる子羊の数は2万5千頭にもなったそうです。祭りでたくさんの人たちが集まると、献金や多くの捧げ物が必要となります。神殿で使えるお金は、ユダヤ人の通貨であるガリラヤのシケルか、神殿のシケルでした。犠牲として捧げる子羊や牛や鳩は遠い道中を連れてくるわけにはいきませんからエルサレムに着いてから、自分の国で使っている通貨を両替して購入しました。両替人や犠牲の動物を売る者たちは「異邦人の中庭」といわれる所におりました。祭りの約1ヶ月前から売り台を出すことを許可されていたと言います。そして、両替人たちは両替のとき大きな手数料を取っていました。また神殿の「異邦人の中庭」には3,000頭もの家畜が繋がれており、宮の外で買った場合に比べて10数倍の値段だったと言われております。 次の聖書箇所を一緒に読んでみましょう。2:18以下です。 「ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは3日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自身の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」 ここでの神殿は<ヘロデの神殿>と言われるものです。エルサレムの神殿は、何度も壊されましたが、主イエスがお生まれになる前に、また破壊されました。そしてヘロデ大王がエルサレム神殿の再建に取りかかったのが紀元前20年です。46年もかかったと言うこの時は、まだ建設中であります。完成したのは紀元64年ごろです。神殿が拡張され、祭司の庭、イスラエルの庭、婦人の庭、その外に異邦人の庭が設けられました。この豪華な神殿は紀元70年にローマ軍により破壊されました。 ここで14節にある「神殿」と「19,20節」にある神殿ですが、新共同訳では同じく「神殿」と訳していますが、口語訳、新改訳では14節は「宮」と訳し、「19,20節」は「神殿」と訳しています。原文では意味が違い、「19,20節」で訳されている言葉は『聖所』と訳したほうがよいものだそうです。『聖所』の奥には至聖所がありそこは神顕現の場を意味します。ですから、ここは主イエスが『聖所』を再建なさった、人間の手で作ったのでなく、主イエスが十字架でご自身の体を捧げることによって、神とわたしたちが出会う場所を作ってくださったと言うのです。ヨハネによる福音書は、弟子たちは十字架にかけられた主イエスが、死んで後3日目に死者の中から復活されたとき、イエスさまの言葉を思い出し、聖書とイエスの言葉とを信じた、と記します。 今朝の箇所にはまことに厳しく激しいまでのイエスさまのお姿があります。しかしそれは神の義と愛が主イエスによって示されたものであります。神さまは私たち人間の罪の深きこと、真実に程遠いその現実の姿をよくご存知です。だからこそ御子イエス・キリストをこの地上に送られました。イエスさまはわたしたち人間のためにこの地上を歩まれ、神さまの愛と真実をご自身の身体をもって示され、わたしたち人間の罪を贖うために十字架にかかり3日目に復活されたのです。復活された主イエスは、神の民の礼拝の中心となられることを聖書は語っております。今ではこの地上でイエスを主と告白する者たちの前で、すなわち教会の礼拝において、わたしたちの中心におられるのです。 今朝の聖書箇所はわたしたちが読むたびに真実の礼拝とは何かと言うことが問いかけられてくるところだと思います。御子イエス・キリストを十字架にかけてまでしてわたしたち人間を贖いだして救ってくださった天の父、神さまに対する心からの感謝の礼拝、神を神として崇める真実の礼拝をこの常盤台教会においてわたしたちが捧げ続けるものでありたいと願っております。(お話:平野一男さん) |
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| 第4回「カナでの婚礼」(ヨハネ第2章 1節〜12節)2004年5月9日 |
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2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 この最初の奇跡を起こされた場所が、ユダヤの国の中央から遠く離れたガリラヤ地方の小さな名も無い家族の婚礼の場所において示されたことに大きな意味があると言えます。そこにイエス様がお出でになり婚礼の家族やそこに集まった人々には大きな喜びと祝福につつまれたのです。このことはイエス様と共にあるときに喜びと祝福がいつも包まれている事を示されているのではないでしょうか。 カナという場所はイエス様の家族が住んでいたガリラヤのナザレの町近くにある小さな村です。おそらくマリア様の姉妹の子供さんの結婚式であったろうと言われています。ですからマリア様は招待された客というより、この宴席の世話役をしていたのでしょう。 伝え聞くところでは当時、ユダヤの人々の結婚式は水曜日に行われることが多かったそうです。婚宴の催しは1日以上つづけられ、結婚の儀式は夕方遅く行われ、儀式が終わると若い二人は新居まで村の出来るだけ多くの人から二人の幸福を祈る機会を得るために村の道を案内されてゆく決まりでありました。新居では2人は一週間の間、家庭を解放して婚礼の衣装を着てふるまい、村の者は彼らの言うこと何でも聞き入れ、この喜びと祝いの一週間が2人のこれからの人生における最上の機会でありました。 この大切な祝いの時に、ぶどう酒が無くなってしまいそうになったのです。宴席を設けた花婿にとっては大変な恥となる事態です。世話役のマリア様も大変な事になってしまったと思い、何とかしなければとイエス様に打ち明けましたところ、イエス様は水がめに水をいっぱいに入れて宴会の世話役のところへ持ってゆきなさい言われました。そのようにしますと汲み入れた水がぶどう酒に変えられたという奇跡が行われたという話です。 この奇跡物語のマリア様とイエス様が交わされた言葉から考えてみたいのです。 まず、第一に祝宴にとって無くてはならないぶどう酒が無くなりそうになった事態をイエス様に告げました。「ぶどう酒がなくなりました」 次にマリア様は「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と世話役の人に告げました。イエス様が何をなさろうとしているのかを理解できなくても、マリア様はイエス様を信じていたのです。必ずやこの大変な事態を良い方法でなんとかしてくださるにちがいない。どのような事が起こるのか全く予測が出来なくても信頼できる信仰をマリア様はイエス様に持っていたのです。イエス様への信頼があります。 キリスト教の信仰はまさに私たち、私自身、そしてあなた様の神様への信頼の関係であるといってもよいと思います。人と人の信頼関係は互いに相手の人格を認め合うことにより成立します。しかし、人間関係は自然によくなる訳ではありません。自己中心の気持ちが強くなれば簡単に壊れてしまいます。ましてや他者と自分との間に愛と信頼の関係を作り、維持して、さらに深めることは自然には出来ません。このような行為が出来るようになるには愛のある信頼関係のなかで尊重され訓練されなければ人格性・人間性が育たないのではないでしょうか。 お名前は失礼しているかもしれませんが、たしか、アサヒビールの前会長樋口広太郎さんは熱心なカソリックの信者さんでいらして、財界人としてもとても大切な働きをなさっておられます。この方の常に心に留めている言葉を以前にお聞きしたことがあります。 さらに、神様への信頼はすばらしい恵をも与えられる事を示されています。水がめ六個にいっぱいのぶどう酒は一個には80リットルから120リットル程は入るもので、これほどもあれば祝宴の必要をはるかに超えた量となります。 |
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| 第3回「最初の弟子たち」(ヨハネ第1章 35〜51)2004年5月2日 |
| 聖書 「最初の弟子たち」 35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。 36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の子羊だ」と言った。 37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。 38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ(『先生』という意味)どこに泊まっておられるのですか」と言うと、 39 イエスは、「来なさい、そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。 40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。 41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア(『油を注がれた者』という意味)に出会った」と言った。 42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(『岩』という意味)と呼ぶことにする」と言われた。 「フィリポとナタナエル、弟子となる」 43 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って「私に従いなさい」と言われた。 44 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。 45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」 46 すると、ナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい。」と言った。 47 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 48 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか。」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。 49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大な事をあなたは見ることになる。」 51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」 今日の箇所は、イエスさまが最初の弟子に出会い、招いた時のことが記されているところです。最初にイエスに従った弟子・シモンペテロの兄弟アンデレがいました。アンデレは本当はバプテスマのヨハネの弟子であったということが35節と40節によりわかります。アンデレ、シモンペテロ、ピリポ、ナタナエル、この四人がイエスさまと最初に出会い招かれたのでした。 ヨハネの福音書の記者ヨハネが想定していたのはユダヤ人以外の人々、特にギリシャの人々でした。ギリシャ・ローマの世界の人達には「哲学」が発達していましたから、哲学に興味があり通じている人達に対して、キリスト教のイエスさまの教えは哲学的にもきちんとしたものなのだ、という事を伝えたいという思いがあったようです。 この福音書の冒頭に「はじめに言があった」とありますが、かなり抽象的な言葉で始まっています。ヨハネは哲学的な考えをもつギリシャ・ローマの人々を大切に思っていましたから、このように抽象的に言ったり、また、今日の箇所では、ユダヤ人には特に説明の要らないこともいちいち説明しています。例えば「ラビ(先生)」「メシア(油を注がれた者)」「ケパ(岩)」という言葉の意味をわざわざ説明しています。 今日のところを見ますとイエスさまが四人の弟子たちに出会っています。「出会う」ということについて少し考えてみたいと思います。 私たちも日々の生活の中で色々な人や物と「出会う」という経験をします。けれども私たちは単に擦れ違ったり、ずっと一緒にいたから、という事で出会う訳でもないのです。「会っている」とか「知っている」というよりも、もう少し深い違った意味が込められているのです。人が孤独を感じるのは一人でいる時よりもかえって雑踏の中にいる時の方が多い、といいます。満員電車で人はいっぱい居るけれどそこには深い孤独があるといいます。周りに人が大勢いるからといって必ずしもそこに出会いがあるとは限らないのです。人が「この人と出会った」と感じる時はどういう時でしょうか?それは、そのことを通して私の人生がちょっと動く時なのです。大きく動く時もあります。今までこっちの道を行っていたのにちょっと右に方向が変わるみたいに。結婚などもそうですね。 勿論悪い出会いもあります。あの人に出会ってさえいなかったら・・という事もあるでしょう。そのような出会いの経験がここに記されています。そして私たちはそのような「出会い」ということを通して、人生が豊かに広がっていきます。もちろんそれによって悪い方向にということもありますが、私たちは出会いを通して広げられていくということがあります。色々な人との出会いや人生の経験を通して自分の中に広げられるもの、自分の人生体験だけでは感じられないものを人との出会いを通して知らされていきます。 私は最近関わっているある会で「人をどう作っていくか、人とどう関わっていくか」ということを発題させていただきました。こんにち多くの人に「人と出会う力」が欠けているのではないかと言われています。出会っていくというのは自分の人生を変えられていきますから面倒なことなのです。多くの人が、変わりたくない、今のままで安心と思い、自分の好きな世界、趣味の世界での出会いは良いが、それを超えたところでの出会いというのに躊躇しているのです。なるべく出会わないように、あまり深入りしないようにしているようです。しかしこの「出会う」ということをしていかないと私たちは自分の考えや趣味・思考の中でしか、ものが見えなくなってきます。価値判断ができなくなってきます。 今幼稚園でのお父さんお母さんの子供達に対する見方はそれぞれだと思いますが、しかしもう少し広がりをもってもいいかと思います。というのは、今の時代は、特に子供に対してのマニュアルなどの本が出ていますので、評価するものさしが非常に狭くなっています。しかし評価するものさしは実はいっぱいあるのです。 私の子供のころには様々なはかりがあったように思います。勉強なんか出来なくても運動がものすごくできる。スポーツも勉強もできないけど、いろんな遊びを知っている、それだけでワーッと人気者になるんですね。たくさんの秤をもち幅を広げていくことによって、異なった人と出会っていくことが大切なのです。 ここで、イエス様はフィリポ、ナタナエル、ペトロ、アンデレと出会いました。フィリポがイエス様に出会ったとき「ああこの人は素晴らしい人だ。この人をナタナエルに紹介したい。ナタナエルにもイエス様に出会ってほしい。ナタナエルもイエスさまに出会ったらきっと素晴らしいと思うに違いない。」といって紹介したら、ナタナエルは渋い顔をしました。彼は出会うことを拒み、躊躇しました。彼はその人がナザレの子イエスではないかと思い、また彼には「ナザレからは良いものは出ない」と聖書に書いてあるじゃないか、という知識がありました。知識があることでナタナエルは出会いを拒もうとしました。直接会うことよりも自分の知識を優先して、その人に会っても仕様がないと判断しました。私たちも人と出会うときに自分の価値判断でその人と会ってもしょうがないと決めてしまいます。そういうレッテルを貼ることで出会いから遠ざかってしまいますしかし、フィリポは躊躇しませんでした。ナタナエルがイエスさまにレッテルを貼ったことを承知で、しかしとにかく会ってみなさい、直接あわなきゃわからないよ、といって会わせました。会ったとき、イエスさまはナタナエルのことをわかっていましたから「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」といいました。ナタナエルはいちじくの木の下で何か重大な決心をしたのか何かあったのかわかりませんが、特別な時を過ごしていたのではないでしょうか。「あなたはイチジクの木の下にいたでしょう」と言われた時、ハッと自分の心を見透かされたような気がしたのだと思います。 その時彼は「ナザレ人だ、たいしたことない」とイエスさまにはっきりとレッテルを貼っていました。イエスさまは「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか」と言いました。あなたはこれからもっと素晴らしいことを見ることになる。もっと素晴らしい出会いをしていく。あなたは人に対して、罪に対して、自分に対してレッテルを貼っていないか。それによってあなたは大切な出会いや素晴らしい出来事と出会うチャンスを逸していないだろうか。イエスさまはそのようにこのナタナエルに問いかけておられるのではないでしょうか。 イエスさまと私は直接出会ったことはありません。しかし、二千年を通して「この人と出会ってよかったよ、この人と出会って素晴らしかったよ」と言い続ける人が途絶えずに続いているのです。この4人の人たちの出会いがその最初だったのです。「イエスさまと出会ってよかった、イエスさまを知ってよかった」という思いの中で二千年という時が経ち、今もこの出会いが続いています。フィリポのように「一度出会ってごらんよ」という人が二千年間、世界中で途絶えたことがないのです。 そんな方と私は出会ったんだなぁ、出会えてよかった、そしてその方と是非出会って欲しい、そんなフィリポのような祈りと願いをもって今私はここに立たされています。本当にイエスさまと出会ってよかった。私はそのように思っています。何でよかったの?と聞かれても、言葉を尽くして説明しきれません。しかし、だからこそ是非祈りの中で、また聖書のみことばを通してイエスさまと出会っていただきたいと思うのです。 イエスさまと出会うとき、私たちは本当に素晴らしい人生の変化を経験します。そしてそのような素晴らしい人生の変化を経験した人たちが二千年間世界中で、また民族を超えて途絶えることなく今もいるという、そのような素晴らしい出会いがあることを是非知っていただきたいと思います。(お話:中田義直牧師)(テープから編集させていただきました) |

| 第2回「洗礼者ヨハネの証し」(ヨハネ第1章 19節〜34節)2004年4月25日 |
| 聖書 洗礼者ヨハネの証し 19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問をさせたとき、 20 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 21 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリアですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 22 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。 『主の道をまっすぐにせよ』と。」 24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼(バプテスマ)を授けるのですか」と言うと、 26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼(バプテスマ)を授けるが、あなたがたの中には、あなた方の知らない方がおられる。 27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 28 これはヨハネが洗礼(バプテスマ)を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。 神の子羊 みなさんおはようございます。今朝も聖書からみことばを聴いてまいりたいと思います。 エルサレムのユダヤ人たちがヨハネのところに祭司やレビ人を遣わしました。遣わされた彼らは「あなたは、どなたですか」と質問しました。どうしてエルサレムのユダヤ人たちは彼等を遣わしてこのように尋ねさせたのでしょうか。 ヨハネはまずこう答えます。「わたしはメシアではない」すなわち救い主、救世主ではないと言うのです。すると使者たちは「エリヤなのか」「あるいはあの預言者なのか」と問いかけます。旧約聖書のマラキ書の第3章23節に「見よ、私は、大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤを遣わす。」とあるのですが、神の最後の審きの時に、決定的な救いのもたらされる時に、エリヤが来ると預言者マラキは語ったのです。こうした期待がユダヤの人々の間に生きていたのです。「あの預言者」というのは旧約聖書、申命記第18章15節以下にあります。「あなたの神、主はあなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない。このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。」 そして彼は、イザヤ書の言葉を用いて「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」と答えます。 この答えを聞いて使者たちは安心したかもしれません。メシアでなく、エリヤでも、あの預言者でもないのですから。しかし、彼らはさらに質問します。「あなたはメシアでも、エリヤでも、あの預言者でもないのになぜバプテスマを授けるのですか。」これは、あなたは何の権威をもってそのようなことをするのかと言うことでしょう。これに対してヨハネは「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなた方の中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその方の履物のひもを解く資格もない」と語ります。 次の箇所をご一緒に読んでみましょう。 「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは水で洗礼(バプテスマ)を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼(バプテスマ)を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証したのである。」 ヨハネによる福音書はイエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたことを言葉で記してはおりません。しかし、ヨハネによる福音書の記事は、明らかにイエス様がヨハネのもとでバプテスマを受けられたことを前提としています。ヨハネが水でイエス様にバプテスマを授けているときに、“霊”が降ってきてとどまったのです。それをヨハネは見たのです。そして、ヨハネはご自分を遣わされた方から『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である』と言われていた。 そして、バプテスマのヨハネはこの方、イエス・キリストを「世の罪を取り除く神の子羊」であると語ります。この神の子羊という言葉は、共観福音書にはありません。このことは、ヨハネによる福音書がイエス様をどのように理解しているかと言うことが示されています。 イスラエルの民が、子羊の血によってエジプトから脱出でき、滅びからまぬかれたように、この世の一人一人が背負っている罪を贖うためにイエス・キリストは十字架にかけられたのだとヨハネによる福音書は語りかけてきます。 今、世界に目を向けるとき、国家による大義名分のもとに、血で血を洗う戦いが多くの国により行われています。 |

| 第1回「言葉が肉となった」(ヨハネ第1章 1節〜18節)2004年4月18日 |
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聖書 昨年の4月から読みはじめたマルコによる福音書を先週で読み終わりまして、今回から1年を通して、ヨハネによる福音書を読むことになっております。 皆さまご存じの通り、新約聖書は、まずイエスさまのご生涯の出来事を記した四つの福音書によって始まります。これらの福音書は、イエスさまを愛し、イエスさまを信じた4人の記者たちが、それぞれの信仰に立ってイエスさまのご生涯を記したもので、それぞれの特長をもっております。 昨年読みましたマルコの福音書は最初に書かれた福音書で、マタイの福音書、ルカの福音書の基礎となったもので、この三つの福音書は共観福音書と呼ばれますが、ヨハネの福音書は他の福音書とは違う視点から書かれたもので、独特の筆致でイエスさまを記しました。 例えば、誕生物語についていえば、マタイ福音書はユダヤ人のために書かれましたので、例の長々とした系図のあとに、主に父親ヨセフに焦点をあてながら記しています。一方、ルカは、ローマ人を対象に記されましたせいか、主に母マリアに焦点をあてた誕生物語になっています。そして、このヨハネ福音書は、イエスさまの誕生を、できごととしてではなく、イエスさまがこの世においで下さったその意味を伝えるという形で記しました。それが今日私共が読んでおります1章1節〜18節であります。19節からは具体的な出来事が記されておりまして、今日読みます18節までは、ヨハネ福音書の序章、序曲ともいうべき言葉でありまして、また、或いは、この文章はヨハネの弟子たちのキリストを讃美する歌が基になっているのではないかという説もあります。 実は、このヨハネ福音書の冒頭のこの部分は、聖書の中でもきわめて難しい真理を内蔵している箇所といわれておりまして、私の愛読する加藤常昭先生の説教集では、この箇所を5回の礼拝にわたって説教をしておられ、書物にして、ここだけで実に80頁をついやしておられます。その他、優れた聖書学者や牧会者たちが研究し、解釈し、深く読み込んで、更に今なお、新たに研究はつづけられて、多くの人々がその深みを探求しつづけているというそのような聖書の箇所であります。 ヨハネはイエスさまがこの世においで下さった意味を語るにあたって「はじめに言があった」という言を冒頭に置きました。訴える力のある印象深い言として心に残るからでしょうか、クリスチャンでない人々にもよく知られているフレーズです。 「はじめに」の「はじめ」は私共が物事の“はじめ”とか“終わり”とかいう時間的な“はじめ”ということではなくて、すべてのものの根源という意味のようです。次に「言があった」の「言」をどのように受け止めるかがこの個所を読むときの課題になります。 日本の文化での言葉というものはあまり重要な地位は与えられておりませんで、言葉のもともとの語源は言の端で、多分に情緒的でありますが、聖書の原典の言葉であるギリシャ語のロゴス「言」は大変重い意味をもっていました。ギリシャ語のロゴス「言」の意味するものは、理性或いは意志です。ですから、「はじめに言があった」というこのみ言を解釈いたしますなら、『根源的なところに神の意志があった』となります。そして、神の意志はキリストをこの世におつかわしになったとヨハネは主張いたします。即ち、神の意志によってキリストは人間として地上に来られたのです。そしてキリスト、イエスはずーっと前から神と共にあった。2・3節でいうなら、はじめから神と共にあったし、すべてのものはこれによって出来たと言います。即ち、神の意志イコール、キリストでありまして、ここを「はじめにキリストがあった」と読み、5節まで「言」を「キリスト」と読みかえて読めば分かり易いという学者もおります。「1節〜5節」をこのように置き換えて読んでみたいと思います。 このようにしておいでになったイエス・キリストは4節・5節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とあります。しかしイエスさまがこの世においで下さったから一ぺんに何もかもが光輝いて、すべてがハッピーになるというのではありません。私はこの言葉を読むときいつも、クリスマス物語の中であまり話題にならない一つの出来事を想い起こします。マタイ2:16の記事、ベツレヘムに生まれたみどり児によってヘロデ王は自分の王位がおびやかされるのではないかという猜疑心(さいぎしん)のために、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の児をみな殺しにするのです。 イエスさまの誕生のよろこびのかげに生ずる、この悲しい出来事を私はどう理解すればいいのかといつも迷います。人間の罪の深さをしみじみと思わせられます。よろこびは、単純によろこびのまま終わらないのです。 このヨハネの福音書が書かれた時代は、ユダヤの国はローマの圧政下にあり、また現代のように社会制度も確立されていない時代ですので、社会は暗黒の部分をたくさんかかえていたと思われます。しかし現在、この豊かな発達した社会をみても暗黒は決して小さくなってはいません。一人ひとりの問題として自分自身をみても、深い闇をうちに秘めつつ生きている私です。しかし闇は闇のままではないのです。光が闇の中に輝いているのです。イエスさまの誕生によって、この闇の中に一条の光が輝きはじめたのです。 しかし5節「光は闇の中に輝いている」という言のあとに続く5節後半の言は「暗闇は光を理解しなかった」でありまして、19節以下からつづられるイエスさまのご生涯の姿は決して平穏で順調というものでなく、実に苦難と悲しみに満ちたものでありましたが、それはこの世の闇、人々の罪深さが闇を照らす光としておいでになったイエスさまを理解出来なかったための結果であったと思われますし、ついにその人々の罪深さのすべてを背負って十字架におつきになったイエスさまの苦難のお姿をこのひと言にこめたものと思われます。 実は、昨年まで私共が使っておりました口語訳聖書では、ここは「そして闇は光に勝たなかった」となっていまして、いわば、イエスさまの最終的な勝利のお姿を宣言する言になっておりました。新共同訳では、何故この勝利の言を殆ど逆の言に訳しかえたのかは私には分かりませんが、私が若い時代に使っていた文語訳では「光は暗きに照る。そして暗きはこれを悟らざりき」となっておりましたので、新共同訳において、昔の解釈に戻ったのだと思われます。 よく見ますと、10節には「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」とあり、更に11節には「言は自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった」とありまして、ヨハネは、この福音書を書くにあたり、光としておいでになったキリストを理解出来なかったこの世の罪深さを強調しているように私には思われます。 さて、このように闇の世に光としておいでになったイエス・キリストとはどのような方であるかというと14節にこう記されております。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」イエスさまがどんなに人々を愛し、愛し通されためぐみの方であるか、どんなに正しく真実な方であるかは聖書にその姿が記され、私共はこの福音書をこれから読み進むうちにも、そのようなイエスさまの言動に出会うことでしょう。 私共の日々の生活は決して楽しいことばかりではありません。ときに争いがあり、或いは死や病があり、経済的不安が襲ったり、ときには焦燥や挫折感に打ちひしがれるときもある、そのように必ずしもハッピーではなく、闇に沈みそうになる現実の中にもイエスさまは共に生きていて下さる、常に一緒にいて下さる、それが「宿られた」ということだと思います。闇の中に灯っている光としてのイエスさまが共にいて下さるという平安、励まし、慰めをいただいて、焦燥や挫折から立ち直り、また希望をとり戻して人生の道を歩んでゆけるのです。 この教会にしても、ここに唯、教会堂という建物があって、そこに人々が集まってくるだけだったら○○会館と何ら変わりはありません。もしそれだけのことだったら、誰が忙しい中から、毎週こうして集まってくるでしょう。めぐみとまことなる主イエスさまの教会だからこそ、愛し、より処とし、誇りとするのです。エフェソの手紙に「教会はキリストの霊のみちみちているところ」という言がありますが、主イエスが宿っていて、私共と霊的に関わって下さっているからこそ、ここは聖なる場となり、信仰の拠点となり、喜びと感謝をもって教会生活を送る、そしてそのような中で、私共はいつもイエスさまに出会うことが出来るのでございます。 そして、ヨハネはこの序章の終わりに、まるでとどめをさすように、18節「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」と宣言いたします。現代でも修行を積んで神を見たという人がいたりしますし、またそのような体験の上に新しく宗教を作り出したりいたします。まして2000年前の社会には、神を見たという人はもっと多かったと思いますし、また、それを信じて、そこに集うということも多かったと思いますが、そのような社会に向かって、大胆にも、「未だかつて神を見た者はいない」と断言し、見ることの出来ない神を、イエス・キリストのみが示した、表したと言い切っています。言い換えれば、イエス・キリスト以外に神を示すものは無いと言っているのです。そして、14節の繰り返しになりますが、その神は、恵みと真理に満ち、闇の世に輝く光として、私共の中に宿っていて下さるお方であります。 ヨハネ福音書の序章ともいうべきこの1節から18節の信仰的主張は、これから読み進むヨハネ福音書全巻の底を最後まで強く流れつづけております。 今、私共は未来の見えにくい時代に暮らしているのだと思います。今まで持っていた常識とか仕組みとか価値観が激しく揺さぶられる時代であります。世界はテロ、戦争、国内でもさまざまな事件があとを絶たない、このような時代に生きる私共の日常も、平安で希望に満ちたものとはなりにくいのでありますが、しかし、これから読み進むヨハネの福音書から、私共はきっと道しるべと勇気を与えられると信じます。 先程歌いました讃美歌90番は「ここも神のみ国なれば よこしま暫しは時を得とも 主のみ旨のややになりて あめつちついにはひとつにならん」と神のみわざを歌います。このようなみわざの流れの中の一日一日であることを思い、その日その日を大切に歩みたいと思っております。(お話:工藤渓子さん) |